本文へスキップ

礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

聖餐式と過越の食事

ルカによる福音書22章14節〜20節

(2020年11月15日)

礼拝メッセージ音声

参考資料

14節の「使徒」は、イエスさまによって直接選ばれ、任命された特別な弟子のこと。ペテロ(シモン)とその兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ、ピリポ、ナタナエル(バルトロマイ)、取税人マタイ(レビ)、トマス、アルパヨの子ヤコブ、タダイ(ユダ)、熱心党員シモン、イスカリオテのユダの12人。イスカリオテのユダが死んだ後は、マッテヤが教会と聖霊によって後任に選ばれました。また、パウロとバルナバも使徒と呼ばれています。

16節の「過越」とは、ユダヤ人が毎年行なっていた例祭の1つ、過越の祭りのことで、ユダヤの宗教暦の1月に当たるニサンの月の14日の夜に行なわれました。今の太陽暦だと3月下旬から4月中旬で、紀元30年の場合は4月6日木曜日の夜です。この祭りは出エジプトの時の奇跡を記念して行われます。

「過越が神の国において成就する」(16節)時とは、「神の国が来る時」(18節)と同じ意味で、イエスさまが再臨なさることによって神さまが私たちに与えてくださる救いが完成する時です。
「過越の食事をすることは、決してありません」も、「ぶどうの実からできた物を飲むことは、決してありません」と同じ意味で用いられています。

過越の祭りの翌日から7日間(ニサンの月15〜21日)は「種なしパンの祭り」が続きます。この2つの祭りは連続して祝われるため、8日間全部を「種なしパンの祭り」と呼ぶこともあります(1節参照)。また、「初穂の祭り」は過越直後の日曜日に行なわれるため、種なしパンの祭りの期間のどこかで祝われることになります。イエスさまは初穂の祭りの日に復活なさいました。

イントロダクション

教会が行なう様々な儀式の中で、イエスさまが行なうよう直接命じたものを聖礼典と呼びます。それは洗礼と聖餐です。今回の箇所は、聖餐式の原型になったものです。私たちの教会では毎月第1木曜日と第1日曜日の礼拝式の中で聖餐を行なっています。今回、聖餐に込められた神さまからの祝福のメッセージを改めて読み取り、慰めや励ましをいただきましょう。

1.過越の食事

過越の祭り

イエスさまと弟子たちが食べた食事、いわゆる最後の晩餐は、過越の祭りの一環として食べられる過越の食事です。今私たちが行なっている聖餐式は最後の晩餐がモデルになっています。ということは、当時のユダヤ人が行なっていた過越の食事が元になっているということです。

モーセの律法では、イスラエルの国で毎年7つの祭りを祝うように定められていました。 春に行なわれるのが、過越の祭り、種なしパンの祭り、初穂の祭り、七週の祭りの4つ、秋に行なわれるのが、ラッパの祭り、贖罪の日、仮庵の祭りの3つです。

7つの中で、その年最初に行なわれる過越の祭りは、出エジプトの出来事を記念して行なわれました。
出エジプトの出来事
かつてイスラエルはエジプトで奴隷状態にあって苦しめられていました。神さまはモーセをリーダーとして選び、彼を通してエジプト王にイスラエルを解放するよう迫りました。しかし、王は聞き入れません。そこで、神さまは10の災害をエジプトに下します。

10のうち最後の災害は、エジプト中の人や家畜の初子(母親が初めて産んだ子ども。ただしここでは男子や雄のみが対象)が死んでしまうというものでした。このままでは、エジプトに住んでいるイスラエルの初子も死んでしまいます。しかし、神さまのことばを聞いて、子羊の血を家の入り口に塗った家は、災害をもたらすために来られた神さまが「過ぎ越して」無事でした。こうして、ついにエジプト王はイスラエルの民が出国するのを許可しました(出エジプト12章)。

神さまはこの時の出来事を記念するために、毎年ユダヤの宗教暦の1月に当たるニサンの月の14日に、特別な食材を夕食で食べるよう指示なさいました。その食材とは、焼いた子羊の肉、イースト菌を入れずに焼いた種なしパン、そして苦菜と呼ばれる苦い味の野菜です。
  • 子羊の肉は、戸口に血を塗ったことを思い起こすため。
  • 種なしパンは、パンを発酵させる時間が無いほど、急いでエジプトを脱出したことを思い起こすため。
  • 苦菜は、エジプトでの苦しみを思い起こすため。
儀式化された過越の食事
当初はこの3つだけでしたが、イエスさまの時代にはもっと多くの食材が食べられるようになり、過越の食事自体が儀式化して、いつ何をどのように食べるのかとか、いつどういう祈りをするかとか、他に司式者や参加者がどういう行動をするかとかいうことが細かく定められていました。
  • 当時の式次第ではありませんが、現在のメシアニックジュー(ユダヤ人クリスチャン)が、クリスチャンの信仰に基づいて作り直した過越の食事の式次第がネット上に公開されていますので、興味のある方はご覧ください(PDF形式のファイル)。

過越のパンとぶどう酒

さて、イエスさまは、過越の食事の中でパンを取って弟子たちに分け与え、「これは、あなたがたのために与えられる、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい」(19節)とおっしゃいました。

このパンは種なしパン、すなわちイースト菌(酵母)が入っていないために発酵していないパンで、ヘブル語で「マッツァー」と呼ばれています。先ほど申し上げたように、エジプトを脱出する際にパンをゆっくり発酵させる時間的余裕が無かったということを象徴しています。
マッツァーの特徴
長い年月が経って過越の食事が儀式化されると、ユダヤ人は儀式で用いられる種なしパン、マッツァーに関して不思議な決まりを作り上げました。
  1. マッツァーにはイースト菌が入っていないため、膨らんでおらず平らな形をしています。
  2. また、表面にはしっかりと焦げ目がついていて、それは筋状に並んでいます。
  3. そして、あちこちにフォークで突き刺してできたような小さい穴が開いています。
どうしてそういう決まりができたのか律法の学者たちは説明していませんが、とにかくそう決まっています。

このマッツァーのことを、イエスさまはご自分の体だとおっしゃいました。そういう目でマッツァーの特徴を眺めると、なるほどイエスさまの体と同じだと納得させられます。

たとえば、マッツァーにイースト菌が入っていないのは、イエスさまに罪がないことを表しています。イースト菌が入った粉の塊のことをパン種と言いますが、ユダヤ教の教師(ラビ)たちは、しばしば例話でパン種を罪の象徴として用いましたし、新約聖書も同じ用い方をしています(第1コリント5:7-9など)。

また、イエスさまは十字架にかかる前、激しいむち打ち刑を受けました。ローマ帝国の刑罰で用いられるむちは、先端に動物の骨や金属片がつけられていたので、打たれた罪人の背中の肉は切り裂かれてボロボロになります。その傷は、マッツァーの表面が筋状に焦げているのに似ています。

そして、イエスさまは十字架にかかる前、いばらの冠をかぶせられて頭や額が傷つきました。また、十字架につけられるために手首やくるぶしに太い釘を打ち込まれました。そして、死んだことを確認するために槍で脇腹をつかれました。マッツァーに開けられた穴は、まるでイエスさまの体に開けられた穴のようです。
アフィコーメン
また、次のような決まりもありました。過越の儀式的食事は前半と後半に分れていて、前半が終わると儀式を一旦中断して通常の食事をしました。20節の「食事」というのがそれです。通常の食事にはたくさんのマッツァーが用意されましたが、儀式的食事で用いられるマッツァーは3枚で、専用の袋に入れられました。その袋は仕切りで3つに分けられていて、それぞれに1枚ずつ入れられるのです。

そして、儀式のある時点で真ん中のマッツァーだけが取り出されて、半分に割られます。そして、その半分が別の布にくるまれて家のどこかに隠されます。この隠されるマッツァーのことを「アフィコーメン」と呼びます(デザートいう意味の言葉です)。

普通の食事が終わって後半の儀式的食事が再開するとき、家の子どもたちが隠されたアフィコーメンを探し回るというイベントが行なわれます。そして、見つけた子どもにはご褒美のプレゼントが贈られます。子どもたちが儀式の途中で寝てしまわないようにという目的で作られたイベントのようです。

こうして見つけ出されたアフィコーメンは、司式者である一家の主人によって細かく割られて、出席者一人ひとりに配られました。最後の晩餐でイエスさまが弟子たちに配ったパンは、このアフィコーメンです。

これらの風習の意味についても律法学者たちは説明していませんが、クリスチャンの信仰の目を通してみるならば、アフィコーメンはイエスさまを表していることが分かります。
  • 3枚のマッツァーが1つの袋に入れられているというのは、聖書の神が三位一体だということを象徴しています。そのうち、真ん中のマッツァーは第二位格である子なる神、すなわちイエス・キリストを表します。
  • 真ん中のマッツァーだけが袋から出されて人前にさらされるのは、イエスさまが人の目に見える人間となって地上に来られたことを表しています。
  • 真ん中のマッツァーが半分に割られるのは、イエスさまが苦しみを受けて死んだことを表しています。
  • 真ん中のマッツァーの半分、すなわちアフィコーメンが布にくるまれてどこかに隠されるのは、イエスさまの遺体が亜麻布に包まれて墓の中に入れられ、人々の目から見えなくなってしまったことを表しています。
  • 時が過ぎて子どもたちがその隠されたアフィコーメンを見つけ出すように、イエスさまは3日目に復活をして人々の前に姿を現しました。また、今はほとんどのユダヤ人の目にイエスさまが救い主だという真理が隠されていますが、やがて世の終わりにその時生きているすべてのユダヤ人がイエスさまを救い主だと信じます。
贖いの杯
そしてイエスさまは、ぶどう酒を飲む際、弟子たちにこうおっしゃいました。「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による、新しい契約です」(20節)。

この杯に入っているのは赤ワインです。過越の儀式的食事では4回ぶどう酒を飲むことになっていて、飲むタイミングもそれぞれ決められていました。今回の記事に出てくる杯は3回目に飲むものです。先ほど申し上げた隠されていたパン、アフィコーメンがみんなに配られて食べられた後に飲まれました。

4回飲まれる杯にはそれぞれ名前が付いています。時系列で紹介すると、「きよめの杯」「さばきの杯」「贖いの杯」「賛美の杯」です。3回目の杯は「贖いの杯」ですね。贖いという言葉は、聖書では救いを意味しますが、元々は代価を支払って何かを買い戻すという意味です。

旧約聖書の預言者ホセアの妻となったゴメルは、姦淫の女と呼ばれるような女性でした。ホセアとは再婚だったようですが、最初の子どもが生まれるまではまだじっとしていたものの、その後は浮気を繰り返し、次に生まれた2人はホセアの子ではなく別の男性の子どもでした。挙げ句の果てにある男に夢中になったゴメルは家を飛び出し、間もなくその男に捨てられただけでなく、奴隷として売り飛ばされてしまいました。神さまの命令によって、ホセアはお金を支払って妻を買い戻しました。すなわち贖ったのです。

ゴメルと同じように、ホセアの時代のイスラエルの人々は、霊的な姦淫、すなわち偶像礼拝に耽っていました。それでも神さまは、イスラエルを愛し、イスラエルを見捨てず、贖い、救うと約束なさいました。
新しい契約
ところで、イエスさまは20節で「新しい契約」とおっしゃいました。これは神さまがイスラエルと結ばれた契約のひとつです(イザヤ59:21、エレミヤ31:31-34、 エゼキエル34:25-31, 37:26-28に書かれています)。

この新しい契約では、イスラエルの罪が赦されて救いが与えられることが約束されています。しかも、モーセの律法は何をすべきで何をすべきでないかは教えても、それを行なう力までは与えてくれませんでしたが、新しい契約では聖霊が人の内に住み、それによって命令を実行できる力が与えられることが約束されています。

さらに、元々この契約はイスラエルが対象でしたが、新約聖書は、私たち異邦人も救われて聖霊が与えられるようになったと教えています。「ですから、思い出してください。あなたがたはかつて、肉においては異邦人でした。人の手で肉に施された、いわゆる『割礼』を持つ人々からは、無割礼の者と呼ばれ、そのころは、キリストから遠く離れ、イスラエルの民から除外され、約束の契約については他国人で、この世にあって望みもなく、神もない者たちでした。しかし、かつては遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスにあって、キリストの血によって近い者となりました」(エペソ2:11-)。

ですから、「わたしの血による、新しい契約です」という言葉は、「わたしの血によって締結される救いの約束です」という意味で用いられています。
全人類に差し出された救い
罪を犯したのは当時のイスラエルの人々だけではありません。アダム以来全人類が神さまに逆らい罪を犯しましたし、今も犯し続けています。自分には罪がないと堂々と主張できる人間は、神が人となって来られたイエスさまだけです。

本来なら私たち人類は、神さまに罰を受けて永遠に苦しまなければならないはずです。しかし、私たち人間を愛しておられる神さまは、私たちを罰するのではなく、その罪を赦し、神さまの子どもとして受け入れようと計画なさいました。

贖いの代価

ところが、いくら人間を子どもとして受け入れ祝福したいといっても、罪をそのまま見過ごしにしたのでは、神さまの正義が成り立ちません。

贖い、すなわち救いには代価が支払われる必要があります。私たちの救いのために支払われた贖いの代価は、イエスさまの命です。

イエスさまが人となって地上に来られ、私たちではできなかった罪のない完璧な人生を送られました。そして、罪がないきよいイエスさまが十字架にかかり、血を流して死ぬことによって、私たちが受けるべき罪の罰を身代わりとして受けてくださいました。その結果、それを信じた私たちはタダで、今このままの姿で、罪を赦され、神さまの子どもとなり、永遠に続く考えられないような祝福をいただく身分となりました。
わたしを覚えて、これを行ないなさい
イエスさまは、聖餐のパンとぶどう酒について、「わたしを覚えて、これを行いなさい」(19節)とおっしゃいました。

イエスさまは、聖餐式でパンを食べるたびに、そしてぶどう酒を飲むたびに、イエスさまが私たちの救いの代価を支払うため、ご自分の尊い命を差し出してくださったということ思い出しなさいと命じておられます。

2.感謝と共に聖餐を

形式は変わっても

1世紀の聖餐式は、イスラエルの過越の食事の中で行なわれました。しかし、過越の食事の形が長い時間が経つうちに変わっていったように、1900年の時が流れて、聖餐式も姿を変えていきました。

そもそも、教会の中で過越の食事をみんなで食べるという習慣がほとんど無くなってしまいました。もちろん、ユダヤ人が多い教会では今でも過越の食事を行なっていますし、正式なマッツァーでなくても、聖餐式では発酵していないパンを用いるという教会もあります。しかし、多くの教会では、聖餐式は過越の食事とはまったく別の儀式になっています。

また、アルコールに弱い人や未成年、あるいはドライバーに配慮して、ぶどう酒ではなくぶどうジュースを用いる教会も多いです。

しかし、たとえ1世紀のやり方と違っていたとしても、原点はイスラエルの過越の食事だということを私たちは忘れてはなりません。

救いの神に対する感謝

ですから、私たちは聖餐式でパンを食べるたびに、そしてぶどうジュースを飲むたびに、イエスさまが考えられないような痛み、苦しみに耐えてくださったということと、それは私たちを救い、神さまの子どもとし、永遠に続く考えられないような祝福を与えるためだったということを思い出して、感謝しましょう。

そして、父なる神さまが怒りにまかせて私たちを滅ぼさず、罪を赦そうと計画してくださったこと、また聖霊なる神さまが、父なる神さまの愛やご計画、イエスさまのみわざを私たちに教え、信じることができるように導いてくださったことを感謝しましょう。

神の子とされた特権

そして、贖われた結果与えられた神さまの子どもとしての特権が、どんなに素晴らしいものかということを忘れないでいましょう。

父なる神さまは、あなたの祈りに真剣に耳を傾けてくださいます。そして、様々な助けの手を差し伸べてくださいます。時には、通常の物理法則をねじ曲げて奇跡を行なうことすらしてくださいます。

それよりもっと素晴らしいことは、全知全能の神さまと仲良しになったというその事実です。

この話をお読みください

人生にはいろいろな問題が起こります。たとえクリスチャンでもです。クリスチャンだからという理由で、馬鹿にされたり迫害されたりすることさえあります。しかし、神さまと仲良しだという事実を確信すればするほど、何があっても大丈夫だという安心感が育ちます。そして、その安心感は、他の人を励ますことでしょう。

まとめ

過越の祭りが毎年行なわれるのは、ずっとずっと昔の先祖が体験した驚くべき出来事を、後の世代のユダヤ人たちも自分自身の体験として追体験するためです。今私たちが定期的に聖餐式を行なうよう命ぜられているのも、1900年前の十字架がこの自分のためだったということを再確認するためです。神さまの愛が、この自分に注がれていること、だから何があっても大丈夫だということを、聖餐式のたびに確認しましょう。

あなた自身への適用ガイド

  • 不安に思ったり恐れたりしていることが何かありますか?
  • 全知全能の神さまが共にいてくださるなら、あなたが抱えている不安や恐れを生み出す問題を、神さまがどのように取り扱ってくださると思いますか?
  • 普通だったらパニックになりそうな問題の中で、それでも神さまによって不思議な平安が与えられたという経験がありますか?
  • 今日の聖書の箇所を読んで、どんなことを決断しましたか?

連絡先

〒962-0001
福島県須賀川市森宿辰根沢74-5

TEL 090-6689-6452
E-Mail info@nakakomi.com