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礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

長血の女

聖書の女性シリーズ22

マルコによる福音書5章24節〜34節

(2021年12月5日)

長血の女とは、新約聖書に登場する不正出血が止まらない婦人病を患った女性です。そしてイエス・キリストの力によっていやされました。ここからキリストとの交わりの大切さについてお話しします。

礼拝メッセージ音声

参考資料

24節の「ヤイロ」は会堂管理者で、彼の娘が病気で死にかけているということで、イエスさまがいやしのために彼の家に向かっていました。今回の出来事は、その途上で起こりました。

25節の「長血」は、不正出血が止まらない婦人病です。

イントロダクション

今日は長血という婦人病を患った女性が主人公です。今回、いつも前半の聖書箇所を解説している部分では、1節ずつ解説するスタイルを取ってみたいと思います。普通私たちが聖書を読むときは、1節ずつ目を留めながら読んでいきますから、それと同じスタイルです。

そして後半は、今回の箇所を通して、私たちが喜びや平安や力の源であるイエスさまと深い交わりをますます深めるために、必要なことを教えていただきましょう。

1.長血の女のいやし

女性の抱える痛み

5:24 そこで、イエスはヤイロと一緒に行かれた。すると大勢の群衆がイエスについて来て、イエスに押し迫った。

ヤイロというのは会堂管理者の一人で、おそらくカペナウムの人です。彼の娘が病気にかかって死にそうな状態で、それを知らせに来たヤイロがイエスさまの素にやってきました。そこで、イエスさまは娘をいやすために彼の家に行くことにしました。すると、たくさんの人々がイエスさまに付いてきました。道はごった返して、お祭りの日の商手街のような状況です。
  • ヤイロについては、信仰の助演男優シリーズでも取り上げています。
    こちらの記事をご覧ください。

5:25 そこに、十二年の間、長血をわずらっている女の人がいた。

長血というのは、不正出血が止まらない婦人病です。それが12年続いているというのですから、この女性はどんなにか身体的につらい思いをしてきたことでしょう。
経済的な痛み
5:26 彼女は多くの医者からひどい目にあわされて、持っている物をすべて使い果たしたが、何のかいもなく、むしろもっと悪くなっていた。

しかも、いろいろな医者に診せても、治してもらえるどころかますます症状が悪化してしまいました。そして、たくさんの治療費を巻き上げられて、彼女は大変貧しくなってしまいました。彼女は体だけでなく経済的にも痛みを抱えていたのです。
精神的な痛み・霊的な痛み
そればかりではありません。モーセの律法によれば、不正出血が止まらない女性は儀式的に汚れていると宣言されて、その病気が治るまでは他人との接触や宗教行事への参加が制限されました。この「汚れ」というのは、あくまでも儀式上のものであって、その本人の人格が他の人より劣っているということを意味しません。しかし、多くの人は汚れていると宣言された人のことを、神に呪われた者として見下げ、侮辱したり差別したりしました。

つまり、この女性は、肉体的・経済的な痛みに加えて、他の人との交流が制限されたり差別されたりすることから来る精神的な痛み、そして礼拝を通して神さまと交わることを制限されたり、神さまに見捨てられた呪われた者と見なされたりする霊的な痛みも抱えていたのです。

女性の行動といやし

5:27 彼女はイエスのことを聞き、群衆とともにやって来て、うしろからイエスの衣に触れた。

「衣」となっていますが、マタイやルカは「衣の房」と書いています。モーセの律法で、ユダヤ人は衣の裾の四隅に房を作って、そこに青いひもを付けるよう言われていました。その意味は、自分や他の人の房を見るたびに、神さまの命令を思い出し、命令を守って罪を犯さないよう気をつけるためです。

このときイエスさまは群衆に取り囲まれてゆっくりとしか歩けなかったでしょう。そこで、この女性はイエスさまの後ろにそっと近づいて、しゃがんで衣の房に触りました。なぜそんなことをしたのでしょうか。その理由は次の節に書かれています。

5:28 「あの方の衣にでも触れれば、私は救われる」と思っていたからである。

儀式的に汚れていると宣言された女性は、イエスさまの前に堂々と出て行くことをためらいました。しかし、イエスさまはものすごい力をお持ちなのだから、衣に触れただけでその力が流れ込んできて、きっと自分はいやされると彼女は信じていました。

5:29 すると、すぐに血の源が乾いて、病気が癒やされたことをからだに感じた。

この女性の信じたとおりになりました。女性は12年に渡って彼女を苦しめていた不正出血から解放されました。

イエスの対応

だれがさわったのか
5:30 イエスも、自分のうちから力が出て行ったことにすぐ気がつき、群衆の中で振り向いて言われた。「だれがわたしの衣にさわったのですか。」

かつてイエスさまはサマリアの女と対話なさったとき、彼女が何度も離婚を経験し、今は夫ではない男性と同棲していることを、イエスさまは彼女が何も話していないのに見抜かれました。

イエスさまは全知全能の神さまが、人となって来られた救い主です。ですから、何でもお見通しだと思ってしまいがちです。しかし、人となられたとき、イエスさまは神としてのご性質を制限なさって、私たち人間と同じようになってくださいました。

聖書には次のように書かれています。「キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ」(ピリピ2:6-7)。

イエスさまがさまざまなことを見通されるのは、聖霊なる神さまの助けを十分にいただいているからです。今でも、聖霊さまがクリスチャンに、普通では到底知ることができないような知識を与えてくださることがあります。カウンセリングをさせていただいていると、相談にいらした方を苦しめている過去の出来事の映像やキーワードが、その方はそれについて何も語っていないのに私の心の中に浮かんできたことが何度かあります。

ただ聖霊さまは、いつでもあらゆることについて秘密を明らかになさるというわけではありません。聖霊さまは父なる神さまのご計画に従って、物事を隠したり秘密を明らかになさったりします。ですから、このとき誰が触ったのか、イエスさまは本当に知らなかったと思われます。父なる神さまがそうすることを望まれ、聖霊さまがその情報についてイエスさまに隠しておられたからです。

ただし、これまで奇跡を行なわれたときに力が出ていく感覚と同じ感覚を、イエスさまは体験なさいました。ですから、きっと誰かがいやしを信じて自分に触り、その結果いやされたのだということは気づかれたのです。それもまた父なる神さまのみこころと、イエスさまを満たして導いておられた聖霊さまの働きです。
弟子たちの疑問を無視
5:31 すると弟子たちはイエスに言った。「ご覧のとおり、群衆があなたに押し迫っています。それでも『だれがわたしにさわったのか』とおっしゃるのですか。」

弟子たちの反応は当然ですね。大勢の人が押し合いへし合いしていましたから、ヤイロの家に向かい始めてから、たくさんの人たちにイエスさまは触れられていたはずです。誰が触ったのかと言われても困ってしまいます。

5:32 しかし、イエスは周囲を見回して、だれがさわったのかを知ろうとされた。

イエスさまは、誰がご自分から奇跡の力を引き出した人なのかは分かりませんでしたが、その人がたまたま体に触れたというのではなく、明確に奇跡が起こると信じて触ったことには気づいておられました。そして、その人と直接話をしたいと思われ、立ち止まって周囲を見渡したのです。
直接の対話
5:33 彼女は自分の身に起こったことを知り、恐れおののきながら進み出て、イエスの前にひれ伏し、真実をすべて話した。

イエスさまが動こうとしないので、女性は隠しきれないと悟りました。そして、恐れおののきながらひれ伏し、それは自分だと名乗り出ました。

彼女が恐れていたのには理由があります。それは、儀式的に汚れている人は他の人に触れてはいけなかったからです。それがバレたら、町の人たちはもちろん、イエスさまにも叱責されてしまうかもしれません。場合によっては、石を投げられて追っ払われてしまうかもしれません。下手をすると差別がますますひどくなり、町で暮らせなくなる恐れもありました。

それでも思い切ってイエスさまの前に出て行った女性は、どうして衣の房に触るような真似をしたのか語り始めました。すなわち、12年前から長血で苦しみ、そのせいで肉体の痛みだけでなくさまざまな痛みを抱えることになってしまったということをです。

三位一体の神さまは、彼女が自分の方からイエスさまの前に出てきて話をするように導かれました。なぜそんなことをなさったのでしょう。それを探るために、続けてイエスさまがこの女性にどのように対応なさったのか見ていきましょう。

5:34 イエスは彼女に言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。苦しむことなく、健やかでいなさい。」

まず、イエスさまは一切この女性を責めませんでした。それどころか、じっと彼女の身の上話に耳を傾けて、途中で話の腰を折ることなく最後まで聴いてくださいました。

次に、彼女の信仰をほめました。この女性のことを知らないイエスさまからいやしの力を引き出したのです。なんと大きな信仰だろうかとイエスさまは感動なさり、それを素直にこの女性にお伝えになりました。

それからイエスさまはこの女性に温かい言葉をかけて祝福しました。尊敬する偉大な教師であるイエスさまがそんなふうにこの女性を祝福したのですから、町の人たちはもう彼女を責めることはできません。本当にこの女性は安心して家に帰ることができました。
変えられた女性
これからは、この女性は神殿に行くことも、買い物に行くことも、友だちと招きあっておしゃべりすることも、もう我慢する必要がありません。医療費も必要ありませんし、差別も恐れなくてかまいません。この女性の生活は、イエスさまと出会って一変しました。

それだけでなく、イエスさまにじっくりと話を聴いていただけたこと、信仰をほめられたこと、そして温かい祝福の言葉をかけてもらったことは、すなわちイエスさまに大切な宝物のように扱ってもらった経験は、これから先の人生でこの女性にとって大きな励ましとなったことでしょう。

この女性はイエスさまによって、体の痛み、経済的な痛み、精神的な痛み、そして霊的な痛みから解放されたのです。

では、私たちはこの女性の体験から、一体何を学ぶことができるでしょうか。

2.イエスとの交わりを大切にしよう

イエスは私たちと話したい

今回の長血のいやしは、いつもイエスさまが行なっておられる奇跡とは、ちょっと毛色が違っています。イエスさまがご自分の意思でいやされたのではなく、イエスさまが知らないところでいやしの力が引き出されたということです。

それはものすごいことであり、イエスさまもこの女性の信仰の大きさをほめています。しかし、父なる神さまも聖霊さまも、そしてイエスさまがご自身も、誰も知らない間に力が引き出されるだけで、この出来事を終わらせたくないとお考えになりました。直接会ってイエスさまと話をさせたいと願われたのです。
この女性の信仰の問題点
この女性の信仰は確かに強力でしたが、衣の房に触ればいやされるというのは、何かの開運グッズを身につけていれば幸せになれるというような迷信と大差ない信仰になりかねません。それを突き詰めていけば、自分の願いがかなうなら別にイエスさまじゃなくてもいい、ということになりかねないのです。

キリスト教は人格信仰です。人格とは、他のものでは取り替え不可能ということです。

日本には800万もの神々がいるそうです。あちこちに縁結びに効くとか、合格祈願に応えてもらえるとかいう神社があります。しかし、たとえ目の前の神社が無くなっても、他にも縁結びや合格成就を請け負ってくれる神社がありますから問題ありません。

しかし、イエス・キリストというお方は、誰にも取り替え不可能です。

そして、あなたもまた人格的な存在です。あなたがやっている役割や働きは、他の誰かが交代できるかもしれません。しかし、あなたという存在の代わりには誰もなれません。

私たちは道具として扱われることはいやですね? 家にお金を入れるだけのATM、家事をするだけの家政婦ロボット、親の自尊心を満足させるためのブランド品、鬱憤晴らしのためのサンドバックなどとして扱われるのは御免被りたいはずです。
神は人格として扱ってほしい
イエスさまも、私たちにご自分を人格として、他の何ものとも取り替え不可能な大切な存在として接して欲しいと願っておられます。そのために、ただ単に力を引き出すために利用するのではなく、人格的な交わり、すなわち対話がしたいと願っておられるのです。

私たちは聖書や黙想を通して、イエスさまからの愛の語りかけを聞くことができます。そして、祈りによって私たちの思いを聴いていただくことができます。座って目を閉じ手を組んで、仰々しい内容の話をすることだけが祈ることだけが祈りではありません。

私たちは普段、料理しながら、勉強しながら、仕事しながら、道を歩きながら、車を運転しながら、買い物しながら、家族や友だちと気軽におしゃべりしたり、愚痴をこぼしたり、最近あったことを報告したりします。それと同じように、いつもどんなときも心の中でイエスさまとおしゃべりしましょう。それをイエスさまは望んでいらっしゃいます。

イエスは私たちをほめたい

イエスさまは長血をいやされた女性の信仰をほめました。同じように、私たちのこともほめたいと思っておられます。

私たちは罪人であり、不完全です。自分自身や他の人の足りないところを見つけようと思えば、いくらでも見つけることができます。しかし、イエス・キリストの十字架と復活を信じたとき、私たちの罪はすべて赦されました。私たちは神さまの大切な子どもになりました。

子どもは大人から見るとまだまだ未完成で、足りないところがたくさんあります。しかし、まともな親は足りないところを責めることよりも、その子がその子なりに一生懸命がんばっているところや、すでにできているところに注目して、それを認めてほめたり喜んだりするでしょう。イエスさまも同じです。

もちろん、神さまの喜ばれないことをしたり考えたりしたとき、すなわち罪を犯したときには、素直にそれを認め悔い改めて、正しい生き方を始めなければなりません。しかし、それ以上に私たちは自分自身や他の人の良い部分を見つけて、認めたりほめたり喜んだりしなければなりません。イエスさまがそうしてくださっているからです。

また、温かい家庭は、家族がお互いのことを認め合い、感謝し合っています。ですから、神さまの家族の一員として、私たちは父なる神さま、イエスさま、聖霊さまのことも、その素晴らしさを意識して見つけ出し、積極的にほめ賛美しましょう。そうすることで生まれる神の家族の温かさは、私たちの地上の家庭や職場や学校や地域社会に、温かみをもたらします。

イエスは私たちを祝福したい

そして、イエスさまはこの女性を祝福して送り出しました。同様に、イエスさまは私たちのことも祝福したいと願っておられます。というより、すでに祝福してくださっています。そして、私たちの人生に、具体的に祝福のわざを始めてくださっています。

三位一体の神さまはこの女性を大切に思い、この女性が幸せに暮らすことができるよう配慮し、お三方がタッグを組んで働いてくださいました。私たちの人生にも、三位一体の神さまの配慮と働きが張り巡らされています。そのことを信じましょう。そして、どのような神さまの祝福の計画が実現するのか、楽しみに待ちましょう。

私たちは、イエスさまが私たちを祝福したいと願っていらっしゃることを忘れないようにしましょう。私たちはイエスさまによって、祝福を受けており、必ず幸せになります。それは、私たちが願ったり想像したりしたのとは違う形で実現するかもしれません。しかし、たとえそうであっても、神さまがしてくださることの方がはるかにすばらしいことです。
期待通りでなくてもすばらしい
この話をお読みください。
ある人が宝くじを買いましたが、残念ながら外れてしまいました。がっかりしながらこう思いました。「もし宝くじが当たって1億円手に入れることができたら、こんなふうに毎日苦労して仕事をしなくてもすむのに」。そして、次こそは宝くじが当たるようにと神さまに祈りながら眠りにつきました。

すると、彼は宝くじが当たって1億円を手にする夢を見ました。それはただの夢でしたが、彼は目を覚ましてからも喜びと興奮を抱き続けました。これは幸先がいい。きっと神さまは私の祈りを聞いてくださって、そのしるしとしてあの夢を見させてくださったのだ。そう考えたからです。

そして、いつものようにシャワーを浴びようとしましたが、どういうわけかお湯が出ません。しょうがないのでシャワーをあきらめて新聞を取りに行きましたが、新聞が来ていません。しょうがないので朝食を食べようとしましたが、停電でコーヒーメーカーもトースターも作動しません。仕方なく空腹のまま職場に向かおうとしますが、待てど暮らせどバスがやってきません。

途方に暮れたその人は、たまたま近くを通りかかった人に愚痴をこぼすと、その人はこう答えました。「ああ、ご存じなかったのですね。実は昨日全ての国民に1億円の宝くじが当たったので、みんな働かなくなってしまったのですよ。もちろん、水道局の人も新聞社の人も電気会社の人もバス会社の人も」。

その瞬間、彼は再び目を覚ましました。それもまた夢だったのです。その人は、「神さま。私が1億円当たらなかったことを感謝します!」と叫びました。

私たちが考える幸せと、神さまが考える幸せは時に全く違いますね。ですから、「すべてのことにおいて感謝しなさい」(第1テサロニケ5:18)。
(当サイト「ショートエッセイ」より)
どんな状況の中にも宝がある
この話もお読みください。
先日、こんな話を聞きました。

ある人が、会社のコーヒーメーカーのそばの席に席替えになりました。そして、コーヒー係に任命されてしまいました。コーヒーが無くならないよう気を配ったり、豆を注文したり、機械の掃除をしたり……。彼は、なんて運が悪いんだろうとがっかりしました。

しかし、何年も経った後、彼はその会社の社長になりました。

それは、彼の席の所に、コーヒーを飲むために会社中の人たちが集まってきて、ついでに彼とおしゃべりをしているうちに、彼は強力な人脈を手に入れることになったからです。

でも、彼の前にもコーヒー係の人たちはいたはずです。しかし、彼だけが、与えられた状況の中にある宝を見いだし、それを上手に利用しました。

最悪だと思えるような状況の中にも、宝が満ちています。神さまはあなたを幸せにしようとしておられます。それを信じ、それを見いだそうとする人は、必ず祝福を味わうことができます。

2007年。神さまがあなたをすでに大いに祝福しておられることを信じ、信じ抜いていく1年にしましょう。
(当サイト「 ショートエッセイ」より)
すべて感謝しよう
すでに神さまが私を祝福しておられ、必ず本当の幸せを与えると信じる信仰を最も良く表わすのは、神さまへの感謝です。今起こっている出来事が自分にとってうれしいことでもそうでないことでも、「神さま、祝福してくださっていることを感謝します。これがそのためのプレゼントとして与えられたことを感謝します」と祈ることです。

まとめ

イエスさまは私たちと話がしたいと願っておられます。ほめたいと願っておられます。祝福したいと願っておられます。それを信じましょう。そして、イエスさまといつもおしゃべりをし、自分や他人や神さまの素晴らしさを見つけて喜びほめたたえ、またあらゆることを感謝しましょう。

あなた自身への適用ガイド

  • キリスト教は人格的な信仰だということを学んで、何か気づいたことがありますか?
  • 礼拝式以外のとき、どのように神さまとの対話をしていらっしゃいました? もしも対話が足りていないとしたら、今後どのような場面で神さまに語りかけようと思いましたか?
  • 1年前の自分とイエスさまの関係を振り返ってみましょう。今、どのような点で関係が深まっていますか?
  • あなたと関係の深い人を、一人思い描いてください。そして、その人の良い点、あるいはその人に感謝すべき点を10個挙げてください。
  • 今、あなたが神さまに感謝していることは何ですか?
  • 今日の聖書の箇所を読んで、どんなことを決断しましたか?

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