(2021年5月9日)
礼拝メッセージ音声
イントロダクション
教会に聖霊なる神さまが降ってこられて、一人ひとりのクリスチャンたちの内側に住んでくださるようになったことを記念するペンテコステが近づいてきました。今年は、5月23日の日曜日がこれに当たります。
そこで、その前後に聖霊なる神さまについて学んでみようと思います。特に今回は「御霊の実」と呼ばれるものを連続して深掘りします。「御霊の実」とは、聖霊なる神さまが私たちの内側に作り上げてくださる良い性質のことです。ガラテヤ5:22-23にはそれが9つリストアップされています。
これから9週間にわたって、御霊の実を一つ一つ詳しく学んでいきます。それを通して、私たちにどんなすばらしい性質が与えられているかを知って励まされると共に、私たちの責任が何かということについても教えていただきたいと思います。
今日はその1回目。最初の御霊の実は「愛」です。
1.聖書が教える愛
アガペー
ガラテヤ書が含まれている新約聖書はギリシア語で書かれています。そして、ギリシア語には愛を表す言葉が4つあります。
- エロース……現代の用法ではもっぱら性的な欲求(多くの場合不道徳な)のことを指しますが、元々は男女が全人格的に惹かれ合う情熱や、美しいものへの芸術的な憧れなどを指します。
- フィリア……これは、親子や兄弟、友人同士の間に働く信頼や結束のことです。
- ストルゲー……これは、肉親同士の間の親密さのことです。
- アガペー……この箇所で「愛」と訳されているのがこの言葉です。
この「アガペー」という言葉は、たとえばヘロドトス、プラトン、アリストテレスなど、聖書以外の古代の書物にはほとんど出てきません。一般的には使われない非常にマイナーな用語だったのです。ですから意味もよく分かっていませんが、あいさつとか満足とかいう意味だったようです。
七十人訳聖書
ところが、前3世紀から前1世紀の間に「七十人訳聖書」が作られます。これはヘブル語(一部アラム語)で書かれた旧約聖書を、当時の地中海世界の公用語だったギリシア語に翻訳したものです。この七十人訳聖書で、ヘブル語で愛を表す「アハバー」がアガペーと訳されました。
そして、新約聖書でも、エロースとストルゲーはまったく用いられておらず、フィリアとその動詞形であるフィレオーの使用回数も26回ですが、アガペーとその動詞形であるアガパオーの使用回数は261回です。
つまり、七十人訳を翻訳した学者たちや新約聖書を書いた聖書記者たちは、愛を表現するのに一般には使われないアガペーという用語をあえて選んで使用したということですね。
もっとも、ヨハネの福音書には、アガペーとフィレオーが同じ箇所に両方出てきて、しかも相互に交換可能な言葉として用いている箇所があります(ヨハネ21:15-19の復活したイエスさまとペテロの対話)。ですから、聖書のすべての箇所で明確にアガペーとフィレオーが区別されて使われているわけではありません。
それでも、マイナーな用語であるアガペーがこれほどたくさん用いられているというのは意味があります。それは、エロースやフィリアやストルゲーが持っているニュアンスとは別のニュアンスを表現したかったということ、それまで一般的に理解されていた「愛」とはまったく違った性質を持った「愛」を表現したかったということです。
では、聖書の中で「アガペーの愛」はどのような意味で用いられているのでしょうか。
2.神の愛
愛の性質
まず、聖書は神さまの人間に対する愛をアガペーと表現しています。それどころか「神はアガペーである」とさえ語っています(第1ヨハネ4:8)。
神さまの愛はどのような性質を持っているでしょうか。
相手の最善を願って行動する愛
神さまのアガペーの愛は、ご自分が何をしたいかではなく、相手にとって何が最善かを考え、実行することです。最善が私たちの人生に実現するために、神さまはあらゆる手を尽くしてくださいます。
その最善とは、有限な知恵しか持たない私たちが考える最善のことではありません。全知全能である神さまが知っておられる最善です。ですから、場合によっては私たちにはありがたくないことが起こることもあります。しかし、神さまはそのありがたくないことを通して、私たちが本当の意味で幸せになれるように取り計らってくださいます。
この話をお読みください。
この話もお読みください。
どんなときも、神さまは最善以外なさらないということを信じ続けていきたいですね。
無償の愛・無条件の愛
神さまのアガペーの愛は、見返りを求めないで一方的に注がれる愛です。神さまの愛は取引ではありません。人間が神さまの命令を守る代わりに神さまが人間を愛してくれる、命令を守らなければ愛が取り消しになるというものではありません。私や皆さんが神さまに従うようになる前から、神さまの存在を信じるずっと前から、それどころか私たちが生まれる前から、神さまは私たちを知っておられて私たちを愛し、最善が実現するよういつも導いてくださっています。
不変の愛
そして、神さまのアガペーの愛は時間の経過と共に冷めてしまったり、状況の変化によって消えてしまったりすることがありません。 神さまは、いつも変わらず私たちを愛し続けてくださっています。
キリストの愛
そして、神さまの愛は、特にイエス・キリストというお方を通して私たち人類に注がれました。
神さまは、愛であると同時に正義です。神さまが正義であるということは、間違ったことを許さない厳しさがあるということ、人が罪を犯したら罰を与えるということです。
相手の最善を願って変わることなく行動する愛の性質と、罪を決して受け入れずに罰を下す正義の性質と、その両方が神さまのご性質です。キリスト教の異端やカルト教団は、神さまの愛と正義のどちらかを無視したり強調しすぎたりする傾向にあります。
私たちは神さまの命令を完璧に行なうことはできません。ですから、正義である神さまは私たちをさばいて滅ぼさなければなりません。しかし、神さまはどういうわけかあなたや私のことが大好きで、大切に思っておられますから、切り捨てて滅ぼすなんてしたくありません。そこで、愛も正義もどちらも成り立つ方法を神さまはとられました。
自己犠牲の愛
それは、父・子・聖霊の三位一体の神さまの第2位格、子なる神であるキリストが、人となって地上に誕生なさったことです。それを記念しているのがクリスマスです。人となられたイエスさまは、まったく罪を犯さない完璧な生き方をなさいました。そして、私たち他の人間たちの罪が赦されるために、罪がないのに罪人として神さまに捨てられるという罰を受けました。それが十字架です。
その後、イエスさまは3日目に復活し、さらに40日後に天にお帰りになって、今は私たちが様々な罪を犯しているにもかかわらず神さまの愛の祝福を受けられるよう、父なる神さまに取りなしをしてくださっています。
神さまの愛は、ご自分を犠牲にする愛、自己犠牲の愛です。
キリストを見よう
あるときイエスさまは、十二使徒のひとりであるピリポが「父なる神さまを見せてください」とお願いしたとき、普通の人間が言ったら頭おかしいんじゃないかと思われるようなことをおっしゃいました。
「ピリポ、こんなに長い間、あなたがたと一緒にいるのに、わたしを知らないのですか。わたしを見た人は、父を見たのです」(ヨハネ14:9)。
今、私たちはイエスさまを直接見ることができません。しかし、イエスさまに関する証言が、福音書や手紙、黙示録に書かれていて、それを読むことによってイエスさまに出会うことができます。
神さまの愛がよく分からなくなったときには、新約聖書に書かれているイエスさまについて何度も読み返しましょう。
2.信者の愛
神への愛と他者への愛
そして、聖書はアガペーの愛で愛してくださる神さまを信じた人間にも、アガペーの愛で神さまを愛することを求めています。
「あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くして、あなたの神、【主】を愛しなさい」(申命記6:5)。
さらに聖書は、他の人間に対してもアガペーの愛で愛するよう命じています。
「わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13:34)。
これはイエスさまが語られた言葉です。人となられた神であるイエスさまは、イエスさまが人間を愛したように私たちも他の人を愛しなさいとおっしゃっています。
神さまのアガペーの愛は、相手の最善を願って行動する愛、無償の愛、不変の愛、そして自己犠牲の愛でしたね。そのような愛で、私たちも神さまを愛し、また他の人を愛しなさいということです。
実行する愛
神を愛するとは具体的にどうすることでしょうか。それについても聖書は明確に教えています。
「神の命令を守ること、それが、神を愛することです。神の命令は重荷とはなりません」(第1ヨハネ5:3)。
イエス・キリストを信じた私たちは、もうモーセの律法には縛られていません。その代わりに、キリストの律法と呼ばれる命令を実行することが求められています。キリストの律法とは、新約聖書に書かれているイエスさまや使徒たちの教えのことです。
良いサマリア人のたとえ
そして他の人を愛する愛も、具体的に行動で表すことが求められています。他の人を愛することについて具体的に教えている聖書の箇所というと、「良いサマリア人のたとえ」(ルカ10:25-37)を思い出します。
ところで、
前回のメッセージに登場したアウグスティヌスは、回心後はキリスト教会や西洋思想に大きな影響を与えました。特に、神さまの恵み(一方的な選び、赦し、救い、祝福)を強調したことはとても重要な功績です。しかし、だからといって彼が完全無欠な人物だということではありません。聖書解釈(聖書のある箇所が何を意味しているか読み取ること)の上では結構な悪影響を残しています。
それは、比喩的な解釈を世に広めたことです。もちろん、「書いた本人、話した本人が意図して比喩を使っている場合」は比喩として解釈して問題ありません。たとえばイエスさまは「私は門である」とおっしゃいましたが、文字通りおなかに人がくぐり抜けられるほどの大きな穴が開いているわけではなく、イエスさまを信じることなしに人は救われないということを比喩的に表現したのだということは、その前後の箇所も含めて素直に読めば理解できます。
しかし、著者が意図していないのに何でもかんでも比喩として解釈するのは問題です。それは、文脈(前後の話の流れ)を無視して意味を自分勝手に作り上げてしまう私的解釈です。
アウグスティヌスは、「良いサマリア人のたとえ」について、次のような解釈をしました。
- 「旅人」=アダム。
- 「エルサレム」=天にある平和の町。
- 「エリコ」=アダムの死すべき運命。 旅人がエルサレムからエリコに向かっていったのは、アダムが堕落した結果、天のエルサレムに住む権利を失ったことを意味する。
- 「強盗」=悪魔(サタン)とそのしもべである悪霊ども。
- 「その人の着物をはぎ取った」=アダムの不死性がはぎ取られて死ぬ者となった。
- 「なぐりつけた」=アダムに罪を犯させた。
- 「半殺しにした」=アダムは肉体的には生きてはいるが、霊的には死んだ状態になった。
- 「旅人を無視した祭司やレビ人」=旧約聖書の祭司制は人を救わない。
- 「サマリア人」=キリスト。
- 「傷にほうたいをした」=罪を縛りつけて人を解放する。
- 「オリーブ油を塗った」=善い希望の慰め。
- 「ぶどう酒を注いだ」=熱い霊をもって働けという励まし。
- 「家畜」=受肉したキリストの肉体。
- 「宿屋」=教会。
- 「次の日」=復活の後。
- 「デナリ二つ」=今のいのちと来るべきいのち。
- 「宿屋の主人」=パウロ。
すなわち、イエス・キリストによって罪人が救われることを教えているという解釈です。
思わず「へー」と納得してしまいそうになりますが、これは勝手に考え出した私的解釈です。この箇所の文脈(話の流れ)に注目すれば、このたとえを語ったイエスさまやそれを記録したルカはそのようなことを意図していなかったことが明白です。
このたとえは、イエスさまがモーセの律法を研究する専門家に向かって語られたものです。この専門家は、「自分を愛するように隣人を愛しなさい」と書かれている律法の命令を守るようイエスさまに言われると、「私の隣人とは誰ですか」と尋ねました。
イエスさまが具体的にこういう人たちのことだと例を挙げたら、「その人たちには愛を示しています」と言って、自分がモーセの律法を正しく実践していることを示そうと思ったのでしょう。その証拠に、ルカは
「しかし彼は、自分が正しいことを示そうとしてイエスに言った」と、この律法学者の隠れた動機を暴露しています。
その当時、ユダヤ人とサマリア人は犬猿の仲で、ユダヤ人はサマリア人のことを大変軽蔑していました。そのサマリア人がユダヤ人を助けるたとえ話をイエスさまは語られたのです。そして、最後に
「あなたも行って、同じようにしなさい」とおっしゃいました。自分の助けを必要としている人がいるなら、相手を選ばないで愛を実践するよう教えているのがこのたとえ話です。
私たちも、愛とは何かということについて議論するだけではなく、実践しましょう。
御霊の実としての愛
愛とは何かを議論するのではなく実践しようと申し上げましたが、聖書は私たちに求められている愛がどのようなものかもちゃんと教えてくれています。私は結婚式場でチャプレンの仕事もしていますが、式の中で第1コリント13:4-8を朗読します。
「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。 礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、苛立たず、人がした悪を心に留めず、
不正を喜ばずに、真理を喜びます。すべてを耐え、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを忍びます。愛は決して絶えることがありません」。
以前、愛という名前の女性の結婚式司式したことがあります。愛さんの前でこの第1コリント13章の言葉を語ったのです。そのときには愛さんが微妙な表情を浮かべておられました。皆さんも、「愛」の代わりにご自分の名前を入れて読んでみてください。恥ずかしくなって最後まで読めないことでしょう。私もそうです。
もちろん、私だって人の失敗を寛容に許す気持ちになることがあるし、親切にすることだってあるし、謙遜な気持ちになることもあります。しかし、最後の部分に「愛は決して絶えることがない」と書かれています。いつもいつも決して変わらず寛容であり続けているか、親切であり続けているか、謙遜であり続けているかと問われれば、答えはNOです。
つまり、私には神さまが要求しているような愛はないと認めざるを得ません。
しかし、だから私たちはダメなんだと聖書は語っているわけではありません。愛は御霊の実のリストに挙げられています。愛、喜び、平安など9つの良い性質は、私たちの努力によって身につけるものではなくて、聖霊なる神さまが私たちの内側に実らせてくださるものだということです。
私たちの責任
私たちに与えられている責任は、実った実が生長・成熟していくのを邪魔しないようにすることです。
具体的には、神さまの愛、イエスさまの愛がどのようなものかをいつも学んで、自分もそのような愛で神さまや他の人のことを愛せるようにしてくださいと、聖霊なる神さまに祈り続けることです。
そして、実際に愛を行動に移すことです。
弟子たちが嵐の中舟に乗っていたとき、イエスさまが湖の上を歩いて近づいてこられたことがあります。そのときペテロが「もしイエスさまでしたら、私に『ここまで来い』とおっしゃってください」とお願いしました。イエスさまが「来なさい」と言うと、ペテロは湖の上を歩くことができました。イエスさまが「来なさい」とおっしゃったとき、ペテロには湖の上を歩く力が与えられました。しかし、実際に足を湖の上に下ろして体重をかけなければ、歩くことはできませんでした。
聖霊さまは、クリスチャンである私たちの内側に愛の実を結ばせてくださっています。その力を実際に使いましょう。
あなた自身への適用ガイド
- あなたは、最近どのように神さまの愛を実感させられましたか?
- 神さまの愛の性質を学んで、気づいたり感じたりしたことがありましたか?
- 救われる以前と今の自分を比較してみましょう。愛の面で、少しでも良い方向に成長したことが実感できますか?
- 今週、誰に対してどんな愛の行動をするよう神さまに語られていると思いますか?
- 今日の聖書の箇所を読んで、どんなことを決断しましたか?