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礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

ハンナ

聖書の女性シリーズ9

第1サムエル記2章1節〜10節

(2021年9月5日)

ハンナは預言者サムエルの母です。ハンナが祈った神への賛美をから、聖書の神がどんな存在か解説します。

礼拝メッセージ音声

参考資料

1節、10節の「角」は力の象徴。「角が上げられる」というのは、この場合は「神さまから力が与えられる」というような意味です(詩篇75:4では否定的に用いられていて、「自分の力を誇って傲慢になる」という意味)。

イントロダクション

私たちの信仰生活が力強いものになるか、それとも弱々しいものになるか、あるいはきよいものになるか、それとも世の人々と特に変わらないものになるかは、私たちが神さまのことをどれだけ知り、それを信じるかにかかっています。そして、日々の聖書の学びや週ごとの礼拝は、私たちに神さまがどのような方かを教え、再確認させてくれます。

今日は、ハンナの賛美の祈りを通して、私たちにとって神さまがどんな方であるかを学びましょう。

ハンナの賛歌

不妊の悩み

まずはハンナの賛歌の背景となっていることに注目しましょう。

時は士師記の時代の終わり、紀元前1070年頃です。イスラエルのエフライム地方の「ラマタイム・ツォフィム」(ロデの北東14キロにあったと思われる町)にエルカナというレビ族(第1歴代6:34-38)の男性が住んでいました。
エルカナには2人の妻があり、ペニンナという妻は子どもをたくさん産みましたが、もう一人の1人のハンナの方には子どもが生まれませんでした。

今でも不妊に悩む夫婦がたくさんあり、何とかして子どもを授かるようにと、たくさんの費用と時間を掛け、痛みなどの苦労に耐えながら治療を続けておられます。現代でも子どもが与えられないことは大変な痛みととらえる方々がいらっしゃいますが、古代社会においては、子どもが生まれないというのは、今の私たちには想像もできないほどに恥ずかしいこととして考えられていました。

ハンナは非常に信仰深い女性でしたし、エルカナも心優しく、また敬虔な人でした。子どもが与えられるかどうかはその夫婦の信仰深さや性格の善し悪しとは関係がありません。しかし、当時の多くの人々が、不妊は神さまからの呪いだと考えていたのです。

おまけにハンナは、子を産むことができたペニンナから様々な嫌がらせを受けていました。ハンナの焦りや悲しみはいかばかりだったでしょう。その悲しみは、エルカナの優しい言葉かけでもいやすことができないほどでした。

祈り

当時、神さまの契約の箱と幕屋はシロという町にありました。礼拝のために家族と共にシロに上ったハンナは、一人神さまの前で祈り、誓願を立てました。「もし自分に男の子を授けてくださったなら、私はその子の一生をあなたにおささげします」と。

誓願とは、神さまが自分の願いを聞き届けてくださった場合に、ある事をしますと約束することです。ハンナがささげた願いは男の子を産ませて欲しいということ、そして自分がするという約束は、その子を神さまにささげるということです。具体的には幕屋で働く祭司にするということです。

この時ハンナは黙って祈っていましたが、大祭司エリは彼女が酔っ払っていると誤解してしまいました。それだけハンナの悩みが深く、一心不乱に祈っていたためでしょう。ハンナの願いは、かなえられてもかなえられなくても、どっちでもいいやという問題ではありませんでした。だから必死に祈りました。

さて、誤解を解いた祭司エリはハンナに優しく語りかけました。「安心して行きなさい。イスラエルの神が、あなたの願ったその願いをかなえてくださるように」(1:17)。この時点では、まだハンナは妊娠していませんでしたが、晴れ晴れとした顔つきになりました。神さまが必ず働いてくださるという確信を得て、平安に満たされたのです。

サムエルの誕生

実際、神さまはハンナの祈りを聞いてくださり、ハンナは間もなく妊娠しました。そして男の子を産みます。その子が、後に預言者となり、サウルやダビデに油を注いで王に任命することになるサムエルです。

それまで、ハンナは毎年夫エルカナと共にシロに行って礼拝していましたが、サムエルが生まれると行くのをやめてしまいました。それは、サムエルを神さまにささげるという誓約をしているからです。サムエルと一緒にシロに赴くときは、サムエルを祭司エリの元に連れて行き、そこに置いてくるときです。そこで、ハンナはサムエルが乳離れするまでシロに行かずに家に留まりました。当時の乳離れは、3、4歳だったようです。

賛美の歌

そして、サムエルが乳離れすると、ハンナはいよいよシロにある幕屋に出かけていきました。そして、祭司エリに我が子サムエルを託すと、神さまに感謝の祈りを捧げました。それが今回ご一緒に交読した箇所に書かれています。
救い
まずハンナは、神さまが自分を救ってくださったことを大いに喜び、感謝しています(1節)。

確かに、不妊に悩んでいたハンナにとって、子どもが与えられたというのは天にも昇るような喜びだったことでしょう。ただ、それを「救い」と表現するのは、少々大げさなようにも思えます。しかし、ここにはイスラエル特有の事情が絡んでいます。

神さまは、イスラエル人の先祖アブラハム、イサク、ヤコブと契約を結ばれました。その契約の中に、アブラハム、イサク、ヤコブとその子孫に、現在のパレスチナ地方を中心としたカナンに土地が与えられるという約束があります(創世記13:14-17など)。

そこで、カナンの地に土地を持ち、そこに住むというのは、イスラエル人にとっては神さまの救いと切っても切れない関係にありました。子ども、特に跡継ぎとなる男の子を産むことができないというのは、イスラエルの女性にとって大変なプレッシャーであり、屈辱でした。

そのようなわけで、なかなか子どもを産むことができなかったハンナは、夫エルカナに非常に愛されていたにも関わらず、苦しんでいました。そして、ついに子どもを産むことができたというのは、まさに救いと表現できる出来事だったのです。
逆転させる神
それからハンナは、私たちに救いを与えてくださる神さまが、逆転勝利の神だと歌います(4-8節)。

ハンナは夫エルカナにとても愛されていましたが、既に見たように、その結婚生活は焦りと悲しみに満ちたものでした。しかも、子どもを何人も産んだもう一人の妻ペニンナから、様々な嫌がらせを受けていました。どれほど悔しくて悲しくて苦しかったことでしょうか。しかし、そんなハンナに、神さまは逆転勝利を与えてくださいました。
謙遜の勧め
神さまは弱い者に力を与えることがおできになりますが、勇士の弓を砕くこともできるお方でもあります。今、下にいると思っている人が引き上げられ、逆に上にいると思っている人が引き下げられることがあるということです。

ですからハンナは、人は謙遜でなければならないと勧めます。

「おごり高ぶって、多くのことを語ってはなりません。横柄なことばを口にしてはなりません。まことに【主】は、すべてを知る神。そのみわざは測り知れません」(3節)。

「主は敬虔な者たちの足を守られます。しかし、悪者どもは、闇の中に滅び失せます。人は、自分の能力によっては勝てないからでsu
」(9節)。
大げさな賛美
それにしても、ハンナの祈りは大げさです。確かに、彼女はペニンナからの嫌がらせに苦しみました。ですから、「不妊の女が七人の子を産み、子だくさんの女が、打ちしおれてしまいます」(5節)と祈るのはまだ分かります。が、「私の口は敵に向かって大きく開きます」(1節)というのは、ちょっと言い過ぎじゃないでしょうか。

さらには、エルカナ一家の中の問題に留まらず、地の柱だとか世界を据えたとか(8節)、地の果て果てまでさばくとか(10節)、何だか大げさな話になっていますね。

実は、ハンナの賛美を導かれたのは神さまの霊、聖霊さまです。彼女は自分自身の体験や信仰を歌っただけではなく、聖霊さまに導かれて預言的な内容を口にしました。

そして、この賛美は、「主に油そそがれた者」についての言及で終わります。「【主】は、はむかう者を打ち砕き、その者に天から雷鳴を響かせられます。【主】は地の果ての果てまでさばかれます。主が、ご自分の王に力を与え、主に油注がれた者の角を高く上げてくださいますように」(10節)。

「王」「主に油そそがれた者」というのは、神さまがやがて地上に送ると約束された救い主のことを指しています。イスラエルの王や祭司は、任職される際に油を頭に注がれました。「油そそがれた者」はヘブル語でマーシアハ、すなわちメシヤです(ギリシャ語のクリストス、すなわちキリストも同じ意味)。メシヤ(キリスト)は、やがて救い主を指す意味となりました。

聖書の預言によれば、救い主が地上に来られると、すべての悪を滅ぼし、世界を愛と正義によって統治なさいます。そして、アダムとエバから始まった人類の罪の問題を解決して、罪の結果もたらされたあらゆる呪いを取り除いてくださいます。

今回のハンナの賛美は、単にペニンナに対する逆転勝利を歌ってものではありません。1節の「口を敵に向かって開く」というのも、単に自分が子どもを産んで、ペニンナに向かって「見たか、へへーんだ!」と勝ち誇るという意味ではないわけです。これは世の終わりに起こる逆転勝利を歌ったものです。

なお、その後ハンナは次々と子どもを産むようになり、サムエル以外に3人の男子と2人の女子をもうけました。

それでは、このハンナの賛歌から、私たちが信じる神さまがどういうお方か学びましょう。

2.私たちが信じる神

祈りに応える神

ハンナは、祭司エリが酔っ払っているんじゃないかと誤解するほど、心を注ぎだして必死に祈りました。私たちには、それほどまでの切なる願いがあるでしょうか。私たちが心の底から何かの実現を願い、酔っ払っていると誤解されるほどに心を注ぎ出して祈ったのはいつでしょうか。

ただし、神さまは私たちの奴隷ではありません。残念ながら、どんなに真剣に必死で祈り続けたとしても、私たちの祈りが常に祈った通りの内容で祈った通りの時期にかなうとは限りません。親が子どもの願いを100%その通りかなえることがないように、神さまは私たちの願いに対して「ダメ」とおっしゃることもあります。

しかし、親は子どもの最善を願い、最も良いものを最も効果的な時に与えようとします。たとえ子どもの願いがそのまま叶えられなくても、もっとすばらしいことをしようとします。

確かに、ハンナに子どもを与えてくださるかどうかを決める主権は神さまにありました。しかし、その神さまが自分に好意を持ってくださり、自分の人生を間違いない方向に導いてくださることを彼女は信じました。だから平安を得たのです。

私たちがハンナから学ぶべき模範。それは、神さまは自分を愛し、自分に最善以外のことを決してなさらないということを信頼することです。神さまは私たちの祈りに必ず応えてくださいます。それは、必ず祈ったとおりになるということではなく、神さまは必ず最高のものを最高のタイミングで与えてくださるということです。

逆転勝利を与える神

焦りと悲しみに満ちていたハンナに、神さまは逆転勝利を与えてくださいました。

私たちは有限の存在であって、先の先まで見通すことはなかなかできません。もっぱら今起っていることに心を奪われてしまいます。そして、その時々に起る出来事のせいで一喜一憂し、あるいは他人と比較して誇らしく思ったり落ち込んだりします。

しかし、ハンナの賛歌は、そんなことは意味がないことを教えてくれます。もうダメだと思えるようなつらい状況にいたとしても、あるいは何年も状況が変わらず、自分の人生こんなもんだと安値安定の気分に陥りそうになっていたとしても、人生には逆転勝利の可能性があることを、いつも私たちは忘れないでいたいと思います。

あなたは今どんな状況にいますか? そして、神さまがあなたに逆転勝利を与えてくださる方だと信じますか? 逆転勝利を与えてくださる全知全能の神さまに、あなたは何を望みますか?

救いの神

神さまは私たちが今どんな状態にあったとしても、必ず逆転勝利を与えてくださいます。

ただし、場合によっては、私たちが生きている間には目立った状況の変化は見られないということもあるでしょう。しかし、世の終わりの時に、神さまはすべてに決着を付けてくださり、私たちに逆転勝利を必ず味わわせてくださいます。

聖書によれば、やがて(その時期は明確にされていませんが)イエスさまは地上に帰ってこられます。これは「再臨」と呼ばれています。再臨のイエスさまは、「王」(10節)として来られます。そして、世界中の悪を滅ぼし、信じる者を復活させ、永遠に神の国に住まわせてくださいます。

本当だったら、私も再臨の時に滅ぼされてしまうはずです。私の中には確かに悪があるからです。「これくらいいいじゃないの」というのは、完全できよい神さまには通用しません。もしも行ないによって救われようとするなら、完璧でなければならないのです。仮にこれから完璧に生きることができたとしても(そんなことは無理ですが)、過去やってしまったことはもう取り返しが付きません。「悪者どもは、闇の中に滅び失せます。人は、自分の能力によっては勝てないからです」(9節)と書かれている通りです。

しかし、そんな私たちには救いの道が用意されています。イエス・キリストの十字架と復活を信じるという道です。

聖書によれば、救い主は2度地上に来られます。1度目は既に2千年前に実現しました。救い主イエスさまは、私たちの罪を赦すために十字架にかかり、血を流してくださいました。そして、復活して天にお帰りになりました。イエスさまが自分の罪のためにしに、復活なさったと信じる人は、誰でも神さまの救いをいただき、罪を赦され、神さまの子どもにしていただけます。そして、世の終わりのさばきの時にも守っていただけます。

本来、私たちは闇の中に滅びるはずの者でした。しかし、そんな私たちを、神さまは守り、引き上げ、救ってくださいます。ハンナが勧める通り、私たちは謙遜になって、イエス・キリストが与えてくださる救いを信じ、信じ続けましょう。そして、たとえ地上では報われないなと思うことがあっても、イエスさまの喜ばれる行ないを、愚直に、コツコツと、忠実に行なわせていただきましょう。
アフリカで活躍していた宣教師リビングストンは、さらに奥地にあるコンゴに行くよう神さまの促しを受けました。さっそくコンゴに向かったリビングストンは、ある部族の村に到着しました。

この部族の習慣では、よそ者を村に入れる場合、酋長がその人の持ち物から好きな物を選び取り、代わりに酋長の持ち物をその人に授けるという儀式が必要でした。リビングストンは、門の外に持ち物を並べながら、心の中でこう祈りました。「主よ。どうかヤギだけは取り上げられないようにお願いします」。

実はリビングストン、繊細な胃腸がアフリカの水を受け付けず、飲むとすぐにおなかを下してしまうのでした。もちろんいやしを祈っていましたが、今までのところ奇跡は起こらず、水分補給をヤギの乳に頼るしかない状態でした。もしヤギを取り上げられたら、水分を採れずに干上がってしまいます。

酋長がやってきました。彼は即座にヤギに近づき、指をさしました。家来の一人がヤギを取り、どこかへ連れて行ってしまいました。しばらくして、その家来は一本の杖を持ってきて、それをリビングストンに手渡しました。リビングストンはがっかりしました。今まで彼の命を守ってくれていたヤギを取り上げられ、その代わりが古ぼけた杖一本だなんて!

すると、リビングストンの表情を見て取った現地ガイドがこうささやきました。「先生。それは単なる古い杖なんかじゃありませんよ。これは酋長の権威を表す杖です。これを持っているなら、あなたはこの界隈のどの部族、どの村にも安全に出入りすることができるのです!」

リビングストンは、大切な大切なヤギを失いましたが、その代わりにこの地域でたくさんの人たちに福音を語ることができるようになりました。そればかりか、神さまはリビングストンがヤギがいなくても生きていられるようにしてくださいました。すなわち、彼の胃腸をいやしてくださったのです。

神さまが私たちの大切なものを奪われるとき。それはもっと良いものを下さるときです。
(当サイト「ショートエッセイ」より)

あなた自身への適用ガイド

  • 最近、神さまはどのようにあなたの祈りに応えてくださいましたか?
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  • 今、あなたは苦境に立たされたり、問題を抱えたりなさっていますか? 逆転勝利を与えてくださる神さまに、あなたにどんなことを期待していますか?
  • 神さまの前で謙遜であれという勧めを聞いて、あなたはどんなことを考えたり感じたりしましたか?
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  • 今日の聖書の箇所を読んで、どんなことを決断しましたか?

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