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礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

意識的な感謝

イスラエルの王シリーズ10 「ウジヤ」(南王国)

第2歴代誌26章16節〜21節

(2021年3月14日)

礼拝メッセージ音声

参考資料

19節の「ツァラアト」は、レビ記13-14章に規定されている特殊な病。人間に現れる悪性の皮膚病や、家の壁や布、革製品などに現れる悪性のカビを指します。以前はらい病(すなわちハンセン氏病)と訳されていましたが違う病気です。

なお、ウジヤ王の時代に、大勢の人が避難しなければならないほどの大地震が起こりました(アモス1:1とゼカリヤ14:5)。また、預言者イザヤはウジヤ王が死んだ年に神さまに幻を見せられ、預言者に任命されました(イザヤ6章)。

イントロダクション

現在、歴代のイスラエル王について学んでいます。 今回は、南王国10代目の王、ウジヤを取り上げます。第2列王記15章ではアザルヤとも呼ばれています。彼の治世は、神さまの祝福を失わずますます祝福されるために、私たちが知らなければならない危険と対処法を教えてくれています。

1.繁栄とさばき

国の繁栄

ウジヤは前回学んだアマツヤの息子です。16歳の時に父が亡くなって王となりました。まだ若いので、彼を脇で支える人物がいました。ゼカリヤという祭司です。

「ウジヤは十六歳で王となり、エルサレムで五十二年間、王であった。彼の母の名はエコルヤといい、エルサレム出身であった。彼は、すべて父アマツヤが行ったとおりに、【主】の目にかなうことを行った。神を認めることを教えたゼカリヤが生きていた間、彼は神を求めた。また彼が【主】を求めていた間、神は彼を栄えるようにされた」(3-5節)。
祭司ゼカリヤは若いウジヤ王に、神さまに従う政治を行なうよう勧め、ウジヤもそれに従って神さまに忠実に歩もうとしました。その結果、神さまはウジヤと彼が治める南王国を繁栄させてくださいました。そのことが6-15節に書かれています。

特に、周辺諸国との戦いにウジヤが勝利したことが、第2歴代誌に書かれています。
  • ペリシテ人との戦いに勝利して、ペリシテ人の領土の一部を手に入れました。
  • 死海の南に住んでいたアラビア人やメウニム人との戦いでも勝利しました。
  • ヨルダン川の東にあったアンモンは、南王国を恐れて貢ぎ物を差し出すようになりました。
  • 父アマツヤ時代に破壊されたエルサレムの城壁の守りを強固にし、配下の兵士たちには優れた武器や防具を与えました。
また、ウジヤは、荒野に多くの溜め池を掘るなど、農業を発展させることに努めました。その結果、国は経済的にも豊かになりました。

こうして、南王国の軍事的な影響力はエジプト国境にまで及ぶようになり、ウジヤの名声は国内はもちろん、遠くの国々にまで広まりました。聖書は、それが神さまからの驚くべき助けによって与えられた祝福だと述べています。「こうして、彼の名声は遠くにまで広まった。彼が驚くべき助けを得て、強くなったからである」(15節)。

ところが、このウジヤも、これまでいた良い王たちと同様つまずいてしまいます。

越権行為

前々回、祖父のヨアシュ王を取り上げました。ヨアシュは、霊的な指導者だった祭司エホヤダが生きている間は神さまに忠実で、そのために国が繁栄しました。ウジヤ王も、祭司ゼカリヤが生きている間は神さまに忠実だったと書かれています。

しかし、祖父ヨアシュはエホヤダが死ぬと堕落してしまい、神さまのさばきを受けてしまいました。それと同様、ウジヤもゼカリヤが死ぬと道を踏み外します。ヨアシュが犯したのは偶像礼拝の罪でしたが、ウジヤが犯したのは傲慢の罪です。

具体的には、神殿で香をたこうとしたのです。

「しかし、彼が強くなると、その心は高ぶり、ついに身に滅びを招いた。彼は自分の神、【主】の信頼を裏切った。香の壇の上で香をたこうとして【主】の神殿に入ったのである。すると、彼の後から祭司アザルヤが、【主】に仕える八十人の勇敢な祭司たちとともに入って来た。彼らはウジヤ王の前に立ちふさがって言った。『ウジヤよ。【主】に香をたくのはあなたのすることではありません。香をたくのは、聖別された祭司たち、アロンの子らのすることです。聖所から出てください。あなたは主の信頼を裏切りました。あなたには、神である【主】の誉れは与えられません』」(16-18節)。

神殿で香をたくという行為は、イスラエル人たちが神さまにいつも捧げている祈りや賛美を象徴しています。そして、モーセの律法によれば、神殿で香をたくことができるのは、モーセの兄アロンの子孫である祭司だけです。

旧約時代のイスラエルでは、今の三権分立とは違いますが、政治権力者としての王、儀式をつかさどり律法を人々に教える祭司たち、その時々に神さまから与えられる約束や警告を直接聞いて人々に伝える預言者たちが、それぞれ互いに助け合うと共に監視し合うことによって、神さまのみこころにかなう国づくりをしていました。

ウジヤが香をたくという儀式に手を出したというのは、これまで学んできた王たちが行なった殺人や異教礼拝などに比べれば軽く見えるかも知れません。しかし、実は政治的な権力だけでなく、宗教的な権力も自分のものにして、絶対的な力を持つ君主になろうとするとんでもなく危険な行為でした。それはイスラエルの王としては決して手を出してはならない領域だったのです。あえてそれをしようとしたウジヤが、すっかり傲慢の罪にとらわれていたことが分かりますね。
サウルとの比較
かつてイスラエル統一王国初代の王サウルが戦いに出て行った際も、祭司でもあった預言者サムエルの到着を待たないで、勝手にいけにえをささげてしまいました。ペリシテ人を恐れて、戦場から脱走する兵たちが続出したため、「神さまがついているから大丈夫だ」と言うことを兵士たちに示したかったのでしょう。しかし、神さまは、サウルが本当には神さまに信頼しておらず、兵士たちをつなぎ止める方便として礼拝をささげたことを見抜いて怒られました。そして、サウルを王座から退けたと神さまは宣告なさいます。その結果、サウル王朝はわずか1代で滅亡して、ダビデ王家がその後を継ぐことになりました。

ウジヤはあのサウルと同じ失敗を犯してしまいました。しかも、大祭司アザルヤと80人の祭司たちが決死の覚悟でそれを止めてくれたのに、ウジヤは聞こうとしませんでした。ウジヤはせっかく神さまが用意してくださった悔い改めの機会も無駄にして、さばきを招きました。

しかし、その罰はサウルの時とは異なりました。神さまは、かつてダビデと契約を結んで、ダビデの子孫が永遠にダビデの王座に就くことを約束してくださっています。それは救い主によって実現しますが、やがて救い主であるイエスさまが地上に帰ってこられて全世界の王となるまで、ダビデ王家は決して途絶えることはありません。ですから、サウルの時のようにウジヤの罪のせいでダビデ王家自体が滅亡するということはありませんでした。彼には別の罰が与えられました。

ウジヤへのさばき

「ウジヤは激しく怒った。香をたくための香炉を手にしていたが、彼が祭司たちに対して激しく怒ったとき、【主】の神殿の中にいた祭司たちの前、香の壇の傍らで、彼の額にツァラアトが現れた」(19節)。

ツァラアトとは、参考資料にも書きましたが、モーセの律法の中で特別に取り上げられている皮膚病です。人がこの病気にかかった場合、他の人と接触することがないよう隔離することをモーセの律法は命じています。そういうわけでウジヤは隔離され、死ぬまで治ることがありませんでした。そして、皇太子ヨタムが、ウジヤが死ぬまでの間も摂政として政務を執りました。

やがてウジヤは亡くなります。ウジヤは国民の人気が非常に高かった王ですが、南王国の人々は彼の遺体を歴代の王たちと同じ墓には葬らず、王家が所有していた荒野の墓地に埋葬しました(23節)。

祖父のヨアシュ王が死んだときも、同様に歴代の王たちの墓には葬られませんでしたね。ヨアシュは神さまに罪を犯してさばきを受けて死にました。ウジヤの場合も、神さまのさばきを受けて死んだと人々が見なしたのです。

若い頃が非常に素晴らしい王だっただけに、いつもながら悲しい気持ちになります。神さまがこういう悲しい話を聖書に記録しておられるのは、私たちがそこから素晴らしい宝物を手に入れることができるようにするためです。では、ここから私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

2.順調なときほど傲慢に注意する

順調なときにほど危険な場所にいることを知る

今、藤井聡太さんの活躍のおかげで、将棋が大ブームですね。思考力や忍耐力や礼儀が鍛えられるということで、お子さんに将棋を習わせる親御さんもたくさんおいでです。私が子どもの頃に人気だった棋士の一人に、大山康晴さんがいらっしゃいます。永世名人・永世十段・永世王位・永世棋聖・永世王将という5つの永世称号を保持している方です。

この大山名人が取材でこんな質問を受けました。「棋士の方は、次々と畳みかけるように駒を打つときもあれば、何十分も長考なさることもありますね。長考しているときは、やはり形勢が不利なときなのですか?」

すると大山名人はこう答えました。「いいえ。私が長考するのは、むしろ形勢が有利なときが多いです。自分の打つ手がうまくはまっているときほど、私はそこに落とし穴がありはしないかと思って長考するのです」。

うまくいっているときは、傲慢になって油断してしまう可能性が高くなります。そうすると思わぬ失敗をしてしまうものです。大山名人は、そうならないように順調なときほどかえって慎重に取り組む必要があるとおっしゃっているのですね。

19世紀の歴史家・評論家であるトーマス・カーライルという人も、同様の言葉を残しています。パラフレーズすると次のような言葉です。「ときに逆境は人間にとってつらいものだ。しかし逆境に耐えられる人が200人いるとしたら、順境によく耐えられる人は1人だけだろう」。

他にも「勝って兜の緒を締めよ」「百里の道を行く者は、九十九里をもってその半ばとせよ」など、成功に慢心して油断することがないように戒める名言やことわざが、古今東西たくさんあります。

信仰も同じ

私たちの信仰も同じです。物事が次々とうまくいっているとき、何もかも祝福されているように見えるとき、そんなときほど実は足下をすくわれて神さまへの信仰を見失い、罪を犯してしまったり大失敗をしてしまったりする可能性が高まる危険なときです。

というのも、祝福は本来神さまがくださるものなのに、順風満帆の状態が続くと、いつの間にかそれに慣れてしまい、当たり前になってしまって、神さまへの感謝や信頼の心が薄まってしまうからです。

ウジヤという名前は「ヤハウェは我が力」という意味です。別名のアザルヤは「主は助けた」という意味です。その名の通り、神さまはウジヤの人生に力を表してくださり、彼の王としての働きを大いに助けてくださいました。しかし、成功に次ぐ成功の中で傲慢になってしまったウジヤは、そのことを忘れてしまいました。

そして、自分は何でもできる、何をしても許されると考えるようになったウジヤは、本来祭司以外が行なってはならなかった香をたくという儀式に手を出そうとしました。そして神さまの怒りを招きました。

ウジヤ王やその祖父ヨアシュ王の他にも、絶頂期に神さまを信頼しなくなって失敗してしまったり、精神的に落ちてしまったりした例がいくつも聖書の中に記されています。 たとえば、
  • ダビデは、ペリシテ人との戦いに連戦連勝し、余裕ができてもはや自分が最前線に立たなくてすむようになった時に、バテ・シェバとの姦淫の罪を犯しました。
  • 預言者エリヤは、数百人の異教の預言者たちとの戦いに勝利した直後に、恐れに囚われて国を逃げ出し、うつ状態に陥って死を願うほどになりました。
  • ペテロは、自分こそイエスさまの一番弟子であり、他のどの弟子よりもイエスさまを愛しているという自信に満ちあふれているときに、イエスさまを3度知らないと言ってしまう失敗をしました。
逆に、試練の時、逆境に苦しんでいる時には、私たちはますます神さまに祈り、神さまからの驚くばかりの助けを求めようとします。もちろん、「祈ってもなかなか助けてくれない神さまなんかいらない」「神がいるなら、どうして私がこんな目に遭わなきゃいけないんだ」というふうに信仰を失う危険はあります。それでも、順風満帆なときに神さまへの信頼を見失ってしまう危険の方がはるかに大きいのです。

私たちはそのことをいつも心に留めて警戒していなければなりません。苦しいときに、ただそれを嘆くだけでなく、神さまの助けを信じて祈るのはもちろん、物事がうまくいっているときにはそれ以上に、神さまのことばである聖書を熱心に学び、神さまに信頼し、神さまに従うことを強く強く意識しなければなりません。

感謝の種を数え上げよう

特に、私たちが神さまへの信頼を忘れないために意識したいことがあります。それは「感謝の祈り」です。

以前、日本語の「ありがとう」は「あり得ないようなこと」という意味であり、「あり得ないようなことをしていただいた」という感動が感謝を生むのだと申し上げました。ですから、「ありがとう」の反対は「当たり前」です。当たり前というのは、祝福の中で、それが神さまから来ていることを忘れてしまう態度から生まれます。

ですから、私たちは意識して神さまに「ありがとうございます」という感謝の祈りを捧げましょう。

もちろん、それは他人や自分自身の努力や工夫を認めないということではありません。クリスチャンホームに育った方が、こんなことをおっしゃっているのを聞きました。その方が子どもの頃、どんなに勉強やスポーツでがんばって良い成績を収めても、クリスチャンである親はそれを一切ほめないで「イエスさまが良い成績は与えてくださったのだから、それを感謝しましょう」と言うばかりだったそうです。その方はガッカリして、自分は絶対イエス・キリストを信じないと決意したそうです。

他人や自分の努力や工夫を認めて、いっぱい感動したり、喜んだり、ねぎらったり、ほめたり、感謝したりしましょう。と同時に、成功するための環境を背後でこっそり整えてくださっていた神さまへの感謝もささげるのです。人の努力と神さまの祝福、どちらか一方ではなく、どちらにも注目しましょう。そして、感謝しましょう。

特に当たり前と思えるような普通のことにも意識して感謝しましょう。大切なことは、人がしたことも神さまがなさったことも「当たり前」と思わないこと。これは本来あり得ないようなこと、まさに奇跡なのだということを意識することです。そして、感動や感謝の言葉を口にしましょう。

もちろん良いことが起こったときだけでなく、問題が起こったときにも感謝します。なぜなら、それによって私たちはますます神さまに信頼し、神さまにつながり続けることができるからです。これもまた、(そうは見えないかも知れませんが)神さまからの祝福です。

私たちは、あれも神さまがしてくださったこと、これも神さまがくださった祝福というふうに、積極的に感謝の種を探し出して感謝しましょう。こうして意識して感謝すること。それが、順調なときに神さまへの信頼を忘れて失敗する罠から、私たちを守り、ますます祝福されるための道です。

あなた自身への適用ガイド

  • ものごとが順調なときに、傲慢になって油断して失敗してしまった経験がありましたか? あるいはそういう例が周りの人にありませんでしたか?
  • 逆境は、私たちがますます神さまと深くつながるチャンスだという話を聞いて、あなたはどんなことを考えたり感じたりしましたか?
  • 今あなたが特に気づかされた感謝の種は何ですか?
  • 今感謝すべき事を10個挙げて、それを神さまに(必要に応じて人にも)感謝を表しましょう。それぞれどんなふうに感謝しますか?
  • 今日の聖書の箇所を読んで、どんなことを決断しましたか?

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