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礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

ゴメル

聖書の女性シリーズ15

ホセア書1章1節〜9節

(2021年10月17日)

礼拝メッセージ音声

ゴメルは旧約聖書の預言者ホセアの妻で、姦淫を犯しました。ゴメルとホセアの物語から、救いがなぜ「贖い」と呼ばれているか解説します。

参考資料

「ホセア」は主に北王国で活動した預言者で、活動時期は南王国の預言者イザヤと重なっています。

1節の「ユダ」は南王国、「イスラエル」は北王国のこと。「ヤロブアム」はヤロブアム2世のこと(前793〜782年は父ヨアシュとの共同統治。その後単独統治して753年死去)で、この頃、北王国は経済的には最も繁栄しました。

4節の「イズレエル」は、北王国にあった平原と同じ名です。開けた場所なので、しばしば大規模な戦闘が行なわれました。そこに同じ名の町があり、異教礼拝を広めたアハブ王(在位:874〜853年)の王宮がありました。「エフー」は、アハブの後継者ヨラムに仕えた将軍でしたが、イズレエルにいたヨラム、アハブの妻イゼベル、また多くの王族やバアルの信者たちを殺して王となりました(在位:841〜814年)。ですから、イズレエルという名は、北王国に大虐殺を伴うさばきが迫っていることを暗示しています。
なお、ヤロブアム2世はエフーの曾孫です。ヤロブアム2世の死去に伴って即位したゼカリヤが、わずか6ヶ月後にシャルムに殺害されたことで、エフー王朝は終焉を迎えました。

6節のロ・ルハマは「あわれみを受けない者」という意味で、9節のロ・アンミは「私の民ではない」という意味です。

6節の預言は、紀元前722年にアッシリアが北王国を滅ぼしたことで成就しました。

7節の預言は、アッシリアが北王国を滅ぼした後、701年に南王国も攻めて首都エルサレムを包囲したときに成就しました。神さまはヒゼキヤ王の祈りに応えて1人の天使を送られ、たった1晩で18万5千人のアッシリヤ兵を打ち倒して南王国を救われました。

イントロダクション

今回の主人公であるゴメルは、預言者ホセアの妻です。神さまは彼女とホセアの関係を通して、イスラエルと神さまの関係を示しておられます。そして、その関係は私たちにも当てはまります。今回はそのことを詳しく見ていきましょう。

1.ゴメルとホセア

結婚

2節で神さまが預言者ホセアにこうおっしゃっています。「行って、姦淫の女と姦淫の子らを引き取れ」。ホセアは命令通りゴメルを妻にしました。この箇所の解釈の一つに、「この時にはゴメルは不倫を行なっていなかったけれど、ホセアとの結婚後に不倫をすることになるという意味だ」というものがあります。ただ、私は次のような事情だったと考えています。
  1. ゴメルはホセアと結婚する前に別の男性と結婚していました。
  2. しかし、ゴメルは不倫をし、しかも夫以外の男性の子どもを複数出産していました。
  3. そして、それが夫にバレて離縁され、子どもたちと一緒に家を追い出されました。
いずれにしても、神さまはゴメルが貞淑な女性でないことをご存じだったわけで、そんな女性と結婚せよとは人間的に考えればひどい話です。ただ、この結婚の意味については神さまが解説しておられます。それは、「この国は【主】に背を向け、淫行にふけっているからだ」(2節)ということです。

聖書は、神さまとイスラエルの関係を夫婦にたとえています。そして、偶像礼拝・異教礼拝のことを姦淫、すなわち妻が夫を裏切って別の男性と関係を持つことにたとえています。北王国の王や民衆は、建国以来ずっと偶像礼拝を行なっていましたし、異教の神々を礼拝することさえ行なっていました。神さまはホセアとゴメルの関係を通して、神さまがこれからイスラエル、特に北王国に対してどのように接するかを預言しようとなさったのです。

出産

イズレエル
ホセアと結婚したゴメルは、第1子である男子を産みました。この子はホセアの子どもでした。神さまはこの子の名をイズレエルと名付けるようホセアに命じました。その意味は参考資料に書いたように、やがて北王国が神さまのさばきを受け、大虐殺を経験するということです。これは、前753年にゼカリヤ王がシャルムに殺されたこと、さらに前722年にアッシリアによって北王国そのものが滅亡したことによって実現しました。
ロ・ルハマとロ・アンミ
ゴメルは、さらに第2子である女子と第3子である男子を産みました。この2人はホセアの子ではなく別の男性との間にできた子どもです。イズレエルを産んだ後、ゴメルはまたもや別の男性と浮気をしたのです。

神さまはこの2人の子どもをそれぞれロ・ルハマ、ロ・アンミと名付けるようホセアに命じました。ルハマは「あわれみを受ける」という意味、アンミは「私の民」という意味で、ロは否定を意味する接頭語ですから、2人の名前は「あわれみを受けない」「私の民ではない」という意味になります。

これまたひどい話ですが、もちろん預言的な意味があります。北王国がまことの神さまを捨てて偶像礼拝・異教礼拝を行なったため、神さまは北王国と夫婦であることをやめ、北王国の国民に愛することをやめ、「お前たちはもはやわたしの民ではない」と宣言しておられるという意味です。

買い戻し

浮気がホセアにバレたからでしょうか、ゴメルはホセアの家を飛び出しました。そして、愛人と暮らすようになりました。ところが、その男性に裏切られ、ゴメルは奴隷として売り飛ばされてしまいました。

勧善懲悪のドラマならこれでめでたしめでたしなのですが、神さまはゴメルを放っておかれませんでした。神さまはホセアに次のように命じました。「再び行って、夫に愛されていながら姦通している女を愛しなさい。ちょうど、ほかの神々の方を向いて干しぶどうの菓子を愛しているイスラエルの子らを、【主】が愛しているように」(3:1)。

本来なら、ホセアは浮気をしたゴメルを離縁することができます。それどころか、モーセの律法によればゴメルは死刑になっても文句が言えません。ところが、神さまの命令を受けたホセアは高い代金を支払ってゴメルを買い戻しました。そして、ホセアはゴメルに言いました。「これから長く、私のところにとどまりなさい。もう姦淫をしたり、ほかの男と通じたりしてはいけない。私も、あなたにとどまろう」(3:3)。ホセアはゴメルを赦して、再び妻として受け入れ愛すると言ったのです。何という愛情でしょうか。

そして、浮気の結果生まれた2人の子どもたちも、ホセアは自分の子どもとして受け入れ、それぞれ「ルハマ」「アンミ」(すなわち、「あわれみを受ける」「私の民」)と改名して愛情を注いだことが示唆されています。神さまは次のような預言をホセアを通じてイスラエルにお与えになったからです。「言え。あなたがたの兄弟には、「わたしの民」と。あなたがたの姉妹には、「あわれまれる者」と」(2:1)。

罪を犯して神さまを捨てたため、本来ならイスラエルは神さまから捨てられて、「わたしはもうお前たちをあわれまない。お前たちは私の民ではない」と言われてもおかしくありません。しかし、そんなイスラエルを神さまは再び受け入れて愛し、再び「私の民」と呼んでくださるというのです。
世の終わりに起こること
さらに神さまは、世の終わりに起こることについて次のようにおっしゃいました。「その日、わたしは応えて言う。──【主】のことば──わたしは天に応え、天は地に応え、地は、穀物と新しいぶどう酒と油に応え、それらはイズレエルに応える。わたしは、わたしのために地に彼女を蒔き、あわれまれない者をあわれむ。わたしは、わたしの民ではない者に『あなたはわたしの民』と言い、彼は『あなたは私の神』と応える」(2:21-23)。

イスラエルは罪の故にたびたび国が滅び、ユダヤ人は外国に散らされました。しかし、そのたびに神さまはイスラエルを赦し、民を約束の地に連れ戻して国を復活させてくださいました。今もイスラエルの国は約束の地に存在しています。

ある人たちは、ユダヤ人はイエスさまを救い主だと認めず、十字架につけて殺してしまったので、もはや神さまはイスラエルを見捨てた。ユダヤ人はもう神の民ではなくなって、かわりに教会がその地位についたと言います。しかし、そうではありません。今は神さまに捨てられたように見えても、神さまはイスラエルを見捨てず、最終的に救ってくださいます。そして、ユダヤ人たちはかつて信じなかったイエスさまに向かって、「あなたは私の神」と呼び、神さまもユダヤ人を「あなたは私の民」と呼んでくださいます。

また、使徒パウロはホセア2:21-23の預言を、私たち異邦人にも適用しています(ローマ9:24-26)。ユダヤ人ではない私たちは、本来なら神さまの民と呼ばれる資格がありませんが、あわれみを受け、神さまの子どもにしていただきました。

では、ここから私たちは何を学ぶことができるでしょうか。それは……

2.神はあわれみ深い赦しの神である

贖い(あがない)

聖書は救いのことを「贖い」(あがない)と呼びます。これは「買い戻す」という意味です。

ホセアは、高い代価を支払って奴隷になっていたゴメルを買い戻しました。同様に、罪を犯して離れてしまったユダヤ人や異邦人を救うのに、神さまも高い代価を支払ってくださいました。神さまが支払ってくださった代価とは、御子イエスさまの尊い命です。

イエスさまは、私たちの罪が赦されるため、身代わりとなって罪の罰を受けて下さいました。すなわち、十字架にかかって血を流し、いのちをささげてくださったのです。そして、墓に葬られましたが、3日目に復活なさいました。イエスさまがこの自分の罪のために十字架にかかり、死んで葬られ、3日目によみがえったと信じるだけで、私たちは罪の赦しを受け、神さまの子どもにしていただけます。

私たちはそのようにしてイエスさまを信じ、クリスチャンになりました。私たちが救われ、神さまの子どもになったのは、私たちの良い行ないに対する報酬ではありません。そのことをいつも忘れないでいたいものです。

もしこの記事をお読みの方で、まだクリスチャンになっておられない方は、救われるために特別な修行や勉強や献金などの行ないが必要ないということをぜひ知ってください。そして、できれば今、イエスさまの十字架と復活を信じて神さまの子どもとなり、神さまの愛を受け取ってください。

赦し

さて、イエスさまの十字架と復活を信じて、私たちは神さまの子どもにしていただきました。 ところが、その後何度神さまを裏切って罪を犯してきたことでしょうか。本来なら、夫を裏切って別の男性に走った妻が離縁されてしまうように、罪を犯した私たちも神さまに捨てられるはずです。しかし、神さまはなおも私たちの罪を赦し、愛し続けてくださっています。

聖書はイスラエルを神さまの妻と呼んでいるのと同様に、イエスさまを信じたユダヤ人と異邦人の共同体、すなわち教会のことをイエスさまの花嫁にたとえています。ホセアの妻だったゴメルが姦淫の罪を犯し、それでも再び妻として受け入れられたように、たびたび罪を犯し失敗し続けている私たちも神さまに愛され続けています。

ゴメルがホセアを通じて体験したことは、私たちの体験です。ゴメルは最初の夫を裏切りましたが、ホセアはそれを不問にして妻として受け入れました。ところが、その後再び過ちを犯しました。それでも、ホセアは再び彼女を妻として受け入れました。

いったん私たちがイエスさまを信じて救いを受け取ったなら、過去の罪だけでなくこれから死ぬまでに犯すであろう未来の罪も全部赦されています。何度失敗してもいつでもやり直すことができるということは、決して忘れてはなりません。

罪を自覚したならば、すぐに神さまに告白して赦しを求めましょう。そして、イエスさまによってすでにその罪が赦されていることを確認して、感謝をささげましょう。そして、再び神さまが喜ばれる生き方を始めましょう。

きよい生き方

さて、未来の罪も全部すでに赦されているといっても、じゃあ安心して罪を犯すことができるということにはなりません。罪は神さまを傷つけ、悲しませることだからです。そして、私たち人類の罪、この私の罪のせいで、イエスさまは十字架にかかり、代わりに神さまに捨てられました。イエスさまは肉体的・精神的・霊的に大きな痛みを経験なさったのです。

それを知っているなら、「じゃあ安心して罪を犯すことができる」などと考えられるはずがありません。

ホセアもゴメルの裏切りによって深い悲しみを味わいました。そして、ゴメル自身も自分の罪のせいで奴隷として売り飛ばされるという苦しみを味わいました。私たちも平気で罪を犯し続けていたなら、神さまは間違いに気づかせるために私たちに教育的指導として苦しみをお与えになるでしょう。

罪を犯さないに越したことはありません。ですから、私たちは力を尽くして罪を離れ、神さまが喜ばれる生き方を見つけてそれを実践しましょう。

もちろん、先程申し上げたように、たとえ失敗しても大丈夫です。神さまは決して私やあなたを見捨てることをなさいません。安心してやり直しましょう。

この話をお読みください。
アメリカに留学した女性の話です。彼女は、異国の地で寂しい思いをしていた時に、近所に住む牧師夫妻と出会い、大変にお世話になりました。そして、牧師宅で開かれていた聖書の学びの集会にも顔を出し、聖書を熱心に学ぶようになりました。

ところが、そのうちにだんだんとその情熱が冷めてゆき、やがて全く集会に顔を見せなくなりました。代わりに、週末になると友だちと夜通し遊び回るようになり、やがてボーイフレンドと同棲するようになったのです。

しかし、そんな生活も、ボーイフレンドが他に女性を作って帰ってこなくなったことにより、破局を迎えました。彼女は深い悲しみに落ち、食事ものどを通らなくなりました。そんなどん底気分の時、ふと本棚の聖書に目が留まりました。彼女は、無性に牧師夫妻や教会の人々が懐かしくなりました。あそこには温かく、優しい交わりがあった。そうだ、もう一度やり直そう。彼女は牧師に電話をかけました。ところが、不在だったので、留守電に「久しぶりに明日の集会に行きます」とだけメッセージを残しました。

次の日、彼女は牧師宅の前を何度も行ったり来たりしました。あんなに親切にしてもらったのに、その恩を忘れて飛び出したのは自分だった。その結果惨めなことになったからといって今さら戻っても、図々しいと思われるだけじゃないのか……。そんな思いが心に浮かんできて、なかなか踏ん切りがつかなかったのです。

どれくらいそんなふうに悩んだでしょうか、やがて彼女は思いきって呼び鈴を押してみました。すると、すぐに牧師が玄関口に現れて、昔と同じようににこにこしながら、「おかえり、待ってたよ」と優しくハグしてくれました。

牧師に導かれて居間に入ると、そこには教会のメンバーがいて、「おめでとう!」と口々に声を上げました。そして、テーブルには大きなデコレーション・ケーキ。そう、その前の日、すなわち彼女が牧師に電話をかけた日は、彼女のバースディだったのです。自分でも、悲しみのあまり、そんなことすっかり忘れていたのに、教会の人たちは忘れないでいてくれたのでした。

私たちの神さまは、そのように、ご自分の元に帰ってこようとする人を、ただ受け入れるだけでなく、熱烈歓迎してくださいます。
(当サイト「ショートエッセイ」より)

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