本文へスキップ

礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

神の約束を信じよう

ヘブル人への手紙3章7節〜19節

(2021年1月3日)

礼拝メッセージ音声

参考資料

この手紙の著者は不明ですが、宛先はヘブル人すなわちユダヤ人、特にエルサレムを中心としたユダヤ地方に住むユダヤ人の信者たちです。彼らは非常に大変な信仰生活を送っていました。
  • イエスさまがそうであったように、彼らも旧来のユダヤ教の指導者たちから激しい迫害を受けていました。
  • 「イエス・キリストの十字架と復活を信じるだけでは救われない。モーセの律法を守る生活を続けなければならない」という律法主義の影響に晒され続けていました。
そんなわけで、中には迫害に負けて、「イエスは本当のキリスト(救い主)ではなかった」と主張してユダヤ教に戻ったり、律法主義を受け入れたりする人たちもいました。そういう危険な状況の中で信仰を守っている彼らを励ますために書かれたのがこの手紙です。

7-11節は、詩篇95:7-11の引用です。

イントロダクション

明けましておめでとうございます。新しい年が始まりました。しかし、新型コロナの問題はまだまだ続きそうです。そればかりでなくし、日本や世界の政治や経済も問題だらけ、あるいは温暖化や海洋汚染など自然破壊もの状況もストップがかかりません。私たち個人の生活でも、様々な問題がやってきます。

そのような中で、私たちクリスチャンはどのように平安や喜びや希望を抱き続け、他の人たちにもそれをお裾分けすることができるでしょうか。聖書は、そのカギは信仰であると教えています。

昨年末の礼拝メッセージでも引用した聖書の箇所に、「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません」(ヘブル11:6)と書かれています。では、特に今年、私たち中通りコミュニティ・チャーチの一人ひとりが心がけたい信仰とは、一体どういうものでしょうか。

今回の箇所の中で13節に注目しましょう。「『今日』と言われている間、日々互いに励まし合って、だれも罪に惑わされて頑なにならないようにしなさい」。これを今年のテーマ聖句とします。

この聖句を句読点で3つに分解して、1つ1つ解説していきます。後ろから見ていきましょう。

1.罪に惑わされて頑なにならない

パランの荒野の故事

7-11節は、詩篇95:7-11の引用です。そしてその詩篇は、モーセに率いられたイスラエルの民がエジプトを脱出した後、シナイ半島東部の中央にあるパランの荒野で引き起こした事件を元にして書かれました。

エジプトを脱出したイスラエルは、シナイ山で神さまから律法を受けた後、11日かけてカデシュ・バルネアという町の近くにあるパランの荒野に到着しました。カデシュ・バルネアはユダヤ地方の南端にある町で、そこを越えればイスラエルが目指すカナンの地に入ります。
モーセは、各部族から1人ずつ偵察兵を出させて、カナンの地を隅々まで探らせました(民数13-14章)。40日後に戻ってきた12人の偵察兵たちは、口をそろえてそこが「乳と蜜の流れる地」だと報告しました。牧畜や農業に適した豊かな土地だという意味です。

しかし、10人は言いました。「カナン人たちは巨大で強いから、私たちがのこのこ入っていったら滅ぼされてしまうだろう。私たちはそこに入ることができない」。

一方残る2人、エフライム族出身のヨシュアと、ユダ族出身のカレブだけは「私たちは必ず勝利できるからカナンの地に入っていこう」と主張しました。2人はカナン人たちの戦力を低く見積もって舐めていたわけではありません。「あなた方を必ず先祖アブラハム、イサク、ヤコブが暮らしていたカナンの地に連れ戻す」とおっしゃった神さまの約束に信頼していたからです。

しかも、神さまは口だけのお方ではなく、実際に様々な奇跡を起こして、ご自分に約束を遂行する力があることをイスラエルに示してこられました。エジプトで10の災害を引き起こしてイスラエルを脱出させ、海を真っ二つに裂き、荒野で水を湧き出させ、天からマナという不思議な食べ物を降らせてくださり、ウズラの大群を送って肉を食べさせてくださるなど、数々の奇跡を行なってくださいました。しかも、それは何十年も前に起こったことではなく、ついこの前起こった出来事ですし、天からのマナは毎日降ってきます。

イスラエルの民は、10人の偵察兵たちの意見に賛同して大騒ぎを始め、こんな所に連れてきたモーセとその兄アロンを責め立て、神さまは私たちを滅ぼすつもりだと不平を鳴らし、別のリーダーを立ててエジプトに帰ろうとまで言い始めました。

そこで神さまは、20歳以上の大人のイスラエル人は、ヨシュアとカレブ以外は誰も約束の地に入れないと宣告なさいました。モーセの取りなしによって彼らが殺されることは免れましたが、約束の地に入る祝福は取り除かれてしまったのです。そして、当時の大人世代がみんな死に絶えるまでの40年間、イスラエルの民は荒野でテント生活をすることになります。その後、ヨシュアに率いられた新しい世代の民が約束の地に入っていくことになります。

私たちへの約束

神さまは、今の私たちにも様々な約束を与えてくださっています。たとえば、福音を信じたならば、私たちはすべての罪を赦され、その後どんなに失敗しようとも救いが取り消されることなく、将来復活して地獄ではなく神の国(千年王国)に入り、さらに永遠に続く新しい世界に招き入れられるという約束です。
  • 福音とは、「この私の罪を赦すためにイエスさまは十字架にかかり、死んで葬られ、3日目に復活なさった」というニュースのことです(第1コリント15:1-8参照)。
あるいは、神さまはすべてのことを働かせて益としてくださいます(ローマ8:28)。「すべてのこと」の中には問題やいわゆる不幸な出来事も含まれます。たとえ問題に苦しめられることがあったとしても、神さまはその問題を用いて素晴らしいことを行なってくださるのです。

Aさんは、高度経済成長期に少年時代を送った男性です。Aさんは3人兄弟の末っ子というわけで、特にお母さんに甘やかされて育ちました。遊びといえば、上のお姉さんたちとのままごとやお人形遊びです。そんなわけで、心も体もすっかりひ弱に育ち、何か起こるとすぐにメソメソと泣いていたそうです。

ところが、小学三年生の時、お母さんが結核にかかって隔離されてしまいます。Aさんは強制的に依存対象であるお母さんから引き離されたのです。最初は寂しくてしくしく泣いて過ごしていましたが、そのうちに寂しさを紛らわせるために外で友だちと遊ぼうと思い始めました。当時は野球道具を持っている子どもは珍しかったのですが、母親と引き離されたことを不憫に思ったお父さんが野球の道具を買いそろえてくれたため、友だちも喜んで仲間に迎え入れてくれました。そうして、精神的にも身体的にもすっかりたくましく育ちました。

それだけではありません。当時、世の中のお父さんたちはみんなマイホームを買うことを目標に働いていました。Aさん一家はクリスチャンホームでしたが、Aさんのお父さんも例外ではなく、休みの日でも家族のことを放ったらかしで仕事に邁進し、礼拝式もほとんど出席しないでいました。そして、家を買うために、日々の食事代も削ってお金を貯めるようお母さんに指示していました。しかし、お母さんが倒れたことでお父さんはこれまでの生き方を改めました。家族のために時間やお金を使うようになり、教会の集会や活動にも熱心に参加するようになりました。そんなお父さんの背中に学んだことで、将来Aさんは伝道者への道を志すことになります。Aさんとは、神のしもべ長崎教会牧師のイザヤ木原真先生のことです。

また、お母さんは最終的に1年間の入院生活で病気が治りました。クリスチャンであるお母さんが病院にいたことで、他の結核患者の人たちはずいぶんと励まされたようです。入院したばかりで落ち込んでいる患者さんには、お医者さんがお母さんのところに行って話を聞いてもらうようアドバイスしたほどだったそうです。

木原先生ご一家は、お母さんが結核にかかって入院するという不幸に見舞われましたが、神さまはその不幸を用いて素晴らしい祝福を与えてくださいました。

聖書を通し、祈りを通して、今も神さまは私たちに祝福の約束を与えてくださっています。もちろんあなたにも。

信じないのも信仰

ところが、出エジプト時代のイスラエルの人々は、「必ずカナンの地に連れて行く」とおっしゃった神さまの約束の言葉に信頼しませんでした。40年間の荒野の生活は、不信仰に陥ったイスラエルの民に対する罰です。しかし、同時にイスラエルの民の信仰に神さまが応答なさったとも言えます。イスラエルの民は「自分たちはカナンの地に入れない」と信じました。まさにその通りになったのです。

神さまの存在は科学では証明できません。と同時に、神さまがいないということも証明できません。ですから、神さまはいらっしゃると主張するのが信仰なら、神なんか存在しないと主張するのも信仰です。信仰だということを自覚できていない分だけ、より強力な信仰だとも言えますね。

そして、神さまがいらっしゃると信じたとしても、その神さまが私たちを愛し、最善を行なってくださると信じるのも信仰なら、神は自分なんか愛していないしろくでもないことばかりすると信じるのもまた信仰です。私たちは日々どちらの信仰を育んでいるでしょうか。もちろん、神さまの力と愛を信じる信仰を意識して育てていきたいですね。

そのために、たとえ感情的には「信じられる感じ」がしなくても、「信じます」と宣言し、「よりはっきりと信じる力をください」と祈り続けましょう。

2.日々互いに励まし合って

一人では打ち負かされる

ヘブル人の手紙の著者は、「日々互いに励まし合いなさい」と勧めています。それは、一人で信仰生活を送っていると、神さまの約束の言葉が信じられなくなってしまうからです。

この世の中は基本的に聖書の神さまを信じない方向に傾いています。人間は触れたものに似ていきますから、この世で生活している以上、知らぬ間にその悪影響を受けてしまいます。

また、サタンに従う悪霊たちも私たちクリスチャンが神さまの祝福の約束を信じないように、あれこれと嘘を並べ立てて私たちを惑わします。たとえば、サタンたちは私たちの心に「それくらい大したことじゃない。みんなやってることだ。それをしないと損だぞ」とささやきかけます。そして、私たちがそれに引っかかって罪を犯すと、今度は「そんなとんでもないことをして、もうおしまいだ。神はお前にあきれてさじを投げた。お前の救いは取り消された。もう二度と救われることはない」と別の嘘をささやきます。

さらに、私たちが神さまの約束を信じると、どういうわけかそれを信じにくくするような問題がやってきます。たとえば、誰か嫌なことを言ったりしたりする人がいて、その人のことを赦せないとしましょう。神さまはその人を赦すことを望んでいらっしゃいますね。そして、良い行ないをする力は私たちだけが絞り出すものではなく、聖霊なる神さまが与えてくださるものだと聖書は教えています(第2コリント3:18、ガラテヤ5:22-23など)。だから、聖霊さまの助けを信じて「赦します」と宣言します。ところが、その相手がますます嫌なことを言ったりしたりしてきて、私たちの「赦せない!」という思いを刺激してくるのです。

そんなとき、それでも神さまの約束を信じ続けるのは、一人ではなかなか大変です。

信仰の仲間がいる

しかし、私たちは一人で信仰生活を送っているわけではありません。このようにイエスさまを信じる同じ信仰を与えられた教会の仲間たちがいます。

箴言の中にこんな言葉があります。「二人は一人よりもまさっている。二人の労苦には、良い報いがあるからだ。どちらかが倒れるときには、一人がその仲間を起こす。倒れても起こしてくれる者のいないひとりぼっちの人はかわいそうだ。また、二人が一緒に寝ると温かくなる。一人ではどうして温かくなるだろうか。一人なら打ち負かされても、二人なら立ち向かえる。三つ撚りの糸は簡単には切れない」(箴言4:9-12)。

私たちは一人では、この世や悪魔から来る「約束なんか信じるな」という誘惑に打ち負かされてしまいます。しかし、信仰の仲間がいれば打ち勝つことができます。

互いのために祈り合おう

私たちはそれぞれに戦っているポイントが違います。ある人は、先ほどの例のように他の人を赦すことについて、聖霊さまの助けを信じるか信じないかというポイント。別の人は、失敗をしてしまって、その罪が赦されていることを信じるか信じないかというポイント。さらに他の人は、経済的な不安、人間関係、病気のいやし、食べ過ぎ・飲み過ぎ、勉強やトレーニングの継続などなど。

それぞれに戦っている私たちは、教会の仲間とそれを分かち合って、互いのために祈りの援護射撃をし合いましょう。

3.「今日」と言われている間

「昨日」でも「明日」でもなく「今日」の約束

そして、ヘブル人の手紙の著者は、「『今日』と言われている間」と語りました。これは7節で引用されている詩篇の言葉「今日、もし御声を聞くなら」という言葉に対応しています。昨日でも明日でもなく今日、今この時に語られる約束の言葉、ということです。

たとえ、神さまが聖書や祈りを通して祝福の約束を与えてくださったのが10年前の出来事だったとしても、それを「今日語られた約束」として毎日改めて受け取り続ける必要があります。「なんか、そういえば昔そういう約束を受けたことがあったなぁ」ではなく、今まさに語られた約束として受け取り直すのです。

たとえば私は、牧師になんかなりたくありませんでした。故郷で小学校の教師になることが決まっていたからです。そもそも、自分は人前が苦手なので、大勢の前でメッセージを語ったり、伝道したりするのは非常に恐ろしいことだと思っていました。企画力もないし、リーダーシップもないし、自分には牧師は無理だと思ったのです。しかし、神さまは「任命するのは私だ。だから私が責任を持ってあなたに必要な力を与える」と約束してくださいました。34年前の出来事です。

また、この福島で開拓伝道を始めたときもそうです。他の牧師が開拓した教会を引き継いで、結局その教会を潰してしまった経験があったので、もう二度と開拓伝道はやめようと決意していましたから、福島で開拓伝道をするように神さまに促されたときは抵抗しました。しかし、やっぱり神さまは「任命するのは私だ。だから私が責任を持ってあなたに必要な力を与える」と約束してくださいました。これは22年前の出来事です。

それは34年前、あるいは22年前の約束ですが、私に求められているのは、その約束を今この時新たに受け取ることです。少しずつイエスさまを受け入れ、礼拝式にいらっしゃる方が増えてきたなと思った矢先に原発事故が起こって人数が半減しました。それも徐々に回復してきたなと思ったら、またもや新型コロナの問題で、来たくても礼拝に出席できない方々も現れました。もしも約束が過去のものになってしまっていたなら、私はとっくにあきらめていたことでしょう。

皆さんにも、これまで神さまが何度も約束の言葉を語ってくださったはずです。それを思い出し、「今日語られた約束」として受け取ってください。

個人的に受け取る

また、「今日、もし御声を聞くなら」という言葉は、「みんな」に語られた一般的な約束ではなく、「この私」に個人的に語られた特別な約束として受け取るというニュアンスが含まれています。もちろん、聖書の言葉は全人類に向けて語られています。しかし、私たちが聖書を読むときには、「この私個人に対する語りかけ」として読む必要があります。
14節が教えていること
そのことを理解する上でも、今回読んだ箇所の中でどうしても触れておかなければならない部分があります。それは14節です。「私たちはキリストにあずかる者となっているのです。もし最初の確信を終わりまでしっかり保ちさえすれば、です」。

表面的に詠むと、これは「クリスチャンは一旦福音を信じて救われたとしても、途中で確信を失うと救いを取り消される可能性がある」ということを教えているように見えますが、そういう意味ではありません。

ここで「確信」と訳されている単語は、ギリシア語の「ヒュポスタシス」の訳で、「物事の基礎」を意味する言葉です。1:3では「(御子は)神の本質の完全な現れであり」というふうに「本質」と訳されています。

ですから、ここでの「確信」は、私たちが「信じられる感じがする」状態のことではありません。聖書のことばが教える救いの事実について、「聖書にはそう書いてある」とか「そういう主張をする人たちがいる」とかいうふうに単なる知識を持っているだけでなく、すなわち他人事として捉えるのではなく、「この自分が救われるということだ」というふうに「我が事」と捉えるということです。その上で、私たちは救いに関する聖書の教えを客観的事実として認め受け入れなければなりません。「確信」とはここではそういう意味です。

新たな気持ちで

今年私たちは、次のことを特に意識して生活しましょう。それは、日々新たな気持ちで聖書を読み、また祈りを捧げるということです。また、「この私に個人的にお語りください」という思いを持って聖書を読み、祈るということです。

まとめ

今年のテーマ聖句をもう一度声に出して読みましょう。「『今日』と言われている間、日々互いに励まし合って、だれも罪に惑わされて頑なにならないようにしなさい」(ヘブル3:13)。

あなた自身への適用ガイド

  • 今あなたが信じるか信じないか戦っている神さまからの約束は何ですか?
  • 上記の戦いについて、神さまの約束を信じにくくさせている要因は何ですか?
  • 教会の仲間たちに祈ってもらったことで、神さまの約束を信じられるようになり、しかもその結果を味わうことができたという経験が最近ありましたか?
  • 昔神さまからいただいた約束で、今この時に新たな気持ちで受け取り直す必要があるものは何ですか?
  • 今日の聖書の箇所を読んで、どんなことを決断しましたか?

連絡先

〒962-0001
福島県須賀川市森宿辰根沢74-5

TEL 090-6689-6452
E-Mail info@nakakomi.com