本文へスキップ

礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

ろばの子のように

ルカによる福音書19章29節〜44節

(2020年10月18日)

礼拝メッセージ音声

参考資料

29節の「オリーブという山」(29節)は、エルサレムのすぐ東にある山。「ベタニア」はエルサレムの南東約3キロ、オリーブ山の東の山麓にあった町です。「ベテパゲ」はエルサレムとベタニアの間にありました。

ヨハネ12章を読むと、イエスさまは十字架にかかる過越の祭りの6日前にベタニアに到着しました。この年の過越は金曜日ですから、6日前は土曜日です(ユダヤでは日没で日が変わりましたから、金曜日の夕方かもしれません)。ベタニアでは、マルタ、マリア、ラザロたちの家に泊まります。
それから日曜日になって、イエスさまはベテパゲで調達したろばの子に乗ってエルサレムに入られました。そして、神殿を訪れた後、一旦ベタニアに戻られます。

イントロダクション

私たちにとって本当に幸せなのは、救われてすぐに死んで天国に入れられることなのかも知れません。新型コロナに怯えることもなく、人間関係や経済的問題に悩むこともなく、平安と喜びの中で復活の時を待つことができます。

しかし、現に私たちはこうして生かされ、この地上に置かれています。それは神さまに特別な目的があってのことです。私たちは何のためにこうして生かされているのでしょうか。それを、イエスさまがエルサレムに入るに当たってお乗りになった、小さな子ろばから学びましょう。

1.エルサレム入城

ろばの子の調達

エリコの町で盲人バルティマイと取税人ザアカイの人生を180度作り変えたイエスさまは、旅を続けていよいよエルサレムの目と鼻の先の、ベタニア村に到着なさいました。そして、親しい友であるマルタ、マリア、ラザロの家に泊まって、翌日の日曜日にエルサレムに向かって行かれました。

今回の出来事は、イエスさまのエルサレム入城と呼ばれています。城に入るというのは、エルサレムは城壁で囲まれていて、まるでお城のようだったからです。

エルサレム入城の前に、イエスさまは不思議な行動をなさいました。通り道にあるベテパゲ村に2人の弟子を遣わして、そこにつながれている子ろばを連れてくるよう命じたのです。そして、子ろばの持ち主がその行為を咎めたら、「主がお入り用なのです」と答えなさいと言い添えました。

さて、あなたが子ろばの持ち主であれば、こんな返答で納得するでしょうか。たぶん、「なんじゃそりゃ」と答えて警察官を呼ぶことでしょう。ところが、持ち主は素直に子ろばを差し出しました。一体どうしてなのかは書かれていません。考えられる理由としては、
  • イエスさまがあらかじめ別の使いを出していて、「主がお入り用なのです」と言われたら素直に差し出すことが取り決められていた。
  • 持ち主に天使が現れてそうするよう命じるなど、事前に不思議な体験をしていた。
  • 持ち主はイエスさまが救い主だと信じており、しかも旧約聖書の預言を熟知していて、救い主はろばの子に乗ってエルサレムに入られるということを知っていた。旧約聖書のゼカリヤ書にはこのような預言があります。「娘シオンよ、大いに喜べ。娘エルサレムよ、喜び叫べ。見よ、あなたの王があなたのところに来る。義なる者で、勝利を得、柔和な者で、ろばに乗って。雌ろばの子である、ろばに乗って」(ゼカリヤ9:9)。
理由はどうであれ、とにかく持ち主は素直に子ろばを弟子たちに託しました。そして、イエスさまはゼカリヤ書の預言通りに、子ろばに乗ってエルサレムに近づいていかれました。

人々の反応

弟子の歓喜
すると、弟子たちは歓喜してイエスさまをほめたたえました。ルカは、彼らが自分たちの上着をイエスさまが通る道に敷いたと記しています。この行為は、旧約聖書のあるエピソードに基づいています。

かつてイスラエルが南北に分裂していた時代、北王国では預言者エリシャが活躍していた頃の話です。神さまは、エリシャを通してエフーという人を新たな王に選びました。すると、それを知った軍の高官たちは上着をエフーの足もとに敷いて、エフーが王であることを承認しました。

「すると、彼らはみな大急ぎで自分の上着を脱ぎ、入り口の階段にいた彼の足もとに敷き、角笛を吹き鳴らして、『エフーは王である』と言った」(第2列王9:13)。

ですから、弟子たちが上着を通り道に敷いたということは、彼らがイエスさまを王と認めていたということです。

また、民衆はこう叫びました。「祝福あれ、主の御名によって来られる方、王に。天には平和があるように。栄光がいと高き所にあるように」(38節)。

特に前半の「祝福あれ、主の御名によって来られる方、王に」という言葉は、詩篇118:26から来ています。この詩篇はメシア詩篇と呼ばれていて、パリサイ人たちは救い主(メシア、キリスト)が現れたときには、ユダヤ人はこの詩篇を唱えて歓迎すると教えていました。ですから、この言葉も民衆がイエスさまを救い主、神の国の王として歓迎したことを示しています。
パリサイ人の反発
すると、パリサイ人のある人たちは弟子たちの態度に我慢ならない思いを持ちました。イエスさまがパリサイ人たちの教えを批判していたため、パリサイ人のほとんどはイエスさまを救い主だとは認めていなかったからです。

単なる人間が、神が人となって来られる救い主だと主張するなら、それは神さまを冒涜する罪です。ですから、イエスさまに人々を黙らせろと求めました。つまり、自分が救い主だということを否定しろと命じたわけです。

ところが、イエスさまはおっしゃいました。「わたしは、あなたがたに言います。もしこの人たちが黙れば、石が叫びます」(40節)。イエスさまは、パリサイ人の求めを拒否しました。すなわち、自分が救い主だということを否定するどころか、積極的に認めたのです。

エルサレムに対する嘆き

賛美の声と共にエルサレムに近づかれたイエスさまは、エルサレムが目の前に迫ると、涙を流しながら嘆きの言葉を語られました。

「もし、平和に向かう道を、この日おまえも知っていたら──。しかし今、それはおまえの目から隠されている。やがて次のような時代がおまえに来る。敵はおまえに対して塁を築き、包囲し、四方から攻め寄せ、そしておまえと、中にいるおまえの子どもたちを地にたたきつける。彼らはおまえの中で、一つの石も、ほかの石の上に積まれたまま残してはおかない。それは、神の訪れの時を、おまえが知らなかったからだ」(42-44節)
預言の実現
この預言は40年後の紀元70年に実現します。ユダヤ人の大規模な反乱に対する報復のために、ローマの大軍がイスラエルに攻めてきて、エルサレムの町も破壊されてしまいました。その結果、ユダヤ人が1900年間に渡って世界中に散らされてしまうことになります。

壮麗なエルサレム神殿は、石を積み上げて造った壁の上に金が貼られていました。戦いの中で、ローマ兵の1人が投げ込んだたいまつの炎によって神殿全体が焼けてしまい、その熱で壁の金が溶けて下地の石の間に入り込んでしまいました。その金を略奪するため、ローマ兵たちは神殿の石壁をすっかり崩してしまいます。こうして、イエスさまがおっしゃるとおり、「一つの石も、ほかの石の上に積まれたまま残してはおかない」という預言が実現してしまいました。
悲劇の理由
そのような悲劇が訪れる理由は、「神の訪れの時を、おまえが知らなかった」からです。これは、イエスさまが救い主だということを、パリサイ人だけでなく、エルサレムの多くの人々が信じなかったという意味です。

当時のユダヤ人たちは、救い主が登場して憎きローマ軍をイスラエルから追い出し、祖国を独立させてくれることを望んでいました。しかし、実際に救い主が登場したのに、彼らはイエスさまを救い主だと認めて従おうとはしませんでした。それは、イエスさまが、必ずしもユダヤ人たちの期待通りに行動しなかったからです。ここでもイエスさまは彼らの期待に背くように、王がまたがるのにふさわしい軍馬ではなく小さな子ろばに乗ってエルサレムに入られました。

かつてバプテスマのヨハネは、間もなく登場する救い主をお迎えするために、ユダヤ人に悔い改めを迫りました。自己中心的な生き方を悔い改めて、神さまに従う心を取り戻しなさいということです。

ところが、エルサレムの人々は、自分たちに悔い改めが必要だとは思っていませんでした。神さまに自分たちの願いを聞いてもらうこと、神さまが自分たちの思い通りに働いてくれることは求めても、むしろ自分たちの方が神さまのみこころを学び、それに従う必要があるのだということは悟ろうとしませんでした。

イエスさまは旧約聖書が救い主について預言したとおりの行動を取ってこられたにもかかわらず、それでも人々がイエスさまこそ救い主だということを信じなかったのはそのためです。自分たちの期待を裏切られたエルサレムの住民は、5日後に「十字架につけろ」と叫ぶことになります。こうしてイスラエルの国は神さまからのさばき、キツい教育的指導を受けることになってしまいました。

こうしてこの箇所から、イエスさまが十字架にかかり、死んで葬られ、墓の中に留まる受難週と呼ばれる1週間が始まります。

では、ここから私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

2.イエスさまの働きの手伝いをしよう

神からの平和を伝える働き

イエスさまは、力強い軍事力の象徴である軍馬ではなく、どこかしら滑稽なろばの子に乗ってエルサレムに入られました。イエスさまは、力、すなわち恐怖によって人を支配する覇王ではなく、愛によって支配する平和の王だからです。

イエスさまは、何のためにエルサレムにいらっしゃったのでしょうか。それは、十字架にかかるためでした。それにより、私たちの罪の罰をすべて身代わりに負ってくださろうというのです。私たちが神さまにさばかれることなく、むしろ神の子となって、神さまのあふれる祝福を受けることができるようになるために、です。

ろばの子は、イエスさまを乗せてエルサレムに入ることで、イエスさまが平和の王であることを人々に明らかにしました。

私たちもろばの子のように、イエスさまのお手伝いをすることができます。それは、ろばの子と同じように、イエスさまが私たちを救ってくださり、神の子どもにしてくださったということを、その事実をまだ知らない人々にお伝えすることです。
神は私の奴隷ではない
私が大学2年生、まだクリスチャンになって間もない頃、とある新興宗教の集会に呼ばれました。友だちがその宗教の信者で、それと知らず伝道していたら逆に集会に誘われたわけです。すると、周りを信者の人たちに囲まれて、あれやこれやと、キリスト教は役に立たず自分たちの宗教の方が役に立つということを言われました。

その人たちが語っていたことは、結局のところ、宗教とは自分の願いがかなうためにあるものだということです。その中には、かつてはキリスト教会に通っていたという人もいました。キリスト教の神に祈っても自分の願いはかなえられなかった。しかし、この宗教に入って祈ったら願いがかなえられた。だから、こっちの方が本物だというわけです。

そのときの議論は良く言ってドロー、引き分けで終わりましたが、今の自分だったらもう少しうまく反論できたかも知れません。神に祈ったら必ず自分の願ったとおりになるなら、そんな神は本当の神ではありません。私の言うことに従う奴隷に過ぎません。

私たちはいつの間にか、あのエルサレムの住人のように、父なる神さまを、イエスさまを、聖霊さまを、自分の願望を満たすための道具のように考えてはいなかったでしょうか。本来なら、私たちの方が神さまのしもべです。神が私の願いの通りに動くのではなく、神の願いに従って私たちが動くのです。それが筋です。

この話をお読みください

私たちの方が神さまに従うのが筋なのに、それにもかかわらず、神さまは私たちの幸せを願い、私たちの祈りに耳を傾けてくださいます。私たちの罪を赦し、私たちを神さまの子どもに迎え入れてくださったからです。もちろん、神さまのみこころに反する願いはかなえられませんが、それでも神さまは私たちの祈りに真剣に耳を傾け、何らかの答えを与えてくださいます。これは神さまと私たちの身分の差を考えれば、とんでもない奇跡です。

神さまは人間の罪を赦して人間と仲直りし、子どもとして祝福したいと願っておられます。そのためにイエスさまが十字架にかかり、死んで葬られ、3日目に復活ないました。その平和のメッセージを、まだそれを知らない多くの人たちに伝えて欲しいとイエスさまは願っています。イエスさまのしもべである私たちは、預言者イザヤのように「ここに私がおります。私を遣わしてください」(イザヤ6:8)と祈りましょう。

どうやって?

では、私たちはどのようにして神さまからの平和のメッセージを伝えればいいのでしょうか。

ろばの子は、ろばの子として生きることで、イエスさまが平和の王であることを証ししました。ろばの子は、イエスさまの働きをお手伝いするのに、別に格好のいい馬になる必要も、力強い牛になる必要も、空を悠々と飛ぶワシになる必要もありませんでした。大人のろばになる必要さえなかったのです。あなたも、今そのままの姿で、平和の王の働きをすることができます。

文章が得意な人は文章でイエスさまを伝えることができます。音楽が得意な人は音楽で伝えることができます。しかし、一見短所や不幸に見えるものも、イエスさまのために使おうと決心するならば、素晴らしい持ち味になります。

ある人は、非常に内向的でした。だから、とても伝道の働きなんかできないと思いました。しかし、一見短所と思えたこの性格は、心の内面をじっくり見つめることができるという長所なのだと知ります。そして、こういう自分だからこそ、一人の人の話をじっくりと聞き、その心の痛みを感じ取ることができることに気がつきました。イエスさまは、人の心の痛みをいやすお方です。この方は、今イエスさまと共に働いています。

ある人は、優柔不断な自分が大嫌いでした。優柔不断な人は、どんなにすばらしい計画が示されても、物事の否定的な面がすぐに見えてしまうために、なかなか一歩を踏み出せないのです。ということは、物事を様々な側面から慎重に見つめる能力があるということです。その力を、否定的な面を見つけるという形ではなく、すばらしい面を見つけるという形で使えばいいのです。イエスさまが十字架にかかったということは、神さまは私たちの足りないところを責めるのではなく、むしろそのすばらしさを誇りたいと思っていらっしゃるということを示しています。そこで、この方は、他の人のすばらしいところを見つける練習をしました。そうして、積極的に他の人々のすばらしさをほめ、他の人を励ますようになりました。この方は、今イエスさまと共に働いています。

ある人は離婚をしました。そして、クリスチャンになってからもずっとそのことを負い目に感じていました。しかし、だからこそ若いカップルの助けになれると考え、聖書が教える祝福された結婚について教える働きをすることにしました。この方は、今イエスさまと共に働いています。

ある人は、子どもを覚醒剤の中毒で亡くしました。イエスさまがその悲しみをいやしてくださったとき、家族の問題で悩み悲しんでいる親たちに、イエスさまの慰めを伝える仕事がしたいと思うようになりました。この方は、今イエスさまと共に働いています。

あなたはどんな長所や短所をお持ちですか? あるいは、どんな痛みを抱えてきましたか? 今そのままの姿で、あなたは平和の王の働きをすることができます。神さまの目には、あなたに短所などありません。すべてが宝物です。

なぜ働くの?

なぜ私たちは、イエスさまと共に神さまの平和のメッセージをこの世に伝える働きをするのでしょうか。イエスさまがそれを望んでおられるからです。イエスさまは、あの小さなろばの子のことを知っていました。そして、そのろばの子に手伝って欲しいと思われました。

「主がご入り用なのです」。そう言われたろばの持ち主は、すぐさま子ろばをイエスさまのために提供しました。細かい事情はどうであれ、少なくとも「イエスさまのお役に立ちたい」という思いが彼の中にあったからです。

「あなたも、私と一緒に働かないか?」 今、イエスさまはあなたにも声をかけておられます。あなたもすぐに、「はい」と言って、あなた自身をイエスさまにささげて用いていただきましょう。

まとめ

私たちも、エルサレム入城の時に用いられたろばの子のように、平和の王であるイエスさまの働きをお手伝いしましょう。あなたにもできることがあります。いや、あなたでなければなりません。それを信じますか?

あなたの回りに、イエスさまの救いを必要としている人がいるはずです。その方々のために祈るところから始めていきましょう。

そして、その人たちのために何ができるか、祈りながら考えましょう。

イエスさまを伝えるのに利用できるあなたの長所や持ち味は何ですか? 短所も、長所の裏返しです。その短所をどのようにプラスに用いることができそうですか?

あなた自身への適用ガイド

  • イエスさまが十字架にかかられたことは、あなたにとってどんな意味がありますか?
  • 最近、イエスさまのことをどのように他の人に伝えましたか?
  • あなたが自分の欠点だと思うことは何ですか? そしてそれはあなたのどんな長所につながっていますか(優柔不断=慎重で思慮深い)?
  • あなたの短所をひっくり返してみましょう(優柔不断⇔決断力がある)。その反対の性質も、あなたは必ず持っています。その証拠は?
  • 平和の王のために、今のあなたに何ができそうですか?
  • 今日の聖書の箇所を読んで、どんなことを決断しましたか?

連絡先

〒962-0001
福島県須賀川市森宿辰根沢74-5

TEL 090-6689-6452
E-Mail info@nakakomi.com