本文へスキップ

礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

ミカル

聖書の女性シリーズ10

第2サムエル6章16節〜23節

(2021年9月12日)

ミカルは後にイスラエルの王となるダビデの最初の妻で、サウル王の娘です。ミカルの生き方を通して、神への愛を育てることについて学びましょう。

礼拝メッセージ音声

参考資料

16節の「【主】の箱」は、幕屋(後には神殿)の至聖所に安置された契約の箱のこと。中には十戒を刻んだ2枚の石の板、アロンの杖、マナが入れられた金の壺が入っていました。蓋には2体のケルビム(天使の一種)の像が取り付けられていて、そこに神さまが臨在なさいました。
  • ヨシュア率いるイスラエルが約束の地に入った後は、シロに置かれました。
  • 預言者サムエルが活躍し始めた頃にペリシテ人に奪われましたが、契約の箱が持ち込まれたペリシテ人の町々に厄災が起こったためイスラエルに返還され、その後はキルヤテ・エアリムにあるアビナダブの家に安置されました。
  • ダビデ王がヘブロンからエルサレムに都を移した後、エルサレムに運び入れられました。今回の箇所はその時に起こったエピソードです。

イントロダクション

今日はダビデの最初の妻であるミカルを取り上げます。彼女を反面教師として神さまへの愛を育てましょうというのが、今回のテーマです。まずはミカルについて聖書がどのように記しているか見ていきましょう。

1.ミカルについての聖書の記述

ダビデの妻となる

ミカルはイスラエル統一王国初代の王であるサウルの娘です。そしてダビデの最初の妻となりました。ミカルがダビデに嫁いだ経緯は次の通りです。

サウルに仕える戦士となったダビデは、ペリシテ人との戦いで連戦連勝を治めました。しかもダビデは常に最前線に立って戦ったため、ダビデに対する国民や兵士たちからの人気が非常に高まりました。そこで、サウルはダビデが反逆して王位を狙うことを恐れるようになります。ダビデにはそのような野心は全くなかったのですが、サウルは疑心暗鬼に陥っていたのです。そこで、何とかダビデを殺そうとしました。

一方、ミカルは外見も良く武勇もあったダビデのことを男性として愛していました。それを知ったサウルは一計を案じました。ダビデにミカルと結婚するよう言い、ダビデには王女をめとるための花嫁料を支払う財力がないことを見越してこう言いました。「『ダビデにこう言うがよい。王は花嫁料を望んではいない。ただ王の敵に復讐するため、ペリシテ人の陽の皮百だけを望んでいると』。サウルは、ダビデをペリシテ人の手で倒そうと考えていた(第1サムエル18:25)。

陽の皮というのは、男性の外性器を覆っている包皮のことです(ユダヤ人の割礼で切り取る部分)。サウルが言っている意味は、敵であるペリシテ人100人を打ち倒し、その陽の皮を切り取って持ち帰れということです。ペリシテ人たちは、ダビデが味方を殺しただけでなく、遺体の身ぐるみを剥ぎ取ってそのような侮辱的な行為をしているのを見たなら、怒り狂ってダビデを何としても殺そうするでしょう。サウルは、それを狙ってこのような変な花嫁料を求めたわけです。

しかし、ダビデは殺されるどころか、100枚でいいところを200枚の陽の皮を持ち帰ってきました。こうして、サウルのもくろみは外れました。ダビデを亡き者にするどころか、かえってその名声を高めてやったようなものです。サウルはダビデに神さまが付いていることを認めざるを得なくなり、ますますダビデの存在を恐れるようになりました。

一方、父サウルのもくろみが外れたことは、ミカルにとってはうれしいことでした。愛するダビデの元に嫁ぐことができたからです。

ダビデを逃がす

サウルのダビデに対する殺意はますます高まっていきました。そして、兵たちを遣わしてダビデを強制的に王宮に呼び寄せ、そこで殺すことにしました。その計画をミカルが耳にします。彼女は、愛する夫ダビデを逃がすことにしました。

まず、その夜のうちにダビデを窓からつり下ろして逃がし、それからテラフィムをダビデの代わりに寝床に寝かせました。
  • テラフィムとは偶像のことです。詳しいことは分かっていませんが、占いやまじないに使われていたようです(エゼキエル21:21、ゼカリヤ10:2)。大きさもまちまちで、ミカルが持っていたものは人と同じような大きさでした。
とっさの機転でダビデの命を救ったのはグッジョブなんですが、ミカルは偶像を持っていたのですね。

翌朝、ミカルはサウルから遣わされた人たちに対して、「あの人は病気です」と言いました。使者たちはベッドに寝かされているテラフィムをダビデだと思い込んで、それをサウルに報告しました。サウルは、ベッドごとダビデを王宮に連れてくるように命じました。

サウルは、自分がだまされていたことを知るとミカルを問い詰めます。すると、ミカルは「夫は、もし自分を助けてくれなかったらお前を殺すと脅しました。ですから仕方なくそうしたのです」と言いました。その間に、ダビデはまんまと逃げおおせることができました。

ダビデの元に帰る

ダビデがエルサレムを去った後、サウルはミカルを別の男性の元に嫁がせました。パルティエル(略してパルティ)という人です。

そして時が流れました。サウルはペリシテ人との戦いに敗れ、3人の王子と共に戦死しました。ここで、誰が次の王になるかという争いが生じました。ユダ族の人々は自分たちと同じユダ族であるダビデを支持して王としました。一方、それ以外の11部族の人々は、サウルの生き残った男子であるイシュ・ボシェテという王子を王にしました。こうしてイスラエルに2年間に渡る内乱が勃発します。

戦いは、ダビデ軍が優位に進みました。しかも、イシュボ・シェテ陣営では、王であるイシュボ・シェテと、彼を支えてきた将軍アブネルとの間に不和が生じました。結局アブネルはイシュボ・シェテを見限り、今後はダビデが全イスラエルを統一するのを手伝いたいと申し出ます。

すると、ダビデはその見返りを要求しました。それは、自分の妻であったミカルを自分に返すようにということでした。不和になったと言ってもアブネルが軍隊を掌握していますから、結局イシュボ・シェテはアブネルに頭が上がりません。イシュボ・シェテはミカルをダビデに返すことを了承します。こうして、ミカルは夫パルティエルから強制的に引き離されてダビデの元に送り返されました。

その後、イシュボ・シェテは家臣に裏切られて殺され、最終的にダビデが神さまの預言通りに全イスラエルの王となりました。サウル王が死んで2年後、紀元前1004年頃のことです。
ミカルの心情
その陰で、妻ミカルを突然奪われたパルティエルが、アブネルに追い返されるまで泣きながらミカルの後を追ってきたということが書かれています(第2サムエル3:15)。もしミカルが鬼嫁だったとしたら、パルティエルはそんな真似をしなかったでしょう。ミカルは内面も美しい女性だったのです。

しかし、当のミカルの心情がどうだったかということは聖書に書かれていません。本来の夫だったダビデの元に戻ることができてうれしかったのか、それとも再婚して時を重ねるうちに愛するようになったパルティエルと政治的な理由で引き離されて悲しかったのか……。

ダビデの元に帰ってきたことがうれしかったにせよ悲しかったにせよ、分かっていることは、もはや彼女だけがダビデの妻なのではなく、他に妻がいたということです。ダビデがサウルの元を逃れた後にめとったアムノン、アビガイル、マアカ、ハギデ、アビタル、エグラの6人です(第2サムエル3:2-5)。さらにダビデは、全国を統一してヘブロンからエルサレムに都を移した後も、多くの妻や側女を持ちました。

モーセの律法は、将来イスラエルが王を持つようになった場合の王の義務についても触れています。その中に次のような命令があります。「また王は、自分のために多くの妻を持って、心がそれることがあってはならない」(申命記17:17)。ダビデはこの教えに違反しています。

そのおかげで、ただ1人の妻だったミカルは、多くの妻の1人になってしまいました。 もちろんダビデの最初の妻ですし、なにしろ元王女という他の妻たちと比べて段違いに高い身分でもありますから、王宮ではそれなりの待遇を受けたことでしょう。しかし、それでも多くの妻の中の1人という立場は、ミカルにとっては惨めで悲しいことだったはずです。

ダビデをさげすむ

さて、全イスラエルの王となったダビデは、都をヘブロンからエルサレムに移しました。そして、それまでキルヤテ・エアリムという町に置かれていた神の契約の箱を首都エルサレムに運び入れようと考えました。
ヨシュア率いるイスラエルが約束の地に入った後、神の契約の箱は当時の宗教的中心地だったシロに置かれました。そして、士師記の時代の終わり、サムエルが預言者として活躍し始めた頃、イスラエルはペリシテ人との戦いに敗れて、戦場に持ち込まれていた契約の箱を奪われてしまいます(詳しくはこちらの記事参照)。ところが、契約の箱が置かれたペリシテ人の町々で厄災が起こったため、ペリシテ人は契約の箱をイスラエルに返還しました。そして、戻ってきた契約の箱は、キルヤテ・エアリムにあるアビナダブの家に安置されました。
ウザの死
ダビデが契約の箱をエルサレムに持ち込むに当たって、ウザという人が死ぬという事件が起こります(第2サムエル6:1-12参照)。本来、契約の箱を移動させる際には、箱の四隅に付いている輪っかに通されている棒を、レビ族の中のケハテ氏族の人たちが担いで動かさなければなりません。ちょうど日本の神輿に似ています。ところが、ダビデは牛に引かせた荷車に乗せて運ばせました。

途中、荷車が揺れて契約の箱が落ちそうになりました。それをウザという人が押さえます。すると、神さまのさばきによって死んでしまいました。決して直接触れてはならないと命ぜられている契約の箱に触れてしまったからです。

ダビデは恐れを感じ、契約の箱をオベデ・エドムという人の家に預かってもらいました。おそらくダビデは、自分が契約の箱をエルサレムに迎え入れるのにはふさわしくない罪人だと考えたのでしょう。しかし、3ヶ月後、オベデ・エドムの家が神さまに祝福されているのを知ると、神さまの怒りは去ったと考え、改めてエルサレムに契約の箱を迎え入れることにしました。もちろん、今度は荷車で運ぶのではなく人が担いで運びます。
ダビデの喜びの踊り
こうして、ようやく契約の箱がエルサレムに到着しました。そのとき、ダビデは次のような行動を取りました。「ダビデは、【主】の前で力の限り跳ね回った。ダビデは亜麻布のエポデをまとっていた。ダビデとイスラエルの全家は、歓声をあげ、角笛を鳴らして、【主】の箱を運び上げた」(14-15節)。

この時のダビデは、王服ではなくエポデを身につけていました。エポデというのは元々は大祭司が儀式の際に身につけた装束の中で、服の上に重ね着するベストのようなものです。大祭司のエポデは、金色・青色・紫色・緋色のより糸と、より糸を使って織った亜麻布が使われた豪華な柄のものでした(出エジプト記28:6)。

ただ、その後は一般の祭司やそれを助けるレビ人も着るようになったようで、預言者サムエルが子どもの頃、祭司エリのしもべとして神さまに仕える際に「亜麻布のエポデ」を着ていたことが聖書に書かれています。

このたびダビデが着ていたのも「亜麻布のエポデ」です。それは大祭司が着る豪華なエポデと違って、もっと簡素なものだったようです。ダビデは、王としての威厳ある姿ではなく、一般の祭司やレビ人たちと同じような姿で神さまを礼拝したのです。

そればかりか、ダビデは跳んだりはねたりして踊りながら神さまを賛美しました。そんなダビデの様子に民衆も触発されて、みんなで歓声を上げ、角笛を吹き鳴らして賛美しました。

出エジプトで神さまが海を真っ二つに裂いてイスラエルを無事に対岸に渡らせ、後を追ってきたエジプト軍を全滅なさったとき、イスラエルの民は神さまをほめたたえ礼拝しました。その際、モーセの姉ミリアムと女性たちがタンバリンと踊りで神さまをほめたたえましたが、そのシーンと重なります。

神さまが共にいてくださることを表現している契約の箱をエルサレムに迎え入れることができた、ダビデや民衆の喜びがあふれていますね。 特にダビデは、羊飼いだった自分を引き上げて王にしてくださった神さま、ウザの事件で明らかになったように不完全な自分を赦して祝福してくださる神さまに対する感謝が満ちあふれ、激しいダンスとなってそれを表わしたのです。
ミカルの嫌み
ところが、一人ミカルだけはその様子を苦々しい思いで見つめていました。そして、喜びながら帰ってきたダビデに、冷水を浴びせるような嫌みな言葉を投げかけました。「イスラエルの王は、今日、本当に威厳がございましたね。ごろつきが恥ずかしげもなく裸になるように、今日、あなたは自分の家来の女奴隷の目の前で裸になられて」(20節)。

別にダビデは裸踊りをしたわけではありません。エポデを着ていました。しかし、ミカルにとっては、威厳のある王服を脱ぎ捨てて、身分の低い者たちと一緒になって歌い踊るダビデの姿は、まるで人前で裸になったのと同じくらい恥ずかしいものだと感じられました。

ミカルが恋をしたのは、美男子で武勇に優れたかっこいいダビデでした。自分にとっていつまでもかっこいいアイドルでいて欲しい。しかも、今や全イスラエルを支配する王なのですから、王らしく威厳に満ちた姿、威厳に満ちた態度でいて欲しい。ミカルはそう思っていたのです。それが、あんなふうに下賎な民衆どもと一緒になって踊り騒ぐなんて幻滅もいいところです。

しかし、ダビデは自分の王としての威厳など、全世界の王である神さまの前では意味がないことを知っていました。自分の空虚なプライドを満足させることよりも、神さまの臨在なさる場所である契約の箱を自分が住む町、イスラエルの首都に迎え入れることができた喜びの方がずっと優っています。

今回の箇所でミカルは、かつてダビデの命を救ったときのように「ダビデの妻ミカル」(19:11)と呼ばれているのではなく、「サウルの娘ミカル」と何度も呼ばれています。王の娘として育てられたミカルは簡単にプライドを捨てることができなかったのでしょう。

また、偶像であるテラフィムを持っていたことからも分かるとおり、彼女自身はあまり神さまとの関係を重視していませんでした。ですから、ダビデが語る神さまへの感謝の思いは伝わらなかったようです。

その後ミカルは生涯子どもを授かることがありませんでした。これは、神さまがミカルの考え方を否定し、逆にダビデの考えの方を良しとなさったことを物語っています。
  • 老婆心ながら申し上げますが、子どもが生まれないことが必ず神さまの呪いというわけではありません。 ただ、ミカルの場合は、文脈(話の流れ)から神さまのさばきだと受け取ることができます。
では、ここから私たちは何を学ぶことができるでしょうか?

2.神への愛を育てよう

ミカルはダビデを心から愛していました。ミカルの兄で、サウル王の皇太子であるヨナタンもダビデに対して深い友情を抱きました。そして、彼らは二人ともダビデの命を父サウルの手から守ろうとしました。ミカルとヨナタンの違いは、ヨナタンは神さまに対する深い信仰を持っていたけれど、ミカルの場合はそうでもありませんでした。極端な言い方をすれば、ヨナタンはダビデと神さまを愛していましたが、ミカルはダビデは愛していたけれど神さまは愛していなかったということです。

その結果、ミカルはダビデが熱烈に神さまをほめたたえながら踊るのが理解できず、かえって王さまらしくない振る舞いだと考え軽蔑してしまいます。

私たちはミカルを反面教師として、神さまに対する愛を育てていきましょう。そのために必要なことを3つ挙げます。

神のしてくださったことを数え上げよう

ダビデが熱烈に踊るほどに神さまへの愛を抱いていたのは、それまで神さまが自分に良くしてくださったことを数え上げ、感動と感謝に満たされていたからです。
  • 神さまは、巨人ゴリアテを始め、たくさんの強敵に勝利させてくださいました。
  • サウル王の魔の手からも守り続けてくださいました。
  • サウルから逃れていたときに自分や部下たちが飢えないよう支えてくださいました。
  • 多くの子どもたちを与えてくださいました。
  • そして、羊飼いだった自分を王にまで引き上げてくださいました。
私たちも、これまでの人生を振り返ってみましょう。そのときは気づかなかったとしても、振り返ってみると様々な場面で神さまの助けや守りがあったことに気づかされます。それを一つ一つ数え上げてみましょう。

若い頃、先輩のクリスチャンに感謝の心を育てる方法を伝授されました。右手の親指を曲げながら「神さま、右手の親指が曲がることを感謝します」と祈ります。次に人差し指でも同じことをします。こうして、右手、左手、右肘、左肘、さらには右目が見えること、左目が見えること、臭いを嗅ぐことができることと、次々と意識を向けながら感謝するのです。

さらに、自分の外に目を向けて、家族の誰々がそばにいてくれること、住む家があること、働く場所や学ぶ場所が与えられていること、頭の上に爆弾が落ちてこない平和な国に住んでいることと、様々な祝福に目を留めて感謝します。

こうして数え上げていくと、それらが与えられているのが当たり前でないこと、そして神さまが用意してくださったものだということが理解でき、心からの感謝の思いが生まれてきます。

ミカルを反面教師にして神さまに対する愛を育てるため、感謝の種を一つ一つ具体的に挙げることを実践してみましょう。

神の恵みに目を留めよう

ダビデが特に感謝しているのは、神さまの祝福が恵みによって与えられているということでした。恵みというのは、良い行ないに対する報酬ではなく、神さまが一方的にプレゼントとして祝福を与えてくださるということです。

羊飼いの出身だったダビデは、自分が今のような境遇になったのは当たり前のことではなく、神さまからの一方的な祝福によることを実感していました。

また、エルサレムに契約の箱が運び込まれる直前、あのウザの事件が起こっています。聖なるものに触れてしまってさばかれたのはウザ自身の責任ですが、そもそも契約の箱を間違った方法で運ばせたダビデの責任でもあります。ダビデは決して完全無欠の人ではなく、私たちと同じように不完全な罪人でした。しかし、そんなダビデを神さまは赦してくださり、契約の箱をエルサレムに運び込むことを良しとしてくださいました。それに対する感謝がダビデをあのように激しく踊らせたのでした。

一方のミカルは王の娘として何不自由ない暮らしを続けてきました。必要なものが与えられるのは当たり前のことでした。ですから、神さまの恵みもなかなか実感できません。

あるときイエスさまを食事に招いたパリサイ人シモンに対して、イエスさまはこう質問なさいました。「ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は五百デナリ、もう一人は五十デナリ。彼らは返すことができなかったので、金貸しは二人とも借金を帳消しにしてやった。それでは、二人のうちのどちらが、金貸しをより多く愛するようになるでしょうか」(ルカ7:41-42)。答えは、もちろん多くの借金を帳消しにしてもらった方です。そして、「多く赦されたものは多く愛し、少なく赦された者は少なく愛する」とおっしゃいました。

それにしても、多く赦されたり少なく赦されたりすることがあるのでしょうか。いいえ。罪はどんなに些細なものであったとしても、永遠の滅びを招くほど重大です。そして、永遠の滅びから私たちを救い出すため、御子イエスさまが地上に来られ、十字架にかかって血を流し、尊い命を犠牲にすることによって、罪の罰を身代わりとして受けてくださいました。

そして、イエスさまが自分の罪のために十字架にかかり、死んで葬られ、3日目に復活したと信じるだけで、私たちはすべての罪を赦され、そればかりか神さまの子どもにしていただいて、永遠の祝福をいただく存在となりました。羊飼いだったダビデが王になったよりも遥に大きなジャンプアップです。

多く赦されるとか少なく赦されるとかいうのは、赦しの大小ではなく自覚の大小を指しています。自分がどれほどの罪を赦していただいたと自覚しているかということです。

神さまの祝福を数え上げると共に、これまでどれほどの罪を神さまに赦していただいたか振り返ってみましょう。一つ一つそれを数え上げ、神さまに感謝しましょう。

神への感謝を精一杯表現しよう

「悲しいから泣くのではなく、泣くから悲しくなるのだ」という言葉があります(ジェームズ=ランゲ説)。もちろん、感情が行動を生み出すというのも嘘ではないでしょうが、その一方で行動が感情に影響を与えるというのも本当です。意識して笑顔を作り「あっはっは」と笑い声を上げていると、沈んでいた気分がアップしてくるものです。

ダビデや民衆は、激しく踊り、角笛を吹き鳴らし、歓声を上げながら賛美しました。それによってますます神さまに対する感謝や喜びを増し加えたことでしょう。しかし、ミカルはその輪に加わりませんでした。ですから、神さまに対する愛の思いが育ちませんでした。

私がクリスチャンになりたての頃の話です。当時私が通っていた教会では、賛美の時に多くの人が目を閉じ、顔を上げ、手を挙げながら歌っていました。その頃の私は同じようにするのが恥ずかしくて、しばらくは直立不動の姿勢で歌ったものです。しかし、あるとき同じようにやってみようと思いました。なかなか腰から上に手が挙がりませんでしたが、思い切ってやってみると、神さまに対する感謝の思い、賛美の思いが以前よりも強くわき上がってきて驚いた経験があります。

手を挙げればいいというものではないし、手を挙げなければならないということもありません。しかし、時に思いきって手を挙げて賛美の歌を歌ってみる。もうちょっとだけ大きな声で歌ってみる。声に出して祈ってみる。「この祝福を感謝します」「この罪が赦されていることを感謝します」と、心で感じる感謝を声に出してみる。「この約束を信じます」とか「このあなたの命令をこんなふうに守ります」と声に出して宣言してみる。そういうふうに神さまへの愛を具体的な行動に表わしてみるのはすばらしいことです。

私たちの中にも、ミカルのような神さまに対して冷めた部分があります。たとえそうでなくても、神さまの対する愛は伸びしろが充分あります。神さまがしてくださったことを数え上げ、恵みに目を留め、具体的な行動で神さまへの感謝を表現しましょう。

あなた自身への適用ガイド

  • ミカルと同じように、神さまに対して冷めた部分があったと気づかされましたか? それはどのようなものですか?
  • これまでの人生を振り返って、特に神さまに感謝したいことを一つ見つけましょう。それは何ですか?
  • 今日のメッセージを通して、改めて発見した神さまからの恵みは何ですか?
  • 神さまへの愛を育てるために、具体的に行動しようと思ったことが何かありますか?
  • 今日の聖書の箇所を読んで、どんなことを決断しましたか?

連絡先

〒962-0001
福島県須賀川市森宿辰根沢74-5

TEL 090-6689-6452
E-Mail info@nakakomi.com