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礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

寛容

御霊の実シリーズ4

ローマ書9章20節〜26節

(2021年5月30日)

礼拝メッセージ音声

参考資料

25-26節は、ホセア2:23の引用です。罪を犯して悔い改めないイスラエルのことを、神さまは「わたしの民ではない、愛されない子」と呼ばれました。しかし、そんなイスラエルを神さまは赦し、再び「わたしが愛する、私の民」と読んでくださるというのがホセア2:23の意味です。パウロはその言葉を引用しながら、同様に異邦人も、元々神の民ではなかったのに、イエス・キリストを信じることによって罪を赦され、神さまの子どもにしていただいたと説明しています。

イントロダクション

現在、「御霊の実」(ガラテヤ5:22-23)に登場する9つの良い性質について、1つ1つ解説しています。今回は、4番目の「寛容」についてです。

皆さんは、寛容というとどんなイメージを持っておられますか? 今日は、聖書が教える寛容、聖霊なる神さまが私たちの内側に形作らせてくださる寛容な性質がどういうものか教えていただきましょう。

1.神の寛容

神の怒り

聖書が「寛容」という場合、人間の性質についてだけでなく、神さまのご性質についても語っています。今回ご一緒に交読した聖書箇所もそうですね。

そして、神さまの寛容は、神さまの怒りとセットで語られることが多いのです。今回の22節もそうです。「それでいて、もし神が、御怒りを示してご自分の力を知らせようと望んでおられたのに、滅ぼされるはずの怒りの器を、豊かな寛容をもって耐え忍ばれたとすれば、どうですか」。

ここで「器」と呼ばれているのは人間のことです。この箇所は、本来ならば神さまは人間に対して怒りをぶつけるはずだったのに、それをなさらなかったと語っています。そして、そのことを「豊かな寛容」と呼んでいるのです。
マクロスミア
御霊の実のリスト(ガラテヤ5:22-23)で「寛容」と訳されている言葉も、寛容が怒りと関係していることを示しています。

「寛容」と訳されている言葉は、原語であるギリシア語ではマクロスミアで、マクロとスーモスという2つの言葉が合わさってできています。マクロは長い、スーモスは怒りという意味です。そこで、それらの合成語であるマクロスミアは、「怒らない時間が長い」「すぐに怒りを表わさない」という意味を持ちます。
怒りの器
今回の箇所に「怒りの器」という言葉があります。時代劇などを見ていると、陶芸家が陶器を焼き上げた後、それを次々に壊していくシーンが描かれることがあります。それは思い通りの作品ができなかったためです。「怒りの器」という言葉は、それを連想させます。

人間は神さまによって造られましたから、神さまにとって大切な芸術作品のような存在です。しかし、人間の陶器師と違って神さまは決してへまをなさらないはずです。実際、神さまが人間を含むすべてのものを創造なさった後、神さまがそれらをどう評価なさったかが聖書に書かれています。「神はご自分が造ったすべてのものを見られた。見よ、それは非常に良かった」(創世記1:31)。

それなのに、なぜ神さまは人間に対して怒りを抱かれたのでしょうか。聖書が一貫して教えているのは、人間が神さまに対して罪を犯し、今も犯し続けているからです。罪とは、この宇宙を創造し支配しておられる創造主の神さまを無視して、自分勝手に生きることです。

あの国やあの国のような独裁国家で、独裁者に反逆したらひどい刑罰が待っています。では、宇宙の支配者である神さまに反逆する罪は、どのような刑罰を招くでしょうか。それを聖書は「滅び」と呼びます。滅びとは、存在が消えて無くなることではなく、永遠に取り去られることのない苦しみです。

今私たちは、神さまを信じていようがいまいが、神さまの祝福の下にあります。イエスさまはおっしゃいました。「父はご自分の太陽を悪人にも善人にも昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」(マタイ5:45)。しかし、神さまと完全に切り離されて、神さまが知らぬ間にくださっていた祝福の一切が取り除かれる状態、それが滅びです。

今私たちが地上で体験する最も厳しい痛みや飢え渇きや孤独や罪責感などの苦しみを想像してみてください。それを何万倍もひどくしたよりも、さらにさらに厳しい苦しみ。それが聖書が教える滅びです。新約聖書は、それを火の池に落とされると表現しています。しかも、その苦しみは永遠に取り除かれることはありません。なんと恐ろしい刑罰でしょうか。

当然の怒りを抑えること

ところが、寛容さに満ちた神さまは、人間がご自分を無視したり逆らったりする侮辱を耐え忍んで、そのような滅びの刑罰を人間に下さないようにしてくださいました。

独裁国家の支配者の怒りと違って、神さまの怒りは自分勝手な怒りではありません。それは正当なもの、怒って当然のものです。しかし、それでも神さまは罪を犯した人間に怒りをぶつけることをなさいませんでした。それを聖書は寛容と呼んでいるのです。

ですから、聖書が教える寛容とは、怒りを感じそれを相手にぶつけても仕方が無いもっともな理由があるにもかかわらず、あえてそれをしないことを指します。

先ほど、マタイ5:45の言葉を引用しました。この言葉の文脈は、神さまが私たちに寛容に接してくださったのだから、私たちも他の人の罪に対して寛容に接しなさいという命令です。直前の箇所でイエスさまはこうおっしゃっています。「自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(マタイ5:44)。

さらにその前でこのように語られましたには、「あなたに一ミリオン行くように強いる者がいれば、一緒に二ミリオン行きなさい」(マタイ5:41)。

イエスさまが地上で活動なさった時代、イスラエルはローマ帝国の支配下にあって、多くのローマ兵が国内にいました。そして、突然イスラエルの国民、ユダヤ人に対して荷物運びをするようローマ兵から強要されることがあったのです。自分たちの国を支配する敵国人のために、どうして喜んで働くことができるでしょうか。それはユダヤ人としては当然の反発です。

それにもかかわらず、イエスさまは命ぜられた倍の距離、荷物を運べとおっしゃいました。人情からすれば反発して当然だけれど、積極的に敵を助けなさいということです。

赦し

そんな非常識な行動ができるためには、相手の理不尽な行動、すなわち怒って当然の行動を赦すことが必要です。寛容な神さまは、私たちの罪を赦すことによって、私たちが永遠の滅びを招かないようにしてくださいました。

では、寛容とは、人が間違った行動をしても見て見ぬ振りをするということなのでしょうか。そうではありません。神さまの罪に対する厳しさは決して無になることはありません。罪は必ずさばかれ、刑罰を招かなければなりません。そうでなければ、聖書の神さまが正義の神だということが嘘になってしまいます。

実際、私たちの罪に対する刑罰は執行されました。でも、私たちはこうして神さまの祝福の中に生かされています。それは、私たちの代わりに神さまに捨てられ、切り離されるという刑罰を受けてくださった方がいたからです。私たちの身代わりとなってくださった方、それはイエス・キリストです。

イエスさまが十字架にかけられて死んだのは、時の国家権力に逆らったための刑罰ではありません。私たちの罪の罰を身代わりに受けるためです。それは、そのときに急に思い立った出来事ではなく、旧約聖書であらかじめ預言されていたことです。それだけでなくイエスさまは私たちの代わりに復活なさることによって、神さまの敵だった私たちが神さまの愛する子どもに生まれ変わるようにしてくださいました。

神さまはずっとずっと昔から、私たちを赦し、永遠の滅びという刑罰を取り除き、神さまの愛する子どもにすることを計画してくださっていました。そして、イエスさまが、この自分の罪を赦すために十字架にかかり、死んで葬られ、3日目に復活した。それを信じることによって、別に特別な修行をしたり、善行を積んだりしなくても、私たちの罪は本当に赦され、神さまの子どもになることができます。これが神さまの寛容です。

2.忍耐

英語訳

ガラテヤ5:22の「マクロスミア」を多くの日本語訳は「寛容」と訳しています。ところが、英語訳を見ると違った訳され方をしています。
  • 新欽定訳などは「longsuffering」、すなわち「長く苦しむこと」「辛抱強さ」
  • Today's English Versionなどは「patience」、すなわち「忍耐」「根気」
  • New International Versionなどは「forbearance」、すなわち「辛抱」「自制」
要するに、我慢するとか、忍耐するとかいうニュアンスの言葉で訳しているのです。

御霊の実であるマクロスミアは、単に他の人に対して広い心で接するというだけでなく、どんな状況にあってもなすべきことをやり通す強さも表わしています。怒りを先延ばしにするだけでなく、絶望や諦め、怠惰や甘えといったものも先延ばしにして、今やらなければならないことを粛々と行なう強さ、それが聖書の教える寛容です。ずいぶん日本語の「寛容」という言葉が持つイメージと異なりますね。

単なる我慢とは違う

しかも、その忍耐とは、嫌なことをただただ我慢するということとは違います。聖書が教える忍耐は、自分がしなければならないこと、すなわち神さまが自分に望んでいることをしっかりと思い描き、それを邪魔する誘惑や攻撃があっても負けないでやり通すことです。

使徒ペテロも忍耐についてこんなことを語っています。「罪を犯して打ちたたかれ、それを耐え忍んでも、何の誉れになるでしょう。しかし、善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、それは神の御前に喜ばれることです」(第1ペテロ2:20)。

私たちクリスチャンが、自分にひどいことをする人を赦し、その人に愛を示す寛容さを実践しようとするのも、それが神さまが望んでおられる正しいことだからです。相手からこちらにひどいことをしたのに、こちらが相手を赦し、大切にするのは道理に合いません。また、たとえその人を赦し、愛を示したからといって、その人が態度を変えるかどうかなんて分かりません。それでも、その人を赦し、愛を示し続けるには、正しいことをやり通す力、すなわち忍耐力が必要ですね。

勇気

最近注目されている心理学者アルフレッド・アドラーは、しなければならないことをやり通す力のことを「勇気」と呼びました。

子どもが、勉強や掃除などやらなければならないことを、親や先生が監視しているときだけはやるけれど、目を離すとやらないというのは、勇気が無い状態です。勇気のある子どもは、親や先生が見ていても見ていなくても、やらなければならない勉強や掃除をやります。

暴走族が、事故になることを恐れず信号を無視して交差点にバイクを突っ込ませるのは、実は勇気のある行動ではありません。勇気のあるドライバーは、交通ルールを守り、自分や他の人の安全を確保します。

私たちは、どんな困難があっても、聖書が教える神さまのみこころを実行する勇気、すなわち聖書が教える寛容さを与えられたいですね。

では、私たちはどのようにしてそのような寛容さを身につけることができるのでしょうか。

3.神に倣う者

神の模範

子どもは親の背中を見て育ちます。子どもは親が何を語っているかではなく、何を行なっているかにより強い影響を受けるものです(恐ろしいことに……)。

私たちはイエスさまを信じたことにより、神さまの子どもにしていただきました。だから、神さまがなさったように、怒って当然の状況でも相手を赦そうと聖書は教えます。

また、人としてこられた御子イエスさまは、私たちに寛容さの模範を示してくださいました。無実の罪で捕らえられ、暴力を受け、侮辱され、身ぐるみを剥がれて十字架につけられたとき、イエスさまに逆らう人々は追い打ちをかけるように「もしお前が神の子、救い主だというのなら、今すぐ十字架から降りてきてみろ」とからかいました。

可能かどうかの話なら、イエスさまはすぐに釘付けにされているにもかかわらず十字架から降り、かつて弟子に語ったように(マタイ15:53)、12軍団以上の天使(1軍団は6千人なので、7万2千人以上の天使)を呼び出してその人々を一瞬に滅ぼすこともできました。

しかし、イエスさまはそうなさいませんでした。それどころか、イエスさまは自分を罵る人たちを見下ろして、激しい心身の痛みに中で父なる神さまにとりなしの祈りを捧げました。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです」(ルカ23:34)。

寛容の原動力

では、イエスさまが赦されるよう取りなしをなさった「彼ら」とは誰でしょう。自分をローマ帝国に売り渡したユダヤ人でしょうか。自分の無罪を知りながら、ユダヤ人の反乱を恐れて有罪判決を下したローマ総督ピラトでしょうか。自分をいたぶった挙げ句に十字架につけたローマ兵たちでしょうか。通りすがりに自分のことを罵るユダヤの民衆でしょうか。そのとおりです。

しかし、「彼ら」の中には、ずっと後に生まれた私やあなたも含まれます。

三浦綾子さんの小説「塩狩峠」で、主人公がイエスさまを信じるようになったプロセスが描かれています。主人公が道を歩いていると、キリスト教の伝道者が路傍伝道をしていました。キリストが悪人を救うために命を捨てたという話に感動した主人公は、伝道者の宿泊場所に着いていきました。伝道者は主人公に言いました。「キリストが、あなたのために十字架にかかって死なれたと言うことを信じますか?」

しかし、主人公はとんでもないと答えます。自分は一生懸命真面目に生きてきた。自分は悪者ではないと。すると、伝道者は答えました。「では、キリストはあなたと何の関係も無い存在です」。そして、新約聖書を手渡し、「どれでもいいから、聖書に書かれている神の命令の1つを徹底的に実行してご覧なさい」。

主人公は「自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(マタイ5:44)という言葉を選んで実践しようとしました。ところが、彼の部下に恩を仇で返すようなとんでもない人物がいて、とても彼を赦すことなんてできないと思った主人公は、「ああ、徹底的に命令を守れない中途半端な罪人の自分を救うために、イエス・キリストは来られ、十字架にかかられたのだ」と気づきます。こうして、主人公はイエス・キリストを信じてクリスチャンとなりました。

その後、主人公は、暴走する列車を停めるために、自分の身を線路と列車の間に投げ出して死ぬことになります。そうしてたくさんの人々の命を救いました。そんな考えられない行為を実践できたのは、イエス・キリストが自分のために命を捨てたという事実を毎日毎日味わって感動し、感謝に満たされていたからです。

私たちが聖書の教える寛容、すなわち怒って当然の状況でも怒りをぶつけるのではなく、相手を赦して愛を実践するのも、神さまが望んでおられることをどんな状況でも徹底的にやり続けることができるのも、神さまがそれを私たちに対して実行してくださったから、そしてそれを知って私たちが感動し、感謝に満ちあふれているからです。

聖霊のみわざ

寛容は御霊の実の一つです。それは聖霊なる神さまが私たちの内側に実らせてくださる性質です。

聖霊なる神さまは、私たちに相手を赦す力を与えてくださいます。なすべきことをやり通す勇気を与えてくださいます。それは、聖霊さまが、私たちに対する神さまの愛、そしてイエスさまの具体的な行動をいつも思い起こさせ、感動や感謝の思いを引き出してくださるからです。

誰かに対する怒りを手放せないとき、しなければならないことをやり通すことが難しいと感じるとき、聖霊なる神さまに祈りましょう。この自分のことを、父なる神さまがどれだけ愛してくださっているか教えてください。そして、イエスさまがこの自分のためにどれほどの犠牲を払ってくださったか教えてください、と。

あなた自身への適用ガイド

  • 最近誰かから「寛容さ」を示されましたか? それはどのようなことですか?
  • 「赦しなさい」という命令を聞いて、あなたは誰のことを思い浮かべますか? その人のどんな行為を赦せということだと思いますか?
  • 「しなければならないことをやり通す」のが寛容だという話を聞いて、あなたは何をやり通すよう神さまから語られていると感じましたか?
  • あなたは最近、どのように神さまの寛容さを体験しましたか?
  • 今日の聖書の箇所を読んで、どんなことを決断しましたか?

連絡先

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