本文へスキップ

礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

ツァレファテに住む未亡人

聖書の女性シリーズ12

第1列王記17章17節〜24節

(2021年9月26日)

ツァレファテに住む未亡人は飢饉の時に預言者エリヤを養い、代わりに神さまからその生活を支えられました。そのエピソードから感動と感謝に満ちあふれた人生についてお話しします。

礼拝メッセージ音声

参考資料

17節の「女主人」は、フェニキアのツァレファテという港湾都市に住んでいた未亡人です。この町は現在のレバノン南部の海岸に位置するサラファンドと同定されています。

ツァレファテの南北にあるツロとシドンは、当時の北イスラエルの悪王アハブの妻イゼベルの父であるエテバアルが支配していた都市国家です。そして、ツァレファテはシドンの支配下にありました。

18節の「エリヤ」は、北王国のティシュベ出身の預言者です。当時の北王国はアハブ王と王妃イゼベルによって異教礼拝がはびこっていました。エリヤはそれと戦っていました。

当時の北王国の首都はサマリアです。

イントロダクション

今回取り上げるのは、ツァレファテという町に住む一人の未亡人です。私たちは、彼女の生き方を学ぶことによって、ますます感動と感謝に満ちあふれることができるクリスチャン生活のカギを受け取りましょう。

エリヤを養った未亡人

エリヤの事情

まずは、今回の箇所に至る状況を説明します。

当時のイスラエルは北王国イスラエルと南王国ユダに分裂していました。北王国の王はアハブという人で、王妃としてフェニキアのシドンからイゼベルを妻に迎えました。イゼベルの父エテバアルはシドンとツロの王で、異教礼拝の祭司でもありました。

そんなエテバアルの薫陶よろしく、イゼベルもバリバリの異教礼拝者でした。アハブ王はイゼベルの影響で、北王国に異教礼拝を広め、そればかりかまことの信仰者たちを虐殺していました。そんなときに神さまによって立たされた預言者の一人がエリヤでした。

エリヤはアハブとイゼベルを批判して、次のように宣告しました。「私が仕えているイスラエルの神、【主】は生きておられる。私のことばによるのでなければ、ここ数年の間、露も降りず、雨も降らない」(1節)。

アハブとイゼベルが礼拝していた異教の神バアルや女神アシュタロテは、豊作をもたらす神々だと信じられていましたから、聖書の神さまによって雨が止められ飢饉が起こるというのは、バアル礼拝、アシュタロテ礼拝に対する強烈な皮肉です。

実際神さまがおっしゃったとおりになり、3年6ヶ月にわたってまったく雨が降らない日々が続きました。こうして、北王国は神さまのさばきによって激しい飢饉に見舞われ、多くの国民が飢え渇きに苦しむことになりました。
カラスに養われる
もちろん、このままではエリヤ自身も飢え渇きに苦しみます。そこで、神さまはエリヤに故郷ティシュベのそばを流れているケリテ川のほとりに住むよう命じました。「ここを去って東へ向かい、ヨルダン川の東にあるケリテ川のほとりに身を隠せ。あなたはその川の水を飲むことになる。わたしは烏に、そこであなたを養うように命じた」(3-4節)。

近所のゴミ集積場からカラスが残飯をくわえていくところは何度も目撃していますが、人間のところに食糧を届けに来るカラスなど見たことがありません。しかし、実際にカラスたちが朝晩パンや肉を届けに来ました。これは神さまの奇跡としか言いようがありません。

ところが、しばらくするとケリテ川の水も雨が降らないために涸れてしまいました。すると神さまは、エリヤに新たな命令を下されました。「さあ、シドンのツァレファテに行き、そこに住め。見よ。わたしはそこの一人のやもめに命じて、あなたを養うようにしている」(9節)。

ツァレファテはイスラエルではなく外国の町です。しかも、あの諸悪の根源であるイゼベル王妃の出身地シドンの支配下にある町です。しかも、福祉制度が整っていない古代の未亡人は非常に貧しい生活をしていました。そんな未亡人に養ってもらうなど、とてもあり得る話ではありません。しかし、エリヤは神さまの命令通りツァレファテに出かけていきました。

こうして、今回の主人公であるツァレファテの未亡人とエリヤが出会いました。

エリヤに従う未亡人

エリヤがツァレファテの町に到着すると、薪を拾い集めている女性に出会いました。エリヤは女性に水とパンを求めました。当時の中東では旅人をもてなすのは当然のマナーでしたが、いかんせん彼女は経済的に逼迫していました。

当時、ただでさえ夫を亡くし子どももまだ幼い未亡人は経済的にきつい生活を強いられていました。しかも、干ばつと飢饉は北イスラエル王国だけでなくフェニキアにも及んでいました。ですから、落ち穂拾いや施しなどで生計を立てるのも難しく、彼女の家にはもう小麦粉も油もほとんど残っていませんでした。

ですから彼女はエリヤに言いました。「あなたの神、【主】は生きておられます。私には焼いたパンはありません。ただ、かめの中に一握りの粉と、壺の中にほんの少しの油があるだけです。ご覧のとおり、二、三本の薪を集め、帰って行って、私と息子のためにそれを調理し、それを食べて死のうとしているのです」(12節)。

未亡人は、最後のパンを焼いたらもう食べ物が無くなって、後は飢え死にするだけだと訴えています。そんな彼女にパンを求めるのは酷というものです。しかし、ツァレファテの未亡人に養ってもらうというのが神さまのみことばです。神さまはできないことをしろとおっしゃる方ではありません。

ですから、エリヤは彼女に向かって極めて常識外れなことを言いました。「恐れてはいけません。行って、あなたが言ったようにしなさい。しかし、まず私のためにそれで小さなパン菓子を作り、私のところに持って来なさい。その後で、あなたとあなたの子どものために作りなさい。イスラエルの神、【主】が、こう言われるからです。『【主】が地の上に雨を降らせる日まで、そのかめの粉は尽きず、その壺の油はなくならない』」(13-14節)。

驚くべきことに、未亡人はエリヤの言う通りに実行しました。イスラエルの女性ならまだしも、彼女は外国人、しかもあの悪名高い異教礼拝者イゼベルを生み出したシドンの国民です。それなのに、この未亡人は自分と愛する息子が食べるはずのパンをエリヤに差し出しました。

この時点では、おそらくこの未亡人の中では、イスラエル人が信じる神ヤハウェは、バアルやアシュタロテなど多くの神々の中の一人で、その中でも結構力が強いという認識だったかも知れません。それでも、エリヤの約束を信じて、未亡人は残っているわずかな小麦粉と油を使って小さなパンを作り、それをエリヤに与えました。

すると、神さまは約束通りにしてくださいました。どれほど使っても小麦粉も油も尽きることがありません。イエスさまの5000人の給食の奇跡のように、使った分だけ小麦粉や油が湧き出してくるのです。

雨が止まって3年半がたつとエリヤは北王国に戻り、祈りによって再び雨を降らせることになりますが、その間未亡人親子も、また彼女の家の屋上に部屋を用意してもらって一緒に住むようになったエリヤも、十分な食糧を手に入れることができました。

未亡人の息子が生き返る

さて、エリヤが未亡人親子と同居するようになってしばらくたったとき、未亡人の息子が病気にかかり、そのまま死んでしまうという悲しい出来事が起こります。それが今回の箇所で取り上げられている出来事です。

未亡人は、悲しみのあまりエリヤにこう言いました。「神の人よ、あなたはいったい私に何をしようとされるのですか。あなたは私の咎を思い起こさせ、私の息子を死なせるために来られたのですか」(18節)。

突然深い悲しみに襲われると、人はそれをどう受け止めていいか分からず、他の人にその思いをぶつけて八つ当たりしてしまうことがあります。この時の未亡人はそういう精神状態でした。

そして、どうやら未亡人は、息子が死んだのは自分の罪のせいだと思ったようです。私たちも、何かつらいことや嫌なことが起こると、自分が何か悪いことをした報いではないか、たとえば先祖をちゃんと崇拝しなかった罰(ばち)が当たったんだとかいうふうに考えてしまいがちです。この未亡人の場合にはずっとシドンの国民として当然のように異教礼拝を行なってきました。その刑罰がエリヤを通して聖書の神ヤハウェから下ったのだと考えたのです。

じゃあ、最初っから助けなければいいのに。期待させておいて、散々上に上げておいてから下に叩き落とすような、そんなひどい真似をどうしてするのか。子どもを失って悲しみに包まれた未亡人は、そうエリヤに食ってかかりました。

エリヤは、息子の遺体を抱きかかえて屋上にある自分の部屋に行き、遺体の上に3度身を伏せながら、神さまにこの子を生き返らせてくださるよう祈りました。すると、息子は生き返りました。

生きている息子の姿を見た未亡人は言いました。「今、私はあなたが神の人であり、あなたの口にある【主】のことばが真実であることを知りました」(24節)。

いや、未亡人はエリヤが語る神さまの約束のことばを信じて、最後の小麦粉と油でパンを作ってエリヤに与えたのではなかったでしょうか。そうして、小麦粉と油が増えるという奇跡を毎日目の当たりにしていたのではなかったでしょうか。もちろんその通りです。

出エジプトの時のイスラエルの民も、食べ物がほとんど手に入らない荒野で神さまの奇跡によって養っていただきました。神さまは、毎日マナという不思議な食べ物を天から降らせてくださったのです。しかし、やがてイスラエルの民は奇跡に対する感動と神さまに対する感謝を忘れ、もうマナは飽きたとか、肉が食べたいとか言って不平を鳴らしました(民数記11章)。

どんなにすばらしい奇跡でも、それがいつも続くとだんだん当たり前になってきて、最初の喜びや感動も薄れてしまうものです。どうやらツァレファテの未亡人も、荒野のイスラエル人と同じ状態に陥っていたようですね。
未亡人の救い
新約聖書に次のような言葉があります。「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神がご自分を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです」(ヘブル11:6)。

息子を生き返らせていただくという新たな奇跡に触れ、改めて感動と聖書の神さまに対する感謝がよみがえったとき、ヘブル書が語っているような信仰が未亡人の心に芽生えました。

まず、聖書の神さまは多くの神々の中の一人などではなく、唯一絶対の神だという信仰、この方以外に神はいないという信仰です。

そればかりではありません。聖書の神さまは、報いを与える神だという信仰も持ちました。人間の王は、国民一人ひとりの声に耳を傾けて、個人的にその願いに応えてやるなどということはしません。そうしてやりたいという気持ちはあっても物理的に不可能です。しかし、偉大な力をお持ちである聖書の神さまは、私たちの個人的な祈りに応えてくださる方です。

こうして、ツァレファテの未亡人はヘブル書が語っているような信仰を持ち、神さまに喜ばれ、神さまに近づく者となりました。異教礼拝の中心地とも言えるツァレファテの町の中で、この未亡人はバアルやアシュタロテではなく聖書の神さまこそまことの神であると信じて救われました。エリヤが神さまによってわざわざ外国であるこの町に連れてこられたのは、まさにこの女性に救いをもたらすためだったのです。

では、この未亡人の姿から、私たちは一体何を学ぶことができるでしょうか。

2.みことばに信頼して応答しよう

約束のみことばを聞こう

聖書の中には様々な命令、「○○しなさい」という積極的命令や、「○○するな」という禁止命令がたくさんあります。私たちは、時にそういった命令にばかり目を留めがちになります。もちろん、神さまの命令に忠実に従うことは、クリスチャンとして成長していくためには絶対に必要なことです。

しかし、義務にばかり目を向けていては、私たちの信仰生活はしんどいものになってしまいます。聖書の中には命令だけでなく私たちに対する様々な約束のみことばもあります。

また、命令の背後には神さまの約束が隠されています。たとえば祈りなさいという命令の背後には、神さまが祈りを聞いてくださり、たとえ願ったとおりのことが起こらなくても常に最善のことをしてくださるという約束があるという具合です。

聖書の中にある神さまの約束を見つけ出し、それに耳を傾けることも意識しましょう。
約束の例
以前別の教会にお邪魔したとき、集会で証し(信仰の体験談)をしてくださったAさんは、とても消極的な性格だったとおっしゃいました。積極的に人と交流したり、新しいことにチャレンジしたりすることができなかったのだそうです。

そんなある日、小さかった時のことを振り返って、それが生き延びていくための知恵だったのだということにAさんは気づかれました。当時のお母さんは大変なストレスの中で精神的余裕を失っていて、何かにつけてAさんのことを叱り、暴力を振るいました。そこで、まだ幼かったAさんは、できるだけお母さんを刺激しないように振る舞う必要がありました。それが癖になって、消極的な性格になってしまったのだと気づかされたのです。

しかし、時がたち、お母さんは以前のような理不尽な怒り方をしなくなりました。また、Aさんは今はもう大人ですから、仮にお母さんが理不尽な怒り方をしたり、暴力をふるおうとしたりしても、それに充分対抗できるだけの体力や知恵を身につけています。ですから、もう目立たないようにする必要はないわけですが、それでも子どもの頃の生き方がすっかり身についてしまっていて、どんなにもっと積極的に生きようと意識して努力しても、どうしても消極的な生き方から抜け出すことができません。

もう自分は変われないんだろうなとあきらめかけたとき、聖書の言葉が目に飛び込んできました。「私たちの主イエス・キリストの父である神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせ、生ける望みを持たせてくださいました。」(第1ペテロ1:3)。

Aさんは考えました。イエスさまによって、私は新しく生まれたと聖書が約束している。だったら、古い生き方に縛られていた私はもうこの世にいない。ここにいるのはまったく新しい私だ。たとえ私自身の力で新しい生き方を始めることができなくても、私を新しく生まれさせてくださったイエスさまなら、私に新しい生き方をさせてくださるはずだ。

そして祈りました。「どうぞ神さま、私を新しい生き方へと導いてください。目立たないことを目的にした生き方から解放して、もっと積極的に生きられるように変えてください。私は新しく生まれたのだから、必ずそうできるとと信じます。それがあなたの約束だと信じます」。

すると、少しずつ、少しずつ、イエスさまはAさんの過去の心の痛みをいやし、それと共に積極的に人と交わったり、行動したりできる力を与えてくださいました。

私たちも聖書に示されている神さまの約束を見つけ出し、それを何度も自分に向かって語りかけ、また約束に基づいて神さまに祈りましょう。

聞いたみことばを実践しよう

先ほど、命令は約束が伴っているというお話をしましたが、逆に約束には命令が伴っているとも言えます。「わたしは必ず○○をあなたに与える。だからそれを信じたあなたは△△しなさい」という具合です。

ツァレファテの未亡人は、「かめの粉は尽きず、その壺の油はなくならない」という神さまの約束を聞くと、それに応答しました。すなわち、大切な最後の小麦粉と油でパンを作り、まずエリヤに食べさせたのです。約束を信じなければ、そんなむちゃくちゃなことは実践できません。

エリヤも、飢饉の中でもカラスが養ってくれるという約束、また未亡人が養ってくれるという約束を聞いて、それらに伴う命令の通り、ケリテ川のほとりに移動したり、外国であるツァレファテに向かったりしました。

先ほど紹介したAさんは、すでに新しく生まれているという約束を受け取ったとき、その約束に基づいて神さまに自分を変えてくださるよう祈り求めました。

別の証しも聞きました。ビジネスマンだったBさんは、子どもの頃に家が貧しかったせいか、ビジネスの世界で成功して経済的に豊かになること、そして広い土地を手に入れてそこに大豪邸を建てて住むことを第一に求めていました。彼はクリスチャンでしたが、お金を儲けるために嘘をついたり不正だと分かっているような行為を行なったりしていたそうです。

そんなあるとき、聖書の言葉に心をわしづかみにされました。「あなたがたは、主から報いとして御国を受け継ぐことを知っています。あなたがたは主キリストに仕えているのです。不正を行う者は、自分が行った不正を報いとして受け取ることになります。不公平な扱いはありません。」(コロサイ3:24-25)。

御国とは、将来イエスさまが地上に実現する理想的な王国、いわゆる千年王国のことです。それを受け継ぐというのは、千年王国の中に土地が与えられるということです。その約束に目を留めたとき、どんな手段を使ってもお金を稼いで土地を手に入れたいというこだわりが溶けていきました。そして、御国を受け継ぐためには、不正をやめ、主イエスさまに忠実に従う必要があると気づきました。

その後、Bさんは転職をし、今度は誠実にビジネスを行なうようにしました。すると、人から信頼されるようになり、彼のビジネスは軌道に乗りました。それは多くの冨を生みましたが、地上で贅沢をするというこだわりから解放されているBさんは、その多くを独り占めにしないで、様々な慈善事業への寄付や伝道団体への献金にささげておられます。以前は、どんなにお金を稼いでも「もっと、もっと」と充足感がなかったけれど、今は楽で幸せで充実しているとおっしゃっていました。

約束を聞いたら、それに伴う命令に従って行動しましょう。

新たに約束を受け取り続けよう

ツァレファテの未亡人は、エリヤを通して語られた神さまの約束を信じ、それに伴う命令に従って行動したことによって、毎日小麦粉と油が増えるという奇跡を体験しました。しかし、神さまが彼女に与えた祝福はそれだけではありませんでした。エリヤの祈りによって息子の命を取り戻してくださるという、さらにものすごい奇跡を見せてくださったのです。

ツァレファテの未亡人は、神さまの力を信じました。しかし、息子が生き返ったことを通して、彼女の信仰はより高レベルのものに成長しました。多くの神々の中の一人であるイスラエルの神は、そこそこすごい奇跡を行なうことができるという信仰から、イスラエルの神は世界の神、唯一まことの神であって、その力は計り知れない。しかも、その偉大な神は個人的な祈りに応えてくださるという信仰です。

私たち人間は神さまのすべてを知り尽くすことはできません。どんなに有名な伝道者であっても、信仰歴何十年のベテランクリスチャンであってもです。ということは、いつでも神さまの新たな側面を知り、あるいは神さまの新しい約束を知って感動できる余白があるということです。

長女がまだ赤ちゃんだった頃、お風呂に入れていたら私の胸に吸い付いてきたことがありました。必死になっておっぱいを求めるその姿を見ていて、次のみことばを思い出しました。「生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、霊の乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです」(第1ペテロ2:2)。ここで言う「霊の乳」とは、直前の箇所を読めば神のことば、すなわち聖書の言葉のことだと分かります。

生まれたばかりの乳飲み子のように、貪欲に聖書を読み、そこに記されている神さまからの新しい約束を探し出しましょう。「新しい」というのは、まったく初めてそこを読んだというだけではありません。何度も目を通してよく知っている箇所であっても、今この時の状況の中で改めて強烈に心に響いてくるということも含みます。

いつの間にか感動や感謝を忘れていたツァレファテの未亡人が新たな感動や感謝を覚えたように、私たちも新しい約束を見つけ出すことによって、いつも新しい感動や感謝に満たされ続けますように。

あなた自身への適用ガイド

  • あなたが最近心に留めた聖書の命令は何ですか? その命令の背後にはどんな約束が伴っていると思いますか?
  • あなたが最近心に留めた聖書の約束は何ですか? その約束の背後にはどんな命令が伴っていると思いますか?
  • 約束を信じて何かを実行したときに祝福を刈り取った経験の中で、最も新しいのはどういうものですか?
  • 今日の聖書の箇所を読んで、どんなことを決断しましたか?

連絡先

〒962-0001
福島県須賀川市森宿辰根沢74-5

TEL 090-6689-6452
E-Mail info@nakakomi.com