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礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

油壺1つの未亡人

聖書の女性シリーズ13

第2列王記4章1節〜7節

(2021年10月3日)

油壺1つしか残っていない未亡人は、預言者エリシャの奇跡によって借金を返し、その後の生活が支えられました。私たちも苦しい状況の中で神の働きを期待することができます。

礼拝メッセージ音声

参考資料

1節の「エリシャ」は、預言者エリヤの後継者です。北王国イスラエルで、第7代アハブ王から第12代ヨアシュ王の治世まで、50年以上預言者として活動しました。

4節の「背後の戸」とは、入口の戸のことです。

イントロダクション

貧しく、子どもたちを奴隷に取られそうになっていた預言者の未亡人は、預言者エリシャを通して与えられた神さまの奇跡によって、借金を返済し、その後の生活も守られました。私たちも、様々な状況の中で苦しむことがありますが、神さまのお働きを期待することができます。そのために必要な態度を、この未亡人に教えてもらいましょう。

1.油が増える奇跡

困窮の中の叫び

エリシャの仲間だった預言者の1人が、妻と2人の幼い子どもたちを残して死にました。前回も申し上げましたが、古代においては社会福祉制度が今のように整っていませんでしたから、働き手を失った家族は、死んだ夫がよっぽどの遺産を残してくれていない限り、経済的に大変貧しい暮らしを強いられます。

ただ、ユダヤ人が守るよう神さまに与えられたモーセの律法の中には、貧しい人たちを親族や地域が支えるような教えがあります。ルツの回でお話ししたように、収穫の時に落ちてしまった麦の穂はそのままにして、貧しい人たちが拾って食料にできるようにするという教えもその一つです。

しかし、当時のイスラエルの人々、特に北王国の人々は、王も民衆もモーセの律法をほとんど無視して生きていました。ですから、彼らを支えてくれる人はまったく現れませんでした。

そのようなわけで、この未亡人と子どもたちは貧しい生活を強いられていました。しかも、彼らには借金がありました。夫が生前作った借金なのか、それとも彼の死後生活がままならずに未亡人が借りた物なのかは分かりませんが、今の彼らにはとても返済することができない額に膨れ上がっていました。そこで、債権者は「金が返せないのなら、子どもたちを奴隷として連れて行く」と言ってきました。

実はこれもまた律法違反です。モーセの律法では、たとえ貧しさの故に身を売る人がいたとしても、その人を買った人はその人を奴隷として扱うのではなく、雇い人あるいは寄留者として処遇しなければならない、すなわち労働に対して相応の賃金を支払わなければならないと定めています(レビ25:25-26)。しかし、債権者はそんなことはお構いなしに、子どもたちを奴隷にしようとしていました。

万策尽きた未亡人は、唯一残っている希望にすがりました。それは、預言者エリシャに現状を訴えることです。彼女は言いました。「あなたのしもべである私の夫が死にました。ご存じのように、あなたのしもべは【主】を恐れていました。ところが、債権者が来て、私の二人の子どもを自分の奴隷にしようとしています」(1節)。

これは、夫は忠実な信仰者なのにどうしてこんなことが起こるんだと神さまを呪っているわけではありません。また、エリシャに弱音や愚痴を聞いてもらうためでも、エリシャに借金の肩代わりをしてもらうためでもありません。エリシャを通じて神さまにこの苦境を何とかしていただくためでした。

空の器を集める

すると、エリシャは未亡人に家の中に何があるか尋ね、壺の中にわずかな油があるだけだということを聞き出しました。前回登場したツァレファテの未亡人の家には、わずかな小麦粉と油しかなく、それでパンを作って息子と一緒に食べたら後は餓死するだけだとエリヤに語っていましたね。しかし、今回登場した未亡人はそれ以上に貧しく、家に小麦粉すら残っていません。

しかし、とにかくほんの少し油があることは分かりました。すると、エリシャは未亡人に不思議な指示を与えました。
  1. 近所の人たちから空の器をたくさん借りてくること。
  2. その後、未亡人と子どもたちは家に入り、後ろの戸を閉めること。これで家は密室になって、中にいるのは3人だけになります。近所の人たちもエリシャでさえもそこに入ることができません。
  3. それから、壺の油を次々と空の器に注いでいくこと。
壺の油を注いだら、おそらく最初の器に注いだところですべて無くなってしまうでしょう。しかし、次々と注ぎなさいとエリシャは言います。これは、油がどんどん新しく湧き出す奇跡が起こるということを意味しています。

未亡人は、すぐにエリシャの指示したとおりのことを行ないました。彼女は奇跡を信じたのです。そして、その信仰の通り、油はたくさんの空の器を次々と満たしていきました。

油が止まる

ところが、やがて借りてきた空の器が全部油で満たされてしまいました。子どもが「もう器はありません」と言うと、その時油が止まりました(6節)。私はケチな性分なので「あらもったいない」と思いますが、実際は止まって良かったです。止まらなかったら、あの「魔法使いの弟子」の話のように、家の中が油だらけになってしまったでしょう。そして、油の量はそれで必要充分だったということがこの後分かります。

油が止まると、未亡人はエリシャの元に飛んで帰りました。そして、自分たちが神さまの奇跡を体験したことを彼に報告しました。するとエリシャは優しく言いました。「行ってその油を売り、あなたの負債を払いなさい。その残りで、あなたと子どもたちは暮らしていけます」(7節)。

油は止まってしまいましたが、しかしその量はすでに充分でした。油を売ったお金で、未亡人は借金を返済できたばかりか、おそらくその先子どもが成長して立派な働き手になってくれるまでの間、安心して暮らすことができるようになったのです。

未亡人一家は、神さまの愛と不思議な力を体験しました。私たちもクリスチャンとしてそうありたいですね。では、そのために私たちがこの未亡人から学べるのはどういう態度でしょうか。

2.神の愛と力を体験するために

キリストの名によって祈ろう

今回登場した貧しい未亡人は、預言者エリシャに向かって叫んだこと、すなわち現状を訴えて神さまが何か働いてくださることを願ったことがきっかけとなって、神さまからの愛と力のみわざを体験できました。ところが、残念ながら、ここにエリシャはいません。

しかし、現代の私たちには、別の仲介者が与えられています。それは、十字架にかかり、死んで葬られ、3日目に復活なさった救い主、イエス・キリストです。イエスさまは、罪人であって本来神さまと愛の交わりをすることができないはずだった私たちと、きよい神さまの間を取り持ってくださいました。イエスさまの十字架と復活を信じたとき、私たちのすべての罪が赦されたからです。

そして、イエスさまは次のように約束してくださっています。「その日には、あなたがたはわたしに何も尋ねません。まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしの名によって父に求めるものは何でも、父はあなたがたに与えてくださいます。」(ヨハネ16:23)。

これはとんでもない約束です。私たちのそばにエリシャはいませんが、私たちはイエスさまのお名前によって天の父なる神さまに祈ることができます。すると、神さまは私たちが思いもしなかったような方法で私たちの人生を祝福へと導いてくださいます。
イエスの名によって祈るとは
ところで、「イエスさまのお名前によって」とはどういう意味でしょうか。それを理解するのに役立つ例話があります。
昔、ノルウェーの王さまが、お忍びで町に降りていきました。すると、ボロボロの格好をしたヨハンという男が近づいてきて、「もう何日も食べていないのです。どうかお恵みを」と言いました。哀れに思った王さまは、カードを取り出すと、そこにメッセージと自分のサインを書き込み、ヨハンに手渡しました。そこにはこう書かれていました。「このカードを持っている者を、今日の夕食に招待する」。

目の前の紳士が王さまだと知って、ヨハンはとても驚きましたが、同時に自分にとんでもない幸運が舞い込んできたことを喜びました。夕食の時間になると、さっそくヨハンは王宮に出かけていきました。ところが、門番が彼を見とがめます。「こらこら、そんな汚いなりで王宮に入るつもりか。あっちへ行け」。

そこで、ヨハンは王さまからもらったカードを取り出し、門番に見せました。すると、「おお、これは確かに王さまのサインだ。失礼した。通ってよろしい」。ヨハンは無事に王宮に入り、今まで味わったことのない豪華な食事にありつきました。

次の日の夕食時、、ヨハンはまた王宮にやってきました。門番は言いました。「昨日は王さまの招待状を持っていたから通したが、今日は通すわけにはいかないよ」。ところが、ヨハンは門番にカードを見せながらこう言いました。「ほら、ここに『今日の』と書いてありますね。だから、『今日』私は夕食をいただきに来たのです」。門番は「確かにあんたの言う通りだな」と苦笑いしながら、ヨハンを通してくれました。こうして、ヨハンは毎日王宮の夕食にありつくことができたとさ。
(当サイト「ショートエッセイ」より)
何ともすばらしい幸運でしたね。王さまのサイン入りのカードを示すことによって、ヨハンは毎日王宮に入って豪華な料理を食べることができるようになりました。ヨハンは、王さまの名によってその祝福を手に入れたということです。

イエスさまの名によって神さまに祈るというのもこれと同じです。イエスさまが私の罪を赦してくださったので、私は神さまに子どもとして愛されています。そのことを意識し、感謝しながら神さまに祈ること。これがイエスさまのお名前によって祈るということです。
別に大声を出す必要は無い
この未亡人は大声で叫びましたが、私たちが別段大声を出して祈らなければ、神さまに聞いていただけないというわけではありません。しかし、この未亡人のように、何としても神さまに働いていただきたいという強い願いと、また必ず神さまは働いてくださるという強い希望をもって祈りたいですね。

密室で祈ろう

エリシャは未亡人に、空の器を借り終わったら、家に入って後ろの戸を閉めなさいと言いました。すなわち、家の中に未亡人家族3人だけとなりました。しかし、そこには目には見えないもう1人いました。神さまです。

10月は、日本の旧暦では神無月ともいいます。日本中の八百万の神々が出雲大社に集まって、縁結びや天気について話し合って取り決めを行なうからだとか。なので、出雲地方では10月を神在月と呼びます。八百万の神々は、別の場所に移動したらもうそこにはいないというわけですね。

しかし、聖書が教える本当の神さまは「遍在」という性質をお持ちです。つまり、ただお一人の神さまはどこにでもいらっしゃるということです(詩篇139:7-12)。

先程、未亡人の家の中には家族3人の他に、もう1人神さまがいらっしゃったと申し上げましたが、それは遍在という意味で申し上げたのではありません。神さまは、未亡人と2人の子どもたちと交わるために、積極的にそこにいてくださったという意味です。

背後の戸を閉めて密室状態にすることは、個人的な祈りと関係しています。イエスさまは祈りに関してこんなことをおっしゃいました。「あなたが祈るときは、家の奥の自分の部屋に入りなさい。そして戸を閉めて、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたところで見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます」(マタイ6:6)。

もちろん、他の人たちと一緒に心を合わせて祈ることも大切です。イエスさまはこうも教えておられます。「まことに、もう一度あなたがたに言います。あなたがたのうちの二人が、どんなことでも地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父はそれをかなえてくださいます」(マタイ18:19)。

しかし、密室で神さまと1対1となり、聖書を読み祈ることによって深く神さまと交わることもまた、私たちと神さまとの間の祝福のパイプを太く強くすることになります。家庭状況で物理的に密室状態にすることが難しくても、心を神さまに向け、象徴的に1対1になることは可能です。 福音書時代のユダヤ人は、祈るときには布を頭にかぶりました。それによって、自分を世俗から切り離して、神さまと1対1の関係を作り上げるためです。

油は、聖書の中でしばしば聖霊なる神さまの象徴として用いられています。私たちも、密室の祈りの中で、神さまと1対1になって、神さまからの油である聖霊さまの注ぎかけと満たしを求めましょう。聖霊なる神さまにこの自分が導かれるように、造り変えられるように、助けられるように、そして自分1人の力では到底味わうことができないような、神さまからの祝福を人生で体験できるように日々求める時間を取りましょう。

空の器として祈ろう

未亡人の家で油が湧き出てくる奇跡は、それを受け止める空の器がなくなったときに止まりました。無限の力をお持ちである神さまの祝福を制限するものがあるとしたら、それは受け止める私たちの側の信仰の器の大きさです。

しかし、人と人とを見比べて、どちらの信仰が大きいとか小さいとか、祝福が大きいとか小さいとか比較することには意味がありません。油は止まりましたが、未亡人たちの生活は集めた器の分ですでに充分でした。一人ひとりが成長の過程でどんな大きさの信仰の器を持っていても、神さまはその人にとって必要充分に働いてくださいます。

むしろ大切なことは、器が空っぽであることです。中に水や穀物が入っている器なら、そこに油を注ぎ入れることはできません。

神さまに祈る際、私たちの側で神さまの働きかけを制限してしまうことが時々あります。「いつどこでどのようなことが起きるかは、あらかじめ私が神さまに指示します。それ以外の解決なら受け付けませんからね」というふうに。そんなふうに決めつけないで、空っぽの状態で祈りましょうということです。

もちろん、神さまは私たちを子どもとして愛してくださっていますから、こちらから事細かにお願いをすること自体は禁じられていませんし、神さまは喜んでその祈りに耳を傾けてくださいます。しかし、私たちはいつも、神さまの方がはるかに私たちよりも賢く、事の善し悪しを見分けることがおできになるということを忘れてはなりません。

私たちが「これがベストだ」と思える解決も、神さまはそう思っていらっしゃらないかも知れません。そして、私たちにとっては最悪に思える方法が神さまにとってのベストであって、それを神さまは実現なさるかも知れないのです。

以前紹介した「病者の祈り」をもう一度紹介します。
病者の祈り
〜ニューヨーク・リハビリテーション研究所の壁に書かれた一患者の詩〜

大事を成そうとして 力を与えてほしいと神に求めたのに
慎み深く従順であるようにと 弱さを授かった

より偉大なことができるように 健康を求めたのに
よりよきことができるようにと 病弱を与えられた

幸せになろうとして 富を求めたのに
賢明であるようにと 貧困を授かった

世の人々の賞賛を得ようとして 権力を求めたのに
神の前にひざまずくようにと 弱さを授かった

人生を享楽しようと あらゆるものを求めたのに
あらゆるものを喜べるようにと 生命を授かった

求めたものは一つとして与えられなかったが
願いはすべて聞き届けられた
神の意にそわぬ者であるにもかかわらず
心の中の言い表せない祈りは すべてかなえられた
私はあらゆる人々の中で 最も豊かに祝福されたのだ
私たちには常識があるし、願いもあります。それに基づいて祈ってもかまいません。しかし、その一方で、心のどこかに「それでも、あなたのなさることがベストです。あなたのみこころの通りになさってください。私はそれを受け入れます」という思いもまた持ち続けていましょう。

あなた自身への適用ガイド

  • あなたには、神さまに解決していただきたい悩みや苦しみがありますか?
  • あなたは、神さまが共にいて、あなたの人生に関心を持ち、すばらしいことをしようとしてくださっていることを信じていますか? 信じられないとすればそれはなぜでしょうか?
  • 密室の祈りを、今どのように実践していますか? またこれからどのように実践しようと思いましたか?
  • 空の器に別の物を入れていたなと気づかされたことがありますか?
  • 自分が祈ったこととは違ったことが起きたけれど、最終的にそれがベストだったと気づかされたことが最近ありましたか?
  • 今日の聖書の箇所を読んで、どんなことを決断しましたか?

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