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礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

罪深い女

聖書の女性シリーズ21

ルカによる福音書7章36節〜43節

(2021年11月28日)

罪深い女」と呼ばれていた女性は町の人たちから軽蔑されていましたが、イエス・キリストはこの女性を高く評価しました。彼女どこが認められたのか解説します。

礼拝メッセージ音声

参考資料

36節の「パリサイ人」は、ユダヤの宗教的グループの一つであるパリサイ派に属する人。自分たちが作り上げた厳格な戒律を重んじていました。イエスさまの時代には偽善的な言動をする人が多く、よくイエスさまと論争になっています。

37節の「罪深い女」とは、売春婦の婉曲表現。この女性とマグダラのマリアとを同一視する伝承がありますが、別人です(マリアは7つの悪霊に取り憑かれ、イエスさまによって解放された女性)。

37節の「石膏」は、ギリシア語で「アラバストロス」。アラバスター(雪花石膏)という白色の美しい鉱物のことですが、広い意味ではガラス製の器や陶器も含みます。

41節の「デナリ」は貨幣の単位で、1デナリは労働者1日分の給料に相当しました。

イントロダクション

今回登場するのは、「罪深い女」と呼ばれている女性です。これは売春婦の婉曲表現です。彼女は町の人たちから白い目で見られていましたが、パリサイ人シモンの家にイエスさまがいらっしゃるということを知ると、シモンの家に出かけていきました。そして、イエスさまは彼女のことを高く評価なさいました。

イエスさまはいったい彼女のどこを評価なさったのでしょうか。私たちもイエスさまに評価される祝福された人生を歩むために、この罪深い女と呼ばれる女性から教えていただきましょう。

1.パリサイ人シモンの家で起こったこと

涙と香油

イエスさまがある町に来られたとき、パリサイ人のシモンという人がイエスさまを家に招待して、宴会を催しました。

この当時、他の町のラビ(律法の教師)や巡回ラビが町を訪れた際、その町の宗教家やお金持ちが宴会を開いて招いて、ラビに対する尊敬の念を表わしました。そしてラビの説教を聞いたわけですが、町の人たちも中庭まで入ってきて、ラビの話を聞くことができました。イエスさまはガリラヤ地方でかなりの有名人でしたから、きっと多くの人々がシモンの家に押しかけていたことでしょう。

その中に、今回の主人公である女性が紛れ込んでいました。彼女は、あろうことか中庭から部屋の中まで入っていって、イエスさまの足下に座り込みました。というと、テーブルの下に潜り込んだのかと思いますが、そうではありません。

この当時の宴会では、参加者は体の左側を下にして横になり、左肘で上体を支えて右手で食べ物を取って食事しました。ですから、足は後ろに投げ出されている状態です。そこにこの女性が近づいて、投げ出された足の所にやってきたのです。
女性の行為
すると、この女性は涙を流し始め、その涙はイエスさまの足にポタポタと流れ落ちました。ここで「ぬらす」と訳されているギリシア語は、雨が降って濡れる様子を表わす言葉ですから、この女性はかなりの量の涙を流したと思われます。そして、我に返ってそのことに気づいた女性は、自分の髪の毛で涙を拭い始めました。

この当時、女性は家族以外の人の前では常に頭にかぶり物をして、自分の髪を人目にさらさないようにしていました。髪を人前にさらすことは恥ずかしいことだと考えられていたのです(第1コリント11:5参照)。今の感覚でいえば、かなり露出度の高い服装をするということです。

ただ、売春婦たちはあえてかぶり物をしませんでした。それが性的な魅力を引き出す方法だったからです。この女性も仕事柄かぶり物をしていませんでしたから、すぐに自分の髪の毛で濡れたイエスさまの足を拭い始めました。当時の感覚からすると、これはかなりセンセーショナルな行為だったということを知ってください。

さらに、この女性はイエスさまの足に何度も口づけし、それから香油を足に塗りました。 香油は、これまで男性を魅了するために使ってきた、彼女の商売道具でしょう。
シモンの反応
これを見たパリサイ人シモンは、心の中で考えました。「この人がもし預言者だったら、自分にさわっている女がだれで、どんな女であるか知っているはずだ。この女は罪深いのだから」(39節)。

この頃、イエスさまが公の活動を始めてもう2年が経過していました。多くの人々がイエスさまのことを偉大な預言者と考え、もしかしたら救い主メシアではないかという噂も立っていました。シモンは、純粋に良き教師であるイエスさまに敬意を表わすために招いたのではなく、イエスさまが本当に預言者、あるいは救い主かどうか試してやろうというつもりでした。それどこか、何か突っ込み所、批判の種を見つけ出してやろうとさえ考えていたのです。

罪深い女に触られて、それをそのままにするなら預言者ではない。まして救い主だなんてあり得ないとシモンは考えました。

借金免除のたとえ

すると、イエスさまは1つのたとえ話を語られました。それは、2人の人が金貸しから金を借りて、1人は500デナリでもう1人が50デナリの借金でした。1デナリは労働者1日分の給料に相当しましたから、仮に日当5,000円だとして、250万円と25万円です。なかなかの額ですね。案の定2人は返すことができませんでした。

すると、金貸しは2人の借金を丸々免除してやりました。この場合、どちらがより金貸しのことを愛するか。イエスさまはシモンにそのように問いかけました。シモンはより多く免除してもらった方だと答え、イエスさまもその通りだと評価なさいました。
たとえの解説
実は、このたとえ話は罪深い女とパリサイ人シモンのことを示していました。イエスさまは、2人がイエスさまに示した愛の深さを比較なさいました。

「この人を見ましたか。わたしがあなたの家に入って来たとき、あなたは足を洗う水をくれなかったが、彼女は涙でわたしの足をぬらし、自分の髪の毛でぬぐってくれました。あなたは口づけしてくれなかったが、彼女は、わたしが入って来たときから、わたしの足に口づけしてやめませんでした。あなたはわたしの頭にオリーブ油を塗ってくれなかったが、彼女は、わたしの足に香油を塗ってくれました」(44-46節)。

この時代、客人を家に招いたときには、ほこりっぽい道を歩いて汚れた足を洗うこと、頬に口づけして歓迎の意思を表わすこと、そして太陽の熱を浴びた頭にオリーブ油を塗って整えることは当然の礼儀でした。しかし、シモンはそれをしなかったとイエスさまは指摘なさいました。

日本で言えば、呼ばれたから訪問したのに、スリッパも出されなければ、座布団も勧められず、お茶も出されなかったという無礼千万な扱いです。実際、シモンは心からイエスさまを歓迎していたわけではなく、本当に預言者、あるいは救い主かどうか試すために招いただけだったからです。

それに対して罪深い女性は、まるでシモンがしなかった歓迎を代わりにしてくれたかのように、足を髪の毛で拭い、頬ではなく謙遜にも足に口づけし、そして足に香油を塗ってくれました。つまり、女性の方がシモンよりもイエスさまのことを深く愛していたということです。

赦しの宣言

そして、イエスさまはその違いがどこから来るかについて、シモンに対して次のように解説なさいました。「ですから、わたしはあなたに言います。この人は多くの罪を赦されています。彼女は多く愛したのですから。赦されることの少ない者は、愛することも少ないのです」(47節)。

これは、イエスさまを多く愛すれば、それだけ多く赦されるという意味ではありません。あのたとえ話が教えているように、多く赦されている人が赦してくれた人をたくさん愛するということです。逆に、シモンのように少ししか赦されていない人は、少ししか愛しません。

この時期、すでにパリサイ人のほとんどはイエスさまに対して反発を覚えていました。次の8章あたりでは、ユダヤの指導者たちが「イエスは救い主ではなく魔術師で、悪霊のかしらベルゼブルによって奇跡を行なっているだけだ」と公に決定してしまいます。

ですから、他のパリサイ人に比べれば、宴会に招いただけシモンはイエスさまに愛を示したと言えるでしょう。しかし、罪深い女と呼ばれるあの女性の方が、シモンより遥に愛情深くイエスさまに接しました。それは、彼女の方がより多く赦されていたからです。
赦しの多少?
しかし、多く赦されるとか少なく赦されるということがあるのでしょうか。いいえ。罪の重みは、この女性もシモンも変わりません。罪はあるかないかの二択です。そして、その罰についても「罪の報酬は死です」(ローマ6:23)だけです。

社会的には、方や売春婦で方や宗教家。シモンの方がこの女性よりもはるかに評価が高いです。しかし、二人とも神さまの前に立てば共に罪人であって、どちらも本当なら死を持って償わなければならない存在でした。

要するに、赦しの多い少ないというのは、自覚の差の問題なのです。自分がどれほどの罪を神さまに赦していただいているかという自覚、どれほどの恵みをイエスさまから受けてきたかという自覚の差です。イエスさまに自分がどれだけの罪を赦してもらったのかという認識の違い、それ故にどれだけイエスさまに対して「あなたのおかげです」と感謝しているかという違いです。

今回の記事以前にこの女性は登場しません。ですから、イエスさまとの間にどんなやり取りがあったのかも分かりません。しかし、おそらく彼女はイエスさまの話を直接聞いたか、他の人を通して聞いたかしたのでしょう。

イエスさまは神の恵みを教えてこられました。恵みとは、私たちの側がどうであっても神さまは私たちを愛してくださり、祝福してくださるということです。そして、神さまの恵みは、罪の赦しという形で人間に示されていると。

彼女は自分がきよい生き方、正しい生き方をしていないことは分かっていました。イエスさまは、そんな彼女が神さまに愛されていることを教えてくださいました。うれしくて、ありがたくて、もったいなくて、彼女はじっとしていられませんでした。そして、パリサイ人シモンの家にイエスさまがいらっしゃると知って、香油を手に飛んできたのです。
個人的な赦しの宣言
そんな彼女に、イエスさまははっきりと宣言なさいました。「あなたの罪は赦されています」(48節)。
世界全人類がではなく、あなたがとイエスさまはおっしゃいました。個人的な赦しの宣言です。

そして、さらにおっしゃいました。「あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい」(50節)。

聖書は、救いが良い行ないに対するごほうびではなく、神さまの愛と赦しを信じる信仰によることを繰り返し教えています。イエスさまは、そのような救いをもたらす信仰をこの女性が確かに持っていることを認め、ほめてくださいました。

では、罪深い女と呼ばれたこの女性から、私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

2.イエスの愛に感謝しよう

赦されていることを自覚しよう

東京にいた頃、教会の青年の1人が集会に出席しなくなりました。連絡を取ると、教会で聖書の話を聞いたり、他のクリスチャンと交わったりすると、自分の罪深さを思い知らされてつらくなるからと答えました。確かに、自分の欲深さ、不完全さ、不純な部分、過去の失敗などを認め、見つめるのは痛いことです。

しかし、聖書が繰り返し人間の罪について語るのは、私たちを追い詰めて苦しめたいからではありません。自分の罪を認めることが、大きな喜びに繋がり、さらにはイエスさまへのあふれる感謝、そして愛の行ないに繋がるからです。

今回の主人公である女性は、大きな罪を赦していただいたと自覚しました。それ故にイエスさまに対して愛の行為を示しました。

聖書は、私たちの罪が赦されるために、イエスさまが十字架にかかり、死んで葬られ、3日目に復活なさったと教えています。イエスさまは文字通り命がけで私たちを愛してくださいました。そのことをいつも思い巡らせ、感謝の思いを育てましょう。それによって、私たちはイエスさまへの愛、すなわちイエスさまを深く愛するようになり、イエスさまが私たちに願っていることを行なおう、イエスさまが悲しませることはやめようという思いを育てることができます。

そして、イエスさまは私だけでなく他の人のことも命がけで愛してくださっています。自分が命がけで愛されていることを知れば、私たちはイエスさまだけでなく他の人のことも大切にできるようになります。

この話をお読みください。
明子さんには、康代ちゃんという中学生のお嬢さんがいますが、不登校になってしまい、朝もなかなか起きられなくなってしまいました。また、最近何かにつけて反抗的です。

明子さんは、私と話し合いを続ける中で、お嬢さんに対して、充分な心の栄養(プラスのストロークと呼びます)を上げてこなかったということに気づかれます。プラスのストロークというのは、もらっていい気持ちになるような刺激のことです。優しく挨拶する、気持ちのいいスキンシップをする、抱きしめる、どんな時も(こちらの期待通りのことをした時だけでなく、いつも)「大好きよ」と言う、などです。

明子さんは、康代ちゃんにプラスのストロークをあげる決心をなさいます。特に、朝起こす時、がみがみ言いながら、まさに「たたき起こす」ようなことをしていましたが、それをやめて、ベッドサイドにしゃがんで、頭をなで、ほおずりしながら、「おはよう」と静かに優しく言う。そして、ぎゅ〜っと抱きしめながら、「お母さん、康代ちゃんが大好き」と言う。

ところが、1週間後、「できない」とおっしゃいます。そこで、こんな実験をしていただくことにしました。「私は、誰が何と言おうと、絶対に康代にストロークなんかやらない!」と何度も言っていただいたのです。「どうですか?」と尋ねると、「ぴったり来る」という答え。そう、できないのではなく、やりたくない自分がいるということに気づかれたわけです。

もちろん、ストロークを上げたいという気持ちも嘘ではありません。しかし、人間というのは、単純ではありませんから、やりたい自分の他に、やりたくない自分もいたりするものです。やりたいけどできない、やめたいのにやめられないというのは、そうしたくない別の自分もいるということです。

そこで、どうしてやりたくないのか、明子さんは考えました。すると、自分自身が、小さい時に家庭の中で心の栄養をほとんどもらわないできたということを思い出されます。「自分はもらってないのに、どうして娘にやらなきゃいけないのよ」と、どこかで思っているのです。嫉妬ですね。

明子さんは、イエスさまにお祈りなさいました。そして、家族には愛されたという実感をもらえなかったけれど、イエスさまが自分のことを命がけで愛してくださっているということが分かり、涙と共に「自分は愛されない子」という思いこみから解放されました。

その後、明子さんは康代ちゃんに、素直に愛情を表現できるようになりました。康代ちゃんもだんだんと元気を取り戻し、反抗的な態度も収まってくるようになりました。ある日、明子さんが風邪で一日寝込んでしまいまった時、何も言わないのに、康代ちゃんが洗濯や食事作りなどをやってくれたそうです。「私は康代が大好きです」と心から言える明子さんが、とても頼もしく見えました。そして、その背後から、誇らしげに明子さんを見つめておられるイエスさまの姿が見えるようでした。
(当サイト「ショートエッセイ」より)
イエスさまが私たちを救うためにしてくださったことを、いつも思い巡らし、感謝しましょう。

赦しは恵みであることを覚えよう

そして、イエスさまの愛と赦しは一方的なプレゼント、恵みであることを私たちは決して忘れてはなりません。イエスさまに愛される度合いが、私たちがどれだけ良いことができたかにかかっているという出来高制になったとしたら、クリスチャン生活は途端にしんどいものになってしまいます。

教会生活に疲れてドロップアウトしてしまう方の多くが、この罠に引っかかってしまっています。

しかし、聖書はこう教えています。「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです」(第1ヨハネ4:9-10)。

「救われる」というと、魚が網ですくわれるイメージを持つ方はいらっしゃいますか? 私はそうでした。でも、この場合、ある方々は魚が「刺身」の状態ですくわれるのだと思っていらっしゃるようです。そうではなくて、ウロコや皮や骨やはらわたの付いたまま、そのまんまの姿で魚は網にすくわれます。

あなたも同じです。今そのままでイエス・キリストの救いを信じるなら、神さまはあなたを今そのままで救ってくださいます。イエスさまは、聖人君子になったあなたのために死なれたのではありません。今のあなたを愛し、今のあなたを救うために死なれ、復活してくださったのです。

イエスさまの愛と赦しは恵みである。いつもそのことを思い巡らせ、感謝しましょう。

具体的に愛を実践しよう

イエスさまの愛に感動した主人公の女性は、イエスさまの足を涙と髪の毛で拭い、口づけし、そして香油を塗りました。彼女は、自分にできることを行ないました。そうすることで、直接イエスさまに声をかけていただき、ほめていただきました。イエスさまとの関係がますます深まり、喜びが倍増したのです。

私たちも、イエスさまの愛を知って感動したならば、イエスさまが喜ばれる行ないを何か具体的に実践してみましょう。他の人と比べる必要はありません。この女性はシモンのように宴会を開いてイエスさまを歓迎することはできませんでしたが、彼女にできることを行ないました。私たちも自分にできる方法でイエスさまへの愛、そしてイエスさまが愛しておられる他の人への愛を実践すればいいのです。

また、そうすることによって、ますますイエスさまとの関係、そして人々との関係が良くなっていき、私たちに幸福感をもたらしてくれます。

イエスさまに感謝しながら、自分にできることを実践しましょう。

あなた自身への適用ガイド

  • あなたがイエスさまによって赦していただいた最大の罪は何ですか?
  • あなたは、どのようにしてイエスさまによる罪の赦しを信じるようになりましたか?
  • 最近、どのようにしてイエスさまによる赦しを実感しましたか?
  • イエスさまの赦しを信じ、イエスさまを愛しているあなたは、今週どんな行動をしようと決めましたか?
  • 今日の聖書の箇所を読んで、どんなことを決断しましたか?

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