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礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

エリサベツ

聖書の女性シリーズ16

ルカによる福音書1章39節〜45節

(2021年10月31日)

エリサベツは年を取ってから子どもを産みました。夫は祭司ザカリヤ、産んだ子はイエス・キリストに先立って活動を始めた預言者バプテスマのヨハネです。

礼拝メッセージ音声

参考資料

ギリシア語表記のエリサベツの名は、ヘブル語だとエリシェバで、「私の神は私の支え(または誓い)」という意味です。

イントロダクション

最近は、聖書に登場する女性たちを取り上げています。今日からは新約聖書に移ります。今回取り上げるのは、バプテスマのヨハネの母であるエリサベツです。彼女については、ルカの福音書1章に記されています。

エリサベツは神さまから大いに祝福を受けました。と同時に、他の人を幸せにすることができた女性でもありました。私たちがそのような存在となるために必要な態度を学びましょう。

1.エリサベツへの祝福

不妊と妊娠

不妊
エリサベツは、祭司であるザカリヤの妻です。エリサベツ自身もアロンの子孫と言われていますから、祭司の家に生まれ育ったということが分かります(5節)。彼らについて、ルカは次のように記しています。「二人とも神の前に正しい人で、主のすべての命令と掟を落度なく行っていた」(6節)。祭司夫妻という肩書きだけでなく、モーセの律法を忠実に守るとても信仰的な夫婦だったのです。

もちろん、彼らが一度も罪を犯さなかったという意味ではありません。彼らも私たちと同じようにアダムとエバの子孫であり、罪の性質を持っています。ですから、罪を犯すことがあったはずです。しかし、モーセの律法には罪を犯してしまったとき、すなわちモーセの律法に違反したときにはどうすべきかということも書かれています。それは、悔い改めていけにえをささげることによって、その罪を赦していただくということです。

ですから、エリサベツとゼカリヤがモーセの律法を守っていたというのは、罪を犯したときにはすぐに悔い改めて軌道修正したというでもあります。

そんなふうに神さまに忠実だったエリサベツとゼカリヤですが、彼らには1つ悩みがありました。それは、2人には子どもがいなかったということです。これまでの学びでも触れましたが、古代のイスラエルにおいて、子どもがいないということは女性にとって大変な恥と考えられていました。

しかも、不妊は神さまからの呪いだと考える人も多かったので、エリサベツはただ単に子どもが与えられなくてつらいという精神的な苦しみだけでなく、神さまの祝福を失っているという霊的な苦しみも味わってきました。

もちろん、エリサベツもゼカリヤも、長いこと子どもを与えてくださるように神さまに祈ったことでしょう。それでも子どもは生まれることなく、2人とも年を取って常識的にはもうエリサベツが子どもを産む可能性はなくなってしまいました。

聖書には、エリサベツのこれまでの苦しみ、悲しみについては何も記されていません。しかし、夫と共に多くの涙を流してきたことは想像に難くありません。
妊娠
そんな2人に神さまからの祝福が下りました。ある日、エリサベツの夫ゼカリヤは神殿の聖所で香をたく奉仕をしていました。その時、突然天使ガブリエルが現れて、彼に次のように語りました。

「恐れることはありません、ザカリヤ。あなたの願いが聞き入れられたのです。あなたの妻エリサベツは、あなたに男の子を産みます。その名をヨハネとつけなさい。その子はあなたにとって、あふれるばかりの喜びとなり、多くの人もその誕生を喜びます。その子は主の御前に大いなる者となるからです。彼はぶどう酒や強い酒を決して飲まず、まだ母の胎にいるときから聖霊に満たされ、イスラエルの子らの多くを、彼らの神である主に立ち返らせます。彼はエリヤの霊と力で、主に先立って歩みます。父たちの心を子どもたちに向けさせ、不従順な者たちを義人の思いに立ち返らせて、主のために、整えられた民を用意します」(13-17節)。

エリヤというのは、旧約聖書時代、イスラエルの北王国で活躍したの預言者です。当時、北王国を治めていたのはアハブという王です。彼は外国からめとった王妃イゼベルの影響で、異教礼拝を国中に広め、まことの神さまに仕える人々を捕らえたり処刑したりしていました。そんなアハブ夫妻に真っ向から戦いを挑んだのがエリヤです。そして、国民の心をまことの神さまに引き戻そうと奮闘努力しました。

エリサベツが産む子どもヨハネは、あの預言者エリヤの霊と力で働きをすると天使ガブリエルは言いました。これは、エリヤのように、人々の心を神さまに向ける働きをするということを表わします。すなわち、ヨハネが預言者マラキの後400年間イスラエルに現れなかった預言者になるということです。

しかも、このヨハネは「主に先立って歩む」と言われています。これは、旧約聖書がずっと預言してきた救い主がいよいよ地上に登場するということ、そして、その少し前にヨハネが公の働きを始めるということを意味しています。

年老いた自分たち夫婦に待望の赤ちゃんが生まれるということも祝福ですが、その子が特別な使命を持って生まれてくるというのは、神さまに仕える祭司であるゼカリヤにとっては大変な喜びだったはずです。ところが、ゼカリヤは簡単には信じられませんでした。自分も妻も年を取っていて、常識的には妊娠なんかできるはずがなかったからです。

ゼカリヤは祭司ですから、旧約聖書の中に年老いた夫婦に子どもが与えられた例があることを知っていたはずです。アブラハムとサラの夫婦がそうです。しかし、知っていることと信じられることとの間には距離があるようです。ゼカリヤは信じることができませんでした。

それに対してガブリエルは言いました。「見なさい。これらのことが起こる日まで、あなたは口がきけなくなり、話せなくなります」(20節)。実際、その通りにゼカリヤはしゃべれなくなってしまいました。62節を読むと、どうやら耳も聞こえなくなってしまったようです。

しかし、だからといって神さまの約束が取り消しになったわけではありません。間もなく、エリサベツは待望の赤ちゃんをおなかに宿しました。

祝福の言葉

その半年後、天使ガブリエルは、ナザレに住む1人の乙女の元にも現れました。ご存じ、マリアです。詳しい経緯はクリスマスの時期に何度もお話ししていますから割愛しますが、マリアはまだ結婚していなかったにもかかわらず、乙女のまま妊娠して、救い主イエスさまをおなかに宿しました。

マリアにそのことを告げた天使ガブリエルは、マリアの親戚であるエリサベツも年を取っていたにもかかわらず、妊娠6ヶ月になっていると語りました。そこで、マリアは急いでエリサベツの元に向かいました。そして、2人は顔を合わせます。

方やお年寄り、方や中学1年生くらいの年齢の女の子。祖母と孫ほどに年の違う2人ですが、彼らには共通点があります。それは、どちらも信仰深く神さまに忠実に歩んでいたこと、どちらも天使ガブリエルから神さまのお告げを聞いたこと、そしてどちらも妊娠の可能性がなかったのにおなかの中に子どもを宿していることです。

エリサベツがマリアの姿を見たとき、エリサベツのおなかの中にいるヨハネが喜び踊りました。外の様子は見えないしまだ言葉も分からないはずなのに、なぜマリアが来たことが分かったのでしょう。それは、天使ガブリエルがザカリヤに告げたように、ヨハネはおなかの中にいるときから聖霊なる神さまに満たされていたからです。だから彼には、救い主イエスさまがマリアと共に我が家にやってきたということを感じ取ることができたのです。

母であるエリサベツも聖霊さまに満たされました。そして、エリサベツはマリアに向かって言いました。「あなたは女の中で最も祝福された方。あなたの胎の実も祝福されています。私の主の母が私のところに来られるとは、どうしたことでしょう。あなたのあいさつの声が私の耳に入った、ちょうどそのとき、私の胎内で子どもが喜んで躍りました。主によって語られたことは必ず実現すると信じた人は、幸いです」(42-45節)。

エリサベツもまた、マリアが妊娠していることも、その胎内にいるのが神の御子である救い主だということも、またそのこと神さまがマリアにお告げになったということも知らないはずです。しかし、彼女は聖霊なる神さまによってそれを示され、マリアに祝福の言葉をかけました。

その言葉は、マリアにとって大きな慰めであり励ましであったに違いありません。何しろ、婚約者がいるのに妊娠してしまったのです。婚約者であるヨセフも、他の人たちも、マリアが浮気をして妊娠したとしか思えないはずです。このままだとヨセフに捨てられ、家族から縁を切られ、ユダヤ人共同体からも追い出されてしまうことでしょう。そもそも、モーセの律法によれば、死刑になってもおかしくありません。

しかし、エリサベツの祝福の言葉は、マリアの背後に神さまがおられること、そして必ずそれらの心配事を神さまご自身が何とかしてくださるはずだということをマリアに再確認させてくれるものでした。

命名

マリアは3ヶ月間エリサベツの元に留まり、その後ナザレに戻って行きました。その後イエスさまが誕生するまでの経緯は皆さんご存じの通りです。

では、エリサベツはというと、マリアが去って間もなくヨハネを無事に出産しました。男の赤ちゃんが生まれると、8日目に割礼を施しますが、この時名前をつけることになっています。通常は親族の名前をもらってつけることが多く、この時も親戚の者たちは彼に父と同じ名、ゼカリヤを与えようとしました。ところが、エリサベツは「いいえ、名はヨハネとしなければなりません」と主張しました。

夫ゼカリヤは、神殿で天使ガブリエルから子どもの名前はヨハネにするよう命ぜられています。ゼカリヤはお告げを信じなかったために一時的に聾唖になっていましたが、筆談などでエリサベツにお告げのことを伝えていたのでしょう。あるいは、聖霊さまに満たされたエリサベツ自身が、神さまのみこころを超自然的に感じ取ってそう語ったのかもしれません。いずれにしても、エリサベツには神さまのみこころ通りに行動しようという姿勢があったということが分かります。

驚いた親戚が身振り手振りでゼカリヤに確認すると、ゼカリヤも筆談で「この子の名前はヨハネ」と宣言しました。すると、その時ゼカリヤはしゃべることができるようになり、神さまをほめたたえ、また我が子を祝福する言葉を語りました。

こうしてヨハネの母となったエリサベツは、ヨハネが成長するまで大切に育て、やがてヨハネは家を離れて預言者として活動を始めました。エリサベツとしては寂しかったことでしょうし、ゼカリヤも自分の跡継ぎを外に出すのはつらかったでしょうが、それでも2人は神さまのみこころ通りヨハネを送り出したのです。

では、ここから私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

2.みこころに従い続けよう

神に従い続ける

エリサベツは夫ゼカリヤと共にモーセの律法を忠実に守って生活していました。しかし、子どもが欲しいと強く願い、長年にわたって熱心に祈り続けたにもかかわらず、エリサベツは子どもが与えられないまま年を取ってしまいました。

それでも、エリサベツは神さまに忠実に従うことをやめませんでした。「自分の願いを聞いてくれないような神ならいらない」などと言ったり、腹いせにわざと神さまが悲しまれる罪を犯したりしませんでした。それでも神さまが自分を愛し、守り、支えてくださることを彼女が信じていたからでしょう。

祈りが願ったとおりにかなえられないことは、私たちが神さまに愛されていない証拠にはなりません。私たちにとってつらい出来事が次々と起こることは、神さまに見捨てられていることを意味しません。神さまは私たちを愛してくださっています。その証拠は? その証拠はイエスさまの十字架です。神さまは、御子イエスさまの命を引き換えにしても、私たちの罪を赦し、神さまの子どもにしたいと願われました。

状況が良くても悪くても、神さまに従い続けたエリサベツ。この姿勢に私たちも学びたいと思います。

ちなみに、イエスさまが十字架にかかられた後の時代である現在、私たちはもうモーセの律法を守る義務はありません(エペソ2:14-15など)。その代わりに、キリストの律法と呼ばれる新しい律法が与えられています(ガラテヤ6:2)。それは新約聖書、特に使徒たちが書いた手紙の中にある様々な命令です。

私たちも聖書を熱心に学び、エリサベツのように、たとえ自分の思い通りにならなくても、それでも神さまを信じ、従い続けましょう。罪を犯してしまったときには、すぐに悔い改めて赦しを受け取り、再び従い直しましょう。そしてそれを続けましょう。そうすると……

謙遜になる

神さまに忠実に生きようと努力していたエリサベツは、とても謙遜な性質を身につけていました。

先程も申し上げましたが、エリサベツとマリアの年齢は祖母と孫ほどに離れていました。古代においては年齢の差というのは絶対でした。年少者は年長者を敬い、その指示に従うというのは当たり前のことでした。にもかかわらず、エリサベツはマリアのことを「私の主の母」と呼び、そのような尊いお方が「私のところに来られるとは、どうしたことでしょう」と驚いています(43節)。

まるで王の子を身ごもった王妃さまを家にお迎えしたような反応です。しかし、世界の王、主の中の主である神さまをあがめ従っていたエリサベツにとって、その御子である救い主を身に宿したマリアを敬うことは当然のことでした。

私たちが神さまの愛に感動すればするほど、そして神さまを敬えば敬うほど、私たちは謙遜になり、他の人を敬うことができるようになります。あなたの周りにいる人は、別に救い主を妊娠したわけではありません。しかし、みんな神さまが創造なさったかけがえのない唯一無二の作品であり、御子イエスさまの命と引き換えに買い取られた神さまの宝物です。

もしあなたが会社の社長からしばらく預かって欲しいと言われて、高価なツボを手渡されたとします。決して無造作に扱ったりせず、大切に大切に扱うことでしょう。

神さまを信じ、神さまを敬い従おうとする人は、他の人を大切にすることができるようになります。他の人を教育・指導する場合でも、上から目線で怒鳴りつけたり暴言を吐いたり暴力を振るったりせず、相手の尊厳を尊重しながら丁寧に指導することでしょう。そうすると……

他の人を祝福する器となる

神さまに忠実に歩み続けたエリサベツは、聖霊さまに満たされ、マリアを祝福しました。そして、彼女を大いに慰め励ましました。神さまの愛に感動し、神さまに忠実に従い、その結果謙遜にさせられた人は、他の人を幸せにすることができるのです。

私たちも、自分の願い通りに神さまが祈りを聞いてくださってもくださらなくても、それでも神さまに忠実に生きようと決意してそれを続けていくとき、意識せずとも謙遜にさせられ、他の人を慰め励まし良い方向に導く祝福の器となれます。

この話をお読みください。
新婚のAさんのお姑さんは体が不自由で、そのせいかAさんに対してとても横暴で嫌みな態度を取り続けていました。そのため、Aさんはとても悩み苦しみ、ついに耐えかねて、通っている教会の牧師の前で散々に愚痴りました。そして、「こんなことを言ってはいけないとは思いますが、姑を呪い殺してやりたいくらいです」と言いました。

すると、牧師は「お姑さんを呪い殺すいい方法がありますよ。それは直接お姑さんに復讐することではなく、逆にお姑さんを大切にすることです。ローマ12:19-20にこう書いてあります。『愛する者たち、自分で復讐してはいけません。神の怒りにゆだねなさい。こう書かれているからです。「復讐はわたしのもの。わたしが報復する。」主はそう言われます。次のようにも書かれています。「もしあなたの敵が飢えているなら食べさせ、渇いているなら飲ませよ。なぜなら、こうしてあなたは彼の頭上に燃える炭火を積むことになるからだ」』」。

Aさんはにたりと笑って言いました。「分かりました。思いっ切り大切にして呪い殺してやります」。

数ヶ月後、牧師がAさんに尋ねました。「どうですか? そろそろ燃える炭火がお姑さんの頭の上に乗りそうですか?」 するとAさん、にっこり笑っていいました。「いえ。もういいんです。最初は神さまに「燃える炭火を早く姑の頭に積んでください」と祈りながら姑のお世話をしていましたが、だんだんどうでも良くなりました。何だか姑もかわいらしいところがあるなあと思い始めてきたくらいです。だから、最近では姑の幸せを祈るようになりました」。

さらに数ヶ月後、Aさんは牧師にお姑さんの態度が最近柔らかくなってきたと報告し、晴れ晴れとした表情で家に戻っていきました。牧師さん、心の中でガッツポーズをしたとかしないとか。
(当サイト「ショートエッセイ」より)

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