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礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

実を結ぶいちじく

ルカによる福音書13章1節〜9節

(2020年8月2日)

礼拝メッセージ音声

参考資料

1節の「ピラト」は、ローマから派遣されてユダヤ地方を治めていた総督。

4節の「シロアムの塔」は、エルサレムの南端近くにあったシロアムの池のすぐそばに建っていた(あるいは建設中だった)と思われる塔。

イントロダクション

今回の箇所は、滅びるとか切り倒すとかいうことが書かれていて、恐ろしい感じがします。つまり、私たちもちゃんとしていないと切り倒され、滅ぼされてしまうかも知れないという恐れです。

しかし、いつも申し上げているように、聖書は書かれている前後関係、文脈に注意して読まなければなりません。前後関係を無視して、簡単に自分自身に当てはめてはいけないのです。では、イエスさまは誰に対してどういう意図でこの話をなさったのでしょうか。そして、それを読む私たちに何を教えようとしていらっしゃるのでしょうか。

1.群衆への教え

ピラトによる処刑

イエスさまが群衆に語っておられた時、ある人がイエスさまに報告しました。「ピラトがガリラヤ人たちの血を、ガリラヤ人たちが献げるいけにえに混ぜた」(1節)。

ピラトはローマ人の総督で、ユダヤ地方の治安維持に責任を負っていました。一方、イスラエルには熱心党と呼ばれる過激な秘密結社があって、ローマ帝国から祖国を解放しようと考えて、その目的のためには暴力も厭いませんでした。おそらくガリラヤから神殿にいけにえをささげるためにエルサレムにやってきたユダヤ人たちの中に、熱心党員が紛れ込んでいて反乱を企てたのでしょう。しかし、未遂に終わって捕まり、処刑されてしまったということでしょう。

イエスによる警告

すると、その報告を一緒に聞いていた群衆に向かって、イエスさまはこうおっしゃいました。

「そのガリラヤ人たちは、そのような災難にあったのだから、ほかのすべてのガリラヤ人よりも罪深い人たちだったと思いますか。そんなことはありません。わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。また、シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいるだれよりも多く、罪の負債があったと思いますか。そんなことはありません。わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。」(2-5節)。

ここでイエスさまが強調しておられるのは2つのことです。
(1) 因果応報の否定
1つ目は、因果応報の否定です。因果応報とは原因があるから結果が起こるという考え方です。科学の世界では当然のことですが、ここでは倫理道徳の問題です。すなわち「良いことをすれば良いことが起こり、悪いことをすれば悪いことが起こる」という考え方のことです。この考え方は日本人にも強く影響を受けていますが、当時のユダヤにも根強い考え方でした。

ヨハネ9章に出てくる生まれつき目の見えない人の話は、それをよく表しています。弟子たちは、彼を見てイエスさまに質問しました。「先生。この人が盲目で生まれたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。両親ですか」(ヨハネ9:2)。

というのは、ラビ(律法を教える教師)たちがこう教えていたからです。「生まれつき目が見えない人は、誰がどんなに祈ってもいやされることはなく、ただ救い主だけがいやすことができる。彼らはそれだけ罪深い存在なのだ」と。

それに対してイエスさまは、罪のためではなく神さまのわざが現れるためだとおっしゃって、因果応報の考え方を否定し、その目の見えない人をいやされました。

もちろん、広い意味では人間が味わう様々な苦しみは人間の罪のせいです。アダムが罪を犯す前に住んでいたエデンの園では、災害はなく、人間も自然をほしいままに破壊せず、人間同士も仲良く暮らしていました。ところがアダムの堕落以来、人間はそれらの良い状態を失ってしまいました。現在私たちが味わう様々な苦しみの背後には、その影響が強く働いています。

だた、そういう一般的な話と、この苦しみに遭っている人はこの罪を犯したからだという、個別的・具体的な話とは違います。
(2) 悔い改めの勧め
2つ目は、悔い改めるようにとの勧めです。イエスさまは因果応報を否定なさいました。苦しい目に遭っている人は、他の人よりも罪深いというわけではないということですが、逆に言えば、苦しい目に遭っていないから罪を犯していないというわけではないということでもあります。

ガリラヤ人たちの処刑の報告がもたらされた時、イエスさまは群衆に教えておられる最中でした。直前の12章の終わりで語っておられたのはこういうたとえ話です。

「あなたを訴える人と一緒に役人のところに行くときは、途中でその人と和解するように努めなさい。そうでないと、その人はあなたを裁判官のもとにひっぱって行き、裁判官はあなたを看守に引き渡し、看守はあなたを牢に投げ込みます。あなたに言います。最後の一レプタを支払うまで、そこから出ることは決してできません」(12:58-59)。

これは日常生活で起こる民事事件の裁判の話ではありません。罪を悔い改めて神さまと和解しなければ、最後の審判で有罪判決を受け、最終的に永遠の滅びを招いてしまうという警告です。

聖書は、すべての人が罪を犯したと宣言しています。罪は神さまを否定し、神さまの尊厳を侮辱することですから、当然神さまとの関係が悪化します。すなわち、罪人は神さまと敵対関係にあるということです。ですから、生きているうちに罪を悔い改めて、神さまからの赦しを受け取り、神さまと和解しなければなりません。イエスさまはそのことを聞いている群衆に強調なさいました。

実を結ばないいちじく

では、聞いている群衆はどういう人たちでしょうか。それはユダヤ人です。しかも、神が人となってこられた救い主を実際にその目で見、話を直接聞き、手で触ることもできた時代のユダヤ人です。

この話が語られたのは、紀元29年の秋から冬にかけての時期と考えられます。イエスさまが公に活動を始めてから3年が経っていました。その間、イエスさまは様々な教えを語り、また数多くの奇跡を行ないました。その中には、ヨハネ9章に登場した生まれつき目が見えない人のいやしのように、ラビたちが「救い主しかいやせない」と教えていたような人々のいやしも含まれていました。イエスさまは言葉と行ないによって、ご自分こそ旧約聖書が登場を預言している神の国の王、救い主だということを当時のユダヤ人に示してこられたのです。

そこで、イエスさまを救い主だと信じたユダヤ人もいました。ところが、宗教的指導者たちはイエスさまを救い主だと認めず、神さまの力ではなく悪霊のかしらベルゼブルの力によって奇跡を行なっているのだと言いました。これは国としての公式な拒否です。

また、民衆の多くも、イエスさまが行なう奇跡には興奮していましたが、救い主だと受け入れて従おうとはしませんでした。イエスさまが五千人の給食の奇跡をなさった後、追いかけてきた群衆に向かってこうおっしゃいました。「まことに、まことに、あなたがたに言います。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです」(ヨハネ6:26)。
  • ここで「しるしを見た」という言葉は、「奇跡を見ることによってイエスさまが救い主だということを知って信じた」という意味です。
イエスさまは、そんな当時のユダヤ人たちのことを、植えられて3年経つのに実を結ばないいちじくの木にたとえられました。それが6-9節のたとえ話です。この場合の実を結ぶとは、イエスさまを救い主だと信じることです。

「イエスはこのようなたとえを話された。『ある人が、ぶどう園にいちじくの木を植えておいた。そして、実を探しに来たが、見つからなかった。そこで、ぶどう園の番人に言った。「見なさい。三年間、このいちじくの木に実を探しに来ているが、見つからない。だから、切り倒してしまいなさい。何のために土地まで無駄にしているのか」。番人は答えた。「ご主人様、どうか、今年もう一年そのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥料をやってみます。それで来年、実を結べばよいでしょう。それでもだめなら、切り倒してください」』(6-9節)。

実を結ばないいちじくは切り倒されてしまいます。実際、40年後の紀元70年、熱心党の暴動から始まったイスラエルの反乱に報復するため、ローマ帝国が軍団を派遣し、エルサレムの町と神殿を破壊してしまいました。そして、多くのユダヤ人が殺されたり、世界中に散らされたりして国が滅んでしまいました。

国が滅びることはもう避けられません。すでにイスラエルが国としてイエスさまを公式に拒否してしまったからです。しかし、個人に関してはまだ間に合います。生きている間は、いつでも悔い改めてイエスさまを救い主だと信じ、神さまとの関係を回復する道が残されているのです。そのための時間をイエスさまは当時のユダヤ人に与えました。たとえ話で与えられた猶予期間は1年ですが、実際には40年の時間が与えられ、イエスさまが地上に残された弟子たちによって、神さまの招きのことばが語られ続けました。

もう半年足らずでイエスさまは十字架にかかられます。その後復活しますが、もう弟子たちの前にしか姿を現さず、40日後には天に戻って行かれます。イエスさまと直接会って話を聞けるチャンスはもうほとんど残されていません。だからイエスさまは、今この時に、これまでの態度を悔い改めなさい、そしてイエスさまを信じなさいと勧めておられるのです。それが今回の箇所です。

では、ユダヤ人でもなく時代も違う私たちに、この箇所は私たちにどんな教訓を与えてくれるでしょうか。

2.神との関係を深めよう

どんな状況でも神の愛を信じよう

イエスさまは因果応報を否定なさいました。もちろん、勉強しないで遊んでばかりだと試験の点数が下がるでしょう。制限速度を超えて車を走らせていれば、捕まって反則金を払わされたり、事故を起こして怪我を負ったりするかも知れません。そういう意味での因果応報はありますが、何でもかんでも特定の罪と特定の苦しみや幸福を結びつけるのは間違いです。

もしも特定の罪が苦しみの原因となっているなら、聖霊なる神さまはそれを私たちに分かるように教えてくださいます。多くの苦しみは、特定の罪の結果ではありません。

以前、教育学博士でカウンセラーの諸富祥彦先生の講演をうかがったことがあります。講演が終わって質疑応答の時、聴衆の一人がこんな質問をなさいました。「どんな親の元に育つと、子どもが不登校とか非行とかの問題を抱えるようになりますか?」

すると諸富先生はおっしゃいました。「確かに、こんな親に育ったら子どもが問題を抱えるよなぁと思うことがあります。それはどんな親か。それは『運の悪い親』です」。

諸富先生がおっしゃりたかったのは、育て方は関係ないということです。こんな育て方したら、きっと子ども傷ついてとんでもない人生を歩むことになるぞと思うような家庭に育っても、円熟した性質を持ち建設的な生き方ができる人に育つ子どももいれば、良い家庭だと思うような環境で育っても、ぐれてしまったり、自分を粗末にするような生き方をしたりするようになる子どももいます。

もちろん、だからといって虐待をしていいわけではないし、暴言を吐いてもいいわけではありません。子どもに対する接し方、育て方には親として、じぃじばぁばとして十分気を配らなければなりません。しかし、子どもが思い通りに行動しないことを、親の育て方が悪いせいだと自分や他人が責める必要はありません。諸富先生はそうおっしゃるのです。

私たちは、自分の人生が思うに任せないとき、育ってきた家庭環境のせい、学校時代の教師や友だちからの扱いのせい、自分を裏切った誰かさんのせい、間抜けな政府のせい、社会のせい……そんなふうに自分が置かれてきた、あるいは今置かれている環境のせいにしたくなることがあります。

どんな状況に置かれていても、たとえそれが苦しい状況であったとしても、それでも神さまの愛は私やあなたに注がれています。そして、神さまの愛が注がれているなら、今この状況に置かれていることには、積極的・生産的・肯定的な意味があるはずです。今は分からなくても、この苦しい状況が必ず祝福に変えられる、この苦しみが祝福の種になると信じましょう。そして、そのことを先取って感謝しましょう。

もちろん、苦しみが取り除かれるよう祈ってかまいませんし、是非熱心にそう祈りましょう。同時に、神さまの愛の中にいることをいつも思い出して感謝をささげましょう。

神の恵みを感謝しよう

そして、神さまの愛は、私たちの良い行ないに対する報酬、ご褒美ではなく、一方的なプレゼント、すなわち恵みとして与えられます。

聖書全体を貫いているのは、神さまの人間に対する大きな恵みです。たとえば、
  • ひどい罪が蔓延したため、神さまは大洪水で全世界を滅ぼされました。しかし、完全に滅ぼし尽くしたのではなく、ノアとその家族、また動物たちを箱船の中で守り、再出発をさせてくださいました。
  • 姦淫と殺人という恐ろしい罪を犯したダビデでしたが、神さまは預言者ナタンを遣わして悔い改めの機会を与え、素直に罪を認めて悔い改めたダビデをお赦しになりました。
  • イエスさまを3度知らないと言ってしまったペテロですが、イエスさまはあらかじめ彼が立ち直るように祈り、復活後はまた使徒として受け入れ、重要な任務を与えてくださいました。
救い主を実際に見たのに信じなかったイスラエルは、国が滅びるというひどい罰を受けてしまいました。しかし、神さまはイスラエルを完全に地上から抹殺することはなさいませんでした。1900年間に渡ってユダヤ人は世界中で迫害を受けて苦しみますが、それでも生き延び、1948年にイスラエル共和国として復活を遂げました。これもまた神さまの恵みの故です。

私たちは厳しいだけの、残酷な神さまのイメージを持ってこなかったでしょうか。確かに神さまは罪を憎まれます。罪は神さまを否定し、神さまの尊厳を傷つけることだからです。しかし、にもかかわらず、神さまは悔い改める者を決して拒否なさいません。

奴隷貿易を担う船の船長として莫大な利益を得ていたジョン・ニュートンは、嵐で船が難破した時にイエスさまと出会います。そして、悔い改めて正しい生き方を目指すようになりました。本当にひどい生き方をしていた自分を、神さまは直ちに滅ぼすことができたのに、こうして赦してくださり、新しい人生へと導いてくださった。その喜びを彼は後に「アメイジング・グレイス」という、おそらく世界一有名な賛美歌を作って歌い上げました。

私たちも、神さまの恵みの大きさに感謝し、賛美しましょう。それが私たちの人生に喜びや輝きをもたらします。

すぐに悔い改めよう

そして、イエスさまは福音書時代のユダヤ人たちに悔い改めを迫りました。それは、イエスさまを救い主だと信じなさいということです。

私たちは、すでにイエスさまの恵みの福音(第1コリント15:1-8)を信じました。その結果、すべての罪、過去の罪だけでなくこれから死ぬまでの間に犯す罪も、すべて赦されています。

そんな私たちも、罪を犯してしまうことがあります。罪とは信仰から出ていないことですから(ローマ14:23)、神さまの愛、神さまの恵みを信じないことも罪です。

すでにイエスさまを信じているのに、なんだか神さまに大切にされていないと思い込んでいなかったでしょうか。自分が問題を抱えているのは、自分が汚れていて神さまに嫌われているからだと思い込んでいなかったでしょうか。問題のまっただ中に神さまが祝福の道を用意してくださっていることが信じられずに、絶望したり、イライラしたり、投げやりになったり、不平不満で一杯になったりしていなかったでしょうか。

それらは、神さまの恵みに基づく愛を信じ切れていない状態です。罪は、気づいたらすぐに悔い改めなければなりませんね。そして、神さまの恵みに基づく圧倒的な愛を信じますと、改めて告白しましょう。神さまは完全に赦してくださり、神さまの恵みと愛を信じるクリスチャンとして再出発させてくださいます。

まとめ

間違った因果応報の考え方から解放されて、喜びや平安を得ましょう。

あなた自身への適用ガイド

  • 最初に実を結ばないいちじくのたとえ話を読んだとき、どんなことを感じましたか?
  • 問題を抱えているのは、悪いことをした報いだという因果応報の考え方で、自分や他人を軽蔑したことが最近ありましたか?
  • 問題がかえって将来の祝福の種になったという経験をしたことがありますか?
  • 罪とは信仰から出ていないことだという教えを聞いて、具体的に今の自分のどういう考えや行ないのことが思い浮かびましたか?
  • 今日の聖書の箇所を読んで、どんなことを決断しましたか?

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