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礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

ナインのやもめ

聖書の女性シリーズ20

ルカによる福音書7章11節〜17節

(2021年11月21日)

ナインのやもめは一人息子を失いましたが、イエス・キリストによってよみがえらせていただきました。イエスは悲しみや苦しみを味わう私たちにも喜びを与えてくださいます。

礼拝メッセージ音声

参考資料

「ナイン」は、ガリラヤ湖の南西約25キロにあった町。

14節の「棺」は、今の我々が知っている箱形のものではなく、木で作られた担架のようなものです。それを人々が担いで遺体を墓場まで運びました。

イントロダクション

イエスさまは様々な奇跡を行なわれましたが、その中でも特に目を見張るのが死んだ人をよみがえらせる奇跡です。新約聖書では、イエスさまがよみがえらせた死人が3人出てきますが、今回登場するナインの青年はその第1号です。青年が死んでしまったことで、その母親は大きな悲しみに沈んでいましたが、イエスさまは生き返った息子と共に喜びを彼女に返してくださいました。

イエスさまは、私たちにも、悲しみ、不安、絶望などを感じる状況の中で、喜びを与えてくださいます。そのことを今回の出来事を通して確信させていただきましょう。

1.一人息子を失い取り戻したやもめ

絶望状態

時は紀元28年、イエスさまが公に活動を始めてから2年後のことです。ちなみに、前回のサマリアの女性との対話から1年ちょっとたっています。この頃、イエスさまはガリラヤ地方を中心に活動しておられました。

そんなある日、イエスさまは、ガリラヤ湖から25キロほど離れた町、ナインの町に向かわれました。イエスさまには弟子たちの他、多くの群衆が同行していました。イエスさまは多くの人々に権威に満ちた、しかし分かりやすい話をしながら、神さまや救い主の王国のことを教え、また様々な奇跡を行なっておられました。それによって、イエスさまはご自分が旧約聖書で登場を約束されてきた救い主だということを示しておられました。

ですから、同行する弟子たちや群衆には大きな期待感がありました。すぐ直前の聖書箇所でも、カペナウムに駐屯するローマ軍の百人隊長のしもべがいやされたことが記録されています。ナインの町でも、きっとイエスさまは病気の人を癒やしたり、悪霊に取りつかれて苦しむ人を解放したりなさって、大きな力を見せてくださるはずです。

彼らはイエスさまと共に行動することに大きな期待と喜びを感じていました。きっと人々は大声で、イエスさまと天の父なる神さまをほめたたえていたことでしょう。イエスさま一行はナインの町の門の所に近づいていきます。

一方、ナインの門からは悲しみに沈んだ一団が出てきました。それは亡くなった人を墓場まで送る葬送の列でした。こういう場合に職業的な泣き女と呼ばれる女性たちが声を上げて泣きます。その泣き女以外、人々は悲しみに満ちた目を伏せて黙って棺に同行していたことでしょう。ちなみに棺といいましたが、参考資料にも書いたとおり、木製の担架のようなものです。

亡くなったのは、年若い青年でした。彼の棺の傍らには、女性が伴っていました。彼女は未亡人でした。以前夫を失い、そして今また息子まで失ってしまったのです。しかも青年は彼女の一人息子でした。

これまでも触れましたが、古代において女性が就ける仕事はほとんど無く、夫や息子の働きによって生活していました。その夫や息子を失うということは収入の道が途絶えてしまうということです。今のような福祉制度も整っていませんから、夫と息子を失った未亡人は貧困にあえぐことになります。

息子を失った悲しみ。これから先の生活への不安。そして、この先ずっと一人で生きていかなければならないという絶望。ナインの未亡人の心は様々な否定的な思いで混乱していました。そこにイエスさまが通りかかりました。そして、ここから新しい奇跡の物語が始まります。

泣かなくてもよい

このときのイエスさまの様子について、聖書には次のように書かれています。「主はその母親を見て深くあわれみ、」(13節前半)。

まずイエスさまは未亡人をご覧になりました。そして、深くあわれんでくださいました。この「あわれむ」と訳されている言葉は、直訳すると「内臓が動かされる」です。ただ単に「かわいそうに」と同情したのではありません。イエスさまは、この未亡人が感じていた悲しみや不安や絶望を、まるで自分の悲しみ・不安・絶望であるかのように感じ取ってくださり、まるで痛みで自分の身がよじれるかのように共に味わってくださったのです。

そして、イエスさまは未亡人に優しく語りかけました。「『泣かなくてもよい』と言われた」(13節後半)。息子を失って悲しんでいる人に向かって、イエスさま以外の人が「泣かなくてもよい」と言ったとしたら、それはあまりにもデリカシーに欠ける発言です。言われた人は、「この人は私の悲しみも不安も絶望も、全然分かっていない」と、傷口に塩をすり込まれるような思いを味わうことでしょう。

しかし、イエスさまの発言には根拠があります。もう泣かなくていいのは、このあとすぐに彼女の悲しみや不安や絶望の原因そのものが取り除かれるからです。イエスさまのこの言葉は、場当たり的な口先だけの慰めではありません。未亡人はそのような希望に満ちた慰めの言葉を聴きました。

起きなさい

次にイエスさまは、青年の遺体を乗せた棺に近寄り、それに手をかけました。すると運んでいた人たちが立ち止まりました。そしてイエスさまは死んだ青年に向かって言いました。「若者よ、あなたに言う。起きなさい」(14節)。

すると、死んでいたはずの青年が体を起こしてしゃべり始めました。古代イスラエルでは、人が死ぬと香油で体を洗い清めた後、防腐剤である没薬を体に塗って亜麻布でぐるぐる巻きにしました。生き返っても、体を起こすことまではできても、ガチガチに固められているものを一人で振りほどくことなどできませんから、きっと「助けてくれ! これを取ってくれ!」と言ったのでしょう。

ちなみに、イエスさまが十字架にかかって亡くなった後、墓に葬られたときも同じ格好でした。ある人たちはイエスさまの復活を否定して、仮死状態のまま葬られ、3日目に息を吹き返しただけだと言います。しかし、一人で亜麻布を振りほどくことなど無理です。仮死説には他にも突っ込み所が満載なのですが(興味のある方はこちらの記事をご覧ください)、それ一つ取っても間違いだということが分かりますね。

イエスさまは生き返った青年を未亡人に渡されました。未亡人の反応は聖書に記されていません。どんなにか驚き、喜び、そしてイエスさまに感謝したことでしょうか。

代わりに、葬送の列に加わっていた人たちの反応が記されています。「人々はみな恐れを抱き、『偉大な預言者が私たちのうちに現れた』とか、『神がご自分の民を顧みてくださった』と言って、神をあがめた。」(16節)。

イエスさまのことを大預言者と呼んだのは、旧約聖書に記されている預言者エリヤやエリシャのことを思い出したからに違いありません。この女性シリーズでも取り上げましたが、預言者エリヤはツァレファテの未亡人の息子を生き返らせ、エリシャはシュネムの婦人の息子を生き返らせましたね。特にエリヤのケースでは未亡人の息子がよみがえったわけで、今回の奇跡と似ています。

当時のユダヤ人たちは、救い主が登場する前に預言者エリヤが帰ってくると信じていました。ですから、イエスさまのことを再臨のエリヤだと思い、間もなく救い主がやってくると期待したのかもしれません。残念ながら彼らは誤解していました。イエスさまは露払いではなく横綱でした。すなわち救い主その人だったのです。

そんな誤解はありながらも、この奇跡によってナインの人々や周辺の人々がどんなに驚いたかしれません。そして、イエスさまのことをとにかくすごい人だと認識し、尊敬しました。そのおかげでナインの町の人々はイエスさまを歓迎して、真剣にその教えに耳を傾けました。

その中には、イエスさまのことを救い主だと信じた人たちもたくさんいたはずです。息子を生き返らせてもらった未亡人も、きっと息子共々イエスさまを信じたことでしょう。

では、ここから私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

2.イエスは私たちの問題に本当の解決を与える

近づいてくださる

私たちも、この矛盾に満ちた地上を生きていく中で、様々な問題に巻き込まれたり、壁にぶつかったり、失敗したりします。たとえば病気や怪我、経済的な問題、夫婦や子どもや他の人たちとの人間関係、いじめや嫌がらせ、失恋、失業、仕事上の失敗、学業不振、自分のやりたいことが見つからない、やる気が出ない、などなど。

クリスチャンであっても悩みます。苦しみます。そして、その悩みや苦しみが深ければ深いほど、他の人に「祈って欲しい」と言いづらくなりますし、自分でも何をどう祈っていいか分からなくなったり、祈る気力すら無くしてしまったりすることがあります。

悲しみ、不安、絶望に沈んだ未亡人も、おそらく祈る気力すら失うほどだったことでしょう。そんな彼女のところに、イエスさまの方から近づいてくださいました。それと同じように、悩み苦しむ私たちのところにも、イエスさまの方から近づいてくださいます。

といっても、十字架にかかり復活なさったイエスさまは、今は天にお帰りになって父なる神さまの右に座しておられます。私たちからは遠く遠く離れてしまわれたはずです。

しかし、イエスさまは、ご自分の代わりに聖霊なる神さまを私たちクリスチャンの元に送ってくださいました。聖霊さまは、私たちのそばに来られたどころか、私たちの内に住んでいてくださいます。父なる神さま、子なる神であるイエスさま、そして聖霊なる神さまは三位一体です。ですから、イエスさまは聖霊さまを通して、今この瞬間も私たちと共にいてくださるのです。

そして、聖書の中に次のような約束があります。「同じように御霊も、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、何をどう祈ったらよいか分からないのですが、御霊ご自身が、ことばにならないうめきをもって、とりなしてくださるのです。人間の心を探る方は、御霊の思いが何であるかを知っておられます。なぜなら、御霊は神のみこころにしたがって、聖徒たちのためにとりなしてくださるからです」(ローマ8:26-27)。

それに続いて、あの有名なみことばが語られています。「神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています」(ローマ8:28)。

悩み苦しみ、どう祈っていいかさえ分からなくなってしまった私たちのすぐそばに、イエスさまの方から近づいてくださいました。あなたの内側にも、イエスさまはいてくださいます。そして、未亡人の悲しみや不安や絶望を取り除いてくださったように、あなたの人生にも何かすばらしいことを始めてくださいます。いや、すでに始めてくださっています。それを信じ、感謝しましょう。

あわれんでくださる

そして、私たちのそばにいてくださるイエスさまは、私たちが抱える悲しみや苦しみや絶望や不安や怒りや罪責感や無力感を受け止めて、深いあわれみを示してくださいます。

聖書の神さまが私たちに関わってくださるきっかけは、神さまが私たちをあわれんでくださったということです。私たちの側ががんばって神さまの要求する条件をクリアして、それで神さまが初めて動いてくださるというわけではありません。

聖書にこのように書かれています。「しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます」(ローマ5:8)。

イエスさまを信じたから神さまが私たちを愛されたのではありません。それ以前に、神さまは私たちを深く愛してくださっていました。しかも、「罪人であったとき」と書かれていますね。私たちが神さまを無視して、神さまの命令を守らず、自分勝手に生きていたとき、それでも神さまの方は私たちを大切に思ってくださっていました。

神さまの愛は、一方的なプレゼント、恵みです。私たちが立派な行ないをしたご褒美ではありません。そのことを決して忘れないようにしましょう。そして感謝しましょう。

そして、イエスさまは人類が神さまから離れてしまったために起こっている、この世の様々な問題に対して、「ざまを見ろ」と突き放すのではなく、深くあわれんでくださいました。しかも、そのあわれみは遠くから眺めて「かわいそうにね、知らんけど」と同情だけするような薄っぺらいものではありません。イエスさまは未亡人の悲しみや絶望を感じ取られ、我が身がよじれるほどの痛みを共有してくださいました。

イエスさまは、私たちの悩み苦しみを人ごとではなく我がこととして受け止め、そして助けの手を差し伸べてくださいます。そのことを期待しましょう。

喜びを与えてくださる

昔、安達祐実さん主演の「家なき子」というテレビドラマで、貧困のあまり食べ物を拾おうとした主人公の女の子が、彼女の境遇に同情する大人に向かって「同情するなら金をくれ」と吐き捨てるシーンが有名になりました。イエスさまはただ単に同情するだけではありません。 実際にイエスさまは、具体的な助けの手を差し伸べてくださいます。

ヘブル人への手紙の著者は言いました。「ですから、私たちは確信をもって言います。「主は私の助け手。私は恐れない。 人が私に何ができるだろうか」(ヘブル13:6)。そして、続けてこう語っています。「イエス・キリストは、昨日も今日も、とこしえに変わることがありません」(ヘブル13:8)。

ですから、ナインの未亡人が奇跡によって死んだ息子がよみがえらせていただいたように、今の時代の私たちの場合も、奇跡によって一挙に問題が解決することもあり得ます。少なくとも私たちはその可能性を否定してはいけません。

ただ、イエスさまが私たちの問題を解決する方法は、私たちが願ったタイミングで、私たちが願ったとおりの方法で解決することだけではありません。他にも様々な方法があります。

たとえば、解決まで長いこと待たされることがあります。あるいは、問題そのものが願ったとおりに取り除かれないこともあります。その場合でも、助けてくれる人や励ましてくれる人が現れて問題に耐えられるようになったり、私たち自身の忍耐力が強められて以前ほどストレスに感じなくなったり、状況が変わって問題そのものが残っていてももはや問題でなくなってしまったりします。

さらに、問題を通して、私たちがクリスチャンとして人として人生にとって大切なことを学ばせていただくこともあります。
別の教会で聴いた体験談
以前、別の教会でメッセージを語ったときに話を伺ったお母さんは、長いこと息子さんの心の病気のことで悩んでこられたそうです。クリスチャンであるお母さんは、息子さんの苦しみを見ながら自分自身も苦しくて、毎日何度も神さまにいやしを祈ってきました。また、教会の牧師やリーダーや仲間たちにも祈ってもらっていました。ところが、息子さんはまったくいやされないどころか、ますます症状がひどくなり、何度も自傷行為を行なうようになっていきました。

そんなある日、聖書を読み祈っていたとき、ふとこんな思いがわき上がってきたそうです。確かに心の病気は苦しく、それを家族として見守るだけなのはつらい。しかし、全知全能の神さまがこの病気を息子にお許しになったのは、神さまが息子を愛し、祝福し、必ずそれを通して幸せにしようと計画なさっているためだ。この病気は、息子が本当の幸せと出会うためには、無くてならないもののはずだ。それなのに自分は神さまの愛と知恵とを信じ切れていなかった。

それに、自分は心のどこかで、病気になった息子のことをダメだと思っている。だから、私が何とかしてやらなきゃと思っていた。私は息子が病気を抱えた今の状態で神さまに愛されており、幸せになる可能性に満ちあふれているのだということを完全に否定してしまっていた。私は神さまのことも息子のことも本当には信頼していなかった。

そう気づかれたお母さんは、涙と共に悔い改めました。そして祈りました。「神さま。私には、どうして息子がこんなに苦しい病気にかかったのか分かりませんし、どうして我が家がそれによってこんなに苦しまなければならなかったのか、その理由も分かりません。しかし、少なくともこの私は息子の病気を通して、あなたの愛と知恵、そして息子が持っている大きな可能性に気づくことができました。ありがとうございます。正直言えば、一刻も早く息子を癒やして欲しいです。しかし、あなたがこの病気を通して、息子や私や家族にすばらしいことをしてくださっていること、そしてこれからもし続けてくださることを信じます」。

すると、不思議なことが起こりました。お母さんの心の中に、息子さんへの心配は残っていましたが、それ以外に喜びの炎、希望の炎、平安の炎がともっていることに気づかれたのです。お母さんは涙を流しながら祈り続けました。「感謝します。父なる神さま、感謝します。イエスさま、感謝します。聖霊さま、感謝します。あなたにお任せします」。

お母さんはすっかり明るくなりました。それに触発されて、ご主人や他の子どもたちも明るくなりました。さらに、病気の息子さんも明るくなりました。そして、やがてお母さんや他の家族と一緒に出かけられるようになり、さらに教会の集会にも顔を出すようになりました。そして、イエス・キリストを信じるようになったのです。

病気はまだ治っていないとのことでしたが、息子さんは教会の青年会で、いろいろな悩みを抱える友だちの話を聴いて勇気づけているそうです。自分が病気を経験しているから、他人の心の痛みがよく分かります。だから、下手なカウンセラーより有能だと、青年会のリーダーも笑っていました。イエスさまは、「病気をすぐにいやして欲しい」という願いはかなえてくださっていませんが、それでも喜びを与えてくださっています。

あわれみに満ちたイエスさまは、私たちに近づき、そして喜びを与えてくださいます。信じましょう。そして期待し、先取って感謝をささげましょう。

あなた自身への適用ガイド

  • 今あなたは、どのような課題を抱えていますか? その中でどのような思いを抱いていますか?
  • その問題に対してイエスさまが働いてくださるとしたら、どのような解決を望んでいますか?
  • イエスさまがあなたを愛し、最善を行ないたいと考えておられることを、あなたはこれまでどのように体験してこられましたか?
  • 願ったとおりの解決ではなかったけれど、結果的にそれが最善の道だったと気づかされた経験がこれまでありましたか?
  • 今日の聖書の箇所を読んで、どんなことを決断しましたか?

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