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礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

神にも感情がある

ルカによる福音書17章11節〜19節

(2020年9月6日)

礼拝メッセージ音声

参考資料

11節の「サマリアとガリラヤ」。イスラエルの中でガリラヤ湖周辺がガリラヤ地方、死海の西側がユダヤ地方、その間に挟まれた地方(ヨルダン川の西)がサマリア地方です。サマリアにはサマリア人が住んでいて、彼らはイスラエル人と異民族との雑婚によって誕生しました。そのため、民族の純潔を重んじ、生粋のイスラエル人を自認するユダヤ人からは軽蔑されていました。

12節の「ツァラアト」(ギリシア語でレプラ)は、レビ13-14章で取り上げられている伝染性の皮膚病です。長らくハンセン氏病(らい病)と混同されていましたが、違う病気です。器物や家のツァラアトもあり、こちらはカビの一種でしょう。モーセの律法によると、人がこの病気にかかると祭司から汚れていると宣言され、社会生活や宗教生活が制限されました。それは差別するためではなく、集団感染を防ぐための措置だと考えられます。特に律法が与えられた当時、イスラエルは集団で移動生活をしていましたから、集団感染をしやすい状況だったのです。

イントロダクション

今回、10人の皮膚病患者がいやされました。この箇所を通して、私たちとイエスさまの関係について見つめ直してみましょう。それによって、ますます私たちがイエスさまとの距離を縮めることができますように。

1.いやしと感謝

叫んだツァラアト患者たち

時は紀元30年の春です。前の時の年末、エルサレムにいたイエスさまはユダヤ人たちから殺されそうになり、一時的にヨルダン川の東側の地域、ペレア地方に逃れました(ヨハネ10:22-42)。友人であるラザロをよみがえらせるために一時的にユダヤ地方のベタニア村に行かれましたが(ヨハネ11章)、あとはユダヤを離れて活動しておられたと考えられます。

そして、ここに至ってイエスさまはまたエルサレムに向かって移動を始められました。春の祭りである過越の祭りが近づいてきたからです。この年の過越の祭りの日、イエスさまは全人類の罪を赦すため、十字架にかかられます。

エルサレムに向かう途中、イエスさまはサマリアとガリラヤの間にある村を通られました。すると、10人のツァラアト患者が現れて、遠く離れたところからイエスさまに向かって「私たちをあわれんでください」と叫びました。

これまで3年半、イエスさまは多くの病気をいやしてこられました。その中には、誰もいやすことができず、救い主しかいやせないと言われていたツァラアトも含まれていました。その噂はイスラエル中に広まっていましたから、10人の患者たちは自分たちもいやしていただきたいと願っていました。いよいよそのチャンスが来たのです。この機会を逃すことはできません。ですから必死になってイエスさまに願いました。
なぜ叫んだのか
ところで、なぜ彼らはイエスさまに近づくことなく、遠くから叫んだのでしょうか。モーセの律法では、人がツァラアトにかかったことを診断するのは医者ではなく祭司でした。その診断方法も律法の中に書かれています。そして、ツァラアトだということがはっきりすると、祭司は患者に向かって「汚れている」と宣言します。

以来、その人はツァラアトが治るまで宗教的・儀式的に汚れている状態となり、他の人との接触ができなくなります。患者に触れた人も一定期間汚れてしまうからです。

モーセの律法の中で、汚れているとされているものはツァラアトだけではありません。律法には、こういうものや行為は汚れている、こういうものや行為はきよいというふうに、きよさと汚れを厳格に区別する規定がたくさんあります。

きよいかきよくないかを決めるのは人間の常識や感覚ではなく、神さまです。たとえば、豚は汚れているから食べてはいけない、牛はきよいから食べてもいいと律法は教えていますが、豚肉の方が牛肉より非衛生的だとかまずいとかいうことはありません。私は牛カルビも豚トロもどちらも大好きです。

そして、モーセの律法でいう汚れというのは、あくまでも宗教的・儀式的な区別です。誰かが汚れていると宣言されたからといって、決してその人が人格的に劣っているとか、他の人よりよけいに罪深いとかいう意味ではありません。

とにかく、モーセの律法ではツァラアトにかかると汚れていると宣言されました。そして、町の中で住むことができなくなり、道を歩くときには鼻と口を布で覆って、近づいてきた人が間違ってその人に触れることがないように、「汚れた者、汚れた者」と声を上げなければなりません。そういうわけで、あの10人のツァラアト患者たちは、イエスさまに近づかず遠くからいやしを求めたのです。

祭司に見せなさい

するとイエスさまは彼らに「行って、自分のからだを祭司に見せなさい」(14節)とおっしゃいました。ツァラアトだということを診断して汚れていると宣言するのは祭司でしたが、治ったことを確認してきよくなったと宣言し、これまでの制限をすべて解除するのも祭司の仕事でした。祭司に見せなさいとイエスさまがおっしゃったということは、祭司に見せる前に必ずいやされるという意味です。

ただし、そうおっしゃった段階ではまだ病気はいやされておらず、皮膚にできた異常な症状は残ったままです。それにも関わらず、10人は祭司の元に向かって歩き始めました。イエスさまはツァラアトでさえいやすことができる力をお持ちだと彼らが信じていたことが分かります。それはものすごい信仰です。

そして、彼らが信じたとおり、祭司の元に到着する前に彼らの病気はすっかりいやされました。

感謝のために戻ってきたサマリア人

すると、10人のうち9人はそのまま大喜びで祭司の元に向かいました。しかし、サマリア人である残る1人は、イエスさまに感謝を表すために戻ってきました。この人がイエスさまの前でひれ伏したのは、イエスさまを神が人となって来られた救い主、神の国の王であるお方だと認め、礼拝したということです。

するとイエスさまはおしゃいました。「十人きよめられたのではなかったか。九人はどこにいるのか。この他国人のほかに、神をあがめるために戻って来た者はいなかったのか」(17-18節)。とてもがっかりした、悲しそうなセリフですね。

9人はイエスさまの命令に違反したわけではありません。彼らは、イエスさまが命じたとおり祭司の元に向かいました。いくら皮膚がきれいになったとしても、祭司がいやしを確認してきよくなったと宣言してくれなければ、元の生活には戻れません。彼らは当然のことをしたまでです。

そして、この時代は今のように「イエスさまが自分の罪を赦すために十字架にかかり、死んで葬られ、3日目に復活なさったこと」を信じて救われたのではなく、「イエスさまこそ旧約聖書が登場を約束してきた神の国の王、救い主である」ということを信じて救われました。そして、当時は救い主しかツァラアトをいやせないと教えられていたのですから、イエスさまなら自分をいやしてくださると信じた10人は、帰ってこなかった9人も含めてみんな救いを手に入れていました。

では、なぜイエスさまは9人の行動にがっかりなさったのでしょうか。
神には感情がある
聖書の神さまは、宇宙の根本的な法則だとか、宇宙を動かすエネルギーだとかいう無機質なものではありません。聖書の神さまは人格をお持ちです。私たちと同じように(というか、私たちの方が神さまに似せて造られたのですが)知情意があるということです。

神さまには感情があります。神さまの感情というと、怒りばかりが注目されがちですが、もちろん神さまの感情は怒りだけではありません。喜んだり、悲しんだり、がっかりしたり、寂しい気持ちになられたりします。

ですから、何かをしてあげて、そのまま感謝されずに放っておかれたら、悲しい気持ちになります。それは、イエスさまに関心があるというよりも、イエスさまが持っている奇跡の力にだけ興味があるかのように扱われるからです。

ある奥さまが「もう離婚したい」とおっしゃいました。それは、ご主人が結婚してから一度も「ありがとう」を言ってくれないからです。「あの人は、別に私でなくても、自分の代わりに料理・洗濯・掃除などをやってくれる人がいれば満足なのです。ちゃんと家事をこなしさえすれば、人間じゃなくてロボットでもいいと思っているのでしょう」。

イエスさまは人格をお持ちです。人格は愛し合うことを求めます。イエスさまは、私たちを愛しておられます。そして、私たちにも愛してもらいたいと願っておられます。ただ利用されるのではなく、愛してもらいたいのです。

一方、戻ってきて感謝をささげたサマリア人は、他の9人が体験しなかったさらなる祝福を手に入れました。それは、
  • 遠く離れてでしか声をかけられなかったイエスさまの足下に来て、イエスさまと顔と顔とを合わせて親しく話すことができたということ
  • 「あなたの信仰によっていやされたんだよ」とほめられたこと
です。

彼はサマリア人でした。ユダヤ人たちからは、神に呪われた存在だとさげすまれていました。その彼が信仰をほめられたのです。これからの人生で、イエスさまの言葉はどれだけ彼を勇気づけたでしょうか。

この箇所は、イエスさまは人格であり、私たちとお互いに利用し合うような関係ではなく、人格的な交わりをすることを求めていらっしゃるということを教えています。

2.神と人格的な交わりをしよう

イエスの感情に注目しよう

神さまはご人格です。イエスさまや父なる神さま、聖霊さまには感情があります。私たち人間が感動したり喜んだり傷ついたりがっかりしたり悲しんだりするように、イエスさまは感動し喜ばれます。そしてイエスさまは傷つきガッカリし悲しまれます。

以前、「うつ病の家族への対応マニュアル」という本をインターネットで販売していたことがあります。その際、ネットを使ったビジネスについて相談させていただいた方が、こんなことをおっしゃったのが心に残っています。

「あなたの大切な家族、特にお子さんたちに、『これがお父さんがやっている商売だよ』『これがお父さんの取り扱っている商品だよ』と堂々と見せられないようなビジネスのやり方をしてはいけませんよ」。

私たちはイエスさまの十字架と復活を信じたことによって、すべての罪が赦されただけではなく、神さまの家族に加えていただきました。自分が今していること、これからしようとしていることは、大切な家族である神さまの前で堂々とできることでしょうか。

聖書には「神の聖霊を悲しませてはいけません」(エペソ4:30)と書かれています。この行為は、イエスさまや父なる神さまや聖霊さまを喜ばせるだろうか、それとも傷つけ、悲しませるだろうか。そのことをいつも考えながら行動するようにしましょう。

交わりの祈りをしよう

皆さんには多くの友だちや知り合いがいらっしゃることと思います。その中に、話しかけてくるのは願い事があるときだけという人がいたとしたら、その人と仲良くしたいと思われるでしょうか。

神さまに祈るのは、何かして欲しいことがあるときだけ、というのは人格的な関係、健全な関係とは言えません。

うれしいとき、悲しいとき、寂しいとき、痛いとき、快適なとき、別にお願い事がなくても、すぐそばにいてくださるイエスさまに語りかけてみましょう。

この話をお読みください

「おはようございます」「これから仕事を始めます」「今日はなかなか順調に仕事がはかどっています」「これから食事します」「おいしくいただいていますが、苦手なピーマンは残そうと思います」「最近ちょっと便秘気味でおなかが張ってます」「おやすみなさい」など、折々にイエスさまに話しかけましょう。

折々にイエスさまのことを考え、頭の中にイメージし、その語りかけを聞こうと心の耳を澄ませましょう。

感謝までが祈りだと知ろう

祈ってそれがかなえられることは祝福です。しかし、祈りっぱなしで感謝を忘れるなら、祝福の半分を受け取り損ねることになります。
  • 「神さまが祈りを聞いてくださった」という喜びを受け取り損ねています。
  • 「神さまは祈りを聞いてくださるお方だ」という信仰が深められる機会を受け取り損ねています。
  • 「神さまは私をこんなにも愛してくださっている」という感動を受け取り損ねています。
神さまに祈り、その結果を覚えて感謝する癖を付けましょう。それによりあなたの人生は、ますます喜びと感動に満たされます。私たちは忘れっぽいので、祈ったことすら忘れてしまうことがあります。そうすると当然感謝もし忘れてしまいます。祈ったことはメモに残しておき、時々読み返すといいですね。

まとめ

神さまとの人格的な交わりを心がけましょう。

あなた自身への適用ガイド

  • 今、あなたはどんな祈りをなさっていますか?
  • 今振り返ってみて、祈りが聞かれているのに、感謝し忘れていた祈りのリクエストがありませんでしたか?
  • 自分が祈った以上の答えをもらった経験が、最近ありますか?
  • イエスさまに感情があることを意識するとき、今の自分の生き方をどのように改める必要があると感じますか?
  • 今日の聖書の箇所を読んで、どんなことを決断しましたか?

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