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礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

人は変わることができる

ルカによる福音書19章1節〜10節

(2020年10月11日)

礼拝メッセージ音声

参考資料

1節の「エリコ」は、エルサレムの東北東25キロほどのところにあった町。

4節の「いちじく桑」は、エジプトイチジクのことで、大きなものは高さが15m、幹の太さが2mにもなります。しかし、幹の低いところから枝が伸びるので、背の低いザアカイでも登りやすかったのでしょう。

9節の「アブラハムの子」はアブラハムの子孫という意味ですが、それはユダヤ人のことではありません。というのも、アブラハムの肉体的な子孫がすべてユダヤ人なのではなく、たとえばアラブ人もアブラハムの子孫です。アブラハムの子イサクの子ヤコブの子孫だけがユダヤ人です。
アブラハムの子孫とは、アブラハムのように信仰によって救われた人という意味です。「アブラムは【主】を信じた。それで、それが彼の義と認められた」(創世記15:6)。

イントロダクション

9月27日の礼拝メッセージで、金持ちの青年とイエスさまの対話の場面を取り上げました。青年が立ち去った後、イエスさまは「富を持つ者が神の国に入るのは、なんと難しいことでしょう。金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうが易しいのです」(24-25節)とおっしゃいます。

ところが、同じく大変な金持ちだった取税人ザアカイについて、イエスさまは「今日、救いがこの家に来ました」(9節)とおっしゃいました。そして、救いを受け取ったザアカイの人生は180度変わりました。

人は変わることができます。私もあなたも変わることができます。そのために必要な態度をイエスさまとザアカイの触れ合いから教えてもらいましょう。

1.ザアカイの変化

木に登ったザアカイ

エリコの町に住んでいたザアカイは、イエスさまがこの町に来られたという噂を耳にして、家を飛び出しました。「イエスがどんな方かを見ようとした」(3節)ためです。

ザアカイはこれまで直接イエスさまに会ったことはありませんでした。しかし、イエスさまが3年半の間あちこちで行なった様々な奇跡の噂は耳に入っていました。その教えには威厳があること、しかし人となりは柔和で優しいことも聞いています。

まして、直前の18:35-43では、イエスさまがエリコに入る直前に目の見えない人をいやしています。そのニュースは瞬く間に町中に広まって、ザアカイの興味をかき立てました。だから、ぜひその姿を見たいと思ったのでした。それは、表面的には野次馬根性から出た行動だったかも知れませんが、それが彼の人生を大きく変えるきっかけとなります。

外に出たザアカイは、道沿いに植わっていたいちじく桑の木によじ登りました。その理由は2つ考えられます。
木に登った1つ目の理由
1つは3節に書かれています。すでにたくさんの人々が沿道に集まっていて、人垣ができていたのです。これが旧約聖書のサウル王なら、他の誰よりも頭一つ背が高かったので人垣など問題になりませんが、ザアカイは背の低い人でしたから全く見えません。ですから木に登って上から見下ろそうと考えました。

いちじく桑は、成長するととても大きくなる木ですが、幹の低い場所から最初の枝が伸びているので、背が低いザアカイにも登りやすかったのです。
木に登った2つ目の理由
では、もう1つの理由は何でしょうか。それは、イエスさまと面と向かって会うことを恐れたからです。

たとえ人垣ができていたとしても、ザアカイが町の人々から尊敬され敬愛されていたとしたら、きっと人々はザアカイを前の方に招き入れてくれたでことしょう。しかし、そんなことをしてくれる人は誰もいませんでした。ザアカイは人々から尊敬され敬愛されるどころか、蛇蝎のように忌み嫌われていたからです。それは、彼が取税人だったからです。

これまで何度も解説してきましたが、当時のイスラエルはローマ帝国の支配下にあって、ローマに様々な税金を納めなければなりませんでした。その税金の徴収を請け負ったのが取税人で、ユダヤ人の中から選ばれました。一般のユダヤ人たちは、自分たちから独立を奪ったローマ政府にしっぽを振る売国奴として、取税人をさげすんでいたのです。

それだけではありません。取税人は決められた額よりもたくさんの税を徴収して、その差額を自分の懐に入れていました。取税人のバックにはローマ軍がいますから、民衆は求められた額の税金を払うしかありません。そこで取税人は経済的には非常に豊かでした。特にエリコは、ヨルダン川を挟んで東西に延びる街道と、南北に延びる街道の交差点に位置しますから、たくさんの人々が行き来します。ですから、たくさんの通行税や関税を取ることができます。その分取税人のふところは潤いますが、彼らをまとめる元締めのザアカイは大変な金持ちだったわけです。

しかし、当然ながら一般民衆には、取税人は盗人同様の罪人として忌み嫌われていました。実際、7節で町の人々はザアカイのことを「罪人」と呼んでいます。また、パリサイ人たちは文書の中で取税人を強盗や人殺しと同列に扱ってさえいます。

そのようなわけで、取税人は一般のユダヤ人共同体からつまはじきにされていました。裁判の証人としての資格はありません。神殿や会堂に献金しようとしても「盗んで得た汚れた金は受け取れない」と拒否されました。ユダヤ人でありながら、まるで異邦人のような扱いを受けたのです。そして、取税人が交流できるのは、同じ取税人仲間など社会の鼻つまみ者たちだけです。

ですから、偉い宗教家の先生の前にのこのこ姿を現そうものなら、口汚く罵られたり、呪いの言葉を投げかけられたりすることもあったでしょう。自分でまいた種とはいえ、好き好んで罵られたい人はいません。だからザアカイは、太い木の枝に身を隠してこっそりイエスさまの姿を見るつもりだったのでしょう。

ザアカイに声をかけたイエス

エリコの町に入られたイエスさまは、ザアカイが見物している木の下に来ると、おもむろに上を見上げて言いました。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。わたしは今日、あなたの家に泊まることにしているから」(5節)。これは驚くべき言葉です。
ザアカイ、急いで降りてきなさい
まず、イエスさまは会ったことのないザアカイの名前を知っておられ、その名を呼ばれました。もっとも、この箇所には書かれていませんが、イエスさまが立ち止まって上をご覧になったので、町の人たちもザアカイに気づいて「あれ、罪人ザアカイの奴があんな所にいるぞ」とつぶやいて、それをイエスさまが聞かれたのだという説明も一応可能です。

しかし、私はそんなふうには考えていません。イエスさまは、その奇跡の力によってザアカイの名前をあらかじめ知っていたのだと私は信じています。

ザアカイという名前には、「きよい人」という意味があります。日本人の名前なら「きよし」さんというところでしょうか。ところが、町の人たちが彼に向かってザアカイと呼ぶときには、「あなたはその名の通りきよい人です」という意味で呼びかけてはいません。「親が期待してつけてくれたザアカイという名にふさわしくない罪人野郎め!」という軽蔑・嘲笑の思いを込めてその名を口にします。

ザアカイ自身、自分がその名にふさわしくない人間だということは自覚していたことでしょう。ザアカイもまたユダヤ人ですから、全知全能の神がおられることを知っていました。しかし、人生の現実の前に、いつの間にか神さま中心ではなく、金中心の生き方をせざるを得なくなってしまっていたのです。

きっと彼の心の中には、「これではいけない」という小さな声が響いていたことでしょう。自分の今の生き方に対して、密かに罪責感を覚えていたことでしょう。そして、このままでは神のさばきを招くという密かな恐れもあったことでしょう。それでも自分では生き方を変えることができません。

そして、ザアカイは町の人たちと温かい交流が持てない寂しさも感じていました。彼の心には深い孤独感があったのです。取税人仲間との交流はありますが、彼らとは金を通しての付き合いであり、ザアカイ自身を本当に受け入れ、愛してくれているわけではありません。

ザアカイは、普段はそういう罪責感や孤独感を全部押し殺して、お金を貯め、贅沢な暮らしをすることでごまかしてきたのです。

そんなザアカイの名をイエスさまは呼ばれました。責めたり馬鹿にしたりする口調ではなく、温かく優しい口調でです。イエスさまが呼ばれたのは、罪のおかげですっかり隠されてはいるけれど、神さまが創造なさった素晴らしい存在としてのザアカイ、敬虔できよくて愛情深い性質を持ったザアカイ、その名にふさわしい本来のザアカイです。

今、イエスさまがあなたの名前をお呼びになるとしたら、どんなふうにお呼びになるでしょうか。
あなたの家に泊まることにしている
そして、それに続く言葉も驚くべきものです。イエスさまはザアカイに向かっておっしゃいました。「わたしは今日、あなたの家に泊まることにしているから」(5節)。

旅人を家に招いて食事を提供したり泊めたりするのは、ユダヤ人にとって当然のことでした。ですから、イエスさまが「あなたの家に泊まる」とおっしゃったのは、別に図々しいことではありません。

問題は、なぜ選ばれたのがザアカイの家なのかということです。町の人々にはそれが理解できませんでした。エリコの町には、まっとうな仕事でお金を稼いでいる金持ちや人格的に尊敬されている人たちがいたはずです。ところが、イエスさまはそういう立派な人たちの家ではなく、わざわざ罪人の中の罪人とさげすまれていた取税人の、しかもその元締めであるザアカイの所に泊まりたいとおっしゃいます。

それはパリサイ人などユダヤの宗教的リーダーなら決して、決して、決してしないことです。あまりにも常識外れの行動だったので、町の人々が驚いて「あの人は罪人のところに行って客となった」(7節)とつぶやきました。
泊まらなければならない
それを理解するために、「泊まることにしている」と訳されている文に注目しましょう。ここは、直訳すれば「泊まらなければならない」です。この「しなければならない」という言葉から、サマリアの女の記事(ヨハネ4章)を思い出しました。

イエスさまが公の活動を始めた初期の頃(27年春)、エルサレムで過越の祭りに参加した後ガリラヤ地方に戻られる途中で、イエスさまはイスラエル南部のユダヤ地方とと北部のガリラヤ地方の間にあるサマリア地方をお通りになりました。そして、井戸のそばで一人の女性と出会います。この人は心の飢え渇き男性遍歴を続け、その結果町の人たちと距離を取って生活していました。しばらくイエスさまと話をした後、その女性の生き方は180度変わりました。

ユダヤとガリラヤを行き来するユダヤ人のほとんどは、間のサマリアをまっすぐに突っ切ったりせず、一旦東のヨルダン川沿いの道に迂回していきました。なぜならそこにはユダヤ人とは別の民族サマリア人が住んでいて、ユダヤ人とサマリア人は仲が悪くて付き合いをしなかったからです(ヨハネ4:9)。

にもかかわらず、聖書にはこう書かれています。「(イエスは)ユダヤを去って、再びガリラヤへ向かわれた。しかし、サマリアを通って行かなければならなかった」(ヨハネ4:3-4)。イエスさまは、この女性に会い、この女性の人生を変え、彼女を通してその町の人たちの人生を変えるために、わざわざ普通なら通らない道を行かれたのです。

ということは、ザアカイに対して「あなたの家に泊まらなければならない」とおっしゃったイエスさまは、ザアカイに会い、ザアカイの人生を変えるために、わざわざエリコの町に来られたということです。なぜなら、イエスさまの活動の目的は「失われた者を捜して救うため」(10節)だからです。
ザアカイの家でのイエス
ザアカイの家に着いたイエスさまは、さっそくザアカイがこれまで犯してきた罪の数々やその生き方の問題点をびしりと指摘され、悔い改めを迫った……とは、聖書のどこにも書いていません。「お前の罪を赦す」とさえおっしゃっていません。イエスさまは、ただただザアカイの客となり、ザアカイとの交わりを楽しまれたのです。

イエスさまは、ザアカイを神さまに呪われた罪人としてではなく、すでに神さまに愛されている、神さまの子どもとして接してくださいました。

優しく自分の名を呼んでくださったイエスさま。たくさんの人が住むエリコの町の中で、わざわざこの自分を選んで泊まるとおっしゃったイエスさま。自分を一切責めないで交わりを楽しんでくださるイエスさま。そんなイエスさまとの交わりを通して、ザアカイの中で何かがはじけました。今まで見ないようにしていた罪責感や孤独感を認め、しかもそれがこのイエスさまによってすっかりいやされたということを知ったのです。

ザアカイの宣言

そこで、ザアカイは立ち上がって宣言しました。「主よ、ご覧ください。私は財産の半分を貧しい人たちに施します。だれかから脅し取った物があれば、四倍にして返します」(8節)。

モーセの律法によると、貧しい人への施しは、3年ごとにその年の収入の10分の1と決まっていました(申命14:28-29)。パリサイ人たちは、自分たちの規則として倍の5分の1としていましたが、(収入のではなく)全財産の半分というのは破格です。

また、不正に人から取り上げたものをすべて返すのは当然ですが、モーセの律法ではさらに5分の1を上乗せして返せと命ぜられていいます(民数5:7)。それが通常の賠償額ですが、他人の家畜を盗んで殺したり売ったりしてしまった場合には、4倍あるいは5倍にして返す決まりでした(出エジプト22:1)。ですから、だまし取ったものは4倍にして返すと言ったザアカイは、自分がやったことは単なる不正ではなく、盗人と同じ罪だと認めたわけです。

このように、ザアカイの生き方は、それまでのお金中心の強欲な生き方から神さま中心のきよい生き方、その名にふさわしい生き方にすっかり変えられてしまいました。

しかも、イエスさまに罪を指摘されて責められたり、そうしないと地獄に落とされるぞと脅されてそう決めたのではありません。イエスさまの愛に触れたことにより、自発的に決めたことです。
イエスの宣言
ですから、イエスさまはザアカイの変化をご覧になっておっしゃいました。「今日、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。人の子は、失われた者を捜して救うために来たのです」(9-10節)。

ただし、ザアカイは施しや賠償をすると決めたから救われたのではありません。救われて罪の赦しを受け取り喜びに満たされたから、そういう決断をすることができたのです。この順番が大切です。

では、ここから、私たちが変えられた人生を手に入れるために必要なことをまとめてみましょう。

2.変えられた人生を手に入れるために

小さな心の声を素直に認めよう

ザアカイは、ずっと罪責感や孤独感を抱えていましたが、それをごまかして生きてきました。しかし、イエスさまの愛のまなざしと語りかけによって、それをしっかり見つめる勇気を手に入れました。

自分がごまかしてきたものをしっかり認めるところから、新しい人生が始まります。

私たちも、自分が本音のところで何を悲しみ、何を恐れているのかしっかり認めましょう。どんなにそれが否定的であっても、破壊的であっても、イエスさまはそれを責めたりなさいません。だから、安心して認めましょう。そして、ここから変わりたいと願いましょう。

無条件の愛を知ろう

ザアカイだけでなく、旧約聖書の昔から、今も、そして黙示録が描く世の終わりに至るまで、自分の罪を自覚し、神さまに罪を赦してくださるよう恵みを求める人を、神さまは退けないで受け入れ、さばかないで赦し、呪わないで祝福してくださいます。

そのためにイエスさまは十字架にかかり、死んで葬られ、3日目に復活なさいました。

あなたは神さまの罰を恐れて、クリスチャンとしての正しい行ないをしようとしてきませんでしたか? イエスさまは、恐怖や欲に訴えるのではなく、愛によって人を新しい生き方へと導かれます。

アブラハムのような信仰を持とう

ザアカイのことを、イエスさまは「アブラハムの子」と呼ばれました。参考資料に書いたように、これはアブラハムのような信仰を持った人という意味です。「ですから、信仰によって生きる人々こそアブラハムの子である、と知りなさい」(ガラテヤ3:7)。

アブラハムは「祝福するよ」と神さまに言われて、「そうですか。ありがとうございます」と受け取りました。これが信仰です。同じように、神さまはあなたにも「あなたを祝福するよ」とおっしゃっています。どうぞ、受け取ってください。アブラハムのように、そしてザアカイのように。

まとめ

私たちもザアカイです。それは人を騙してお金をむさぼる人間だということではありません。ザアカイにはザアカイの痛みや矛盾があったように、私たちには私たちの痛みや矛盾があります。

イエスさまがザアカイの孤独感や罪責感を、「あなたの家に泊まる」という一言でいやされたように、イエスさまはあなたの人生をも新しくしてくださいます。あなたは、すでに新しい生き方を手になさったでしょうし、これからもますます新しい生き方へと導かれていくことでしょう。

そのために、次の適用ガイドに書かれていることを考えてみてください。

あなた自身への適用ガイド

  • あなたは今、どんな心の声を聴いていますか?
  • 神さまに対する恐れから行動していることはなかったでしょうか?
  • あなたは今、どんな神さまの祝福の約束を信じなければなりませんか?
  • 今日の聖書の箇所を読んで、どんなことを決断しましたか?

連絡先

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