本文へスキップ

礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

ルツ

聖書の女性シリーズ8

ルツ記2章3節〜12節

(2021年8月29日)

ルツは旧約聖書のルツ記の主人公です。聖書は救いのことを「贖い」と呼びますが、それがどういう意味なのか、ルツの物語を通して解説します。

礼拝メッセージ音声

参考資料

3節の「エリメレク」はベツレヘム出身のイスラエル人で、ルツの姑であるナオミの亡くなった夫、すなわちルツの舅です。

「ボアズ」は、前回取り上げたカナン人の女性ラハブが、エリコ滅亡後にイスラエル人サルマと結婚して産んだ息子です(マタイ1:5)。

6節の「モアブ」は、死海の東に住んでいた民族です。

イントロダクション

ルツは旧約聖書のルツ記の主人公です。ルツはユダヤ人ではありませんが、私たちにとって素晴らしい信仰物デルです。

聖書は、神さまが私たちに与えてくださる救いのことを「贖い」(あがない)と呼びます。それはどういう意味でしょうか。ルツの物語を通して私たちに与えられた「贖い」について学びましょう。

1.ルツの物語

結婚

旧約聖書の士師記は、モーセの後継者ヨシュアが亡くなった後から預言者サムエルが誕生する前までの時代、紀元前13世紀から11世紀の出来事を描いています。ルツは、その士師記の時代を生きた人物です。

ルツはユダヤ人(イスラエル人)ではなく、モアブ人です。モアブ人は死海の東に住んでいましたが、そのモアブの地にユダヤ人であるエリメレクの一家が移住しました。というのは、約束の地に飢饉が起こったためです。エリメレクの家族は妻のナオミと2人の息子でした。ところが、移住して間もなく、エリメレクが死んでしまいます。

ただ、息子たちはもう大人になっていたため、生活に困ることはありませんでした。そして、息子たちはそれぞれモアブ人の女性を妻に迎えました。息子の一人キルヨンと結婚したのがオルパ、そしてもう一人の息子マフロンと結婚したのがルツです。
嫁姑問題に付ける薬が開発されたら、すぐにでもノーベル平和賞と言われるくらい、古今東西で嫁姑の関係はなかなか難しいもののようです。しかし、ナオミと2人の嫁たちの関係は非常に親密で温かいものでした。

ところが、さらなる不幸が彼らを襲います。マフロンとキルヨンも相次いで亡くなったのです。こうして、3人の未亡人が残されることになりました。当時、子どものいない未亡人は生計を立てるすべが全くないため、非常に苦しい生活を余儀なくされました。

そんなとき、ナオミはイスラエルの飢饉が収まったという話を耳にしました。そこで、イスラエルに帰る決心をしました。すると、ルツとオルパは自分たちもイスラエルについて行くと言います。ナオミと別れるのが嫌だったのです。3人の絆がいかに深かったかが分かりますね。

しかし、ナオミはまだ若いルツとオルパをモアブの実家に戻そうとしました。2人の気持ちはとてもうれしかったのですが、お互い生計を立てられない未亡人で、しかも彼女たちにとっては慣れない外国での生活。きっと嫁たちは苦労することでしょう。そんな思いをさせたくないから実家に戻って再婚なさいと、ナオミは2人を説得しました。その結果、オルパの方は泣く泣く実家に戻っていきましたが、ルツはあくまでもナオミについて行くと言い張りました。

それはナオミを深く慕っていて、離れたくないという思いからだけではありませんでした。ルツは自分を実家に戻そうとするナオミに次のように答えています。

「お母様を捨て、別れて帰るように、仕向けないでください。お母様が行かれるところに私も行き、住まれるところに私も住みます。あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です。あなたが死なれるところで私も死に、そこに葬られます。もし、死によってでも、私があなたから離れるようなことがあったら、【主】が幾重にも私を罰してくださるように」(1:16)。

モアブ人はアブラハムの甥ロトから出た民族ですが、当時はイスラエルが信じるまことの神ではなく異教の神々を礼拝していました。しかし、ルツはナオミたちと共に生活するようになって、まことの神さまの素晴らしさを知り、まことの神さまを信じるようになっていたのです。ここでナオミと離れて実家に戻り、モアブ人の男性と再婚することになったら、異教礼拝を強要されることになるでしょう。ルツは、ナオミと共にイスラエルの地に赴くことが、自分の信仰を保つ唯一の道だと考えたのです。

こうしてルツはナオミと共にイスラエルの地、元々エリメレク一家が住んでいたベツレヘムの町にやってきました。

落ち穂拾い

ルツとナオミがベツレヘムに着いたのは、大麦の刈り入れの時期だったと書かれています(1:22)。イスラエルで大麦の刈り入れが始まるのは、今の暦だと3月から4月頃です。それから6月頃になると小麦の収穫も始まります。大麦の収穫が始まって小麦の収穫が終わるまで収穫期が3ヶ月間続きますが、収穫期の初めの時期にルツたちがベツレヘムに到着したのは、実に良いタイミングでした。

というのも、貧しい未亡人が食糧を得る手段として落ち穂拾いがありました。他人の畑に行き、収穫の際に落ちてしまった麦の穂を拾って自分たちの食糧にすることができるのです。それは泥棒ではなく、モーセの律法で一種の福祉政策として公に認められていることでした。

「あなたがたの土地の収穫を刈り入れるときは、刈るときに畑の隅まで刈り尽くしてはならない。あなたの収穫の落ち穂も集めてはならない。貧しい人と寄留者のために、それらを残しておかなければならない。わたしはあなたがたの神、【主】である」(レビ23:22)。

そこで、ルツは落ち穂拾いに行かせて欲しいとナオミに言い、出かけていきました。

ミレー作「落ち穂拾い」
ボアズとの出会い
さて、ルツが出かけた畑は、「はからずも」ボアズの畑でした(3節)。そして、「ちょうどそのとき」、ボアズが畑の様子を見にやってきました(4節)。そして、後に夫婦となるこの二人は初めての出会いを果たします。これまたグッドタイミングです。

ルツ記では、これまでの女性シリーズで見てきたような華々しい奇跡は起こりません。しかし、ごくありふれた日常の一つ一つの出来事の中に、神さまのきめ細かい配慮があることを、ルツ記の物語は私たちに教えてくれています。このような神さまの配慮のことを、「摂理」と呼びます。

ルツ記の時代(すなわち士師記の時代)は、モーセの律法を無視した生活をする人たちがたくさんいました。そもそもイスラエルの地に飢饉が襲ったのも、そういう不信仰なユダヤ人に対する神さまからの警告でした(申命記11:13-17)。ですから、落ち穂を拾いに来た貧しい人たちに対して厳しい態度を取る地主やしもべもいたのです。

ましてルツは外国人です。モーセの律法には、自分たちはエジプトで在留異国人として苦しめられたのだから、自分たちのところにいる在留異国人を虐げてはならないという命令があります(出エジプト記22:21)。しかし、当時あちこちにいた不信仰な地主やしもべなら、そんな命令なんか気にせずルツをいじめたことでしょう。

ところがボアズもそのしもべたちも神さまに忠実な信仰者でした。ボアズはルツを畑から追い出したりせず、思うままに落ち穂を拾っていいと言いました。それどころか、彼女のためにわざと穂をたくさん落としてやったり、休憩時間には水や食べ物を与えたりしたのです。ルツは、他の畑に行っていたらまず体験できなかったであろう温かい扱いを受けたのでした。

その理由をボアズは語っています。「ボアズは答えた。「あなたの夫が亡くなってから、あなたが姑にしたこと、それに自分の父母や生まれ故郷を離れて、これまで知らなかった民のところに来たことについて、私は詳しく話を聞いています。 【主】があなたのしたことに報いてくださるように。あなたがその翼の下に身を避けようとして来たイスラエルの神、【主】から、豊かな報いがあるように。」」(11-12節)。

ボアズのしもべたちも、ルツが勤勉に働き続けることに好感を持っていましたから(7節)、ボアズに命ぜられるまでもなくルツに良くしてやったことでしょう。

こうしてルツは思いのほかたくさんの麦を持って帰ってきました。それに驚いたナオミはルツから事情を聞き、ボアズの親切に感謝すると共に、彼は「買い戻しの権利」を持つ親戚の一人だと言いました。

再婚

ここで、当時の習慣だった「買い戻し」について説明しましょう。モーセの律法では、イスラエルの土地は神さまのものであり、神さまがユダヤ人を寄留者としてそこに住まわせてくださっているのだと教えています(レビ記25:23)。ですから、むやみに先祖伝来の土地を売り買いすべきではありません。貧しさ故にやむを得ず土地を売ったとしても、余裕ができたときにはいつでも買い戻すことができるし、それができないときには親族が代わりに費用を出して買い戻さなければなりませんでした(レビ25:25)。

ナオミは夫エリメレクが所有していた土地を手放そうと考えていました。土地があっても2人の女性だけでは宝の持ち腐れですし、土地を売った代金で当面の生活費を賄おうとしたのです。その土地を買い戻す権利がボアズにはありました。

また、モーセの律法には別の命令もありました。「兄弟が一緒に住んでいて、そのうちの一人が死に、彼に息子がいない場合、死んだ者の妻は家族以外のほかの男に嫁いではならない。その夫の兄弟がその女のところに入り、これを妻とし、夫の兄弟としての義務を果たさなければならない。そして彼女が産む最初の男子が、死んだ兄弟の名を継ぎ、その名がイスラエルから消し去られないようにしなければならない」(申命記25:5-6)。

ところが、ナオミの夫だったエリメレクは、モアブの地で死にました。そして、相続権があった2人の息子たちも死んでしまいました。ナオミは年を取っていてもう子どもを産めませんから、未亡人となったルツには再婚すべき義理の兄弟がいません(1:11)。ですから、このままではせっかく土地を買い戻してもらっても、それを相続する子どもが生まれないのです。

そこで今回のケースでは、買い戻しの権利のある親戚は、土地を買い戻すだけでなく、未亡人であるナオミとルツを扶養する義務、さらにルツを妻にして、生まれた子どもたちを大人になるまで養育し、さらに最初に生まれた男の子に買った土地を継承させる義務も負わなければなりませんでした。

ナオミは、外国まで着いてきてくれ、今も一生懸命働いて支えてくれているルツに何とか幸せになってもらいたいと思いました(3:1)。そこで、ボアズに土地を買い戻してもらい、ルツと結婚してもらいたいと願います。そして、ユダヤの習慣がまだよく分らないルツに、どうやって女性からプロポーズしたらいいかを教えてやりました。

ボアズは、ルツやナオミの願い通り、土地の買い戻しだけでなくルツとの結婚も受け入れました。彼は、初めて出会ったときからルツのことを好ましい女性だと思っていたからです。だからこそ、いろいろと彼女に良くしてやったのです。

しかし、問題が一つありました。ボアズよりもナオミ一家に近い親戚がいて、法律上その人に買い戻しの優先権があったのです。そこで、ボアズは翌朝その親戚と公の場で交渉しました。最初、その親戚は自分が土地を買い戻すと言いましたが、ルツを妻にして生まれた子にその土地を与える義務もあることを知ると、結局買い戻しの権利をボアズに譲りました。大金を出して土地を手に入れても、結局自分のものにはならないし、扶養家族が増えるばかりで損だと思ったからです(4:6)。

こうして、ボアズはルツと結婚しました。やがてルツは男の子を産みます。その子の名前はオベデ。オベデの息子がエッサイ。そのエッサイの息子の一人があのダビデ王です。すなわち、ルツはダビデ王のひいおばあさんということになります。そして、そのダビデ王の子孫の中から、イエス・キリストが地上に誕生なさいます。

2.贖い主イエスと共に生きる

買い戻しの必要を知ろう

ルツ記を理解するのに重要なキーワードの一つが「買い戻し」、別の言葉で言うと「贖い」(あがない)です。これは、手元から失われたものを、代価を支払って取り戻すことを意味します。

ボアズは、親戚であるナオミとその息子の未亡人であるルツのために買い戻しの権利を使いました。権利と呼ばれていますが、実際には犠牲を払って親戚を助ける慈善行為です。しかも、その犠牲は生半可な覚悟では果たせないほど大きなものでした。ですから、買い戻しの権利で優先権を持っていた親戚はそれを最終的に放棄したのです。しかし、ボアズは喜んで大きな犠牲を払い、土地を買い戻しただけでなく、ルツとナオミのその後の生活を保障しました。

聖書は、イエス・キリストによって私たちが救われたことを贖い、すなわち買い戻しと表現しています。ルツとナオミはボアズの厚意と助けがなければ生活が成り立たちませんでした。同様に、元々の私たちも自分の罪の奴隷となって行き詰まっていました。

イエス・キリストによる救いの喜びを体験するには、まず自分が自分以外の存在によって救われる必要があるということ、自分は自分ではどうすることもできない罪の奴隷状態にあるということを知ることが必要です。

私は、週日はスクールソーシャルワーカーという仕事をしていますが、同じ担当学区のスクールカウンセラーさんと話をしていたときに、援助職というのは他の人を助けることによって自分の存在価値を確認する傾向があるという話になりました。他の人を助けて感謝されることで、自分はこの世に生きていていい価値ある存在だと確認するということです。

本来援助者は「あなたはもう必要なくなりました」と言われ、忘れられるために存在しています。しかし、人を助けることで自分の価値を確認したい援助者は、自分がもう必要とされなくなることを無意識に恐れます。そこで、過干渉になるなどして、かえって相手が自立しないようにしてしまいます。

じゃあ、私の中にはそういう傾向がないのかと問われれば、ありませんと自信を持って宣言することはできません。私もまた、人を助けて感謝されることで自分の存在価値を確認したいという間違った思いを持ってしまうことがあるのです。
イエス・キリストへの信頼
私たちは自分で自分の心や行動をコントロールできません。自分勝手に好き勝手に生きているように見えたとしても、それは本当の自由ではなく、罪の奴隷状態だということです。

この話をお読みください。
もう10年ほど前の話ですが、車でスピード違反をして、捕まってしまいました。部屋の中に案内され、調書を取られましたが、私の他にも次々と違反者が入ってきます。

隣の席の50代くらいの女性は、「気がつかなくて……ほんとにごめんなさい。ごめんなさい……」と号泣しています。対応している若いお巡りさんは、困った顔で「分かったから、私の話を聞いてください〜」となだめています。

さらに奥の席では、トラックの運転手とおぼしき男性が、「何で、あんなところでねずみ取りやってるんだ。あそこでスピード出しても、全然危険じゃないだろう。もっと別のところでやれよ。違反っていっても、たった15キロくらいじゃないか。あんたらだって、非番の時にはそれくらい出すだろう」と、文句を言っています。

私は、「職業? 牧師で、カウンセラーです。人のために働いています。これまで、何人もの命を救ってきました。だから、ね、お目こぼしを」……とは言いませんでしたが、たとえ言ったとしても、他の違反者たちと同様、やっぱり違反が取り消しにはならなかったでしょう。これが法というものです。どんなに泣いても、逆ギレしても、善行を持ち出して取引しようとしても、ダメなものはダメ。

神さまの法も同様です。どんなに泣いても、逆ギレしても、取引しようとしても、罪は罪であり、さばきの対象となります。

しかし、正義の原則から言うとそうなのですが、神さまの愛の原則は、私たちを赦し、祝福しようとなさいます。この二つの原則の矛盾を解決したのがイエスさまの十字架です。イエスさまは、十字架にかかることで、私たちの罪の罰を身代わりに負い、神さまの正義の原則を満足させました。そのために、(あえて人間的な言い方をすると)神さまは堂々と私たちを赦し、祝福することがおできになったのです。

私たちの側から、罪の赦しを達成することはできません。何をしても、どんな人間であってもです。しかし、神さまの側から、一方的な赦しを与えてくださいました。これが恵みであり、福音(良い知らせ)です。

今日は、多くの教会がクリスマスをお祝いする礼拝をささげます。イエスさまが私たちに神さまの赦しをもたらすために来られたこと。それをお祝いするのがクリスマスです。
(当サイト「ショートエッセイ」より)
私たちには、自分では返済不可能な罪の負債があります。ボアズがルツとナオミの負債を肩代わりしてくれたように、イエスさまも私たちの罪の負債を肩代わりしてくださいました。イエスさまが十字架の上で語られた「完了した」という言葉(ヨハネ19:30)は、まさに「借金の返済完了」という意味の言葉です。

イエスさまは、罪のために神さまから切り離され失われていた私たちを購うため、買い戻すために、ご自分のいのちという尊い代価を支払ってくださいました。

救いは恵みだと知ろう

ルツはユダヤ人ではなくモアブ人でした。モーセの時代、エジプトを脱出したイスラエルが約束の地に向かっていたとき、モアブ人が占い師バラクを使ってイスラエルを呪おうとしたり、若い女たちを使ってユダヤ人を誘惑し、バアル礼拝を行なわせたりしました。そのためモーセの律法には、モアブ人は主の集会に加わってはならず、イスラエルにやってきて10代たった子孫でさえも参加を認めないという命令があります(申命記23:4-7)。

また士師記の時代には、モアブがイスラエルを侵略して一部を支配下に置いたこともあります(士師記3:12-30)。

こういうわけで、モアブ人であるルツはイスラエルで差別の対象になってもおかしくありませんでした。ですから、ボアズがいろいろとルツに良くしてくれたことに対して、ルツは驚きながらこう言っています。「どうして私に親切にし、気遣ってくださるのですか。私はよそ者ですのに」(10節)。

神さまもまた、偶像礼拝を捨ててご自分を信じるようになったルツを祝福して、イスラエルの中に受け入れてくださいました。

本来祝福を受ける資格がないのに、神さまが祝福しようと一方的に決断し、それを行動に表してくださることを「恵み」と言います。ルツがボアズの厚意に驚き感動したように、私たちも神さまの恵みの愛を当然のことと思わず、感謝しましょう。

恵みに応える生き方を知ろう

ルツは、自分にはボアズやイスラエルの人々に良くしてもらえる資格は無いと考えていました。

ところが、ナオミの故郷ベツレヘムの人たちはルツを温かく迎え入れ、むしろ高く評価していました。後にベツレヘムの女性たちがナオミにルツのことを「あなたを愛するあなたの嫁、七人の息子にもまさる嫁」(4:17)と語っています。ボアズも彼女を「誠実」(3:10)と評しています。

彼らがルツを高く評価したのは、
  • 偶像礼拝を捨てて、唯一まことの神であるイスラエルの神を信じるようになったこと
  • 姑であるナオミに真実に尽くしていること
  • 勤勉であること
が理由です。しかし、ルツがそういう生き方をしたのは、イスラエルの人たちの関心を得るためではありません。

ルツは、ずっとナオミたちユダヤ人家族と接してきて、彼らの信じる神さまが本物であることを感じ取っていました。また、まことの神さまを信じているナオミの生き様に、ルツは感動を覚えてもいました。だから、どんな苦労が待っていたとしても、まことの神さまを離れてはいけない。ルツはそう思ったのです。

ボアズやベツレヘムの人々を感動させたルツの誠実な生き方は、聖書の神さまを知り、神さまの恵みを知ったからです。

そして、神さまもまたルツのそんな信仰に応え、様々な状況を整えて彼女の生活を支え、そればかりか救い主イエスさまの家系図に名が記されるという祝福まで与えてくださいました。

私たちもまた、イエス・キリストの恵みによって救われ、あらゆる罪の呪いから解放されました。その喜びを知った私たちは、どのような生き方をすべきでしょうか。一人ひとり考え、それを実践しましょう。
アメリカ史上最も多くの資産を持っていたのは、ジョン・ロックフェラー氏(1839-1937)でしょう。石油ビジネスで大成功を収めた彼は、現在の資産価値に換算すると20兆円以上の資産を持っていたと言われています。かのビル・ゲイツ氏の3倍以上です。

まさに順風満帆の人生を歩んでいたロックフェラーですが、55歳の時、病に倒れてしまいます。医者は余命1年を宣告しました。彼は、死を前にして、自分のこれまでの人生を振り返らされました。一体自分は何のために生きてきたのだろうか。

子どもの頃から敬虔なクリスチャンとして生きてきたロックフェラーでしたが、いつの間にかお金を儲けることが人生の目的になってしまっていたことを気づかされました。教会では最前列に座って礼拝を守り、収入の十分の一を献金し、忠実な教会員として過ごしてきましたが、それらもすべて自分のためにやってきたこと、偽善だったと彼は感じました。

ロックフェラーは引退を決意すると、神さまに祈り始めました。「神さま。どうか私をいやしてください。長生きしたいからではありません。自分の財産を、人類の福祉のために用いたいからです」。すると、神さまは、彼をいやしてくださいました。56歳で死ぬはずだったロックフェラーは、なんと98歳という長寿を全うします。

神さまの恵みによっていやされたロックフェラーは、祈ったとおりに慈善活動に着手しました。特に教育、医療、文化などの方面で、様々な支援活動を行ないました。資本主義の象徴として批判の対象になることもある巨大複合施設ロックフェラー・センターを建設したのも、自分の財力を誇示するためではありませんでした。1929年に始まった大恐慌で失業した多くの人々に、安定的に職を与えるためです。

人生の目的を見つけたロックフェラーは、これまでの55年間では味わうことができなかった平安や喜びを体験したと語っています。

「君は愛されるため生まれた」というゴスペルソングがあります。私たちは神さまに愛され、その愛に感動して、神さまと神さまが愛しておられるこの世の人々を愛するために生まれました。20兆円も持っていなくても、私もあなたも何かを持っています。それを使って愛を実践できるといいですね。
(当サイト「ショートエッセイ」より)

あなた自身への適用ガイド

  • あなたがイエスさまを信じようと思ったきっかけは何ですか? 特に誰かの影響を強く受けましたか?
  • 「神さまは、ベストタイミングをご存じだ」と思った経験が何かありますか?
  • もうダメだと思うような出来事が、かえって素晴らしい状況のきっかけになったという経験がありますか?
  • あなたにとって、自分自身ではどうしようもない罪の問題は何ですか?
  • 神のさばきが怖くてではなく、神さまに愛されている喜びの故に、今までとは違った生き方をするようになったことがありますか?
  • 今日の聖書の箇所を読んで、どんなことを決断しましたか?

連絡先

〒962-0001
福島県須賀川市森宿辰根沢74-5

TEL 090-6689-6452
E-Mail info@nakakomi.com