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礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

喜び

御霊の実シリーズ2

ペテロの第一の手紙1章3節〜9節

(2021年5月16日)

礼拝メッセージ音声

イントロダクション

現在、「御霊の実」(ガラテヤ5:22-23)に登場する9つの良い性質について、1つ1つ解説しています。今回は、2番目の「喜び」についてです。

最近はパソコンのアプリを使って、聖書の中で特定の文字が載っている節を簡単に検索して表示することができます。試しに「喜」という文字を検索すると、新改訳2017では678節がヒットしました。その中で、人間の喜びについて書かれている箇所にざっと目を通してみると、おもしろいことに気がつきます。

1.喜びなさい

命令形

聖書の中で人間の喜びについて書かれている節は、「○○は喜んだ」とか「喜んでいる」というふうに歴史的事実としての喜びを描いている箇所がたくさんあります。しかし、それ以外に「喜びなさい」というふうに、命令の形で表現されている箇所もたくさんあります。

有名な箇所が、 「いつも喜んでいなさい」(第1テサロニケ5:16)ですね。

また、直接「喜びなさい」と命ぜられるだけでなく、「喜びながら○○しなさい」という間接的な命令もよく見られます。例を挙げれば、私たちの教会の礼拝式の最初に朗読する詩編100篇の中で、「喜びをもって【主】に仕えよ。喜び歌いつつ御前に来たれ」(詩篇100:2)と命ぜられています。

どんな状況でも

第1テサロニケ5:16でどんなときに喜ぶよう命ぜられているか見てみると、「いつも」と書かれています。すなわち、こういう状況になったらという条件抜きに、どんな状況に置かれていたとしても喜ぶということです。

その箇所だけでなく、聖書の中で喜びについて書かれている箇所を読んでいくと、やはりどんな状況に置かれていても喜ぶよう命ぜられていたり、ひどい苦しみの中に置かれている信者が実際に喜んだりしている箇所があちこちにあります。いくつか例を挙げましょう。

「愛する者たち。あなたがたを試みるためにあなたがたの間で燃えさかる試練を、何か思いがけないことが起こったかのように、不審に思ってはいけません。むしろ、キリストの苦難にあずかればあずかるほど、いっそう喜びなさい」(第1ペテロ4:12-13)。

「私の兄弟たち。様々な試練にあうときはいつでも、この上もない喜びと思いなさい」(ヤコブ1:2)。

「彼らの満ちあふれる喜びと極度の貧しさは、苦しみによる激しい試練の中にあってもあふれ出て、惜しみなく施す富となりました」(第2コリント8:2)。


うれしいことが起こったときに喜ぶのは難しいことではありません。私たちは誰に命ぜられなくても、喜びを感じ、それを表情や行動に表すことが自然にできます。わざわざ「喜びなさい」と命ぜられているということは、自然に喜びを感じることができないような状況でも、あえて意識して喜ぶという行動を選びなさいということです。

しかし、まったく理由がないのに喜ぶことなどできません。今どんな状況に置かれていたとしても、それでも喜びながら生活せよと命ぜられているからには、喜ぶ理由が必ずあるはずです。それを次に考えていきましょう。

2.喜びの理由

どんな自分でも愛されているという希望

聖書は、全知全能の神さまが私たちを愛してくださっていると教えています。私たちには罪があって、神さまの要求を完全に行なえないどころか、しょっちゅう神さまが悲しまれるようなことを考えたり実際に行なったりしています。それでも、神さまは私たちの罪を赦し、愛し続けてくださっています。

人となられた神であるイエスさまは、私たちの代わりに罪の罰を受けて、十字架で血を流し、死んで葬られました。そして、3日目に復活して、今も私たちのために父なる神さまに取りなしをしてくださっていると聖書は教えています。ですから、私たちには罪があるにもかかわらず完全に赦されていて、神さまに受け入れられ、大切にされています。

自分が命がけの大きな愛で愛され、受け入れられ、見守られていることを知るとき、私たちはどんな状況でも喜ぶことができます。

この話をお読みください

神さまに愛されているという事実をいつも思い描きましょう。聖書を読み、祈りながら、神さまに愛されていることを毎日確認し続けましょう。そして、愛されていることを喜びましょう。

聖霊なる神さまも、神さまに愛されていることを私たちにいつも教えてくださいます。そして、それによって私たちの内側に「喜びの実」が実ります。

問題が祝福に変えられるという希望

全知全能の神さま、この宇宙を支配し、時間さえも超越しておられる偉大な神さまが私たちを愛してくださっていることを知ったなら、その神さまが私たちに悪いことをなさるはずがないと知ることができます。

たとえ私たちにとっては嫌な出来事、悲しい出来事、苦しい出来事が起こったとしても、神さまが私たちを愛しておられるなら、最後には必ず私たちにとって最善の結果が待っているはずです。それどころか、その問題がなければ経験できないようなすばらしい結末が待っているはずです。

うつ病は心の病だと一般には思われていますが、実は脳神経の病気です。原因はよく分かっていませんが、脳の神経の間で情報をやり取りするための神経伝達物質がうまく出し入れできなくなって、脳神経の情報のやり取りがうまくいかなくなってしまうのです。特に、気持ちを前向きにさせたり、活力を生み出したり、高ぶった気持ちを静めたりする働きがある神経伝達物質の量が減ってしまうので、結果として気分が落ち込んだり、異常に不安になってパニックになったり、体が動かずゴロゴロしたりという症状が出てくるのです。

クリスチャンの中にもうつ病になって苦しむ方々がたくさんいらっしゃいます。カウンセラーとしてそんな方々とお話ししてきました。そして、回復した人たちが口をそろえておっしゃるのは、「うつ病になって良かった」という言葉です。もちろん、二度とあんな苦しみは味わいたくないけれど、それでもうつ病になったおかげで大切なことを学んだというのです。

うつ病になって重症化すると、これまで自信の種だったものがことごとく奪い取られます。バリバリ働いて社会に貢献したり家族を養ったりしていたのが働けなくなります。いつもきれいでおしゃれねと言われていたのが、一切容姿に気を配れなくなります。他の人を助けて感謝されていたのに、一方的に世話をしてもらう立場になります。こんな自分では生きている価値なんかない、それどころか他の人の迷惑でしかない。そんな思いになって死にたくなります。これもまたうつ病で苦しいことのひとつです。

しかし、そんなふうに誇りとしていた自信の種をことごとく奪われて、ただ寝ているしかできない自分になったある日、「それでも私はあなたを愛している。あなたは私にとって自分の瞳のように大切だ。私はあなたを手に入れるために自分の命を捨てた。それほどまでにあなたは私にとってかけがえのない存在だ」というイエスさまの声が心にドンと響きます。

それまでも教会で無条件の愛という言葉は聞いてきたし、理解していたつもりにもなっていた。でも、本当に誇りをすべて失った自分になったとき、神さまの愛が無条件で一方的だということが心の奥底から理解できるようになりました。そして、どんな状況の中でも愛されている喜びが心を包むようになります。だから、うつ病から回復したクリスチャンたちの多くが、「二度とあの苦しみは味わいたくないけれど、それでもうつ病になって良かった」とおっしゃるのです。

生きているといろいろな苦しみを体験します。しかし、イエスさまを信じて神さまの子どもとされた私たちにとって、その問題は祝福の種です。ですから、将来のその祝福を先取って、その問題のまっただ中で意識して喜びましょう。

聖霊なる神さまも、父なる神さまが最善意外な去らないこと、どんな問題も祝福に換えられることを教えてくださいます。そして、それによって「喜びの実」が私たちの内側に実ります。

次の世の希望

そして、私たちがどんな状況でも喜べるのは、この地上の生涯が終わってもさらに第二の人生が待っていて、そこでは今とは比較にならないほどのすばらしい人生が待っているからです。

そのことが今回皆さんと一緒に交読した箇所にも書かれています。

第1ペテロ
1:3 私たちの主イエス・キリストの父である神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせ、生ける望みを持たせてくださいました。
1:4 また、朽ちることも、汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これらは、あなたがたのために天に蓄えられています。
1:5 あなたがたは、信仰により、神の御力によって守られており、終わりの時に現されるように用意されている救いをいただくのです。
1:6 そういうわけで、あなたがたは大いに喜んでいます。今しばらくの間、様々な試練の中で悲しまなければならないのですが、
1:7 試練で試されたあなたがたの信仰は、火で精錬されてもなお朽ちていく金よりも高価であり、イエス・キリストが現れるとき、称賛と栄光と誉れをもたらします。
1:8 あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、今見てはいないけれども信じており、ことばに尽くせない、栄えに満ちた喜びに躍っています。
1:9 あなたがたが、信仰の結果であるたましいの救いを得ているからです。


病気のいやしを祈ったけれどいやされずに亡くなるクリスチャンがいます。貧しさの中で貧しいまま亡くなるクリスチャンがいます。迫害の中で命を落とすクリスチャンがいます。本当はそうではないのに周囲に誤解されて悪い評判を受けたまま亡くなるクリスチャンがいます。そんなふうに、人間の目から見たら報われないまま死んでしまうクリスチャンがこの世にはたくさんいます。
天のパラダイスと携挙
しかし、人の命はこの地上だけで終わるものではありません。死んで肉体が滅びても魂は永遠に続きます。そして、死んだ人の魂は天のパラダイスへと迎え入れられます。そこでは地上での苦労がねぎらわれ、慰めと平安を味わうことができます。

そうして、やがて教会が携挙されるときがやってきます。死んだクリスチャンの魂は新しい復活の体を手に入れて、再び天のぱらだいすに入れられます。そのとき生きていたクリスチャンにも復活の体と同じ栄光の体が与えられて、天のパラダイスに入れられます。
再臨と千年王国
それからしばらくすると、イエスさまが地上に再臨なさって、すべての悪人を滅ぼし、サタンや悪霊たちも封印して活動できないようにして、地上に神の国を建設なさいます。栄光の体が与えられたクリスチャンたちは、同じく復活した旧約時代の信者たちや、携挙の後に救われた人たちと共に神の国に住みます。そこでは、生きている間にがんばったことに応じて、様々な祝福が与えられます。

たとえ人がほめてくれなくても、イエスさまはちゃんとあなたの頑張り、あなたの優しい行ない、あなたの正しい行ないを知っていてくださって、必ず報いを与えてくださいます。
新天新地
さらに1000年が過ぎると、今のこの宇宙はすべて消え去って新しい宇宙(新天新地、新しい天と新しい地)が創造されます。サタンや悪霊たちも捕らえられて「火の池」と呼ばれているゲヘナに落とされ、永遠の苦しみを受けます。しかし、私たちが招かれる新天新地は、死も苦しみもない完全な喜びの世界です。私たちはそこにも招かれていて、神さまと共に永遠にそこでの生活を喜び楽しみます。
将来を思って喜ぶ
そのような将来が私たちを待っています。ですから、今がどういう状況であったとしても私たちはそのことを想像しながらニヤニヤできるのです。

この話をお読みください

聖霊なる神さまは、私たちにこの人生の先に永遠に続く祝福された人生が待っていることを教えてくださいます。そして、それによって「喜びの実」を私たちの内側に実らせてくださいます。

まとめ

聖書は、どんな状況の中でも、たとえ感情が伴わなくても、意識して喜ぶことを選ぶように命じています。特に、「主を喜ぶ」という言葉が聖書の中でたくさん出てきます。私たちがどんな状況でも喜ぶことができるのは、主である神さまが私たちを愛してくださっているから、そしてどんな問題も祝福に変えてくださり、死んだ後にもすばらしい人生を用意してくださっているからです。

喜びも御霊の実、聖霊なる神さまが私たちの内側に作り上げてくださるプレゼントです。聖霊なる神さまに神さまの愛がもっと理解できるように、そしてどんな問題も祝福に変わるという確信、死んだ後もっともっとすばらしい人生が待っているという希望に満ちあふれることができるよう、いつも祈りましょう。そして、神さまの素晴らしさに目を留めさせていただき、神さまを賛美し、感謝し、そして喜びを表しましょう。

あなた自身への適用ガイド

  • 感情的には喜べないはずの状況で、喜びを感じた経験がありますか?
  • 今あえて意識して喜ぶよう神さまが命じておられるとしたら、それはどのような状況についてですか? そのような状況にもかかわらず喜べるとしたら、その理由は何ですか?
  • 神さまに愛されている確信がありますか? もしあやふやだとすれば愛されない理由は何だと思っていますか?
  • 問題がかえって祝福の種になった経験がこれまでにありますか?
  • 誰にもほめられなくても、神さまは知っておられることと言われて、今特に思い浮かべるのはどういうことですか?
  • 今日の聖書の箇所を読んで、どんなことを決断しましたか?

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