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礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

ミリアム

聖書の女性シリーズ5

民数記12章1節〜10節

(2021年8月8日)

ミリアムは、出エジプトのリーダーであるモーセの姉です。ミリアムの生涯は、私たちが誰しも陥りがちな失敗と、その中で体験する神さまからの祝福を教えてくれます。

礼拝メッセージ音声

参考資料

1節には、モーセの妻がクシュ人と呼ばれています。一方、モーセの妻として知られているツィポラ(チッポラ)はミディアン人です(出エジプト2:16-21)。ツィポラが亡くなった後に結婚した、クシュ出身の改宗者だとも考えられます。しかし、多くの学者はツィポラのことだと解釈しています。
クシュは今のエチオピアを指しますが、アラビア半島にも同じ民族が住んでいました(第2歴代誌21:16)。ミディアン人もアラビア半島に住んでいましたから、ミディアンとクシュ(クシャン)は同一視されることがあったのです(ハバクク3:7)。

10節の「ツァラアト」は、人間の皮膚、あるいは布や革製品、家の壁などに現れる異常な状態を指します。具体的にどういうものかは明らかになっていませんが、人の皮膚に表れる場合には皮膚病の一種だと考えられます。昔の日本語訳では「らい病」と訳されていましたが、らい病すなわちハンセン氏病とは明らかに違います。

イントロダクション

ミリアムの生涯から、私たちが誰しも陥りがちな失敗について、そしてその失敗の中で体験する神さまからの祝福について学びましょう。

1.ミリアムの生涯

少女時代

今回の主人公であるミリアムが最初に登場するのは、出エジプト記の2章です。といっても、その箇所には「その子(モーセ)の姉」と書かれているだけで、ミリアムという名前は出てきません。しかし、モーセのきょうだいについて、聖書は兄であるアロンと姉であるミリアムの2人を挙げているだけですから、出エジプト記2章に登場する姉とは、おそらくミリアムのことでしょう。

この当時の時代背景を解説しておきます。当時、イスラエルの民はエジプトの中の、ゴシェンという場所に住んでいました(その理由を話し始めると長くなるので今回は割愛します)。そして、彼らの存在を脅威に感じたエジプト王によって、イスラエル人は大変な迫害を受けていました。迫害は次第に激しくなり、とうとう「イスラエル人に男の子が生まれたら殺すように」という命令が出ます。

そんな時に生まれたのが、後にイスラエルのリーダーとなって、イスラエルの民をエジプトから脱出させるモーセでした。最初、両親は産まれたばかりのモーセの存在を隠していましたが、もう隠しきれないと覚悟して、神さまの御手に委ねることにしました。すなわち、籠の中に赤ちゃんモーセを入れて、ナイル川に流したのです。

ミリアムは、流されていくモーセの後をずっと追いかけていきました。すると、エジプト王の娘がちょうどナイル川で沐浴をしていて、モーセを拾います。王女は、その子がヘブル人、すなわちイスラエル人だと気づきました。王女ですから、父王がイスラエル人の男の赤ちゃんを殺すように命じた命令を知っていたはずですが、この王女はモーセのことをかわいそうに思ったのでした。

そのとき、ミリアムは王女の前に姿を現すと彼女に話しかけました。「私が行って、あなた様にヘブル人の中から乳母を一人呼んで参りましょうか。あなた様に代わって、その子に乳を飲ませるために」(出エジプト2:7)。

まだ子どもとは言え、自分たちを迫害している国の王女の前に現れて、しかも堂々と話しかけるなんて、ミリアムは何と勇気のある少女だったことでしょうか。

きっと王女は、その少女が赤ん坊の姉で、乳母として連れてくるのがこの子たちの母親だろうということは見抜いていたことでしょう。しかし、王女は乳母を連れてきてくれるようミリアムに頼みました。モーセをこのまま殺してしまうのはかわいそうだと思っただけでなく、ミリアムの知恵に満ちた態度が気に入ったためでもあったでしょう。

こうして、モーセはある程度大きくなるまで実家で暮らすことができました。しかも、身分は王女の息子ですから、養育費も王女が支払ってくれました。

三つ子の魂百までと言いますが、モーセは最も重要な時期をイスラエル人の家庭で宗教教育を受けることができました。さらに、大きくなると王宮に引き取られ、そこで世界最高の教育受け、政治的リーダーとしての資質を身につけることができます。こうして、将来のイスラエルの宗教的・政治的リーダー、モーセの人格の基礎が形作られました。

それを可能にしたのは、まだ幼かったミリアムの勇気と機転です。ミリアムは、大変利発な女の子だったのです。そして、神さまはそんなミリアムを大いに用いてくださいました。

女預言者

次にミリアムが登場するのは、イスラエルの民がエジプトを脱出した直後です。イスラエルが信じる神さまから10の災害がエジプトに下り、皇太子も死んでしまったため、エジプト王はイスラエルが国を出ることを許可しました。しかし、すぐに考えを変えて、強力な戦車隊に後を追いかけさせました。

そして、イスラエルは海とエジプト軍に挟まれる格好になってしまいました。しかし、神さまに命ぜられたとおりモーセが杖を差し伸べると、海が真っ二つに分れ、イスラエルの民はその間を通って無事に向こう岸に分かりました。追いついたエジプト軍もすぐに海の中の道を通って向こう岸を目指しましたが、途中で海が元通りになってしまい、エジプト軍は全滅してしまったのです。

モーセとイスラエルの人々は、神さまの力強い奇跡のみわざを目撃して、神さまをほめたたえました。そのときミリアムが登場します。

「そのとき、アロンの姉、女預言者ミリアムがタンバリンを手に取ると、女たちもみなタンバリンを持ち、踊りながら彼女について出て来た。ミリアムは人々に応えて歌った。『【主】に向かって歌え。主はご威光を極みまで現され、馬と乗り手を海の中に投げ込まれた』」(出エジプト15:20-21)。

この箇所でミリアムは「女預言者」と呼ばれています。預言者とは神さまの言葉を聴いて、それを人々に伝える役割の人です。特に彼女には、踊りと歌の賛美を通して神さまの素晴らしさをイスラエルの人々に伝える役割が与えられていたのでしょう。

弟であるモーセはイスラエルのリーダーとなり、もう一人の弟アロンは最初の大祭司になりましたが、ミリアムもイスラエルの中で神さまの働きをしました。

ところで、このときモーセが80歳ですから、ミリアムは90歳前後です。それで踊りながら歌うのですから、それはそれは元気なおばあちゃんです。

子ども時代も、また年を取ってからも、ミリアムは神さまに用いられました。神さまにお仕えするのに、年齢は関係ありませんね。

モーセへの反抗

そんなふうに、神さまに大いに用いられたミリアムでしたが、聖書は彼女の失敗についても記しています。それが今回皆さんと一緒に交読した箇所です。

ミリアムは弟アロンと共に、モーセを非難しました。1節には「ミリアムとアロンは…非難した」というふうにミリアムが先に書かれていますし、後で述べますがさばきを受けて病気になったのはミリアムだけですから、二人の中でミリアムが主導的な立場だったのでしょう。

批判の表面的な理由は、モーセが外国人の妻をめとっているということでした。1節の「クシュ人の女」というのは、参考資料にも書きましたがミディアン人であるツィポラのことでしょう。

しかし、それが表面的な理由に過ぎないことは、ミリアムたちの発言から分かります。彼らは言いました。「【主】はただモーセとだけ話されたのか。われわれとも話されたのではないか」(2節)。ミリアムたちは、弟であるモーセがイスラエルのトップリーダーであることに嫉妬して、自分たちにももっとリーダーシップが与えられてもいいだろうと主張しているのです。

先ほど申し上げたように、ミリアムも預言者でした。すなわち、神さまの語りかけを直接聞くことができました。モーセもたびたび神さまの声を聞いて、それを元にイスラエルの民を導いていましたが、自分と何が違うのかと思ったのです。つまり、嫉妬です。

すると、神さまはミリアムとアロンを叱責なさいました。そして、ミリアムはツァラアトという重い皮膚病にかかってしまいました。
いやしときよめ
それでも、神さまはミリアムを見捨ててしまわれたわけではありませんでした。今回の箇所の後に書かれていますが、モーセはミリアムのためにとりなしの祈りをささげました。すると、神さまはミリヤムをいやしてくださいました。その後、ツァラアトにかかったために受けた宗教的な汚れをきよめるために、ミリアムは7日間宿営の外に隔離されました。イスラエルの民は、7日後にミリアムが帰ってくるのを待ってから、次の場所に移動を始めました(12:11-16)。

最期

イスラエルの民がエジプトを脱出した後、シナイ山で律法を受け取ると、約束の地の南にあるカデシュ・バルネアというところに到着しました。ところが、イスラエルの民は神さまに信頼することをせず、自分たちは強力なカナン人たちが住んでいる約束の地に入ることはできないと言いました。そこで、神さまはイスラエルの民をすぐに約束の地に導き入れることをせず、荒野で40年間過ごさせました。

そして、古い世代がほとんど死に絶えて新しい世代が育ったとき、神さまはイスラエルを再びカデシュ・バルネアに導かれました。そこでミリアムは亡くなります。そして、アロンもモーセも、その後間もなく亡くなりました。

では、ここから私たちに対する神さまの語りかけに心の耳を傾けましょう。

2.神からの愛の語りかけ

傲慢に陥っていないか?

ミリアムはとても利発で才能豊かな女性でした。そして、神さまに大いに用いられました。しかし、傲慢になってしまって、神さまがイスラエルのリーダーとして選んだモーセに反抗するという失敗を犯してしまいました。そして、神さまから罰を受けて病気になり、自分たちがリーダーの座から追い出そうとしていたモーセの祈りによっていやされるという、大変皮肉な結果になりました。

一方のモーセについては、「モーセという人は、地の上のだれにもまさって柔和であった」(3節)。この「柔和」と訳されている言葉は、「謙遜」とも訳せます(新共同訳や新改訳第三版はそう訳しています)。そして、モーセはミリアムやアロンと自分で争わず、神さまにすべてをお任せしました。また、モーセが病気になってしまったミリアムのいやしのために祈ったのも、彼の謙遜さのなせるわざです。

他人との争いの陰には、往々にして傲慢さが横たわっています。私たちが人を非難する多くの場合、私たちは相手よりも立派で正しいと思っています。

聖書は、私たちクリスチャンが人間関係において謙遜であるようにと命じています。「何事も利己的な思いや虚栄からするのではなく、へりくだって、互いに人を自分よりすぐれた者と思いなさい」(ピリピ2:3)。

他の人を批判したり叱ったりすること、それ自体がいつも悪いわけではありません。私たちは、時に誰かを責めたり叱ったりすることが必要なときがあります。しかし、その際に「私は正しい、あなたは間違っている。立派な私がろくでもない人間であるあなたをしっかり教育してあげよう」というような上から目線の態度で指導したとしたら、きっと反発を招くだけで効果的な指導にはつながりにくいでしょう。

誰かを責める思いが出てきたときには、自分自身が傲慢に陥っていないかよく自分の心を吟味しましょう。そして、神さまが自分に謙遜な思いを与えてくださるように祈りましょう。

批判の陰に嫉妬が隠れていないか?

ミリアムがモーセを非難した、その背後には嫉妬心、ねたみの心がありました。

嫉妬、あるいはねたみとは、「自分の愛する者の愛情が、他の人に向けられるのを恨み憎むこと」(デジタル大辞泉より)です。別の言い方をすると、「愛する者との間の良い関係が、他の人に奪われて損なわれるのではないかという恐れ」です。
嫉妬がすべて悪いわけでない
もちろん、嫉妬やねたみがすべて悪いわけではありません。正当な嫉妬心、ねたみというものがあります。たとえば、愛する配偶者や恋人が他の人とイチャイチャしているのを知ったら、その相手に対して嫉妬心を持つことは当然です。「何も感じません。勝手にやってください」と思える方が異常です。

聖書の神さまも、イスラエルの民に対して「わたしはねたみの神である」と宣言しておられます(出エジプト34:14)。これは、異教の神々に心を奪われて偶像礼拝をすることがないようにという、戒めの言葉の中で語られました。

そして、成功している人や人気がある人に対してねたましい気持ちになることも、それ自体が必ずしもいけないわけではありません。自分もがんばろうという前向きな向上心につながるなら、嫉妬やねたみもまたすばらしいものに変えられます。

ただ、自分自身の前向きな向上心につながらず、相手の方を引き下げようとして、陰口を叩いたり、足を引っ張って邪魔をしたりするなら、それはまったく意味がないどころか害悪になります。
害毒になる嫉妬
ミリアムは、イスラエルの人々や神さまが、自分よりもモーセの方に関心を向けているように思えることが悔しくなってしまいました。しかし、モーセをイスラエルのトップリーダーになさったのは神さまですし、ミリアムを女預言者としたのも神さまです。

そこには立場上の上下関係はあったものの、だからといって神さまがミリアムよりモーセの方をひいきしているとか、ミリアムなんかどうでもいいと思っておられるとかいうことではありません。しかし、ミリアムは無意識にそう感じてしまっていました。そして、そんなのはずるい、悔しいと思ってしまいました。

こうしてミリアムは、モーセに対する嫉妬のあまり、神さまがモーセに与えたリーダーシップを否定してしまいました。もし、指導的立場にあったミリアムやアロンがモーセに逆らうなら、一般民衆もまたモーセに、そして結果的に神さまに素直に従おうとはしなくなってしまうでしょう。ミリアムは、自分のねたみ心のあまり、危うくイスラエルの民を混乱に陥れるところでした。

私たちが他の人のことを非難したくなったとき、自分の心の奥底にその人に対する間違った嫉妬心、ねたみの心が隠れていないかよく考えましょう。そして、もしも嫉妬心を発見したなら、それを神さまに告白して手放す決心をして、神さまがそれを取り除いてくださるようお願いしましょう。

神の愛を忘れていないか?

ミリアムの嫉妬心は、自分に対する神さまの深い愛情を信じられなかったところから生じました。しかし、今回の箇所は、神さまがミリアムを愛し、大切にしてくださっていることを教えています。

神さまはミリアムに対して、教育的指導としての罰を与えましたが、最終的にその罪を赦してくださいましたし、病もいやしてくださいました。また、宗教的な汚れがきよめられるのを宿営の外で待っているミリアムを、そのまま放置して次の目的地に向かうようモーセに命じたりなさいませんでした。

一方、モーセが謙遜で、他の人に対して柔和に接することができたのは、神さまの愛情を深く深く確信していたからでした。モーセは、40歳の時に自分自身の力でイスラエルの民をエジプトの圧政から解放しようとして、エジプト人を殺してしまいました。その結果は、イスラエル人からも拒絶されて、ミディアンの荒野に逃げだし、40年間羊飼いとして暮らすというものでした。

しかし、そんなモーセのことを神さまは見捨てず、声をかけてイスラエルを解放する働きに召し出してくださいました。自分は口下手だと躊躇する彼のために、言葉巧みに話す力があるアロンを助け手として用意してくださいました。預言者であるミリアムも、戦闘指揮官であるヨシュアや勇者カレブも、祈りのために高く掲げた腕を支えたフルも、モーセを助けるために神さまがそばに置いてくださった人たちです。モーセは、神さまに愛されていることを信じていたため、他の人に間違った嫉妬心を抱いて、相手を批判したり蹴落とそうとしたりしなかったのです。

嫉妬心を持たず、他の人と平和に付き合うことができる秘訣は、神さまの愛を深く確信し続けていることです。

他の人が社会的に成功しているからといって、それはあなたが神さまに愛されていないという証拠ではありません。他の人の方があなたより人気があるからといって、あなたが神さまに大切にされていないという証拠ではありません。他の人が順風満帆なのに自分は問題だらけだといって、あなたが神さまに嫌われているという証拠ではありません。

神さまは、私たちを深く愛し、大切にしてくださっています。それをいつも忘れないでいましょう。
十字架の愛を思い起こそう
それでも神さまの愛があやふやになってきたときは、イエスさまの十字架を思い出しましょう。あなたの罪を赦して、神さまの子どもとして永遠に大切にするために、イエスさまは罪の罰を身代わりに負って十字架にかかり血を流してくださいました。あなたはイエスさまの命がけの愛で愛され、大切にされています。

そのことを聖書は次のように教えています。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された」(ヨハネ3:16)。この「世」というところにご自分の名前を入れて、何度も何度も繰り返し唱えてみましょう。

最近、他の人に対して嫉妬心を抱いたり、場合によってはそれで相手に対して攻撃的になったり、陰口を叩いてしまったりしたことがあったでしょうか。しかし、それはあのミリアムのように、神さまの愛をもう一度確認する良いチャンスでもあります。

そのようにして私たちが神さまの愛を深く確信すればするほど、私たちは謙遜になり柔和になって、他の人と平和でぬくもりに満ちた関係を作り上げていくことができます。ミリアムの一生は、私たちにそのことを教えてくれています。

あなた自身への適用ガイド

  • 他の人に対して嫉妬心、ねたみ心を抱いてしまったことがありましたか? 今振り返ってみて、その背後にはどのような「恐れ」があったと思いますか?
  • 嫉妬心の背後には、自分への神さまの愛に対する不安があるという話を聞いて、どんなことを考えたり感じたりしましたか?
  • 神さまの愛を確信することが、他の人と良い関係を築いていく土台になるという話を聞いて、どんなことを考えたり感じたりしましたか?
  • 今、あなたはどのようにして神さまに愛されていると感じることができていますか?
  • 今日の聖書の箇所を読んで、どんなことを決断しましたか?

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