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礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

あなた自身をささげよう

ルカによる福音書21章1節〜4節

(2020年11月8日)

礼拝メッセージ音声

参考資料

2節の「レプタ銅貨」は、1デナリ(労働者1日分の給料に相当)の1/128の価値がありました。1デナリ6,000円から7,000円で計算すると、レプタ銅貨2枚で100円くらいです。

イントロダクション

前回、天に宝を積む生き方、永遠に続く報酬が得られる生き方について学びました。今回の箇所では、イエスさまはわずかな額の献金をしたやもめの態度を非常に高く評価しました。彼女の生き方は、天に宝を積む生き方です。どこが評価のポイントだったのでしょうか。

イエスさまが、「このやもめが、どの人よりもたくさんささげた」と評価した理由を、「この人は、生活費の全部をささげたのだから」と説明なさいました。

もし私が悪徳牧師で、皆さんからお金をむしり取ってやろうという意図があれば、この記事を示して、「だから、あなた方も全財産を献金して、地上ではなく天に宝を積みなさい。それをイエスさまは喜ばれます。自分のために残しておくなんて、大変な罪ですよ」と教えるでしょう。

この記事に加えて、やはり全財産をささげるように言われた金持ちの青年の話(マタイ19:16-26)や、財産の一部を自分のために残しておいたアナニヤとサッピラが死んだ記事(使徒5:1-11)などを添えるとなお効果的です。すると、皆さんは神さまのさばきを恐れて、全財産をささげ、私はそのほとんどを自分の給料に使って悠々自適の殿様生活……。

しかし、私はそのようなことは言いません。これらの箇所は、皆さんが全財産を献金しなければならないということを語っているわけではないし、献金しないと神さまのさばきを受けるということを教えているわけでもないからです(そう教えているとしたら、その教会はカルトです)。

イエスさまが注目なさったのは、献金の額でも収入や財産に対する割合でもなく、その質です。ダビデが王に選ばれたとき、神さまは預言者サムエルにこうおっしゃいました。「人はうわべを見るが、【主】は心を見る」(第1サムエル16:7)。

イエスさまが注目し、評価なさったもの。それはやもめの心です。

1.人々への愛

この献金の趣旨

ここでやもめや金持ちたちがお金を投げ入れた献金箱は、神殿の運営費や祭司の給料などのために国民の義務として定期的に集められる、いわゆる神殿税とは異なります。貧しい人々に対する贈り物を集めるためのものでした。このやもめがささげたのは、貧しい人たちを助けるための義援金です。

彼女自身、これまでこのような贈り物、すなわち他の人たちの善意によって支えられ、生き延びてきました。しかし、今日の彼女はお金を持っています。だから、今度は自分が他の人を支えよう。彼女はそう思ったのに違いありません。

愛がなければ

聖書は、愛の動機で行なうのでなければ、どんなに社会的に評価されるような行ないであっても意味が無いと教えています。「たとえ私が持っている物のすべてを分け与えても、(中略)愛がなければ、何の役にも立ちません」(第1コリント13:3)。

たとえ貧しい人たちを支えるための献金をしたとしても、人にほめられたいからとか、みんなしていつから自分もそうしないとばつが悪いからとか、ささげないと神さまに罰を受けるから怖いとかいう動機で行なうなら、少なくとも神さまは評価してくださいません。どんなに多額のお金をささげたとしても、天に宝を積んだことにはなりません。

しかし、このやもめは、自分がささげる2レプタが誰かの生活を支えることを心から願ってささげました。愛の動機で行なったのです。

ゆだねられているものを使おう

彼女が持っていたのは、今の日本円にすれば100円程度です。しかし彼女は、自分は少ししか持っていないから他の人を助けられないとか、もう少しお金持ちになったら助けようとは思いませんでした。今持っているもので他の人を助けようとしたのです。

愛は、自分にないものを使うことではありません。昔だったら持っていたのに今はないとか、将来手に入るかも知れないけれど今はないとか、他の人は持っているけれど自分にはないなどと気に病む必要はありません。

お金がなければ、神さまはお金を求めることはありません。また、愛の表し方はお金をささげることだけだとも神さまはおっしゃいません。他にいくらでも愛の表現方法があります。大切なのは、無いものに目をとめるのではなく、あるものに目をとめるということです。

私が救われた教会に、80歳を越えたおばあさんがいらっしゃっていました。この方はこうおっしゃいました。「私は他の教会員の方々のように会堂の掃除をしたり、トラクトを配ったり、聖歌隊や奏楽の奉仕をしたりできません。困っている人のお手伝いもできません。でも、教会のお一人お一人のために毎日名前を挙げてお祈りさせていただいています。もちろん増田さんのためにも」。この方が亡くなられたとき、大変な喪失感を味わいました。私にとってこの方の存在と祈りが大きな心の支えだったからです。

他の人と同じことをしなくてもよいのです。あなたは今何を持っていますか? それが経済的援助なら喜んでそうしましょう。そして、それ以外の方法で愛を表すことができるなら、それを喜んでしましょう。

2.神への信仰

感謝のささげもの

このやもめがささげた献金は、国民の義務ではなく、あくまでも自発的にささげる義援金です。ですから、「神さまから罰を受けないために」とか「祭司や律法学者たちに非難されないために」とかいうことが目的なら、別にささげなくてもよいお金なのです。

まして彼女は貧しい未亡人です。当時、女性が仕事を持って働くことはほとんどありませんでしたから、成人した子どもがいないまま夫に先立たれた未亡人は、とたんに経済的に困窮することになります。年に1回定額を支払わなければならなかった神殿税でさえ、生活困窮者は義務を免除されていました。

それでも、あえて彼女が献金をしたというのは、神さまのあふれる愛に感動し、そうしないではいられない思いになったからではないでしょうか。使徒ヨハネは、兄弟愛について語った後、こう言いました。「私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです」(第1ヨハネ4:19)。

彼女の生活は貧しいものでしたが、それでもこの日まで生活が守られ、彼女は生き延びてきました。それは、公的・私的な援助の手が差し伸べられてきたからです。そして、その背後に神さまの守りや導きがあったことに彼女は気づいていました。そして、このやもめは、助けてくれた人々だけでなく、神さまに対するあふれる感謝の思いに満たされていたのです。

神の支えに対する信頼

そして、このやもめは、これまでの生活を守ってくださった神さまに対する感謝の思いを抱いているだけでなく、これから先も神さまが守り導いてくださるはずだという信頼の思いを抱いていました。

この時彼女が持っていたお金は2レプタだけでした。非常に少額ですが、それでもイエスさまが「生きる手立てのすべて」(4節)とおっしゃっているとおり、彼女の生活を支える大切なお金です。それをささげるためには、「他の人を支えるためにこれを手放しても大丈夫。必ず神さまが支えてくださるから」という全幅の信頼が必要です。

このやもめの献金は、神さまへの信頼の表現でした。

私たちの教会でも、礼拝式の際に献金をささげます。その目的の1つは、教会の使命、すなわち礼拝・交わり・教育・社会のいやし・伝道といった働きを行なうためです。教会の一員である私たち一人ひとりは、知恵を出したり、実際に体を使って実践したり、背後で祈ったりすることによって、これらの働きに参加します。献金で活動のための資金を備えるのもまた、働きを分担する手段です。

と同時に、献金は神さまへの感謝と信頼の表れでもあります。といっても、このやもめのように全財産をささげる必要はありません。ただ、献金は神さまの支え、守り、そして愛に対する感謝と信頼の表現方法の一つだということを意識しながらささげられるといいですね。

神の守りを信じよう

そして、礼拝式の献金の時間だけでなく、毎日、いや一瞬一瞬、神さまが信頼に値するお方だということを意識しましょう。

もちろん、人生を行き当たりばったりに、その時の欲望や気分で決めるのではなく、計画的に生きることは大切です。しかし、緻密に計画を立てても、突然計画外の問題が襲ってくることがしばしば起こります。そういう私たちに対して、神さまはこんな励ましを与えてくださっています。
  • 「人の心には多くの思いがある。しかし、【主】の計画こそが実現する」(箴言19:21)。
  • 「あなたのわざを【主】にゆだねよ。そうすれば、あなたの計画は堅く立つ」(箴言16:3)。
そして、神さまへの感謝の思いを育てるため、折に触れてこれまで神さまがしてくださった事を思い起こしましょう。「わがたましいよ【主】をほめたたえよ。主が良くしてくださったことを何一つ忘れるな」(詩篇103:2)。

そして、信頼の思いを育てるために、「神さまがこの私を守り、支え、導いてくださっている。だから何があっても最後は絶対大丈夫」と、折に触れて自分自身に向かって宣言しましょう。そして、神さまに向かって「信頼しています」と祈りましょう。「わがたましいよなぜおまえはうなだれているのか。私のうちで思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。御顔の救いを」(詩篇42:5)。

3.献身

一瞬一瞬が礼拝や奉仕

このやもめは、今回はたまたまお金を持っていたのでそれを使って人々への愛を表し、神さまへの感謝と信頼、すなわち神さまへの愛を表しました。しかし、手持ちのお金が全くないときもきっとあったでしょう。それでも、そんな時はきっと他の人を助けるためにその時できる別のことを行なってきたことでしょう。

彼女にとって、生きること一瞬一瞬が礼拝であり奉仕でした。

自分の全部をささげる

このやもめにとっての献金は、単にお金をどれだけささげるかということではありませんでした。彼女は、お金をささげたのではなく、自分の心、さらに言うなら自分の人生すべてを神さまにささげたのです。これを「献身」と呼びます。

教会の中で「献身」という言葉が使われる場合、通常は伝道者になる決心をすることを指します。しかし、本来はそれだけの意味ではありません。フルタイムの伝道者であっても、自営業者であっても、会社員であっても、専業主婦であっても、学生であっても、自分の人生のすべてをささげることです。

そして、特定の人だけでなく、すべてのクリスチャンが神さまに人生をささげるように求められています。「ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です」(ローマ12:1)。

6日間の過ごし方を考えよう

イスラエルでは、礼拝の時に動物を犠牲としてささげていました。その動物は、どんなものでも良いというわけではありません。種類も決まっていましたが、傷もシミもあってはならないと定められていました。最高のものをささげなさいというわけです。神さまは礼拝式では最高のささげものをせよとおっしゃいます。そして、神さま真に求めておられるささげものとは、動物でもお金でもなく、あなた自身です。

あなたは、礼拝日以外の6日間をどのように過ごし、礼拝式に出席なさいますか? 失敗しながらも必死で信仰の戦いをした、そんな「あなた」をささげますか? それとも、礼拝式の時だけは敬虔そうな顔をして、そのほかの時間はあまり神とは関係ない生活を送っている、そんな「あなた」をささげますか? 神はどちらを喜ばれるでしょうか?

……なんてことを言うと、ああ、自分は何と不従順な人間なんだろう。自分のことで精一杯で、必死で信仰の戦いなんかしていない。神さまと人とのために生きていますなんて、とても言えないような生活をしていると、心配になる人がたくさんいらっしゃるかもしれませんね。

しかし、決して忘れないでください。そのような完璧に献身的な生き方ができない私たちだからこそ、イエスさまは十字架にかかってくださったのだということを。

以前申し上げたことがありますが、クリスチャンとは、神さまがこのままの私(とても自分自身が最高のささげものだとは言えないような私)を赦し、愛し、圧倒的に祝福してくださるのだと信じる、図々しい人のことです。

あなたがイエスさまの十字架の愛を信じ、今日というこの日を図々しく生きているなら、あなたはそれだけで最高のささげものです。神さまの願いは、あなたがイエスさまを信じ、神の愛を受け入れ、喜んで生活することだからです。感謝に満ちた6日間にしましょう。

あなた自身への適用ガイド

  • 今週、誰かに意識して愛を表しましょう。誰に対して、どんなことができますか?
  • 神さまの支え、守り、愛を、先週一週間、どのように体験なさいましたか?
  • 来週の日曜礼拝の時、あなたが最高のささげものになるために、今週心がけたいことは何ですか?
  • 今あなたに必要な、イエスさまにある「図々しさ」はどんなものですか?
  • 今日の聖書の箇所を読んで、どんなことを決断しましたか?

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