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礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

心に響く複数の声

ルカによる福音書23章13節〜25節

(2020年11月22日)

礼拝メッセージ音声

参考資料

13節の「ピラト」は、ローマ帝国がユダヤに派遣した属州総督。総督は、ローマ帝国が占領した属州で、軍事・課税・司法・治安維持などに当たりました。

13節の「祭司長」は、ユダヤの祭司たちの頭である大祭司を補佐する管理職。

15節の「ヘロデ」は、イエスさまが誕生なさった頃の記事に登場するヘロデ(ヘロデ大王)の息子、ヘロデ・アンティパス。ローマ帝国から、ガリラヤ地方とペレヤ地方(ヨルダン川の東岸地域)の領主として認められていました。

18節の「バラバ」は暴動と人殺しの罪状で十字架刑が決まっていた男で、ヨハネ18:40では「強盗」と呼ばれています。ローマ帝国からの独立を求めて暴動を起こし、その結果ローマ人の兵士か役人、あるいはローマに協力的なユダヤ人の家に押し入って殺してしまい、ついでに略奪行為も行なったのでしょう。

イントロダクション

人生は選択の連続です。何の迷いもなく、選んでいるという意識もなく選択できる場合も多いですが、どちらを選んでいいか葛藤することもありますね。今まさにそれを経験していらっしゃる方もおいでかもしれません。今回の箇所から、2つ以上の選択肢の間で揺れ動く、そんな私たちへの神さまからのメッセージを受け取りましょう。

1.ピラトの声とユダヤ人の声

ユダヤ指導者たちの訴え

今回の箇所は、イエスさまがユダヤ人の指導者たちによって逮捕され、ローマ総督ピラトの元に引き出されて、裁判を受けている場面です。

ユダヤ人の指導者たちというのは、神殿で働く祭司たちのリーダーである祭司長たち、それから民衆を教えていたパリサイ派の律法学者や教師(ラビ)たちのことです。彼らは宗教的指導者であると共に、71人で構成されるサンヘドリンというユダヤ議会のメンバーにもなっていて、政治的なリーダーでもありました。

彼らは、イエスさまを何とか亡き者にしたいと願っていました。それは、イエスさまの存在が、宗教的にも政治的にも精神的にも危険だと判断したためです。
宗教的に危険
元々パリサイ派というのは、アッシリア捕囚やバビロン捕囚に対する反省から生まれたグループです。神さまの恵みによってバビロンから帰還したユダヤ人たちは考えました。先祖たちがモーセの律法を無視して偶像礼拝や不道徳な生活を続けた罰としてアッシリアやバビロンによって国が滅びたのだから、今こそしっかりと律法を守ろう。そして、エズラ記に登場するエズラを中心とする律法学者たちが、具体的にどんな行動をすればモーセの律法に従ったことになり、どんな行動をすれば違反したことになるのかということを民衆にわかりやすく教えました。このエズラたちの流れを汲むのがパリサイ派です。

しかし、エズラたち第一世代が亡くなると、律法の研究がだんだんと間違った方向にズレ始めました。学者たちは、旧約聖書に書かれているモーセの律法以外にたくさんの規則を作り上げていました。たとえば、「安息日を聖なる日とせよ」という律法の命令に対して、最終的には1500個もの細かい規則が作られました。

これらの規則は後に文書化されますが、イエスさまの時代にはまだ代々口伝によって伝えられ教えられていましたので、福音書では「言い伝え」と呼ばれています。パリサイ人(パリサイ派に属する人)たちは、言い伝えを守るよう民衆を教え、さらに新しい規則までを作り上げていました。

そして、言い伝えはモーセの律法そのものより重視され、かえって聖書の教えがないがしろにされることになりました。そこでイエスさまは、パリサイ派の学者や教師たちを激しく非難して、言い伝えを全く無視するような教えや行動をなさいました。

たとえば、言い伝えによると、安息日(金曜日の日没から土曜日の日没まで)に病人を治療してはいけないことになっていました。もちろん、モーセの律法にそんな教えはありませんし、むしろ苦しんでいる人を助けることは、隣人愛を大切にするモーセの律法の精神にかなうことです。そこで、イエスさまは、安息日でも平気で病人をいやされました。

イエスさまは、言い伝えは人間が勝手に作り上げたものだと主張なさいましたが、パリサイ人たちはそうは考えていません。モーセの律法と同じ、いやそれ以上に権威ある神さまからの命令です。ですから、言い伝えを全く無視するイエスさまの影響が国中に広がれば、救い主が登場して理想的な神の国が地上に実現するのが遅れるどころか、またもや国が滅びてしまいかねません。そういうわけで、パリサイ派の学者や教師たちは、イエスさまを宗教的な危険人物と見なしたのです。

また、神殿で働く祭司たちに対しても、イエスさまはしばしば批判的な言動をなさいました。

たとえば、11月1日のメッセージでも触れましたが、モーセの律法によると、神殿にささげる犠牲の動物は、傷もシミもないものでなければなりませんでした。そこで、人々が犠牲の動物を神殿に連れてくると検査官たちが傷やシミがないか調べたのですが、いろいろ難癖をつけて外から持ち込んだ動物は不適合にしていました。そして、神殿にあらかじめ用意されている動物を買うしかないシステムにしていたのです。犠牲動物販売のビジネスは大祭司一族が一手に握っていて、彼らを大いに富ませていました。イエスさまは、それを激しく非難して、動物を売っている場所で大暴れをなさったことが2回あります(ヨハネ2:13-22とマタイ21:12-13)。

また、イエスさまは、自分は神殿よりも偉大な存在だとおっしゃいました(マタイ12:6)。

こうしたことから、祭司たちも、イエスさまのことを大祭司を中心とした神殿の秩序を破壊する危険人物だと判断したのです。
政治的に危険
当時のイスラエルはローマ帝国に占領され、その支配下にありました。ローマ帝国は、占領した国が従順であれば、ある程度の自治を認め宗教的自由も与えました。しかし、自分たちは神の民であるという自負心の強いユダヤ人には、それが我慢できません。

旧約聖書には救い主に関する預言がたくさんあります。それによると、やがて救い主(メシヤ、キリスト)が登場することと、その救い主がイスラエルの敵を滅ぼして、平和で繁栄した王国(神の国、天の御国)を建設なさることが約束されています。救い主はユダヤ人をその王国に招き入れ、聖書の神さまを信じた世界中の人々も統治なさいます。そこで、ローマ帝国に支配されていたイエスさまの時代には、特に救い主の到来が強く期待されていました。

最初、イスラエルの人々は、イエスさまこそ救い主であり、ローマの支配から自分たちを解放してくださる方だと期待していました。ところが、イスラエルの指導者たちは、先ほど述べたような理由でイエスさまのことを救い主ではないと結論づけいてました。

イエスさまが本当の救い主でないのに人々から王のようにあがめられ、ローマに対して叛乱を起こしたらどうなるでしょう。ローマ帝国による大規模な軍事介入を招いて、たくさんの国民が殺された挙げ句に失敗するでしょう。それだけでなく、報復として今与えられている自治権を取り上げられ、下手をしたら国そのものが滅ぼされてしまうかもしれません。

そんなわけで、指導者たちは、イエスさまが政治的にも危険人物だと判断したのです。
精神的に危険
イエスさまは、ユダヤの指導者たちよりも人気がありました。イエスさまも、彼らのことを偽善者呼ばわりし、激しく非難していました。そこで、彼らの指導者としてのプライドが傷つき、イエスさまに対する激しい嫉妬心が生まれました。

これら様々な理由から、指導者たちはイエスさまを殺したいと思いました。ところが、当時のイスラエルは、死刑を行なう権利がローマ帝国に奪われていました。そこで、イエスさまを死刑にするにはローマから派遣された総督ピラトに訴えるしかありません。

ただし、ねたみを訴えの理由にするわけにはいきませんし、宗教的な理由もローマ人であるピラトには通用しません。そこで、政治的な罪、すなわち勝手にユダヤ人の王であると自称して民衆を惑わし、反乱を企てたという、ローマ皇帝に対する反逆罪で訴えたのです。 それなら総督ピラトも取り上げないわけにはいきません。

ピラトの主張と指導者たちの反論

ところが、訴えを聞いたピラトが裁判を開きますが、反逆を企てたという証拠がまったく出てきません、イエスさまの態度も反逆者らしくありません。そこで、ピラトは指導者たちのもくろみに気づきました。「ピラトは、彼らがねたみからイエスを引き渡したことを知っていたのである」(マタイ27:18)。つまり、ピラトはイエスさまの無罪を確信したのです。

しかし、ユダヤ人の指導者たちがあまりにもうるさく死刑にしろと叫ぶので、イエスさまがガリラヤ出身だと知ったピラトは、ちょうどガリラヤ領主ヘロデがエルサレムに来ていることを思い出して、彼の所にイエスさまを送りつけます。要するに厄介払いですね。

ところが、ヘロデもイエスさまの罪を見出すことができず、イエスさまの身柄はピラトの元に送り返されてきました。あちらも厄介払いです。そこで、仕方なくピラトはユダヤの指導者たちを集め、イエスさまの無罪を宣言します。そして、むち打ち刑で懲らしめた上で釈放すると通達しました。もうそれで赦してやれということです。それが今回の箇所です。

ところが、ユダヤの指導者たちは納得しません。民衆を扇動して、さらに激しくイエスさまの死刑を要求しました。

そこでピラトは、祭りの時には罪人の一人に恩赦を与える習慣を持ちだして、イエスを釈放すると言いました。その際、暴動と強盗殺人の罪で死刑になることが決まっていたバラバの名前を挙げて、釈放して欲しいのは、バラバかそれともイエスかとユダヤ人たちに尋ねました。
ちなみに「バラバ」とは「アッバスの息子」という意味ですが、本名はイエスだったようです。新改訳2017や新共同訳では、マタイ27:16-17に出てくる彼の名を「バラバ・イエス」と訳しています。ということは、ピラトがユダヤ人たちに尋ねた言葉は、「アッバスの息子イエスの方を釈放するのか、それとも神の子イエスの方を釈放するのか」という意味だったということになりますね。
とにかく、凶悪犯であるバラバとの二者選択だったら、当然イエスの釈放を求めるだろうというピラトのもくろみでしたが、ユダヤ人たちはさらなる大声で「バラバを釈放しろ」と言います。

ピラトはまたも無罪を宣言し、ユダヤ人たちに「おまえたちの王を私が十字架につけるのか」と問うと、指導者たちは、「カエサルのほかには、私たちに王はありません」と言って、あくまでも十字架刑を要求し続けました(ヨハネ19:14-15)。

葛藤の結末

こうして「十字架につけろ」という声が収拾が付かなくなるほど高まります。23節にはこう書かれています。「その声がいよいよ強くなっていった」。この箇所を、新改訳第三版や口語訳では「そして(ついに)その声が勝った」と訳しています。

「この人は無罪だから釈放する」というピラトの声に、「この人を死刑にしろ」という指導者や民衆の声が勝ったのです。

その結果、とうとうピラトはイエスさまを反逆者として十字架にかけ、死刑にすることを認めてしまいました。

2.頭の中の声

思考と言葉

私たちの頭の中にも、様々な声が響いています。私たちが考えるときには、様々なイメージも利用されますが、たとえば「おなかがすいたなあ」と思ったとき、私たちはまさに「おなかがすいたなあ」と頭の中でつぶやいているのです。こういう頭の中の言葉を「内言」と言います。

ちなみに、私たちの感情は、頭の中に響く言葉、内言の影響を強く受けます。たとえば、親が子どもに何かアドバイスしたとき、子どもに「うるせぇ!」と言われたとします。そのとき、
  • 「年少者から馬鹿にされた」と頭の中でつぶやけば(すなわち、そう考えれば)、腹が立つでしょう。
  • 「愛する子どもに嫌われた」とつぶやけば、悲しくなるでしょう。
  • 「こんな汚い言葉を使うなんて、この子は将来ろくな人間にならない」とつぶやけば、心配になるでしょう。
  • 「子どもを怒らせるなんて、自分はひどい親だ」とつぶやけば、罪責感で一杯になるでしょう。
  • 「こうしてしっかり自己主張できるなんて、この子もずいぶん成長したなあ」とつぶやけば、頼もしい気持ちになるでしょう。
さらに、私たちの行動は私たちの考えや気持ちの影響を受けます。ですから、私たちの思考、感情、行動は、私たちが頭の中でどんな言葉をつぶやくかにかかっていると言ってもいいでしょう。
矛盾する複数の内言
そして、私たち人間は、とても複雑にできています。ですから、相矛盾するような考えや感情を同時に持つことがあります。好きだけど嫌い、やりたいけどやりたくない、もうあきらめてしまおうという思いと最後まで続けなくちゃという思い、というふうに。

ということは、私たちの頭の中に、複数の言葉が同時に鳴り響いているということです。まるで、総督官邸の中で、ピラトの声とユダヤ人指導者たちの声が同時に響き渡っているようなものです。

複数の選択肢の間で葛藤するというのは、まさにこの状態です。「Aがいい」という声と、「Bがいい」という声が同時に頭の中に響いています。

また、罪に誘惑されている状態もこれと同じです。「これ、やっちゃいなよ」という声と、「そんなことはできない。正しいことをしなさい」という声が、同時に響いているのです。

あなたは最近、葛藤したり罪の誘惑を感じたりした経験がありますか? そのときのあなたの頭の中には、いったいどんな言葉が響いていたのでしょうか。あらためて思い起こしてみてください。

内言の選択権

イエスさまの裁判は、紛糾しましたが終わりました。私たちの葛藤も誘惑も、いつかは終わります。そのとき、正しい選択を促す声が勝つか、間違った選択をうながす声が勝つかは、どうやって決まるのでしょうか。

イエスさまの裁判ではピラトが裁判官だったのですから、「釈放する」という声と「死刑にせよ」という声のどちらを勝たせるかは、最後までピラトに選択権がありました。同様に、私たちが葛藤したり、誘惑を受けたりしたとき、どちらの声を勝たせるかは、私たちに選択権があります。

では、どのような基準でどちらの声を選んだらいいのでしょう。ピラトには、法律という判断のよりどころがありました。法的には、イエスさまの無罪は明らかであり、ピラトもそれを十分知っていました。本来なら、法律という基準に従って、「釈放する」という声を勝たせなければなりませんでした。
私たちの基準
私たちにも基準が与えられています。それは神さまの語られた言葉です。神さまの言葉は、聖書の中に記されていますから、聖書を読むことによって、私たちは神さまが定めた基準を知ることができます。

頭の中に様々な声が響いているときは、それについて判断できるような聖書の言葉を思い起こし、その言葉を自分自身に向かって投げかけ、何度も何度も反芻しましょう。状況的に可能であれば、声に出してつぶやきましょう。すると、目からだけでなく、耳からもみことばが入ってきて、より強力に心に響いてきます。

聖書は言います。「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄を分けるまでに刺し貫き、心の思いやはかりごとを見分けることができます」(ヘブル4:12)。ですから、聖書の言葉をしっかり蓄え、反芻するとき、聖書の言葉が私たちをあるべき方向に導き、造り変えます。

この話をお読みください

今年度は新型コロナ感染防止のため、毎年10月末に行なっているW姉の召天者記念礼拝を行ないませんでした。W姉が亡くなる少し前のことです。所有していた信仰に関する書物やテキストを一時預かって欲しいと、大きな箱に入れて持ってこられたことがあります。中を見ていいということでしたから、いくつか拝見しましたが、結構専門的な内容のテキストもあり、聖書をよく学んでおられることが分かりました。悩んだり、迷ったりしたとき、聖書の言葉によって導かれ、慰められ、力づけられたいと強く願っておられたのですね。

イエスの声

聖書は神さまの言葉です。しかし、今回の裁判の場に、人となられた神イエスさまの声は全く響きませんでした。イエスさまは沈黙を守っておられたのです。そして、その日のうちに十字架につけられました。

ユダヤの指導者たちは、イエスさまを邪魔者扱いし、十字架につけて殺そうとました。しかし、聖書は、イエスさまが自らすすんで十字架につけられたと教えています。イエスさまはおっしゃいました。「だれも、わたしからいのちを取りません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、再び得る権威があります。わたしはこの命令を、わたしの父から受けたのです」(ヨハネ10:18)。

裁判の席では沈黙しておられたイエスさまですが、十字架の上では口を開かれました。自分を十字架につけ、あざけっている指導者たちや民衆を見下ろして、イエスさまはこう祈られました。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです」(34節)。

イエスさまが自らすすんで命をささげたのはなぜでしょうか。それは、私やあなたの罪を赦し、神の子どもとし、永遠に続く祝福を受けることができるようにするためです。神さまは、心からあなたを愛しておられます。イエスさまは、文字通り命をかけてあなたへの愛を表されました。

それほどまでに愛に満ちた神さまが、あなたを決して間違った方向、不幸な方向に導くはずがありません。私たちは、神さまのみことばを、もっともっと慕い求めましょう。

まとめ

葛藤したり、誘惑を感じたりしたときは、頭の中に2つ以上の言葉が響いているということを自覚した上で、神さまのことばである聖書の言葉を思い起こし、それを何度も口ずさみましょう。

あなた自身への適用ガイド

  • あなたは今、葛藤したり誘惑を感じたりしていますか?
  • その葛藤や誘惑は、どのような「内言」の対立として表現できますか?
  • その葛藤や誘惑に対して、神のことばである聖書は何と語っていますか?
  • 普段、どのようにして聖書を学び、みことばを心に蓄えていますか? 礼拝式への出席以外に何か実践しておられることがありますか?
  • 今日の聖書の箇所を読んで、どんなことを決断しましたか?

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