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礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

誠実

御霊の実シリーズ7

ヘブル書11章1節〜6節

(2021年6月20日)

礼拝メッセージ音声

参考資料

今回の御霊の実は、新改訳や新共同訳では「誠実」と訳され、口語訳では「忠実」と訳されています。英語訳の多くは「faithfulness」(忠実、誠実、貞節、正確というような意味)と訳しています。

ヘブル11:1で「信仰」と訳されている言葉は、御霊の実の「誠実」と同じ単語です。

使徒17:31では「確証」と訳されています。神さまがやがてこの世界をさばくことを決めておられるということ、だから人間には悔い改めが必要だということを信じさせるための証拠として、神さまはイエスさまを復活させたという意味です。

イントロダクション

現在、「御霊の実」に登場する9つの良い性質について、1つ1つ解説しています。今回は、7番目の「誠実」(口語訳では「忠実」)についてです。

今回も聖書が教える誠実について学びましょう。新約聖書が元々書かれた言葉であるギリシア語では「ピスティス」と言います。大きく分けて2つの意味がありますが、それを順に紹介します。それによって、聖霊なる神さまは、どんなすばらしい性質を私たちに与え、またそれを育ててくださっているかを知って励まされましょう。

1.信頼に足る存在だという保証

人間関係の基本

誠実、あるいは忠実と訳されているピスティスには、「自分が信頼に足る存在であることを保証すること」という意味があります。
信頼とは
信頼とは、相手がこれから先こちらの期待通りに行動してくれるだろうと心から思って、頼りにすることです。相手に対する期待というのは、たとえば、
  • この人は、ルールやマナーを守るはずだ。
  • この人は、約束したことはしっかり実行するはずだ。
  • この人は、自分を守るための嘘はつかない。
  • この人は、私に対して決して悪いことをしないどころか、良いことをしてくれるはずだ。
  • この人は、言うことが首尾一貫している。
  • この人に仕事を任せたら、期待通りの結果を出してくれるはずだ。
そういう期待をかけ、必ずそうしてくれると信じて頼ることが信頼です。

もちろん、「この人に頼んだらいくらでもお金を貸してくれるはずだ」とか「この上司は、いくら遅刻しても叱ったりしないはずだ」とかいうような自分勝手な期待にいちいち応える必要はありません。しかし、先ほど申し上げたようなまっとうな期待に基づく信頼は、個人的な人間関係や社会生活において、必要不可欠のものです。

信頼できない人と一緒に過ごしたり、仕事をしたりするのは大変です。上で紹介したような期待ができない相手だということですから。すなわち、
  • この人は、監視していないとルールや法律をすぐ破りかねない。
  • この人は、約束しても簡単に破ることがよくあるから当てにできない。
  • この人は、よく大事なところで嘘をつく。
  • この人は、しばしば私に意地悪な対応をする。
  • この人は、言うことがそのときの気分でコロコロ変わる。
  • この人に仕事を任せても、おそらく期待通りの結果を出せないだろう。
私たちはそうではなく、他の人に信頼してもらえるような存在になりたいですね。そして、多くの人たちと一緒に信頼に基づく親密な関係を結び、多くの良いものを一緒に作り上げていく生産的な生き方がしたいですね。

信頼される存在になるには

では、どうしたら他の人に信頼してもらえるような存在になれるのでしょうか。私たちが人から信頼してもらうためには、それにふさわしい言動を過去にしていることが必要です。

いくら「自分はあなたの信頼に応えます」と誓ったとしても、それまでの言動が信用できないものだとしたら、そんな人を信頼することはできません。

これまで何度も浮気をしてきた恋人に、「今度こそ君だけを愛する。もう浮気はしない」と言われても、まともな精神状態の人なら「どうせまた浮気するだろう」と思うはずです(依存的な人はまた信じてしまうかも知れませんが、そうやって同じことを繰り返す関係は生産的とは言えません)。

私たちが個人の人間関係でも社会生活でも人から信頼してもらい、多くの人たちと信頼に基づく良い関係を作り上げ、多くの良いものを一緒に作り上げていく生産的な生き方をするためには、信頼されるにふさわしい言動を普段からしている必要があります。

聖書も人から信頼してもらえるように、誠実な行動、正しい行動、他の人たちに認められるような良い行動をするよう勧めています。「最後に、兄弟たち。すべて真実なこと、すべて尊ぶべきこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて評判の良いことに、また、何か徳とされることや称賛に値することがあれば、そのようなことに心を留めなさい」(ピリピ4:8)。
保証
御霊の実のリストの中で誠実、あるいは忠実と訳されているピスティスには、「信頼に足る存在だという保証」という意味があると申し上げました。ピスティスが与えられているというのは、人から信頼してもらえるだけの行動を普段からできるようにしていただいているということです。

神からの信頼に応える

特に、クリスチャンである私たちは、人の信頼を獲得する生き方を目指すだけでなく、私たちを造り、イエスさまのいのちと引き換えに救い、今も神さまの子どもとして守り導いてくださっている神さまからの信頼に応える生き方を目指さなければなりません。

ここで重要なことは、神さまの信頼に応えるという抽象的な言い方に留まらないで、具体的に神さまが望んでおられる行動を考え、それを実際に行なうことです。今回の箇所にもアダムの次男であるアベルの例が記されています。「信仰によって、アベルはカインよりもすぐれたいけにえを神に献げ、そのいけにえによって、彼が正しい人であることが証しされました」(4節)。
このとき神さまにささげるのは血の犠牲(動物犠牲)でなければなりませんでした。アベルはそうしましたが、カインは手近にあった作物をささげました。また、 アベルは自分が飼っている家畜の中で最良のものをささげましたが、カインは手放しても惜しくないレベルの作物をささげました。

神さまは、私たちが神さまの望む正しい生き方、きよい生き方をすることを期待し、またそうしてくれるはずだと信頼してくださっています。その信頼を裏切ることは、神さまを悲しませることになります。

私たちは罪人であり、不完全で弱い存在です。ですから、神さまの信頼を裏切って神さまを悲しませることがたびたびあります。しかし、それに気づいたときには、すぐにイエスさまの十字架を思い出して悔い改め、もう一度神さまが期待しておられる生き方に戻りましょう。

そうすると、神さまは将来地上に実現する神の国(千年王国)で報いを与えてくださるだけでなく、この地上でもよりワクワクするような働きを委ねてくださいます。その結果、神さまの愛、知恵、奇跡、導きの偉大さをより実感し、私たちは今以上に感動できるようになるでしょう。

ですから、聖書を通して示される神さまのみこころを学び、それを実践しようと日々意識しましょう。そして、実行するための知恵や力を神さまに祈り求めながら実践に励みましょう。

2.神への信仰

神の誠実

ピスティスにはもう一つ、「神さまへの信仰」という意味があります。この場合の信仰とは、私たちが神さまを信頼することです。

今回ご一緒に読んだ聖書箇所にはこのように書かれています。「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神がご自分を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです」(ヘブル11:6)。

実際、神さまは信頼に足る誠実で正しくいつくしみ深いお方です。モーセは、イスラエルの民に向かって神さまのことをこのように語りました。「あなたは、あなたの神、【主】だけが神であることをよく知らなければならない。主は信頼すべき神であり、ご自分を愛し、ご自分の命令を守る者には恵みの契約を千代までも守られる」(申命記7:9)。

神さまが約束を守らない不誠実なお方だとしたならば、どれほど素晴らしい約束が聖書に書かれていたとしても、私たちはうれしくないし、感動もしないし、安心もできません。
神が信頼に値する方だという保証
信頼に足る存在だということを保証するのは、過去の行動だと申し上げました。では、神さまの過去の行動はどうでしょうか。神さまは、これまでのところ約束なさったことを文字通り実現してこられました。

ユダヤ人のクリスチャンで神学者のアーノルド・フルクテンバウム博士は、高校生の頃、まだイエスさまを信じる前にユダヤ人クリスチャンたちの集まりに誘われました。すると、旧約聖書を使っていたイエスさまの話をしているのを聞いて、大変頭にきたそうです。

ユダヤ教徒は新約聖書を認めてないので、彼らにとってはクリスチャンが旧約聖書と呼んでいるものが聖書のすべてです。異教徒が自分たちユダヤ人の聖書を使って偶像の神であるイエスについて話をしているというわけで頭にきたのです。

すると、彼を集会に誘った友だちが新約聖書をくれて、1週間読んでみろと言いました。フルクテンバウム青年は、新約聖書の間違いを見つけてやろうと読み始めて驚きました。これはユダヤ人が書いた書物だと気づいたからです。そして、旧約聖書で救い主について預言されていることがイエスさまの生涯で次々と実現しているのを知り、そうしてイエスさまを救い主だと信じました。

また、イスラエル民族に関する約束も次々と実現しています。たとえば、世の終わりの時代には、イスラエルという国が約束の地に存在していることが預言されています。ところが、紀元70年にローマ帝国によってエルサレムが滅ぼされ、ユダヤ人は世界中に散らされてしまいました。イスラエルという国は地上から消えてしまったのです。

こうなると、普通は散らされた先々でその土地の人々と同化して、民族的アイデンティティが失われますし、ましてや国が復活するなどということは常識的に考えられません。ですから、諸教会の中には「この預言は、救われた多くのクリスチャンたちが天国に集められることの比喩だ」と考える神学者たちがたくさんいました。

ところがどうでしょう。ユダヤ人たちは民族的アイデンティティを保ち、あちこちでひどい迫害や大量虐殺を経験しながらも生き延び、1948年に約束の地に国が復活しました。

これまで文字通りに実現してきた数多くの約束、預言があります。ですから、まだ実現していない約束や預言も必ず実現すると私たちは信じることができます。
すでに神の誠実を信じた
私たちがクリスチャンになったということは、聖書が教えている次のことを信じたということです。
  • 神さまが私たちを愛しておられること
  • 私たちの罪を赦すとお決めになったこと
  • 救いのために必要な条件はすべてイエスさまが代わりに達成してくださったこと
そして、そればかりではありません。私たちがクリスチャンになったということは、神さまが救いの約束を絶対途中で反故にしないお方だということを信じたということです。私たちはすでに神さまの誠実さを体験しました。

今も心を開くならば、神さまは聖書を通して様々な約束を与えてくださいます。そして、確かに神さまが約束を守られる方だということを体験できます。
メンバーの体験
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だからこそ

第1のポイントで、聖書が教える誠実には、人間だけでなく神さまの信頼に応えるという意味があると申し上げました。では、その原動力は何でしょうか。それは、神さまが私たちの信頼に足るお方であるということを何度も何度も体験して得た感動や感謝です。

私たちは、神さまが私たちを愛し、最善を行なうと約束してくださったことは必ず実現すると信じました。また折々にそれが本当だということを私たちは体験させられてきました。だからこそ、私たちも神さまの期待に応えたい、神さまの前に誠実に生きていきたいと強く思うようになるのです。

御霊の実としての誠実

そして、これまでの学びでも繰り返し申し上げましたが、誠実もまた御霊の実、すなわち聖霊なる神さまが私たちの内側に形作ってくださる良い性質です。

聖霊なる神さまは、私たちの内側に住み、私たちを人々の信頼に足る存在に造り変えてくださいます。すなわち、私たちが神さまの喜ばれる正しい行ない、愛に満ちた行ない、きよい行ないを実践できるようにしてくださいます。そして、そのために必要な知恵や勇気を与えてくださいます。

また、聖霊なる神さまは、私たちが神さまの誠実を信じ、神さまがくださった約束は必ず実現するという確信、すなわち信仰を与え、それを育ててくださいます。悪魔は神なんか信頼しないように、神の約束を信じないようにと、あの手この手で誘惑したり、妨害したりしますが、聖霊さまのお働きに心を委ねるならば、神さまの約束を信じて平安を得ることができます。

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祈りましょう。神さまをますます信頼できるように、と。そして、神さまの期待に応えるために必要な知恵や勇気を与えてくださいますように、と。

あなた自身への適用ガイド

  • あなたが「この人は信頼できる」と感じるのは、どういう特徴を持った人ですか?
  • あなたが「この人は信頼できない」と感じるのは、どういう特徴を持った人ですか?
  • あなた自身、行動によって誰かの信頼を獲得したり、失ったりした経験がありますか?
  • あなたの人生の中で、神さまの約束がどのように実現してきましたか? 特に印象に残っている約束を挙げてください。
  • 神さまが今のあなたに期待しているのは、どういう行動をすることですか?
  • 今日の聖書の箇所を読んで、どんなことを決断しましたか?

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