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礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

救われた最悪の王

イスラエルの王シリーズ14 「マナセ」(南王国)

第2歴代誌33章9節〜16節

(2021年4月25日)

礼拝メッセージ音声

参考資料

9節の「ユダ」は南王国のこと。

14節の「ダビデの町」は、エルサレムの南部の地域。ギホンはダビデの町の東の端にある泉で、「谷」はケデロンの谷のこと。「魚の門」はエルサレムの北にあった門。「オフェル」はエルサレムにあった場所で、詳しい場所は不明。

イントロダクション

現在、歴代のイスラエル王について学んでいます。 今回取り上げるのは、南王国のマナセ。前回登場したヒゼキヤ王の息子です。
これまで学んできたように、南王国には何人か良い王さまが登場しました。しかし、彼らの多くは晩年になって傲慢になってしまい、失敗しました。南王国で最も良い王と呼ばれている父ヒゼキヤもそうです。しかし、その息子のマナセはそれまでのどの王よりも悪いと言われていますが、晩年に悔い改めました。

私たちはマナセの生き方を通して、罪の恐ろしさを心に刻みつけると共に、それでも人はいつでもやり直すことができるのだということを教えていただきましょう。

1.マナセの罪と悔い改め

マナセは父ヒゼキヤの死に伴って12歳で王になりました。紀元前697年のことです。そして彼が死んだのは前643年。実に足かけ55年間に渡って王位に就いていました。これは南王国を治めた20人の王たちの中で最も長い統治期間です。

列王記は、彼の55年間の治世を次のようにまとめています。

「彼は、【主】がイスラエルの子らの前から追い払われた異邦の民の忌み嫌うべき慣わしをまねて、【主】の目に悪であることを行った。彼は父ヒゼキヤが打ち壊した高き所を築き直し、イスラエルの王アハブがしたように、バアルのためにいくつもの祭壇を築き、アシェラ像を造り、天の万象を拝んでこれに仕えた。こうして彼は、【主】がかつて『エルサレムにわたしの名を置く』と言われた【主】の宮に、いくつもの祭壇を築いた。 【主】の宮の二つの庭には、天の万象のために祭壇を築いた。また、自分の子どもに火の中を通らせ、卜占をし、まじないをし、霊媒や口寄せをし、【主】の目に悪であることを行って、いつも主の怒りを引き起こしていた。彼はまた、自分が造ったアシェラの彫像を宮に安置した」(第2列王記21:2-7)。

そして、南王国の国民にも異教礼拝をさせました。

また、次のようにも書かれています。

「マナセは、ユダに罪を犯させて、【主】の目に悪であることを行わせた罪だけでなく、咎のない者の血まで多量に流したが、それはエルサレムの隅々に満ちるほどであった」(第2列王記21:16)。

その中には、預言者イザヤも含まれていたようです。伝承によれば、マナセは自分を批判するイザヤを恨んで、彼の体をのこぎりで2つに切り裂いて殺したと言われています。

そこで、神さまはマナセと南王国に2つの罰を用意なさいました。

罪の罰

(1) バビロン捕囚の確定
最初はバビロン捕囚の確定です。

前回登場したヒゼキヤは、不治の病だったのが神さまによっていやされました。そして、回復を祝いに来たバビロンの使者たちに、南王国の金銀財宝を見せびらかしました。預言者イザヤはその行為を叱責して、やがてバビロンがあの金銀財宝や国民を自分たちの都に持ち去ってしまうだろうと預言しました。

その預言を確定させたのがマナセです。神さまは預言者たちを通して、マナセについて次のように宣告なさいました。

「ユダの王マナセは、これらの忌み嫌うべきことを行い、実に彼以前にいたアモリ人が行ったすべてのことよりもさらに悪いことを行い、その偶像でユダにまで罪を犯させた。それゆえ、イスラエルの神、【主】はこう言われる。見よ、わたしはエルサレムとユダにわざわいをもたらす。だれでもそれを聞く者は、両耳が鳴る。わたしは、サマリアに使った測り縄と、アハブの家に使った重りをエルサレムの上に伸ばし、人が皿をぬぐい、それをぬぐって伏せるように、わたしはエルサレムをぬぐい去る。わたしは、わたしのゆずりの民の残りの者を捨て去り、彼らを敵の手に渡す。彼らはそのすべての敵の餌食となって奪い取られる。 それは、彼らの先祖たちがエジプトを出た日から今日まで、わたしの目に悪であることを行って、わたしの怒りを引き起こしたからである」(第2列王記21:11-15)。
  • 「サマリア」は北王国のことで、「アハブの家」は北王国の王家のことです。神さまに罪を犯して悔い改めなかったアハブ王家は将軍エフーのクーデターで滅ぼされ、北王国自体もアッシリアによって滅ぼされました。いずれも神さまのさばきの結果です。そのように、ダビデ王家や南王国もさばきを受けることになります。
宣告の最後の部分に書かれているように、バビロン捕囚はマナセ一人の罪のせいで起こるわけではありません。イスラエル民族が出エジプト以来代々積み重ねてきた罪のせいです。しかし、最終的にバビロン捕囚が避けることにできないものになったのは、マナセが行なった異教礼拝や残虐行為でした。

たとえるなら、歴代のイスラエルの人々がコップに水を一滴一滴落としていって、水がこぼれる寸前になっていました。そこに最後の一滴を注いで水をあふれさせたのがマナセだったということです。
(2) バビロンへの連行
2つ目の罰は今回の箇所に書かれています。神さまが預言者たちを通してマナセや南王国の民に異教礼拝の罪をやめるよう戒めたのに、彼らは聞き入れませんでした。そこで、神さまは当時中東を支配していたアッシリア帝国の軍隊を南王国に送られました。

「そこで【主】は、アッシリアの王の配下にある軍の長たちを彼らのところに連れて来られた。彼らはマナセを鉤で捕らえ、青銅の足かせにつないで、バビロンへ引いて行った」(11節)。

マナセは捕らえられて、この頃アッシリアに支配されていたバビロン地方に引っ張って行かれました。この時代はまだバビロン捕囚は始まっていませんが、マナセはいわばバビロン捕囚のオードブルを味わったわけです。
この時代のアッシリア王はエサルハドン(在位:前681-669年)という人です。そして、エサルハドンがシリアやパレスチナに軍隊を送ったときの記録が碑文として残されています。それによると、周辺諸国の22名の王たちとともにマナセがアッシリアに連れて行かれ、王宮建設のための資材調達を命じられたということです。11節は、もしかしたらそのときの出来事を表しているのかも知れません。

父ヒゼキヤは神さまの助けによってアッシリアからの独立を果たしましたが、マナセの時代に、南王国は再びアッシリアの前に膝をかがめることになったわけです。

悔い改め

アッシリアに連行されたマナセはどうなったでしょうか。

「しかし、彼は苦しみの中で彼の神、【主】に嘆願し、父祖の神の前に大いにへりくだり、神に祈ったので、神は彼の願いを聞き入れ、その切なる求めを聞いて、彼をエルサレムの彼の王国に戻された。こうしてマナセは、【主】こそ神であることを知った」(12-13節)。

悪逆非道の限りを尽くしたマナセでしたが、苦しみを通して悔い改めたとき霊的な救いを体験しました。そればかりか、神さまはマナセを再びエルサレムに戻してくださいました。

救いを体験してエルサレムに戻ったマナセは、軍備を整えただけではなく、人が変わったように宗教改革を行ないました。

「また彼は、【主】の宮から異国の神々と偶像、および、【主】の宮のある山とエルサレムに自分が築いたすべての祭壇を取り除き、町の外に投げ捨てた。そして、【主】の祭壇を築き直し、その上で交わりのいけにえと感謝のいけにえを献げ、ユダに命じて、イスラエルの神、【主】に仕えさせた」(15-16節)。
バビロン捕囚は取り消されなかった
しかし、一旦決まってしまったバビロン捕囚は取り消しにはなりませんでした。

滝に向かってボートを走らせていると、これ以上先に行ったらどんなにエンジンを回してももう戻ってこられずに滝に落ちてしまうという回帰不能点があります。代々積み重ねてきた不信仰の罪によってさばきの滝に向かって進んでいた南王国は、マナセの罪によってとうとう回帰不能点を超えてしまったのです。

マナセの息子のアモンは偶像礼拝者でしたが、その後を継いだ孫のヨシヤ王は神さまに忠実に生きた人物で、誠実に宗教改革を行ないました。それでもバビロン捕囚は取り消されませんでした。すでに南王国が回帰不能点を超えてしまっていたからです。

こうして、ヨシヤの死後、第17代エホアハズ、第18代 エホヤキム、 第19代エホヤキンと受け継がれた南王国は、紀元前586年、第20代ゼデキヤ王の時代にバビロンによって完全に滅ぼされてしまいます。そして、多くのイスラエルの民がバビロンに引かれていきました。
それでもイスラエルは約束の地に戻された
しかし、バビロンに捕らえ移されたイスラエルの民は、バビロンの地で正気に戻りました。。神の民である自分たちがこんな目に遭ったのは、自分たちの方が神さまを捨てて他の神々を礼拝したり、自分たちの欲望に従って好き勝手に生きたせいだと気づいて悔い改めたのです。

その結果、悔い改めたマナセがエルサレムに戻していただいたように、イスラエルの民もやがてバビロンから約束の地に戻していただけます。

では、ここから私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

2.戒めと励まし

罪は赦される

マナセは、父であるヒゼキヤが行なった宗教改革を台無しにして、異教礼拝・偶像礼拝を国中に広めただけではなく、子どもをいけにえとしてささげたり、法律に違反したわけでもない人たちを次々と殺したりしました。そんなひどい罪を行なったのに、それでもマナセが心から悔い改めて赦しを願ったとき、神さまは彼を赦し、再びエルサレムの王座に戻してくださいました。

私たちが信じる聖書の神さまは、正義の神ですが、同時に愛の神、恵みの神、赦しの神です。神さまは罪を憎まれますが、人が罪を認めて悔い改めるとき、その罪を赦してくださいます。それは、創世記から黙示録まで一貫して教えられていることです。

正義の神であれば罪を犯した人間をさばいて罰を与えなければならないはずです。なのに、なぜ赦されるのでしょうか。それは、神が人となってこられた救い主イエス・キリストのおかげです。

イエスさまは、本来私たちが受けるべき罪の罰を身代わりに受けて十字架にかかり、血を流し、死んでくださいました。そして、墓地に葬られますが3日目に復活なさり、天にある祭壇にご自分の血を注いで私たちの罪が赦されるようにしてくださいました。今この時も、私たちが罪赦された者として神さまに祝福されるよう父なる神さまに取りなしてくださっています。私たちはイエスさまの十字架と復活を信じるだけで、罪を赦され、神さまの子どもとされ、永遠に祝福される身分となります。

神さまは、どんなひどい罪であっても、その人が真実悔い改めて赦しを願うならば赦してくださいます。それを忘れないでいましょう。そして、失敗したことに気づいたときには、必ず赦してやり直させていただけると信じ、安心して自分の間違いを認めて神さまに謝罪し、やり直しましょう。

罪はできる限り犯さない方がいい

じゃあ、どうせ赦されるんだから安心して罪を犯すことができますね……ということにはなりません。

罪は神さまを無視し逆らうことです。愛する人に無視されたり逆らわれたりしたら私たちは傷つき、悲しみ、苦しみます。罪は神さまを傷つけ悲しませ苦しめる行為です。私たちを愛し、限りなく赦し続けてくださるお方に対して、どうせ赦されるんだから何をやってもいいなどと考えることはできません。

また、イエスさまが語ったタラントのたとえなどで描かれているように、神さまを愛してそのみこころに添った生き方をしようと努力した人に対しては、たとえ地上ではまったく評価されなかったとしても、神さまはそれにふさわしいご褒美をくださいます。その祝福は、やがて再臨なさるイエスさまが地上に作る千年王国でいただけます。

しかし、どうせ赦されるのだからと安心して罪を犯すような生き方を続けていると、本来ならいただけるはずの祝福をその分だけ削られてしまいます。長くても100年前後の人生で好き勝手生きるために、千年続く神の国で味わえる祝福を無駄にするというのは、実にもったいない話ですね。

そして、今回の箇所が教えていることは、罪自体が赦されたとしてもその影響は残る場合があるということを教えています。

マナセは、悔い改めたことによって罪を赦され、霊的な救いを得ました。今私たちが死んで天国に行けば、そこにダビデやヒゼキヤだけでなくマナセもいます。そして、一時バビロンに引かれては行きましたが、悔い改めた後にエルサレムに戻していただけました。これらは神さまの恵みです。

しかし、いけにえにされた子どもたちや無実の罪で殺されたイザヤや他の人たちが生き返ったわけではありません。また、一旦スイッチが入ってしまったバビロン捕囚への動きが止まることもありませんでした。

たとえば私が誰かの悪口をあちこちで言いふらした、もしくは万引きをした、あるいは浮気をしたとしましょう。悔い改めたら神さまはそのような罪を赦してくださいます。そういうことをしたせいで、一旦与えられた私の救いが取り消しになることは決してありません。しかし、罪によって失った社会的信頼や個人的信頼を取り戻すのはそう簡単なことではありませんね?

私たちの体には、アダム以来受け継いできた罪の性質がまだ残っていますから、たとえクリスチャンであっても罪を犯してしまうことは避けられません。ですが、罪を犯すといろいろな悪影響が残る可能性がありますから、できる限り罪は犯さない方がいいのです。自分が弱い器だということを自覚しつつ、罪に打ち勝つ力をいつも聖霊なる神さまに求め続けましょう。

悔い改めにふさわしい実を結ぼう

バビロンから戻ってきたマナセは、これまでの生き方をガラッと変えました。すなわち、異教の偶像や祭壇を壊し、まことの神さまのための祭壇を再建して、モーセの律法に則った礼拝を立て直しました。マナセは、悔い改めにふさわしい実(行動)を取ったのです。

赦された罪人である私たちも、日々悔い改めの連続です。悔い改めたならば、どういう言動が求められているのかということを具体的に考えて、それを実践しましょう。

もちろん、悔い改めにふさわしい実を結ぶことも、私たち一人の力では不可能です。神さまの助けを求めましょう。
十二のステップ
1935年6月10日、アメリカ人のビル・ウィルソンとボブ・スミスが出会いました。彼らはクリスチャンでしたがいずれもアルコール依存症でした。クリスチャンが酒に溺れたのですか? もちろんそれが良いことでないのは2人とも分かっていますが、とにかく自分ではお酒の問題をどうしようもありませんでした。修道女の紹介で出会った2人は、お酒にまつわる失敗や自分の気持ちなどを話し合いました。すると、そのときには飲みたいという誘惑が軽くなったのです。2人は、他のアルコール依存症者もその交わりに加えていきました。

こうしてできたのが アルコホーリクス・アノニマス(AA)です。現在のAAでは、「十二のステップ」と呼ばれるものを毎日確認し合っています。これはアルコールの問題を持っている人でなく、罪人であるすべての人に当てはまる内容だと思いましたので、私なりに表現し直して紹介します。
  • オリジナルでは「アルコール」となっているところを「罪の力」と置き換えています。
  • AAはどんな宗教的背景を持っている人でも参加できるように、「神」についてあえて曖昧な表現をしていますが、これをイエス・キリストと明確に表現します。
 ステップ1 私は、自分が罪の力に対して無力であり、自分自身の生活の一部がコントロール不能であることを自覚しました。
 ステップ2 私は、イエス・キリストの偉大な力が、私を正気に戻して正しい生き方に変えてくれると信じるようになりました。
 ステップ3 私は、自分の意思や生き方の変革について、イエス・キリストのお働きに任せると決めました。
 ステップ4 私は、自分自身の強さと弱さを恐れずに見つめ直して、その一覧(棚卸表)を作りました。
 ステップ5 私は、自分自身の性質の中に具体的な問題点があることを、神さまに対し、自分自身に対し、他の人々に対して認めました。
 ステップ6 私は、これらの問題点を、自力でではなくイエス・キリストに取り除いていただくことに決めました。
 ステップ7 私は、「これらの問題点を取り除いてください」と、イエス・キリストに謙遜に願い続けました。
 ステップ8 私は、自分の言動のために迷惑をかけた人のリストを作り、可能な限り謝罪や償いをしようと決意しました。
 ステップ9 私は、その人々に対して、そうすることでかえって相手を傷つけることにならない限り、機会があれば謝罪や償いを実行しました。
 ステップ10 私は、自分の強さと弱さの棚卸表を継続して作り直し続け、過ちがあればすぐにそれを罪であると認めました。
 ステップ11 私は、祈りと瞑想を通してイエス・キリストとの人格的な交わりを深め、私たちに対するキリストの意思やそれを実現するキリストの力についてもっと知ろうと努めました。
 ステップ12 私は、これらのステップの結果霊的に目覚め、このメッセージを自分のあらゆる場面でも実践すると共に、他の罪人たちにも伝えようとしました。
私たちも、日々悔い改めながら、悔い改めにふさわしい実を結び続けていきましょう。イエスさまの助けを借りながら。

あなた自身への適用ガイド

  • あなたは、過去犯してしまった過ちに今も苦しんでこられませんでしたか? その罪が完全に赦されていると聞いて、どんなふうに感じましたか?
  • 罪自体は赦されていても、その影響が後々まで残ることがあるという点について、具体的に思い浮かぶ例が何かありますか?
  • 世の人々には評価されていなくても、あなたが神さまに喜ばれることを継続して実践しているということを改めて意識し、10個挙げてみましょう。
  • 十二のステップを自分自身に当てはめてみましょう。新たに気づかされたり決心したりしたことが何かありますか?
  • 今日の聖書の箇所を読んで、どんなことを決断しましたか?

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