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礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

何をしてほしいのですか

ルカによる福音書18章35節〜43節

(2020年10月4日)

礼拝メッセージ音声

参考資料

今回登場する盲人は、マルコ10:46によれば、バルティマイという名。マタイ20:30によると盲人はもう1人いて2人ともいやされましたが、バルティマイが主導的な働きをしたのでしょう。

1節の「エリコ」は、エルサレムの東北東25キロほどのところにあった町。エルサレムとヨルダン川の向こう岸を東西につなぐ街道と、ガリラヤ方面から南下する街道の交差点に位置していた交通の要所です。

38節の「ダビデの子」は救い主の称号の一つ。ダビデはイスラエル王国2人目の王。このダビデの家系から救い主(ヘブル語でメシア、ギリシャ語でキリスト)が生まれると神さまが約束されたことから(第2サムエル7:12-13、イザヤ9:7、エゼキエル3:23-24)、「ダビデの子」は救い主を表す称号となりました。

イントロダクション

聖書は愛を実践すること、特に困っている人を助けることを、信仰者がすべき重要な行ないとして勧めています。しかし、こちらは愛情や善意のつもりでも、よけいなお世話になってしまったり、相手を甘やかすことになってかえって無責任・依存的にさせてしまったりすることがあります。それは慈善行為だけでなく、子育て・孫育てでもそうですね。

今日は、目の見えない人(マルコ10:46によればバルティマイという名)に対するイエスさまの接し方から、爽やかな愛の示し方を教えていただきましょう。

1.イエスの接し方

なぜイエスは質問したのか

イエスさまが通られることを知った盲人バルティマイは、大声で「ダビデの子のイエス様、私をあわれんでください」と叫びました。そして、周りの人にたしなめられても叫ぶのをやめませんでした。

イエスさまは彼をそばに呼び、「わたしに何をしてほしいのですか」と尋ねると、彼は「主よ、目が見えるようにしてください」と答えました。イエスさまが「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救いました」と言葉をかけると、バルティマイはいやされ、神さまを賛美しながらイエスさまについて行きました。

さて、最初にこの箇所を読むと、多くの人がある疑問を持つようです。かつての私もそうでした。それは、なぜイエスさまはわざわざ「わたしに何をして欲しいのか」などと尋ねたのかということです。

目の見えない人が助けを求めて叫んでいるのだから、当然求めているのは目が見えるようになることだろうと判断できるはずです。まして、イエスさまは全知全能の神が人となって来られた救い主なのですから、分って当然ではないでしょうか。
考えられる目的
なぜイエスさまがわざわざ何をして欲しいかを尋ねたのか、この箇所にははっきりと答えが書いてあるわけではありませんが、私は次のような目的がイエスさまにあったからでなないだろうかと考えます。

それは、「バルティマイ自身の意思で、そして言葉で、イエスさまにいやしを求めて欲しかった」ということです。

もちろん、イエスさまはバルティマイがイエスさまに「目が見えるようにいやしてください」と願わなくても、それどころかイエスさまに向かって「あわれんでください」と叫ばなくても、バルティマイに必要なことを見通していやすことがおできになります。それでも、彼自身に願いを口にして欲しかったのです。

では、なぜ私がそう考えるか、その理由をこの箇所から導き出してみましょう。

ほめられたバルティマイ

私が注目したのは、いやしに当たってイエスさまがバルティマイをほめていらっしゃることです。「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救いました」(42節)。「救った」というのはここでは「いやした」という意味です。

彼をいやしたのは、もちろんイエスさまです。しかし、あえてイエスさまは「それを可能にしたのはあなたの信仰だよ」とおっしゃいました。

このように、イエスさまに「あなたの信仰があなたを直した(あるいは、救った)」と言われた人は、この盲人バルティマイの他にもいます。
  • 12年間長血をわずらっていた女性(マタイ9:22ほか)
  • パリサイ人シモンの家でイエスさまの足を涙でぬらした女性(ルカ7:50)
  • 重い皮膚病をいやされた10人のうち、感謝するために戻ってきたサマリヤ人(ルカ17:19)
この人たちの共通点は、ユダヤの一般的な常識からすれば「この人は汚れていて、きっと罪深いゆえに神さまに呪われているのだ」と考えられていた人たちだということです。バルティマイもそうでした。この当時のユダヤでは、身体障がいは神さまの祝福を失っている証拠だと考えられていたのです(聖書はそのようなことを教えてはいませんが)。

しかし、イエスさまは彼らを高く評価なさいました。それは、彼らが格別きよくて、立派な行ないをしたからではありません(シモンの家に来たのは、罪深い女と呼ばれた人でした)。お金持ちだったからでもありません(長血の女性は、治療のために財産を失いました)。

イエスさまが評価したのは、彼らが信仰を持っていたということでした。それは、
  1. イエスさまは救い主であって、奇跡を行なうことができる力をお持ちだという信仰
  2. そして、その力を自分のような取るに足りない者にも必ず注いでくださる、恵みに満ちたお方だという信仰
です。

しかも、彼らの信仰は自分勝手に考え出した願望に基づくものではなく、聖書に基づくものでした。預言者イザヤは、救い主が来られると次のようなことが起こると預言しています。

「心騒ぐ者たちに言え。『強くあれ。恐れるな。見よ。あなたがたの神が、復讐が、神の報いがやって来る。神は来て、あなたがたを救われる』。そのとき、目の見えない者の目は開かれ、耳の聞こえない者の耳は開けられる。そのとき、足の萎えた者は鹿のように飛び跳ね、口のきけない者の舌は喜び歌う。荒野に水が湧き出し、荒れ地に川が流れるからだ」(イザヤ35:4-6)。

イエスさまは、彼らのそういう信仰をおほめになりました。

ですから、今回バルティマイに「何をしてほしいのか」と尋ねたのは、奇跡のわざにバルティマイ自身を参加させるためです。そしてその結果、彼の素晴らしさが明らかになるようにするためです。

神は私たちをほめたい

何でも一人でおできになるはずの神さまが、なぜ私たちが神さまの働きに加わることをお求めになるのでしょうか。なぜ私たち不完全なクリスチャンの祈りや行動を通して働こうとなさるのでしょうか。

それは、たとえれば親が子どもと一緒に料理を作るようなものです。子どもが小さいうちは、親が一人で作った方がおそらく早くて正確に調理することができるでしょう。しかし、一緒に作業をすること自身が親の楽しみだし、できた料理を味わいながら「○○ちゃんが作った料理、おいしいね」と喜び、感謝したいという思いが親にあるからこそ、わざわざ子どもと一緒に料理をするのです。

同様に、神さまは私たちと一緒に働くことによって、そのプロセスを一緒に楽しみ、結果を一緒に喜び、また「あなたが手伝ってくれたおかげだよ」とほめたいと思われるからです。

ですからバルティマイに対しても、イエスさまは勝手に一方的にいやしたのではなく、バルティマイからいやして欲しいという願いを引き出そうとなさいました。

では、ここから他の人に愛のわざを示すときに心がけるべき事を引き出してみましょう。

2.他者への愛の示し方

尋ねてから手を出す

イエスさまは、「わたしに何をしてほしいのですか」と尋ねて、バルティマイ自身の意思と言葉を引き出してからいやしを行なわれました。「私に何か手伝えることはありませんか?」とか「お手伝いしましょうか?」と尋ねてから手を出すのは、相手が本当は望んでいないことをする、いわゆる「よけいなお世話」を避けるために大切なことです。

そして、それだけでなく、相手から主体性を取り上げないためにも大切なことです。

原宿カウンセリングセンター所長の信田さよ子先生は、家族の問題で悩んでいる女性たちの自助グループを導いておられます。そこに集まる女性たちは愛情豊かな人たちばかりだとおっしゃいます。信田先生の服のボタンが取れかけているのをすぐに見つけて、ささっと止め直してくれるなど、よく気がついてあれこれと世話を焼いてくれます。だから、グループの集まりに参加すると何もする必要がなくなると信田先生はおっしゃいます。それだけでなく「何もする気が起こらなくなる」と。

相手の問題を勝手に解決し続けていると、相手から自力で問題解決をしようという意欲や力を削ぎ落としてしまう恐れがあるということです。

相手の問題はあくまでも相手のものですから、勝手に取り上げてはいけません。もちろん、だからといって、あなたの問題だから自分一人で解決すべきだと無視するというわけではありません。助けの手を差し伸べていいのです。ただし、解決の主体はその人自身で、こちらはそのお手伝いがしたいという態度で接することが重要だということです。

以前お医者さんのインタビュー記事を雑誌で読みました。そのお医者さんがこんなことをおっしゃっていました。「『いやす』という言葉がありますが、僕たち医者が患者さんの病気をいやすのではなく、患者さんが持っている自然治癒力によって病気が『いえる』のです。僕たち医者はそのお手伝いをしているだけです。いやしの主役は患者さんです」。

相手の主体性を尊重するために、「お手伝いしましょうか?」と尋ねてから手を差し伸べることが大切です。場合によっては、「絶対大丈夫だから自分でやってごらん」と励ましながら見守るだけにすることも必要です。

肯定的評価を心がける

誰かの助けを受けるということは、決して恥ずかしいことでも惨めなことでもありません。しかし、中には劣等感を抱いてしまう人もいます。私たちが愛のわざを示すとき、その点に配慮する必要があります。

イエスさまはバルティマイをいやされました。しかし、事前にバルティマイに質問することによって、彼に信仰があることを明らかにして、それを肯定的に評価なさいました。イエスさまは障がいをいやすという功績を独り占めにしないで、「あなたの信仰があなたをいやしたのだ」と、むしろバルティマイのものになさいました。

私たちも、他の人の問題解決の功績を私たちが取り上げたりしないで、相手に戻さなければなりません。すなわち、相手に尋ねてから手を出すことで相手から主体性を奪わないようにすると共に、相手が問題解決のために奮闘努力している姿勢を認め、それを肯定的に評価しなければなりません。

先日、ネットの記事を読んでいたら、ご主人に夕食は何がいいか尋ねたら、「カレーでいいよ」と言われてちょっとカチンときたという主婦の方がいました。カレーだって作るのに手間がかかるし、おいしくするためにいろいろ工夫も必要なのに、「それでいい」とは何事かというわけです。まあ、ご主人も家事は楽でいいなんてつもりで発言したわけではないでしょうが、人知れず工夫や努力をしておられる人たちの頑張りにもっともっと心を向ける必要があるなあと思わされました。

別の話です。幼稚園を訪問したとき、ある子どもが丸太を運ぼうとしているのを見ました。すると、近くを通りかかった先生が、「手伝おうか?」と声をかけ、子どもがうなずくと丸太の片側を持ちました。片側というか、ほぼ真ん中あたりを持ったので、丸太の重量のほとんどは先生にかかっています。そして、子どもと一緒に「よいしょ、よいしょ」と言いながら子どもが運びたい所まで丸太を移動したとき、「できたー! ○○ちゃんあきらめないでがんばったねー。がんばり屋さんだねー」と先生がその子をほめました。ちょっと気温が低い日でしたが、私の心もほっこり温かくなりました。

特に愛のわざを示すときには、相対的に相手が低い位置になりがちです。ですから、相手がこれまで問題に耐えてきたその忍耐力や、問題解決のために努力している姿勢などに注目し、それを賞賛したりねぎらったりするよう意識しなければなりませんね。

神の愛を十分味わう

大学時代に臨床心理学の授業を受けたとき、教授がこんなことをおっしゃいました。「援助職、たとえばカウンセラーとか看護師とかになりたいと思う人の半分は、自分に援助が必要だ」。

どうしてかというと、その半分の人たちは自分に自信がなくて、他の人を助けて感謝されることによって、自分には価値があると思いたいという隠れた動機があるからだそうです。そして、そういう人たちは相手が何を望んでいるかを大切にするのではなく、愛情の押し売りになりがち、よけいなお世話を焼きがちだと。

そうならないために、私たちは「役に立つ人間だからOK」という自信の種を手放す必要があります。

イエスさまによって目をいやされ、イエスさまの愛を味わったバルティマイは、イエスさまについていきました。つまり、今度は自分がイエスさまと一緒に他の人に愛を実践する弟子になったのです。

私たち自身がイエスさまの愛、神さまの愛を十分に味わうと、私たちは他の人を愛したいという思いに満たされます。そういうふうに湧き上がってくる愛は、押しつけがましさとは無縁です。

この話をお読みください

あなたに対する神さまの愛に満ちた評価の声に、心の耳を傾けましょう。神さまは何とおっしゃっていますか?

あなた自身への適用ガイド

  • 人から親切にされたのに、あまりうれしくなかったとか、かえって迷惑に感じたとかいう経験が最近ありましたか? また、こちらが親切にしたとき、相手から迷惑がられた経験がありましたか?
  • 問題解決の主体性を相手から奪わないために、心がけようと思ったことは何ですか?
  • 家族など身近な人を改めて思い描きましょう。その人たちが忍耐したりがんばったりしていることは何でしょうか。それを肯定的に評価していることを、どのようにその人たちに伝えたらいいと思いますか?
  • 神さまは、あなたをどのように肯定的に評価してくださっていますか?
  • 今日の聖書の箇所を読んで、どんなことを決断しましたか?

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