(2021年1月17日)
礼拝メッセージ音声
参考資料
レハブアムはソロモン王とアンモン人の女性ナアマとの間に生まれた子で、41歳でソロモンの跡を継ぎました。
2節の「ヤロブアム」はソロモン王の家来でした。神さまは、ソロモンの子の時代になると、10の部族がダビデ王家に反逆して独立し、ヤロブアムが彼らの王になると預言なさいました。ソロモンはそれを知ったのでしょう、ヤロブアムの命を狙います。そこで、彼はエジプトに逃れました。
イントロダクション
現在、歴代のイスラエル王について学んでいます。
今回取り上げるのは、ソロモンの跡を継いだレハブアムです。
前回、偶像礼拝に陥って悔い改めなかったソロモン王に対して、神さまがさばきを宣告なさったということを学びました。そのさばきとは、ソロモンの息子の代に王国が分裂するというものです。実際、ソロモンの息子であるレハブアムが跡を継ぐと、イスラエル十二部族のうち10の部族がヤロブアムを自分たちの王として独立してしまいました。今回は、そのきっかけとなった事件を取り上げます。
ここから、私たちに対する教訓や励ましをいただきましょう。
1.神の恵みとレハブアムの決断
神からの恵み
聖書には様々なさばきが記されています。そういう箇所を読んで気分が晴れ晴れとするということはなかなかありません。しかし、前回の学びでも確認しましたが、神さまは恵みの神です。恐ろしいさばきが記されている箇所にも、よく読むと神さまの恵みが示されていることが分かります。
今回、イスラエル王国がいよいよ南北に分裂することになるわけですが、ここにも神さまからの恵みが示されています。それは、神さまは南北分裂を避けるチャンスをレハブアムに与えてくださったということです。
前回学んだように、ソロモン王は国を非常に繁栄させましたが、そのために国民に厳しい労役や税金を課したので、繁栄の陰で国民は苦しんでいました。ソロモンが死んでレハブアムが跡を継ぐと、国民は負担を軽くしてくれるよう彼に願いました。そして、「そうしてくれるなら、自分たちはあなたに従う」と約束しました。さらに、ソロモン時代から王家に仕えてきた長老たちも、国民のこの願いを聞いてやるようにとレハブアムにアドバイスしました。
これらは、レハブアムが正しい判断をして、王国分裂という悲劇を招かないようにという神さまからの恵みです。
この時、レハブアムが長老たちの助言に従い、国民の要求に応えてやっていれば、少なくともこの時点で王国が分裂することは避けられたはずです。神さまはいきなりレハブアムにさばきを下したのではなく、それを避ける道も用意してくださっていたのです。
恵みを無にする決断
ところが、レハブアムは神さまの恵みを無にしてしまいます。彼は長老たちの優れた助言を退けてしまったのです。
先日テレビを見ていたら、ある芸人さんが奥さんから相談を受けたエピソードを話していました。奥さんが洋服を2着持って来て、これから友だちと出かけるのだがどっちがいいと思うか意見を求めてきたというのです。芸人さんが「右がいい」と一方を示すと、奥さんは「えー? 左の方が華やかで素敵だと思うんだけど」。
それを聞いていた夫婦問題の専門家がこうコメントしました。「奥さんは別にあなたの意見を求めて相談したんじゃありません。自分の考えを後押しして欲しかっただけです。だから、『君はどっちがいいと思うの?』と逆に尋ねてあげたら良かった」。なるほど(メモメモ)……。
レハブハムも相談する前から自分で結論を出していました。8節を見ると、レハブアムは長老たちの助言を退けた上で若者たちに相談しています。
「しかし、王はこの長老たちが与えた助言を退け、自分とともに育ち、自分に仕えている若者たちにこう相談した」(8節)。
レハブアムが長老たちや自分と同年代の若い家臣たちに相談したのは、いろいろな意見を聞いた上で判断するためではありません。自分なりの結論がすでにあって、その結論に沿ったアドバイス、すなわち自分が欲しいアドバイスを求めて人々に相談したのだということが分かります。
レハブアムの内面
ここでレハブアムの内面に注目してみましょう。レハブアムの父は世界で最も知恵があると言われ、国を非常に繁栄させたソロモンです。祖父は多くの敵を打ち破り、国民の人気が非常に高かったダビデです。もしかしたら、レハブアムの心の奥底には、自分は父や祖父のように立派に国を治めることができるだろうかという不安、一種の自信のなさがあったのかも知れません。
「弱い犬ほどよく吠える」ということわざがありますが、自信のない人は時に虚勢を張ることでそれを誤魔化そうとします。レハブアムもそうでした。
長老たちのアドバイスは聖書全体のメッセージに合ったものでした。彼らはレハブアムにこう語っています。
「今日、もしあなたがこの民のしもべとなって彼らに仕え、彼らに答えて親切なことばをかけてやるなら、彼らはいつまでも、あなたのしもべとなるでしょう」(7節)。
特に「あなたがこの民のしもべとなって彼らに仕え」という部分に注目しましょう。仕えるリーダーこそ聖書的なリーダーです。あの偉大なモーセも民に仕えるリーダーでした。イエスさまも、神が人となってこられた方なのに、自分は仕えられるためではなく仕えるために来たとおっしゃいましたし(マタイ20:28)、弟子たちにも「偉くなりたい人は、みんなに仕える人になりなさい」と教えました。
ですから、長老たちの助言は聖書に沿ったものであり現実に沿ったものでしたが、レハブアムの願いには沿っていませんでした。ですから、レハブアムは彼らの助言を退けてしまいます。
一方、若い家臣たちは答えました。
「『あなたの父上は私たちのくびきを重くしました。けれども、あなたはそれを軽くしてください』と言ってきたこの民には、こう答えたらよいでしょう。彼らにこう言いなさい。『私の小指は父の腰よりも太い。私の父がおまえたちに重いくびきを負わせたのであれば、私はおまえたちのくびきをもっと重くする。私の父がおまえたちをむちで懲らしめたのであれば、私はサソリでおまえたちを懲らしめる』と」(10-11節)。
要するに、国民に舐められないよう、強い態度で臨むべきだというアドバイスです。若い家臣たちの言葉はレハブアムの願い通りの内容でした。ですから、レハブアムは彼らが語ったとおりに国民に返答しました。
恵みを無にした結果
せっかく示された神さまの恵みを、レハブアムは無視してしまいました。そして、早速その結果を刈り取ることになりました。
レハブアムが若い家臣たちの言葉通りに国民に返答すると、当然のことながら国民は怒りました。そして、レハブアムを自分たちの王だとは認めないと宣言して、ヤロブアムという人物を自分たちの王に担ぎ上げて独立してしまいました。レハブアムを王と認めて従ったのはユダ族(とベニヤミン族)だけでした。神さまがソロモンに宣告なさったとおり、国が南北に分裂してしまったのです。
エジプトの侵攻
悲劇はそれに留まりません。レハブアムの治世は神さまを無視して始まりましたが、その後も彼は神さまを無視し続けます。彼は父ソロモンと同じようにあちこちに「高き所」を築いて、そこで異教の神々に礼拝をささげました。神さまの神殿には男娼も置きました。母親がアンモン人で偶像礼拝をしていましたから、その影響もあったことでしょう。
そこで、神さまはさらなるさばきを南王国に下されます。レハブアムが即位して5年後、イスラエルの国が分裂して弱体化したのを見て取ったエジプト王シシャク(シェションク1世)が南王国に攻めてきました。
神さまは預言者シェマヤという人を王宮に遣わして、これは南王国が神さまを見捨てた罰であると宣告されます。するとレハブアムや政治的リーダーたちが悔い改めたので、神さまはエジプトがエルサレムを完全に滅ぼすことはさせないと約束なさいました。これもまた神さまの恵みですね。
ただし、神さまは教育的指導も忘れません。預言者シェマヤは、南王国はエジプト王に仕えることになると言いました。それは、まことの神に仕えることと人間の王に仕えることの違いをレハベアムや南王国の人々が学ぶようにするためです。外国の王に仕える経験をさせることで、神さまに仕えることがいかに素晴らしいものであるかを学んで欲しいということです。
その言葉通り、エジプト王シシャクは、エルサレムの神殿や王宮にあった財宝をことごとく奪い去っていきました。しかし、エルサレムが破壊されることはありませんでした(第2歴代12:1-9)。ついでに言うと、その後シシャクは北王国にも攻め入り、様々な町を占領したとエジプトの碑文に記されています。こうして、ソロモンの時代に富み栄えたイスラエルは、南北に分裂した上、エジプトに蹂躙されてすっかり弱小国家になってしまいました。
では、ここから私たちはどんな教訓や励ましを受け取ることができるでしょうか。
2.神の恵みを無駄にしない生き方
神の助けを期待しよう
神さまは、レハブアムに対して恵みを示されました。ソロモンが招いたさばきを避けるための方法をレハブアムに教えてくださいました。
聖書の神さまは恵みの神です。それは、私たちが神さまのさばきを受けて不幸になることではなく、祝福を受けて幸せになることを願ってくださっているということを意味しています。
「わたし自身、あなたがたのために立てている計画をよく知っている──【主】のことば──。それはわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ」(エレミヤ29:11)。
神さまは私たちの不幸ではなく幸せを願っておられるということです。そして、そのために必要なものを用意し、与えてくださいます。
レハブアムは、偉大なソロモン王の後を継いだばかりで自信がなかったかも知れません。しかし、かつてのソロモンもそうでした。その時、ソロモンは神さまの助けを求めて、イスラエルの民を正しく治めるための知恵をくださいと願いました。レハブアムも自信のなさを虚勢を張って権力を見せつける方法でごまかすのではなく、神さまの恵みを信じて助けを求めるべきだったのです。
私たちも、自信のなさや罪責感や不安感をごまかすために、人間的な知恵に走って何とかしようとするのではなく、神さまが恵みの神であり、私たちを幸せにしようと願い、そのために必要なものを与えてくださるとまず信じましょう。
問題が次々と起こるような状況の中に置かれると、私たちは神さまが私たちを愛しておられて、幸せを願っておられるなんて思えなくなります。しかし、それでも私たちは神さまが私たちの幸せを願っておられると信じましょう。先ほど紹介したエレミヤの言葉は、国がバビロンによって滅ぼされて、バビロンの都に連れ去られてしまった捕囚の民、異国の地で絶望していたユダヤ人に向けて語られたものです。私たちもまた、問題に巻き込まれたときこそ、神さまが私たちを幸せにしようとしてくださっていると宣言しましょう。
耳の痛い忠告にも耳を傾けよう
レハブアムがさばきを免れるために神さまが用意してくださったのは、国民の要求の言葉と、それを支持する長老たちの助言の言葉です。神さまの恵みは、よく聖書の言葉や人が語る言葉、そして良心を通して語られる聖霊さまの言葉によって私たちのところにやってきます。
しかし、往々にしてそれらの言葉は私たちにとって耳の痛いものです。今自分が行なっていることが間違っていることを指摘され、自分がやりたくないと思っていることをやるように促すものが多いからです。
国民の願いの言葉も長老たちの助言も、どちらもレハブアムにとってはうれしくない言葉でした。彼が密かに抱えていた自信のなさを乗り越えるために、彼は自分の強さを国民に見せつけたいという思いに囚われていたからです。ですから、レハブアムは彼らの声に耳を傾けず、自分の密かな願いに合う言葉だけ選んで採用しました。
その結果、彼は国を分裂させてしまいます。それは、元々は父であるソロモンの罪の結果です。しかし、レハブアムもまたその責任を負っています。神さまの恵みに応答しなかった罪です。
自分事
レハブアムの失敗を他人事にしてはいけません。私たちは、自分もレハブアムと同じ誘惑にさらされているのだということを知らなければなりません。神さまが私たちを幸せに導くために用意してくださる耳の痛い言葉を無視して、自分の心が願う言葉だけを聞きたくなる誘惑です。
使徒パウロは、後輩のテモテにこんなふうに教えました。
「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。忍耐の限りを尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。というのは、人々が健全な教えに耐えられなくなり、耳に心地よい話を聞こうと、自分の好みにしたがって自分たちのために教師を寄せ集め、真理から耳を背け、作り話にそれて行くような時代になるからです」(第2テモテ4:2-4)。今はまさにそういう時代です。
しかし、私たちは耳の痛い忠告の背後にある、私たちを本当の幸せに導きたいという神さまの思いをくみ取り、素直に応答しましょう。
「愚か者には自分の歩みがまっすぐに見える。しかし、知恵のある者は忠告を聞き入れる」(箴言12:15)。
失敗しても学んでやり直そう
レハブアムは今回の失敗だけでなく、国中に偶像礼拝をはびこらせる悪も行ないました。その結果招いたのは、エジプトによる攻撃という罰です。
しかし、このたびのレハブアムは5年前とは異なりました。預言者シェマヤの厳しい批判の言葉に耳を傾けたのです。そして、さばきを行なわれた神さまを恨むのではなく、「主は正しい」と認めて悔い改めました。すると、神さまはレハブアムの悔い改めを受け入れて、エルサレムが破壊されないようにすると約束してくださいました。
多くの財宝がエジプト王に取り上げられてしまいましたが、エルサレムが滅ぼされ多くの国民が殺されたり奴隷として連れ去られたりすることに比べれば、何ほどのことがありましょうか。
むしろ神さまは、エジプトによる攻撃と略奪という出来事を通して、神さまに仕えることと地上の王に仕えることの違いを学ばせるとおっしゃいました。
モーセが律法を受け取りにシナイ山に登っている間に、イスラエルの民が金の子牛の像を造って礼拝したため、神さまが怒りを発せられました。しかし、モーセの取りなしによってイスラエルの民は赦されました。その後神さまは、モーセに対してこんなふうにおっしゃいました。
「【主】、【主】は、あわれみ深く、情け深い神。怒るのに遅く、恵みとまことに富み」(出エジプト34:6)。
私たちの信じる神さまは恵みの神です。すなわち私たちの罪を赦し、再出発させてくださいます。
そのために、御子イエスさまがこの地上に来られました。イエスさまは私たちの罪を赦すために、身代わりとして罪の罰を受けて十字架にかかりました。そして、死んで葬られますが、3日目に復活なさいました。ですから、今も生きておられ、神さまに私たちの罪が赦されるように、そして神さまの子どもとして大いに祝福されるように取りなしてくださっています。
私たちはイエスさまの十字架と復活を信じました。その結果、過去の罪も現在の罪も未来の罪もすべて完全に赦されました。そして、神さまの子どもにしていただいて、永遠に祝福を受ける身分に変えられました。
罪を犯さないに越したことはありません。しかし、私たちは弱くて不完全です。つい罪を犯したり失敗したりします。そんなときに「自分はもうダメだ」と絶望するのではなく、神さまの赦しを信じましょう。そして、本来どうすべきだったのかということを学んで、改めて正しい行ないを始めましょう。
まとめ
この話をお読みください。
時に神さまからの語りかけは心に深く突き刺さって痛みを与えることがあります。レハブアムのようにそれを無視して自分勝手な判断で生きるのではなく、神さまの恵みを信じてしっかりと受け止めましょう。そして、感謝の応答をしましょう。それが私たちを本当の幸せへと導きます。
あなた自身への適用ガイド
- 神さまが自分の幸せを願っておられることを、最近どのようにして実感しましたか? 逆にそれが信じられない気持ちになったことが最近ありましたか?
- 聖書の言葉、人の言葉、時分の良心の痛みなどを通して、今の時分の生き方を改めるよう迫られた経験が最近ありましたか? それに対してあなたはどのように応答しましたか? その結果はどうでしたか?
- 失敗を通して学んだことが何かありますか?
- どうしても赦された感じがしない罪がありますか? それに対して聖書はどのように教えていますか?
- 今日の聖書の箇所を読んで、どんなことを決断しましたか?