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礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

アビガイル

聖書の女性シリーズ11

第1サムエル記25章9節〜19節

(2021年9月19日)

アビガイルは事業家ナバルの妻で、後にダビデの妻となります。アビガイルが示した態度から、永遠に神に祝福されるための生き方を学びます。

礼拝メッセージ音声

参考資料

アビガイルはナバルという事業家の妻でしたが、彼の死後にダビデの3人目の妻となりました。後に次男キルアブ(ダニエル)を産みます。なお、1人目の妻はサウルの娘ミカル、2人目は逃亡中にめとったアヒノアムです。

18節の「セア」は約7.3リットル。ですから5セアは36.5リットルです。

サウルの王宮は「ギブア」にあり、ダビデはそこを脱出してイスラエル南部を放浪しました。ナバルは「マオン」に家があり、「カルメル」で事業を行なっていました。サウルが死ぬと、ダビデは「ヘブロン」でまずユダ族の王となります。アビガイルがキルアブを産んだのはヘブロンに着いた後です。

イントロダクション

今回は、ナバルという金持ちの妻であり、彼の死後にダビデの妻となったアビガイルについて学びます。彼女が見せた態度を通して、永遠に続く祝福を神さまからいただくために必要なことを教えていただきましょう。

1.アビガイルの機転

ダビデの怒り

この頃、ダビデは自分の命を狙うサウル王から逃れてイスラエルの南部地域を放浪していました。彼の元には自分の両親や兄弟たちの他、サウル王の治世に不満を抱えたり困窮したりしている人たちが集まり、兵士だけでも600人ほどになっていました。彼らを食べさせるだけでもなかなか大変です。

そんなあるとき、事業家であるナバルが羊の刈り取りを祝う宴会を開きました。それを聞きつけたダビデは、使者を遣わし、自分たちにも祝儀として食糧を分けてくれるようも依頼しました。旅人をもてなしたり、祝い事の際に近所の人たちや貧しい人たちにお裾分けしたりするのは、当時は当然のこととされていましたから、特にダビデが図々しいというわけではありません。

しかも、ダビデの部下たちは非常に統制が取れていて、ナバルの羊飼いたちと行動を共にした時に、ならず者のように彼らを脅して金品を強奪しなかったどころか、自発的に野獣や盗賊、外国の略奪隊などから彼らを守ってやっていました。

にもかかわらず、ナバルはダビデの願いを恩知らずにも断ります。それどころか、「ダビデとは何者だ。エッサイの子とは何者だ。このごろは、主人のところから脱走する家来が多くなっている」(10節)と口汚く侮辱しました。

歴戦の勇士であり多くの兵士を伴っているダビデを侮辱したらどんな未来が待っているかなどということは、ちょっと考えれば想像できるはずです。ところが、ナバル(愚か者)という名前の通り、そういう当たり前の判断もできませんでした。

案の定、頭にきたダビデは、武装した400人の兵士を率いてナバルの元に向かいました。自分を侮辱したナバルばかりか、彼に属するものを子どもに至るまで皆殺しにするためです(34節)。前の24章ではサウル王を殺すチャンスがあったにもかかわらず、ダビデは王の命を取りませんでした。そんな柔和なダビデが無関係な人たちまで殺そうとするとは驚きですが、それだけ頭に血が上っていたのです。

アビガイルによる謝罪

ナバルのしもべたちは愚か者ではなく、このままだと大変なことになるということを正確に予測しました。しかし、ナバルが愚かなだけではなく、頑固で人の話に耳を傾けないひどい主人だということをしもべたちはよく知っていました。ここで下手に諫言などすればどんなひどい目に合わせられるか分かったものではありません。そこで、しもべの1人が奥方であるアビガイルの元に飛んで行き、事の次第を報告しました。

すると、アビガイルはすぐに必要な行動を起こしました。彼女もまた聡明な人だったので、今必要なのはダビデに対する謝罪だということを知っていたのです。たくさんの贈り物を用意すると、アビガイルはしもべたちと共にダビデの元に急ぎました。
責めを代わりに負う
兵士たちを連れてやってくるダビデと出会ったアビガイルは、地にひれ伏してこう言いました。「ご主人様、あの責めは私にあります。どうか、はしためが、じかに申し上げることをお許しください。このはしためのことばをお聞きください」(24節)。「どうか、はしための背きをお赦しください」(28節)。

ダビデを侮辱した責任は夫であるナバルにあります。しかし、アビガイルは自分の責任だと言い、自分を赦して欲しいと願いました。
預言
さらに、アビガイルは預言めいたことを語りました。「【主】は必ず、ご主人様のために、確かな家をお建てになるでしょう。ご主人様は【主】の戦いを戦っておられるのですから」(28節)。「【主】が、ご主人様について約束なさったすべての良いことをあなたに成し遂げ、あなたをイスラエルの君主に任じられたとき」(30節)。

サウル王に睨まれて逃げ回っているダビデが、将来神さまによって必ず王の座に着くとアビガイルは語っています。そして、今一時の感情に走って自分で復讐し、無関係な者たちまで虐殺するという悪を行なったなら、それは王となったダビデにとってつまずきとなり、後悔の種になると彼女はダビデに語りました。

謙遜で、しかも理を尽くして語るアビガイルの姿勢にダビデは感銘を受けました。そして、自分が罪を犯そうとしていたことを認め、怒りを静めて贈り物を受け取り、そのまま引き返していきました。こうして大虐殺が未然に防がれました。

ダビデとの結婚

しかし、ダビデの怒りの元となったナバル本人は、暢気にも宴会で酔っ払っていました。そして、翌日アビガイルから事の次第を聞くと、ショックのあまり倒れてしまって、それから約10日後に死んでしまいました。それは神さまがナバルを打ったためだと聖書は語っています(39節)。侮辱されたダビデの代わりに、神さまがナバルに罰を与えてくださったのです。

それを知ったダビデは、アビガイルに自分と結婚して欲しいと申し入れました。遺されたナバルの事業や財産によって経済的な基盤を得るという打算もあったかも知れませんが、何よりアビガイルの人柄に惚れ込んだためなのは間違いありません。

アビガイルもダビデの求婚を受け入れました。そのときのことを、聖書は次のように記しています。「彼女はすぐに、地にひれ伏して礼をし、そして言った。『さあ。このはしためは、ご主人様のしもべたちの足を洗う女奴隷となりましょう』」(41節)。アビガイルの謙遜さがにじみ出ていますね。

こうしてダビデの妻となったアビガイルは、その後ダビデと行動を共にし、やがて男の子を産みました。ダビデの次男に当たるキルアブ、別名ダニエルです。

では、アビガイルから私たちは何を学ぶことができるでしょうか。それは永遠に続く祝福を手に入れるために必要な態度です。

2.永遠の祝福を手に入れるために

先を見通すこと

アビガイルの夫ナバルは、そんなことをしたらこの先どうなるかということをまったく考えず、そのときの気分でダビデを侮辱しました。また、偉大な信仰者であるダビデも、この時は自分の感情にまかせて大虐殺を行なおうとしていました。

一方、アビガイルはこの先何が起こるかをしっかり見定めていました。このままでは、ナバルはもちろん、自分もしもべたちも、小さな子どもに至るまで皆殺しです。それを正確に見抜いて、直ちに必要な行動を取りました。

また、ナバルはダビデがサウル王から逃げ回っている現在の姿しか見えず、ダビデのことを主人の下を逃げ出した奴隷だと侮辱しましたが、アビガイルはダビデが将来必ず神さまによって王座に就くと見抜いていました。

私たちも、今この時に起こっていることにだけ向けられがちです。そして、今この時の一時の感情で行動してしまいがちです。先を見通すとしても、せいぜい地上で生きている間のことを予想するだけでしょう。

しかし、私たちの父である神さまは、永遠の先まで見通して今この時働いてくださっています。ですから、神さまの子どもとなった私たちも、永遠の先を見ながら、すなわちこの先生きている間に起こることだけでなく、死んだ後に起こることまでも見通して今この時を生きなければなりません。

聖書は言います。「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」(ヘブル9:27)。

このさばきというのは、刑罰を与えるための査定だけでなく、報酬を与えるための査定も含みます。そして、死後のさばきでは、私たち一人ひとりが地上で行なった行ないが評価されます(黙示録20:20など)。
天に宝を積む生き方
ですから、私たちは今の感情や欲求だけで行動を決めるのではなく、神さまの目に価値がある行ない、将来処罰ではなく報酬をいただけるような行ない、地上ではなく天に宝を積む行ないとはどういうものだろうかということをいつも考えた生き方をしましょう。

森永製菓の創業者である森永太一郎さんは、日本で初めて洋菓子を売り出し、キャラメルのヒットで会社を大きくしました。当時、お菓子は上げ底が当たり前だったのですが、クリスチャンである森永さんは神さまが自分をだましたことがないのだから、神さまの子どもである自分もお客さまを欺くことはできないと、上げ底をしませんでした。また、関東大震災が起こると、栄養豊富なお菓子を無償で被災者に配りました。

あなたはお菓子メーカーの社長ではないかも知れませんが、永遠という時の流れの中で今求められている行ないは一体なんでしょうか。お互いそれを考え、それぞれ実践していきましょう。

キリストの犠牲を覚えること

死後のさばきでは行ないが評価されると申し上げましたが、その基準は極めて高いということを私たちは知らなければなりません。神さまの要求水準は完璧であることです。毛ほどの不十分さもあってはなりませんし、ただ1度の過ちも赦されません。

そんな基準でさばかれるとしたら、人が自分の行ないによって認められ、永遠の祝福をいただくことは不可能です。人は皆生まれながらに罪人であり、不完全だからです。

ですから、私たちは自分の罪、自分の不完全さを一方的に神さまに赦していただく必要があります。そして、一旦赦していただいた上で、私たちが生きている間に行なった良いことを1つ1つプラス評価していただくのです。
減点法と加点法
以前、学校の先生方が子どもたちを評価するやり方が2種類あると申し上げました。減点法と加点法です。減点法とは、その時点での子どもたちの理想状態を100点として、そこから「これができていないからマイナス1点」「ここが間違っているからマイナス5点」というふうに、足りない分を差し引く評価方法です。

一方の加点法とは、スタート時点をその子の0点として、「これができるようになったからプラス1点」「こういう態度を身につけたからプラス5点」というふうに、できるようになった分を足していく評価方法です

死後のさばきはいわば減点法です。そして、わずか1点でも減点されたら落第です。しかし、そんな私たちが神さまに赦されたとしたら、減点法ではなく加点法に変わります。そして、加算された点数によって報酬が与えられます。
キリストの身代わりの死
しかし、正義である神さまがどうして人間の罪を赦すことができるのでしょうか。それは、私たちの罪の罰を身代わりに引き受け、それによって私たちに罰が下らないようにしてくださった方がいるからです。それがイエス・キリストです。

アビガイルは、自分がダビデを侮辱したわけではないのに、それを自分の過ちだと言い、ナバルに代わって謝罪しました。それによってナバルとしもべたちに災いが下らないようにしました。それと同じように、イエスさまは罪のない100%きよい生き方をなさったのに、十字架にかかって罪人として神さまの呪いを受けました。そして、死んで3日目に罪と死を打ち破って復活なさいました。

私たちは、イエスさまがこの自分の罪のために十字架にかかり、死んで葬られ、3日目に復活なさったと信じるだけで、神さまの赦しを受け取り、それどころか神さまの子どもとなることができます。そして、将来減点法から加点法に変えられた評価を受け、永遠の祝福を受け取ることができます。

私たちは、イエスさまによって赦されているということを、いつも思い起こし、感謝を捧げ続けましょう。

謙遜であること

アビガイルは大金持ちの奥さまでしたが、夫ナバルと違ってそれを鼻にかけない謙遜な女性でした。ダビデに求婚されたときも、自分のことをはしためと呼び、ダビデのしもべたちの足を洗う女奴隷になると言いました。彼女はダビデが将来必ず王になると信じていました。ということは、自分もゆくゆくは王妃になるはずですが、そのように言ったのです。聖書は人から仕えられるのではなく人に仕えるリーダーこそ本当のリーダーだと教えていますが、アビガイルはまさにそのような人物だったのです。

そして、私たちが将来を見通す生き方をし、また神さまからの赦しを受け取るためには、謙遜であることが求められます。

なぜなら、傲慢な人は自分が一番なので、神さまが自分の行動をどう評価するかなどということには無頓着です。また、自分が赦されなければならない罪人だということも分かりませんから、イエスさまによる赦しも必要だと思いません。

謙遜は、聖霊なる神さまが私たちに結ばせてくださる御霊の実です。
神さまは様々な出来事、たとえば失敗や事故などを通して私たちに謙遜を学ばせようとしてくださっています。つらいことや嫌なことが起こったとき、ただ残念だったで終わらせず、神さまの偉大さを思い起こし、イエスさまにより頼む必要があることを改めて心に刻みましょう。
若くて有能な設計士がいました。ある日、彼の奥さんが突然教会に通い始めました。そればかりか、間もなく同居していたお母さんも、お父さんも、子どもたちまでも教会に通い始め、次々と洗礼を受けていきました。

彼自身も、家族の手前、クリスマス・コンサートなどの特別な集会の時にはたまに顔を出すようになりますが、「決して自分は信じるもんか」と思っていました。彼は自分の理性と能力に絶対の自信を持っており、神なんかに頼る生き方が弱いものに思えて、とても受け入れられなかったのです。また、科学で割り切れない世界にも嘘っぽさを感じていました。

そんなある日、彼はトンネルの設計を手がけました。自分でも最高のできばえと思えるような図面が書けました。

ところが、いよいよ工事が始まって間もなく、現場監督が図面の書き替えを要求してきました。そして、難色を示す設計士にこんなことを言いました。「どんなにすばらしい図面であっても、それは机の上での話。実際に掘ってみたら、最初の図面通りに行かないこともしょっちゅうです。何しろ、ほんの数十センチ掘っただけで、まったく地層の状態が変わってしまうのですから」。

このことを通して、設計士は考えさせられました。人間は理性と能力によって何でもできると思っていたが、たかだか地下数十メートルのことすらほとんど分かっていないではないか、と。そして、何でも分かっているような顔をして生きていた自分は、なんと傲慢だったのかと思わされました。

それから彼は、次の日曜日に教会に出向き、牧師の前でキリストを信じて生きることを宣言したのでした。
(当サイト「ショートエッセイ」より)
神さまが今週も謙遜を学ばせてくださり、それによって私たちがイエスさまのおかげで赦されているという喜びを与えられ、また神さまのみこころを実行して天に宝を積もうという意欲を与えられますように。

あなた自身への適用ガイド

  • 最近、先を見通さずに今の感情や欲求に従って行動して失敗した経験がありますか?
  • そのとき、本来どのような行動が求められていたと思いますか?
  • 今のあなたにとって「天に宝を積む生き方」とはどういうものだと思いますか?
  • 最近、神さまによって謙遜さを学んだ経験がありますか?
  • あなたは、どのような経緯でイエスさまによる罪の赦しを信じ、クリスチャンになりましたか?
  • 今日の聖書の箇所を読んで、どんなことを決断しましたか?

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