本文へスキップ

礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

まったく新しい人生

ローマ人への手紙6章6節〜13節

(2021年4月4日)

礼拝メッセージ音声

参考資料

この箇所は、異邦人(ユダヤ人以外の民族)はイエス・キリストを信じただけでは救われず、ユダヤ人のようにモーセの律法を守らなければ救われないと主張していた偽教師たちによる批判が背景にあります。

偽教師たちは、「パウロたちが言うように、イエスの十字架の故に一方的に赦しを与える神の恵みと、それを信じる信仰によって罪が赦されるのなら、神の恵みがもっと明らかになるために、どんどん罪を犯そうじゃないかということになりはしないか」と言って挑戦しました。パウロは、そんなことは絶対にあり得ないと反論しています。今回の箇所はその続きです。

イントロダクション

今日は、イエスさまの復活を記念する日曜日、イースターです。イエスさまの復活は、それを信じる私たちクリスチャンの人生が劇的に変わるということを保証しています。今回の箇所からその確信を与えられましょう。そして、私たちが与えられた新しい人生を実際に体験するために、一体何が必要なのかを考えましょう。

1.自分の無力を認めよう

分かると変わるは違う

実はこのメッセージを準備しているとき、パソコンで「変わることができる」と打ち込んだつもりで、「分かることができる」と打ってしまいました。「かわる」と「わかる」は文字が1つ入れ替わっただけですが、まったく違う言葉です。

以前、とあるカウンセリングの学校で働いていたとき、あることについてリーダーの前でポロリと「分かってはいるんですが、できないんですよねー」と弱音を吐いたことがあります。すると、リーダーがキラリと目を光らせて一言。「増田くん。『わかる』と『かわる』は違うよ」。

そして、続けてこうおっしゃいました。「分かっているんだったらできるはず。できないということは、何かが本当には分かっていないからだ。たとえばそうしなければならない理由とか、完成するまでの手順とか、実行できるだけのスキルとか。なのに、『分かってはいる』なんて言ってしまうと、それ以上考えなくなってしまう。結果的にできない。だから、どれほど認めたくなくても、本当には分っていないんだという事実を認めないとね」。

無知ではなく無力

私たちの問題の多くは、何をしなければならないかを知らないということではありません。もちろん「トイレに行きたくて漏れそうなのに、どこにトイレがあるか分からなくてピンチ!」というような、単に情報が足りないだけという問題なら、トイレの場所を誰かに教えてもらってそこに飛んで行くだけです。しかし、本当に問題なのは、無知ではなく無力、そうしなければならないと知っていてもそうする力がないということです。

罪の奴隷状態

今回の箇所で、パウロはかつての私たちは罪の奴隷だったと述べています。「私たちは知っています。私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅ぼされて、私たちがもはや罪の奴隷でなくなるためです」(6節)。奴隷は嫌でも主人の命令に従わなければなりません。それと同じように、どんなに嫌だと抵抗しても、私たち人間は罪を犯さないではいられない存在でした。

それは、盗みとか姦淫とか殺しとかいうような誰が見ても罪だと分かるような問題だけではありません。たとえば、
  • 傲慢は罪だと分かっているのに、ついつい人前で自慢したくなってしまう。
  • 自己卑下は罪だと分かっているのに、ついつい自分をけなすような発言をしてしまう。
  • 自分の体を粗末にするのは罪だと分かっているのに、ついつい暴飲暴食や夜更かしなどの不摂生がやめられない。
  • 悪口は罪だと分かっているのに、ついついそこにいない人の陰口を仲間同士で語り合って盛り上がってしまう。
  • 無作法は罪だと分かっているのに、家族相手だと安心して失礼な言動をしてしまう。
  • 子どもや部下を叱るときには教育的な効果を考えながら言動を選ばなければならないということが分かっていても、ついつい怒りがコントロールできずに、ただ長時間にわたって怒鳴りつけて自信ややる気を削ぎ落とすだけのまったく効果がない叱り方をしてしまう。
  • 間違いは素直に認めて謝罪すべきだと分かっているのに、いざ間違いを指摘されると、立て板に水のごとく言い訳をしてしまう。
パウロは、別の箇所で自分自身もそういういかんともしがたい性質を持っていると嘆いています。「私には、自分のしていることが分かりません。自分がしたいと願うことはせずに、むしろ自分が憎んでいることを行っているからです」(ローマ7:15)。

私たちは、自分の力では自分の人生を変えることができないということを、つらいけれども認めなければなりません。それによって次のステップに進むことができます。

2.神に信頼しよう

人にはできないことが神にはできる

私たちには自分の人生を根本的に変える力はありません。しかし、聖書は言います。「人にはできないことが、神にはできるのです」(ルカ18:27)。

私たちは自分の正しさによって神さまに認められ、祝福されるということはできません。なぜなら、もしも神さまが行ないの正しさによって受け入れるとしたら、その行ないは完璧なものでなければならないからです。しかも、生まれてから死ぬまでただ一度の失敗も許されません。

そんな私たちのために、御子イエス・キリストは人となって地上に来られ、罪のない完璧な人生を送った上で、十字架にかかって死なれたと聖書は教えます。それは、イエスさまが罪人として神さまからさばかれ、のろいを受けたということです。イエスさまには罪がないのですから、罪の罰を受ける道理がありません。罪の罰は、本当は罪人である私たちが受け取らなければならなかったはずです。

神さまはここで不思議なことをしてくださいました。パウロは今回の箇所でこう言っています。「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられた」(6節)。これは、罪の罰を受けて実際に死んだのはイエスさまですが、イエスさまと私たちが一体となって、私たちもまた罰を受けて死んだと見なされたということです。

死刑が執行されて罪人は死んだとしたら、再び死刑に会うことはあり得ません。それと同じように、イエスさまと一体となって死んだと見なされた私たちの罪は、もはやこれ以上さばきの対象になることはありません。「死んだ者は、罪から解放されているのです」(7節)。

イエスさまを信じた私たちは、すべての罪を赦されて、罪の故に神さまから切り捨てられ、地獄で永遠に苦しむなどという罰を受けることは決してなくなりました。

罪人から神の子への生まれ変わり

しかも「人にはできないことが、神にはできる」とおっしゃる神さまは、ただ私たちの罪を赦しただけではありません。私たちはイエスさまの十字架の死と一体となって死んだだけでなく、イエスさまの復活と一体となって新しく生まれ変わりました。「私たちがキリストとともに死んだのなら、キリストとともに生きることにもなる、と私たちは信じています」(8節)。

それは罪人が反省して以前よりちょっとだけ正しくなったというような変化ではなく、まったく別の存在として生まれ変わったという意味です。

かつての私たちは罪人であり、神さまの敵でしたが、今や神さまの愛する子どもというまったく新しい存在になりました。その結果、それまでは「分かっていることができない」状態だったのに、しなければならないことができるようになり、してはならないと分かっていることがやめられるようになりました。

私たちにはできません。しかし神さまにはできます。そのことを信じて、神さまに罪を克服して正しいことを行なうことができる力を求めましょう。

人は変わることができる

私の知人の女性(仮にAさんと呼ぶことにしましょう)のご主人は、大変頑固で怒りっぽい人でした。食卓に座ったらすぐに食事が並ばないと怒り、お茶がちょっとでもぬるかったり熱かったりすれば怒り、味噌汁がちょっとでも好みより薄くても濃くても怒り……そして、すぐに文字通りちゃぶ台返しをしていました。そんな緊張感で一杯の家庭で育った子どもたちは、4人ともみんな不登校。そんな生活に疲れ果てたAさんは、教会の門をくぐりました。そして、程なくイエス・キリストを信じます。

すると、Aさんの生き方、考え方、感じ方が次第に変わっていきました。それまでは家族を支えるためだけに生きているかのように、一切自分を喜ばせることをせずにいましたが、自分に対して優しくできるようになり、笑顔で過ごすことが増えてきました。また、すぐにキレるご主人の前では、いつもビクビクしていましたが、心の中に平安が与えられ、余裕を持って接することができるようになりました。

そんなある日、いつものようにご主人がキレて怒鳴り散らしているとき、Aさんの耳には別の声が聞こえてきたと言います。「誰か俺を助けてくれ、助けてくれ!」 思わずAさんはご主人を抱きしめ、背中を優しくなでながら耳元でつぶやいていました。「お父さん、大丈夫。大丈夫」。すると、あっけにとられていたご主人、やがてオイオイと泣き始めました。

それから、ご主人はAさんと一緒に教会の礼拝に出席するようになり、やがてイエスさまを信じてクリスチャンとなります。

それからしばらくして、朝食の時に味噌汁を出すのが遅れて、少しぬるくなってしまいました。これはまた怒鳴られるなとAさんが覚悟して謝罪すると、ご主人はにっこり笑って言ったそうです。「謝ることない。それどころか、こうしていつもおいしい食事を作ってもらえることが本当にうれしい。本当にありがとう」。今まで聞いたこともないような言葉をご主人がしゃべるものですから、Aさん、ご主人がフランス語をしゃべっているのかと思ったそうです。

人は変わることができます。それは、人にはできないことです。神さまがしてくださる奇跡です。それを期待しましょう。そして、変わることができることを信じて感謝しましょう。

ところが、実際にはどうでしょうか。クリスチャンでも罪を犯してしまうことがあります。これは一体どう考えればいいでしょうか。この問題について、パウロはどのように教えているでしょうか。

3.神の奴隷であることを意識しよう

罪の奴隷状態からの解放

かつての私たちは罪の奴隷状態でした。しかし、イエスさまの十字架による赦しと、復活による新しい生まれ変わりによって、私たちは罪の奴隷状態から解放されたとパウロは言います。6節をもう一度読みましょう。「私たちは知っています。私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅ぼされて、私たちがもはや罪の奴隷でなくなるためです」。

これは、私たちが完全に罪を犯さなくなったという意味ではありません。私たちのこの体にはアダムから引き継いだ罪の性質が残っていて、隙あらば私たちを神さまに逆らわせようとします。私たちが完全に罪を犯さなくなるのは、私たちが死んだ後に復活して、新しい栄光の体が与えられたときです。それまでの間、すなわち今こうして地上を生きている間は、私たちはは神さまが喜ばれないことを考えたり行なったりしてしまうことがあります。

それでも、私たちは罪の奴隷ではなくなりました。奴隷なら、どんなに嫌だと思っても主人の命令には従わざるを得ません。そもそも、生まれたときから従っているので、それが当たり前になってしまっています。しかし、今や罪の奴隷状態から解放された私たちは、罪に抵抗しようと思えば抵抗できる存在になったのだと聖書は教えます。

ところが、悪魔はその事実を私たちから隠して、未だに罪の奴隷であるかのように騙します。もはや罪に従う義理はないのに、そうしなければならないかのように偽るのです。

新しい主人への従順

以前、目標設定に関する本を読んだとき、たとえば禁煙のように、「○○しない」という否定的な目標は達成するのが難しいと書かれていました。それは達成した喜びをなかなか感じられないので、モチベーションが上がりにくいのです。ですから、「タバコを吸いたくなったら、コーヒーを飲む」というふうに、「代わりに○○する」という肯定的な目標にした方がいいと勧められていました。

同様に、私たちが古い主人である罪の支配から逃れるためには、ただ「罪を犯さないぞ」と心の中で誓うだけではなかなか難しいのです。

私たちが意識しなければならないことは、古い主人に従わないことではなく、新しい主人を見つけてその方に従うことです。古い主人がやってきて「この仕事をしろ」と命じても、新しい主人に従っているなら「私は今の主人の仕事をしていますから、あなたの仕事はもうできません」と突っぱねることができます。

パウロは、私たちの新しい主人は、私たちの罪を赦し子どもとして迎え入れてくださった神さまだと語っています。

「ですから、あなたがたの死ぬべきからだを罪に支配させて、からだの欲望に従ってはいけません。また、あなたがたの手足を不義の道具として罪に献げてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者としてあなたがた自身を神に献げ、また、あなたがたの手足を義の道具として神に献げなさい」(12-13節)。

私たちが罪の奴隷ではなく神さまの奴隷になったのだと自覚して、神さまに従うことを意識し実行していたら、少なくともその間は罪の行ないからは解放されています。私たちの内側に住んでくださっている聖霊なる神さまが、私たちをきよめ、罪の支配から守ってくださるからです。

ですから、何が罪かと考えるだけではなく、むしろどうしたら神さまに喜んでいただけるかを考え、実践しましょう。

以前、教会の集会で、参加者全員がこんな作業を行ないました。
  1. まず、自分の生活において神さまのみこころから離れている点を、紙とペンと祈りを使って具体的にリストアップします(もちろん、他の人には見せません)。
  2. それは、どのようにみこころをはずれていることなのか、誰に対する悪なのかも書き込みます。
  3. そして、祈りの中でそれが罪であることを認め、神さまの赦しを確認します。
  4. さらに、これからどうすればいいのかを考え、それを実行する決意をします。
その集会に参加した数名の方から、神さまの存在がますます近く感じられるようになったとか、関係が断絶していた人との和解が始まったような気がするとか、今まで気づかなかった祝福にもどんどん気づけるようになったとか、ほんの数日で様々な良い報告を聞くことができました。

失敗してもやり直せる

私たちは、イエスさまの十字架と復活の両方を信じて救われました。この2つはワンセットです。先に復活が待っていない十字架はありません。そして、十字架がなければ復活はありません。

私たちはイエスさまの復活と一体となって、罪の奴隷状態から解放されました。そしてその前に、私たちはイエスさまの十字架の死と一体となって、罪の罰から解放されています。

罪の奴隷状態から解放されたのに、それを忘れて罪を犯してしまうことがあります。失敗してしまうことがあります。自分や他の人を傷つけてしまうことがあります。神さまの栄光を汚してしまうことがあります。

それでも私たちは神さまに赦されています。愛されています。子どもを愛している親は、子どもがいたずらをしたときに叱るかも知れません。しかし、だからといって家から追い出したりはしません。叱った後は優しく抱きしめて、大切に思っていることを伝えるでしょう。天の父である神さまは私たちを愛してくださっています。

ですから、失敗してもそれで絶望したり、嫌になったりしないで、悔い改めたら再び神さまに従うことを再開しましょう。

この話をお読みください

まとめ

イエスさまがこの自分の罪を赦すために十字架にかかり、死んで葬られ、3日目に復活したことを信じた私たちは、すべての罪を赦されて神さまの子どもになりました。そして、罪の奴隷状態から解放されて、神さまの助けによって新しい人生を歩むことができるようになりました。

私たちも神さまによって変わることができることを信じましょう。そして、実際に変えられた人生を味わいましょう。

あなた自身への適用ガイド

  • 最近、どんな罪の誘惑を受けましたか? それに対してあなたはどのように反応しましたか?
  • 以前と今の自分を比較してみましょう。みこころにかなう生き方について、神さまはあなたをどんなふうに変えてくださいましたか? また、これからどんなふうに変えていただきたいと思いますか?
  • 何が罪かを考えるだけでなく、どうしたら神さまに喜んでいただけるだろうかを考えるという話を聞いて、どんなことを考えましたか?
  • 神さまに喜んでいただけるために、あなたの生活の中で、具体的に何をどのように変えようと決心しましたか?
  • 今日の聖書の箇所を読んで、どんなことを決断しましたか?

連絡先

〒962-0001
福島県須賀川市森宿辰根沢74-5

TEL 090-6689-6452
E-Mail info@nakakomi.com