(2021年11月7日)
サロメは新約聖書に登場するガリラヤ国主ヘロデ・アンティパスの妻ヘロディアの連れ子で、預言者バプテスマのヨハネの首を求めたことで有名です。
礼拝メッセージ音声
参考資料
ここに登場するヘロデは、ヘロデ・アンティパスのことです。イエスさまが誕生した頃に、ベツレヘムの2歳以下の子どもを虐殺したヘロデ大王の息子です。そして、ヘロディアは大王の孫に当たります。また、ヘロディアの前の夫ピリポ(ヘロデ・ピリポ)もヘロデ大王の息子(アンティパスの異母兄弟)ですから、ヘロディアは2人のおじと結婚したことになります。
ヘロディアは、ピリポとの婚姻中にアンティパスと恋仲になり、それぞれ配偶者を離縁して夫婦となりました。
ヘロディアの娘は、ユダヤ人歴史家ヨセフスによればサロメという名です。実父はヘロデ・ピリポです。
イントロダクション
今日は、バプテスマのヨハネの処刑に関わった少女が主人公です。この少女の名前は聖書には出てきません。ただ、紀元1世紀のユダヤ人の歴史家にヨセフスが、新約聖書時代の様々な出来事も記録してくれていて、彼の記録によってサロメという名前が判明しています。そこで、このメッセージでもサロメで通します。
私たちはサロメを反面教師とすることによって、自分自身で物事を考え、判断して、しなければならないことを選び、実行できる自律した生き方をするために必要なことを学びましょう。
1.サロメとバプテスマのヨハネの死
ヨハネの投獄
まず、バプテスマのヨハネがどうして投獄されたのかという理由を見ていきましょう。今回の箇所にはその理由について次のように書かれています。
「これは、ヨハネがヘロデに、『あなたが兄弟の妻を自分のものにするのは、律法にかなっていない』と言い続けたからである」(18節)。
参考資料の家系図をご覧ください。この家系図は、イエスさまが誕生した頃にイスラエルを統治していたヘロデ大王の子孫を表わしています。ヘロデ大王は、救い主の誕生を恐れて、ベツレヘムの2歳以下の男の子を皆殺しにしたことで知られていますね。
そのヘロデ大王の子どもたちはたくさんいて非常に複雑なので、この家系図では今回のメッセージに関係する人物と福音書に登場する人物だけ記しています。
さて、今回の聖書箇所で「ヘロデ」と呼ばれているのは、ヘロデ大王の息子の1人、ヘロデ・アンティパスという人です。ヘロデ大王が死んだ後、イスラエルの国は4つに分割されて子どもたちがそれぞれ相続しましたが、アンティパスはガリラヤ地方などを統治しました。
そして、アンティパスの兄弟の1人に、ヘロデ・ピリポという人がいました。この人の妻が、今回の聖書箇所に登場するヘロディアです。ヘロディアはヘロデ大王の孫ですから、ピリポはヘロディアにとっておじにあたります。おじであるピリポと姪であるヘロディアが結婚して生まれたのが、今回の主人公サロメです。
ヘロデ・アンティパスとヘロディアの結婚
その後ヘロディアは、まだピリポと婚姻関係にあったにも関わらず、アンティパスと恋仲になってしまいました。この時点でアンティパスとヘロディアの関係は不倫です。そして、最終的にヘロディアは夫であるピリポと離婚してアンティパスと結婚してしまいました。
このとき、アンティパスにもすでに妻がいましたが、彼もヘロディアと結婚するために妻を離縁してしまいました。そして、このアンティパスもヘロディアからするとおじに当たります。
バプテスマのヨハネは、この一連の出来事を非難しました。それは、アンティパスとヘロディアの結婚は、ユダヤ人が守るよう神さまから与えられていた戒律、モーセの律法に違反していたからです。少なくとも彼らは4つの違反行為を行なっています。
- モーセの律法は、配偶者以外との性的な関係、不倫関係を禁止しています。
- モーセの律法は、正当な理由がない離婚を禁じています。
- モーセの律法は、まだ生きている兄弟の配偶者と性的な関係を持ったり結婚したりすることを禁じています。
- モーセの律法は、おじと姪の性的な関係や結婚を禁じています。
バプテスマのヨハネは、これらの点でヘロデ・アンティパスとヘロディアの結婚が律法違反だと非難したのです。その結果、ヨハネはヘロデによって捕らえられ、投獄されてしまいました。
ヨハネの死
ところが、ヘロデ・アンティパスは、バプテスマのヨハネを殺そうとはしませんでした。その理由は20節に書かれています。ヨハネは正しい人であって、聖書の神さまに仕える預言者として民衆からも尊敬されていましたから、殺したら何かひどいこと、たとえば神さまからのさばきが起こるとか、民衆が反乱を起こすとかいうことが起こるかもしれないと恐れたのでしょう。
また、アンティパスはヨハネの話を聞くのを楽しみにしていました。現代でも、神さまを信じたり従ったりしようとは思わないけれど、聖書の話は面白いから読んだり聞いたりしたいという人が結構いらっしゃいます。
ところが、アンティパスの妻ヘロディアの方は、ヨハネに対しては憎しみしかありませんでした。自分のことを散々に批判した人物だからです。しかし、夫であるアンティパスを無視して勝手にヨハネを殺すわけにはいきません。そんなヘロディアにチャンスの時がやってきました。
ヘロデ・アンティパスは、自分の誕生パーティを開くことにしました。元々イスラエルには誕生日を祝う習慣がありませんでしたが、若い頃にローマで生活をしていたアンティパスは、ローマ文化の影響を強く受けていたのです。彼は、自分に仕える重臣たち、ローマ軍の高級士官、そしてガリラヤ地方の名士たちを招いて宴会を開きました。
サロメの踊り
そこに、突然我らがサロメちゃんが宴会の場に現れて、踊りを踊り始めました。そして、アンティパスも出席者たちも大喜びました。
このときのサロメの年齢は直接書かれていませんが、皆さんはどれくらいの年齢だったと思われますか? 幼稚園や保育所に通う年代のちっちゃな子どもが、親戚の集まりとかYouTubeとかで一生懸命踊っている姿を見たら、世のおじさんたちは感激のあまり涙を流し、大喜びすることでしょう。
しかし、この箇所で「娘」と訳されているギリシア語は、12〜14歳の未婚の女性を表わします。今の日本なら小学6年生から中学2年生というところです。
当時の結婚年齢は今と比べて非常に早くて、12〜14歳といえば女性の結婚適齢期でした。イエスさまの母となった乙女マリアがヨセフと婚約し、神さまによって乙女のまま妊娠・出産したのも、ほぼ同じ年代です。
当時の人たちの感覚では、いつでも結婚してもおかしくない大人の女性が突然現れて、酔っ払ったおじさんたちが大喜びしたというわけですから、おそらくその踊りというのは非常に官能的なものだったのかもしれませんね。
特に喜んだのは、義父であるヘロデ・アンティパスでした。彼は酔っ払って気が大きくなっていたのでしょう、「お前の望むものは何でもあげよう」と約束しました。すると、サロメは母親であるヘロディアに相談します。そもそも、宴会でサロメが踊ったのはヘロディアの指示だったかもしれません。ヘロディアの答えはバプテスマのヨハネの首でした。
サロメはその通りのことをヘロデ・アンティパスに伝えました。アンティパスは内心困ったことになったと思いましたが、客の前で誓った手前引っ込みが付かなくなって、ヨハネを斬首刑にするよう家来に命じました。こうしてヨハネは殉教の死を遂げることになりました。
その後のサロメ
その後のサロメがどうなったかについては、聖書には何も記されていませんが、ヨセフスは記録してくれています。
ヨハネの首がはねられて数年後、紀元36年に、ペトラ及びダマスコに勢力を持っていたナバテア王国のアレタス4世がガリラヤに攻めてきました。この人は、ヘロデ・アンティパスが離縁した最初の妻の父親です。すなわち、離縁された娘の怨みを果たすための攻撃でした。その結果アンティパスの軍隊は打ち負かされ、彼とヘロディアは命からがら逃げ出してローマに向かいます。
歴史家ヨセフスは、アレタス4世によるこの攻撃が、バブテスマのヨハネをアンティパスが殺したことに対する神さまのさばきだと人々が噂したことを記しています。
ローマに逃れたアンティパスとヘロディアは、アンティパスが皇帝カリグラと仲が良かったので、最初は保護されていました。しかし、彼の不正を言い立てる者がいて、結局2人はガリア地方(今のフランス南部。当時は未開の地)に追放されてしまいました。そして、そこで死んだとヨセフスは語っています。
一方、娘のサロメは、その後ルカ3:1に登場するピリポと結婚しました。この人はサロメのおじに当たりますから、母であるヘロディアと同じ近親結婚の道を歩んだということです。
そして、ある寒い日、氷の上を歩いていたところ、氷が割れて水の中に落ちてしまいました。そして、サロメの首から上だけが氷の上に見える状態になりました。さらに、もがく彼女の首に氷の鋭利な縁が当たって切れ、彼女はまるで首をはねられたようになって死んだということです。
では、ここから私たちは何を学ぶことができるでしょうか。
2.自律しよう
母親に支配されていたサロメ
自律に似た言葉に「自立」がありますが、こちらは「自分以外の者に頼らず、あるいは支配を受けず、自分で物事を行なうこと」です。たとえば、親からの経済的援助を受けずに、自分で働いて生活していくというようなことですね。
一方「自律」とは、「自分自身をコントロールできること」です。誰かに監視されたり強制されたりしなくても、欲望のままに勝手気ままに生きるのではなく、してはならないにことは行なわず、逆にしなければならないことはしっかり行なえるということです。より精神的な面が強調されています。
サロメについての聖書の記述から分かることは、彼女がこの自律を獲得していなかったということです。サロメは、母であるヘロディアの命じるままに、宴会の席に飛び込んで踊りを踊り、そしてやはり母の言う通り、バプテスマのヨハネの首を求めました。すなわち、何が正しくて何が間違っているのかを自分で判断できず、すべて母親の言いなりでした。
このときのサロメは12〜14歳だったと申し上げました。今の日本だと、まだまだ子どもだと考えられています。では、子どもだから仕方がなかったのでしょうか。当時の12〜14歳というのは、女の子は結婚できる年齢で、もう大人です。
男の子も、13歳で盛大な成人式を行なって、その後は家庭や地域の共同体の中で大人の1人として意見を求められたり、宗教行事に参加したりします。イスラエルでは、12、3歳になればもう立派な大人として自律した生き方ができると考えられていたし、実際多くの人がそのように振る舞っていました。
日本でも、本当は中学生になったら1人の自律した人間として接した方がいいのです。中学生になるまでに、自分でどうすべきか考え、自分で何をするか判断し、自分で行動し、行動した結果については、それが良いものでも嫌なものでも自分で引き受ける力を育ててやる必要があります。そのためには、早い時期から一人前の人間として接することです。
来週、私たちの教会では児童祝福式が持たれますが、子どもたちの人生が神さまに祝福されるよう祈ると共に、子どもたちや孫たちに対する私たち自身の接し方を改めて考える機会にしたいですね。
そういうわけで、サロメは年齢的に自分の頭で考えて、預言者であるヨハネを殺すことは間違っていると判断し、母をたしなめるだけの能力があったはずです。しかし、サロメはそうはしませんでした。母親に判断を委ねて、母親の願うとおりに行動したのです。
そして、その後も、母親と同じようにモーセの律法を無視して、おじのピリポと結婚しました。まるで、大人になってからも母親が心の中に住んでいて、あれこれと指示を与えているかのような生き方、あるいは母親が乗り移ったかのような生き方です。
私たちは自律しているか
では、私たちは自律した生き方をしているでしょうか。多くの人はできていると思います。ただ、私も含めてですが、よくよく自分の内側を探ってみると、子どもの頃の親や教師や他の大人たち、兄弟や友だちやかつての恋人などから受けた影響が、今も強く残っていることに気づかされます。その多くは良い影響ですが、中にはあまり望ましくない影響もあるでしょう。
たとえば、私自身のことを暴露すると、私には人が見ていないとすぐに手を抜く悪い癖があります。あるいは、すぐに結果が出ないこと、やってもやらなくてもすぐには評価されないことに関しては、まったくやる気が出ないという部分もあります。
例を挙げれば、礼拝メッセージの準備のためなら、聖書を読み学ぶことは苦になりませんが、自分自身の成長のために聖書を読み祈るというのは、毎日ものすごい努力が必要です。メッセージ準備で手を抜いたらすぐにばれて批判されますが、何日か聖書を読まなくても、すぐに邪悪になって批判を浴びるようなことにはならないからです。
これは子どもの頃の私の中に、親や先生にほめられたいという強い願いがあって、ほめられることにはやる気が出るけれど、親や先生が見ていないときや、評価の対象にならないことに関しては、やっても意味がないという思いがわき上がってきて、しなければならないことに対してブレーキをかけるのでしょう。今も、私の中に親や先生が住み着いていて、私はその評価を気にしながら生きているかのような行動をしてしまうのです。
グズな子どもを叱るAさんのケース
Aさんのお子さんは行動がスローだということです。それでAさんはいつも「ホントにあなたはグズなんだから!」とお子さんを叱ってばかりいました。
しかし、あるときハッと気づきました。それは、自分自身も親から「あなたはグズな子だ」といつも叱られていたということです。それでAさんは叱られないように一生懸命早く行動しようと努力して、今では他の人と同じように行動できるようになりました。
しかし、そうやって努力していないように見えるお子さんを見ると、「私はあんなに苦労したのに、あんたは努力しないでのほほんと生きていて、そんなのずるい!」という、まるで嫉妬に似た感情が湧いて、それが怒りになっていたんだということに気づいたのだそうです。
自分がグズなBさん
一方、Bさんは自分自身がなかなか他の人と同じスピードで行動することができません。あるときハッと気がつきました。それは、小さいときからAさんと同じように、グズだグズだと叱られ続けてきたということです。Aさんの場合には叱られないように努力しましたが、Bさんの場合にはすっかり洗脳されてしまいました。本当は時間通りに行動できる場面もたくさんあったはずなのに、グズだと言われ続けて、本当に自分はグズな人間なんだと思い込まされてしまったのです。
グズな人間がパッパと行動できたらおかしいですね? 自分はグズだと信じ込んだBさんは、本当は他の人と同じペースで行動する力が備わっているのに、今でもグズグズ行動してしまうのです。Bさんはそのことに気づきました。
サロメの中に母であるヘロディアが住み着いて、ヘロディアがサロメの行動を支配していたように、私も、 Aさんも、Bさんも、まるで心の中に目の前にいないはずの親が住み着いて、行動を支配しているかのようです。
他にも、子どもの頃にいじめられたために引っ込み思案になってしまったとか、親友にひどい裏切られ方をしたので人間不信に陥ってしまったとかいうふうに、過去の体験によって現在あまり生産的な生き方ができないということが起こりえます。
皆さんも、小さかったときの経験の悪影響を受けていないかどうか探ってみましょう。
人のせいにすることも自律していない生き方
ただ、そんなことを言うと、自分の間違った行動を親や他の人のせいにして、責任逃れをするのかという反発も出てくるでしょう。実は、親など他人のせいにしたり、他人を責めたりすることもまた、自律した生き方ではありません。自分自身の人生を生きていないで、心の中に住み着いている他の人に支配されていることをどうしようもないこととして、あきらめてしまっている証拠だからです。
仮に小さかったときの他の人の影響を認めるとしても、それはその人たちに責任転嫁するためではなくて、自分自身が変わるきっかけにするためです。これまでの古い生き方から離れて、新しい生き方を始めるチャンスにするためです。
私たちの心の中に住み着いているのは、実際の親ではないし、実際の先生たちではないし、実際の兄弟でも他の大人たちでもありません。それは私たちが勝手に取り込んだイメージです。いわば心の中の偶像です。親や他の人たちを責めても何にもならないし、それどころかますます無責任な生き方、自律しない生き方に磨きがかかります。
では、私たちが新しい自律した生き方、自分で善悪を判断したり、自分の欲望や弱さに負けずになすべきことを実行したりできるようになるには、いったいどうしたらいいのでしょうか。
新しい支配者を心に迎える
あるときイエスさまは、悪霊の引っ越しのたとえを語りました。
「汚れた霊は人から出て行くと、水のない地をさまよって休み場を探します。でも見つからず、『出て来た自分の家に帰ろう』と言います。帰って見ると、家は掃除されてきちんと片付いています。そこで出かけて行って、自分よりも悪い、七つのほかの霊を連れて来て、入り込んでそこに住みつきます。そうなると、その人の最後の状態は、初めよりも悪くなるのです」(ルカ11:24-26)。このたとえ話は何を意味しているのでしょうか。
バプテスマのヨハネが現れて、間もなく救い主が登場するから、みんな罪を悔い改めて救い主をお迎えする準備を整えなさいと教えました。また、イエスさまが現れて、人々の病気を治したり悪霊を追い出したりして、ご自分がその救い主だということを証明なさいました。
そこで、イエスさまを救い主だと信じたユダヤ人はたくさん起こりましたが、指導者を始めとする大多数のユダヤ人は信じませんでした。それどころか、「イエスという男は救い主などではなく、モーセの律法が禁じている魔術師であって、悪霊のかしらの力を借りて様々な奇跡を行なっているのだ」と、国として結論づけてしまい、公にそのように国民に教えました。そこでイエスさまがイスラエルの指導者と国民に向けて語られた非難の言葉の一つが、あのたとえ話です。
バプテスマのヨハネやイエスさまがイスラエルの国をきよめたのに、イエスさまを救い主と信じなかったために、イスラエルは神さまのさばきを受けて今よりももっとひどい目に遭うという預言を、たとえ話の形で伝えています。
当時、イスラエルの国はローマ帝国によって支配されていましたが、宗教的自由は与えられていましたし、ある程度の自治も認められていました。しかし、やがてユダヤ人がローマに対して大規模な反乱を起こした報復として軍隊が送られ、紀元70年に国が滅び、多くのユダヤ人が世界中に散らされてしまいました。
新しい支配者が必要
当時のイスラエルの国は、ヨハネやイエスさまのおかげできよめられたのに、そこに救い主イエスさまという新しい王さま、新しい支配者をお迎えしなかったために、もっとひどい目に遭いました。それと同じように、たとえ私たちの心の中から古い支配者を追い出したとしても、心の中が空っぽだったらまた支配されて、古い生き方に逆戻りしてしまいます。それどころかもっと悪くなってしまいます。
サロメはモーセの律法を無視する母親や2人の父親の影響を受けて、罪深い生き方を重ねました。もし彼女が、神さまを心にお迎えし、親の支配ではなく神さまの支配を受け入れていたならば、彼女はヨハネの首を求めるなどという恐ろしい真似はできなかったことでしょう。
私たちの心の中に住んでいる、私たち自身がイメージする古い親ではなく、天の父なる神さまが私たちの心の親だということを認めましょう。古いイメージの中の支配者ではなく、王の王・主の主であるイエスさまこそ自分の心の支配者だということを認めて、「あなたに従います」と宣言しましょう。
そうしたら、新しい心の親である父なる神さま、新しい支配者であるイエスさまが、聖霊なる神さまを通して私たちの内に働いてくださって、古い支配から解放して、新しい自律した生き方ができるようにしてくださいます。
この話をお読みください。
Kさんは、長い間心の病に苦しんでおられました。ご自分でも心についての学びをなさり、どうやら実家での親子関係に問題があったのではないかと思うようになりました。Kさんのご両親とおばあさんは非常に厳しい方たちで、口を開けばKさんの批判ばかり。ひどい折檻もよく受けていたそうです。ぬくもりに満ちた温かい励ましなど、まったく思い出すことができないほどです。
もちろん、ご両親やおばあさんは、Kさんのためを思ってしたことだとおっしゃるでしょうが、Kさんにしてみれば、「お前は生きる価値のないダメ人間だ」というメッセージを心に刷り込まれたようなもの。それが原因で自分を痛めつけてきたのだと分かったのです。しかし、分かったからと言って、そこから解放されるわけではありませんでした。かえって親たちへの憎しみが加わって、ますます苦しくなりました。
ふとしたきっかけで、Kさんは教会に通うようになりました。そこで、愛に満ちたイエス・キリストの話を聞きました。ところが、Kさんの心には大変な反発心がわき上がってきたといいます。「イエス・キリストが愛ならば、どうして私をあんなひどい状態で放っておいたのだ。愛の神なんて存在しない。いたとしても、少なくとも私は愛されてはいない」。そういう思いです。
そんなお話を、私はKさんからうかがうこととなりました。小さかった頃の話を聞きながら、私の頭の中には、こんなイメージが浮かんできました。小さな女の子がうずくまっています。その前には、ご両親とおばあさんがいて、その子をガミガミとと叱りつけています。見ると、3人の口から、たくさんの矢がその子めがけてピュンピュンと飛んできます。その矢には、その子の息の根を止める猛毒が塗ってありました。「何てひどいんだ! イエスさまはどこにいらっしゃるのか!」と、私までそんな気持ちになりかけました。
すると、そのイメージの中で、イエスさまの姿がだんだんはっきりと浮かび上がってきました。イエスさまは、その子とお父さんたちとの間に仁王立ちとなり、飛んでくる毒の矢を、すべてその体で受け止めておられるのです。そして、叱る言葉は女の子の耳に届いていますが、毒矢は一本としてその子の体を傷つけてはいませんでした。
そのイメージについて、Kさんにお話ししますと、Kさんの心の中にも、同じイメージが浮かび上がってきました。Kさんのイメージの中で、イエスさまは小さなKさんの方に振り向いたそうです。体中に矢が突き刺さり、ハリネズミのようになったイエスさまは、優しい声でKさんに語りかけました。「ほらごらん。お父さんたちから来る『ダメ』は、全部私が受け止めたからね。お前はダメじゃないよ。お前は大切な神さまの子どもだよ。そのまんまで、素敵なお姫さまなんだよ」。
その日、Kさんはイエスさまの愛を受け止め、新しい人生へと一歩を踏み出されました。生きる価値のないダメ人間としての悲しみの人生から、素晴らしい神の子どもとしての喜びの人生へ。
「主は私の力、私の盾。私の心は主に拠り頼み、私は助けられた。それゆえ私の心はこおどりして喜び、私は歌をもって、主に感謝しよう」(詩篇28:7)。
自分のせいにして落ち込むのではなく、さりとて親や子どもの頃に接した周りの大人のせいにして責めるのでもなく、父なる神さまの愛を受け取り、イエスさまに従いながら新しい自律した生き方を始めましょう。
あなた自身への適用ガイド
- 自分の中に、過去の体験に縛られて部分に気づきましたか? どんなふうに縛られていましたか?
- もし過去の縛りから解放されたなら、あなたはどのような生き方ができるはずですか?
- 自分の子どもや孫がすでに自律した大人だと考えてみましょう。一体どんなふうに接し方が変わるでしょうか?
- イエスさまを信じてから、どのように過去の縛りから解放されてきましたか?
- 今日の聖書の箇所を読んで、どんなことを決断しましたか?