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礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

私たちのただ中にある神の国

ルカによる福音書17章20節〜37節

(2020年9月13日)

礼拝メッセージ音声

参考資料

20節の「神の国」とは、救い主が地上に実現すると預言されている理想的な王国のことです。

22節の「人の子の日」とは、地上に来られた救い主が王に即位し、神の国が実現する時のことです。

23節は、多くの偽キリストが現れるから、それに惑わされないようにと教えています。24節で語られているように、キリストが再臨なさるときには、不信者も含めて地上に生きているすべての人がそれと認めざるを得ない状態で来られるからです。

25節は、イエスさまが当時のイスラエルに受け入れられず、十字架にかかって死ぬことを預言しています。22節もそのことを示しています。しかし、それによって全人類の罪が赦される道が開けました。

32節の「ロトの妻」は、創世記19:26に登場します。アブラハムの甥ロトは、死海の近くにあったソドムに住んでいました。ソドムは道徳的に非常に退廃していたため、神さまはゴモラなど他の町と共にソドムを滅ぼされました。その直前、2人の天使が遣わされ、ロトの一家4人(ロト、妻、2人の娘たち)を脱出させました。その際、天使は「決して後ろを振り返ってはならない」と警告しておいたのに、妻は振り返ってしまい、塩の柱になってしまいました。

37節のイエスさまの言葉は、イザヤ34:1-7やイザヤ63:1-6など、救い主が来て神の敵を打ち倒すという預言と関連があります。後に書かれた黙示録19:17-21では、反キリスト軍がユダヤ人を滅ぼすために戦いを挑んだハルマゲドンの戦いの終わりに、イエスさまが再臨して神の敵がみんな倒され、その死体を鳥が食べるようになると預言されます。

イントロダクション

私たちはこの世の中で生きています。この世から離れて生活しているわけではありません。この世の中でどのように生きていけばいいのでしょうか。今日は、神の国に関するイエスさまの教えから、そのことを考えてみましょう。

1.神の国はあなたがたのただ中にある

パリサイ人の問い

パリサイ人たちがイエスさまに、神の国はいつ来るのかと尋ねました(20節)。「神の国」とは、旧約聖書の預言者たちがたびたび預言してきた、救い主が地上に実現する理想的な王国のことです。この王国は千年間続くので(黙示録20:1-7)、「千年王国」とも呼ばれます。

神の国の特徴を一部紹介すると、
  • 救い主は王としてエルサレムから世界を統治します(イザヤ2:2-4、エレミヤ33:14-17)。
  • 救い主はユダヤ人だけでなく異邦人も治めます(ゼカリヤ14:9)。
  • アダムの罪の故に呪われてしまった自然界もいやされて、本来の姿をほぼ取り戻します(イザヤ11:6-9、詩篇72:16)。
  • 信者は死ぬことがなく、不信者も100歳まで生きます(イザヤ65:20)。
  • 戦争がなくなり平和が訪れます(ミカ4:3)。
  • 努力が正しく報われます(イザヤ65:21-22)。
  • サタンや悪霊は人がいない場所に封印されて人間を誘惑できません(黙示録20:2-3、黙示録18:2、イザヤ34:8-16)。
福音書の時代、イスラエルはローマ帝国に支配されていました。ですから、当時のユダヤ人たちは、特に救い主が登場して神の敵をすべて滅ぼし(ゼパニヤ3:8など)、神の国が実現することを熱望していました。

イエスの答え

パリサイ人たちの問いに対するイエスさまの答えはこうです。「神の国は、目に見える形で来るものではありません。『見よ、ここだ』とか、『あそこだ』とか言えるようなものではありません。見なさい。神の国はあなたがたのただ中にあるのです」(20-21節)。

この箇所は、時々間違って解釈されます。間違った解釈というのは、「神の国が地上に実現するという預言は文字通り実現するのではない。神の国は信者の心の中に実現するのだ」という解釈です。

イエスさまは「人の子の日、人の子は、稲妻がひらめいて天の端から天の端まで光るのと、ちょうど同じようになります」(24節)とおっしゃっています。また、ノアの洪水やソドムへのさばきについて触れ、「人の子が現れる日にも、同じことが起こります」(30節)とおっしゃいました。そして、これまで聖書の預言はすべて文字通り実現しました。ですから、まだ実現していない預言もすべて文字通りに実現すると考えるのが自然です。ここでも、聖書が語っている文字通りに神の敵がさばかれ、文字通りに神の国が地上に実現するというのがイエスさまの主張です。
すでに始まっている神の国
では、「神の国はあなたがたのただ中にある」とはどういう意味でしょうか。「ただ中にある」と訳されている言葉は、「間にある」とも訳せます(新共同訳はそう訳しています)。神の国は、当時のイスラエルの人々の間にすでに存在していたというのがこの言葉の意味です。

もちろん、まだ神の国に関する預言がすべて実現していたわけではありません。その意味では、神の国はまだ完成していません。しかし、神の国の王である救い主イエスさまは、すでに公の活動を始めておられました。イエスさまはこれまで数多くの奇跡を行ない、ご自分が神の国の王、すなわち救い主(キリスト、メシア)だということを示してこられました。そして、それによってイエスさまを救い主だと信じるユダヤ人も起こされていました。確かに神の国の祝福はすでに始まっていたのです。

ところが、 どれほど個人的にイエスさまを信じるユダヤ人が起こされたとしても、神の国が目に見える形で現れるためには、イエスさまに対するイスラエルの国家的・民族的な信仰が必要、すなわちすべてのユダヤ人がイエスさまを信じる必要があるというのが神さまのご計画です(ホセア5:16-6:3)。

信仰とは、実際に見たり触ったりして確認できないことを信じることです(ヘブル11:1)。当時のユダヤ人は、まだイスラエルがローマ帝国に支配されており、国同士や人同士が争い、人が動物に襲われたり、赤ちゃんや若い人が死んでしまったり、日照りなどで収穫が少なくなったりして、まだ神の国が来たという実感がない状況で、それでも王であるイエスさまがそこにおられるのだから神の国の完成は近づいていて、すでに神の国の祝福が始まっていると信じる必要がありました。

もし福音書の時代のイスラエルが国としてイエスさまを救い主と認め礼拝していたなら、その時代に神の国は完成していたことでしょう。ところがそうはならず、神の国が完成するのはずっと後の時代に先送りになってしまいました。それは、パリサイ人たちイスラエルの霊的指導者のほとんどが、イエスさまを救い主だと信じなかったからです。即位はしていないけれど神の国の王である方を前にして、神の国はいつ来るのかと尋ねること自体が、彼らの不信仰を表しています。実際には、神の国はすでに信じる者たちの間に始まっていて、神の国の祝福が広がっています。

神の国の実現は世の終わりの時代に先送りになりましたが、世の終わりの時代に神の国が実現する場合、順番としてはまずその時代のイスラエルが国として悔い改め、イエスさまを信じ、神の国の王として帰ってきてくださいと祈らなければなりません。そうして始めて、神の国に関する預言がすべて実現して完成します。

世の終わりに起こること

パリサイ人たちの不信仰を責めた後、イエスさまは弟子たちに向かって語られました。「あなたがたが、人の子の日を一日でも見たいと願っても、見られない日が来ます」(22節)。また、「しかし、まず人の子は多くの苦しみを受け、この時代の人々に捨てられなければなりません」(25節)。

イエスさまがその話をなさったのは、まだイエスさまを救い主だと認め信じていないユダヤ人たちに信じて欲しいと思われたからです。彼らに残されている時間は、十字架までのわずかな時間しかありません。

イエスさまは間もなく人類の罪を赦すために十字架にかかり、その後復活して天にお帰りになります。そして、神の国が文字通りに実現することがないまま苦しい時代がこの先も続きます。特にイスラエルにとっては苦難の日々が続きます。彼らは紀元70年にローマ帝国によって国を滅ぼされ、全世界に散らされ、1900年近くに渡って迫害を受けることになります。

そして、世の終わりの時代には地上に大変なさばきが下ります。黙示録に描かれている7年間の大患難です。天変地異や戦争、飢饉、悪霊たちによって、地上の人々は死んだり苦しんだりします。特に後半の3年半は、反キリストとか不法の人とか獣とか呼ばれる人物がサタンの力によって世界の支配者となり、ユダヤ人を一人残らず抹殺しようとして大迫害を行ないます。

そのとき、ロトの妻のように財産を気にしていると命を失うことになりかねません(32節。創世記19:26)。イエスさまはおっしゃいました。「自分のいのちを救おうと努める者はそれを失い、それを失う者はいのちを保ちます」(33節)。前半の「いのち」とは日常生活のことです。それにとらわれていると、本当の命を失うことになってしまいます。

ここから、今の時代を生きる私たちが、地上でどのように生きていけばいいのかを考えましょう。

2.この世での生き方

神のみこころを積極的に行なおう

私たちは地上の国に国籍を持っています。と同時に、天国の国籍も持っています。むしろそちらが本当の国籍です。「しかし、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、私たちは待ち望んでいます」(ピリピ3:20)。

ですから、地上では寄留者です。「愛する者たち、私は勧めます。あなたがたは旅人、寄留者なのですから、たましいに戦いを挑む肉の欲を避けなさい」(第1ペテロ2:11)。

寄留者である私たちにとって、この世で自分が得をするかどうかが判断の基準になってはいけません。この世のものに心を奪われすぎて執着したロトの妻のようになってはなりません。私たちの判断の基準は、神さまがそれを喜ばれるかどうかです。

今回の箇所で、イエスさまは弟子たちに向かって世の終わりに起こる神さまのさばきについて語られました。それは、あなたたちも滅ぼされないように注意しなさいと脅すためではありません。彼らはイエスさまを救い主と信じて救われていました。彼らの罪はすべて赦されています。ですから、自分が犯した罪のせいで神さまにさばかれ、永遠の刑罰を受けることを恐れる必要はありません。それは私やあなたも同じです。私たちが聖書を学び、神さまの命令に従うよう努めるのは、そうしないと罰を受けると恐れているからではありません。

罪が赦されているということと、安心して罪を犯していいということとは全く違います。世の終わりに世界がさばかれるのは、神さまは罪を憎んでおられるからです。罪とは、神さまの存在と尊厳を否定することだからです。私たちはイエスさまがご自分の命と引き換えにして私たちを救ってくださったということを知っています。その喜びと感謝の故に、神さまが喜ばれない生き方はしたくないと思うようになったのです。

良い畑とは雑草が一本も生えていない畑のことではなく、豊かに実を結ぶ畑のことですね? 確かに罪を犯さないように努めることは大切です。しかし、私たちはむしろ積極的に神さまが喜ばれる生き方を探し、それを実践するように心がけましょう。

一貫した生き方をしよう

イエスさまは世の終わりのさばきについて語られました。しかし、私たちクリスチャンは、イエスさまの十字架と復活を信じたことによって神さまに罪を赦され、そればかりか神さまの子どもとされ、将来地上に文字通り実現する神の国に住む権利を与えられています。

その一方で、今この時は、私たちはこの世で生活しています。礼拝式などの時には神の家族である他のクリスチャンたちと一緒になりますが、ほとんどの時間はこの世との関係の中で生きています。

クリスチャン生活は、教会の集会や交わりの中だけのものではありません。ほとんどの時間は教会の交わりの外での生活です。

ある牧師が礼拝メッセージを語っていたとき、突然牧師夫人が講壇の所に上がってきました。彼女は言いました。「ここで聖書の話をしている時のあなたは優しさに満ちあふれている。私はここであなたと暮らしたい」。この話を思い出すたび、私も自分の普段の言動を反省させられます。

教会を中心とした生活と日常生活とが全く別物になっていないかいつもチェックしましょう。もちろん、教会生活も日常生活も、どちらも神さまのみこころに従うものでなければなりません。

触れるものに注意しよう

この世の中には素晴らしいものがたくさんありますし、クリスチャンであろうとなかろうと、私たちが見習うべき人がたくさんいます。しかし、この世は基本的に神さまに逆らう方向に傾いています。気をつけていないと、いつの間にか神さまを無視したり、神さまに逆らったりする性質の影響を受けてしまいます。

ですから、いつも自分の心を見張って、この世の価値観の影響を受けていないかどうかチェックしなければなりません。

この話をお読みください

私たちはこの世から離れて生活することはできませんし、伝道の使命が与えられている以上、そんなことをすべきでもありません。ただ、自分が普段どんな情報に触れているかについて、もっともっと気を配りましょう。
地の塩・世の光
私たちは地の塩・世の光だとイエスさまはおっしゃいました(マタイ5:13-16)。私たちがこの世の良くない影響を受けないよう気をつけるだけでなく、むしろ私たちを通して神さまの良い影響がこの世に伝わるよう祈りたいですね。

あなた自身への適用ガイド

  • 今、特に神さまから行なうよう促されている行ないは何ですか?
  • 教会生活と日常生活で、生き方が異なっていたなと感じることが何かありましたか? それを合わせるためにはどんな行動をすることが必要ですか?
  • 自分があまり接触しないようにすべきだと思った情報や、逆に積極的に触れなければならないと思った情報は何ですか?
  • 今日の聖書の箇所を読んで、どんなことを決断しましたか?

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