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礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

姦淫の女

聖書の女性シリーズ25

ヨハネによる福音書8章1節〜11節

(2022年1月2日)

姦淫の女は浮気の現行犯で捕らえられ、イエス・キリストの元に連れてこられました。モーセの律法では死刑ですが、キリストはどのように判断したのでしょうか?

礼拝メッセージ音声

参考資料

3節の「姦淫」とは、配偶者以外の人と性的な関係を持つこと。イエス・キリストは、「実際に行為に及ばなくとも、相手に情欲を抱いただけで姦淫を犯したことになる」と言われました(マタイ5:28)。

5節の「律法」は、神さまがモーセを通してイスラエル民族(ユダヤ人)に与えた、守るべきさまざまな命令のこと。

イントロダクション

私は礼拝メッセージでもセミナーでもブログでも、基本的に3つのことを申し上げています。それは、
  1. そのままのあなたがすばらしい
  2. なぜなら、あなたは神さまに赦され、愛されているから
  3. だから、何があっても何がなくても、とにかく大丈夫
ということです。イエスさまは、私たちがそういう人生を歩めるよう、すべての条件を整えてくださいました。そして、そういう人生を歩めるよう導いてくださっています。そのことを、今回の主人公である女性から教わりましょう。

1.姦淫の女の赦し

引き出された女性

オリーブ山への移動
(1) イエスはオリーブ山に行かれた。

時は紀元29年の秋、イエスさまが十字架にかかる約半年前のことです。この時イエスさまは、モーセの律法で定められた7つの祭りの一つ、仮庵の祭りに参加なさいました。そして、人々に教えを語られます。しかし、夜はエルサレム市内ではなく、近くにあるオリーブ山で野宿なさったようです。
神殿での教え
(2) そして朝早く、イエスは再び宮に入られた。人々はみな、みもとに寄って来た。イエスは腰を下ろして、彼らに教え始められた。

仮庵の祭りの翌朝、イエスさまは再び神殿に入って、そこで人々を教えておられました。
現行犯で捕らえられた姦淫の女
(3) すると、律法学者とパリサイ人が、姦淫の場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、

姦淫とは、配偶者以外の人と性的な関係を持つことです。ユダヤ人に神さまが与えられたモーセの律法では、姦淫は罪であって行なってはならないと教えられています。おそらく、この女性には夫があったのに、別の男性と不倫をしたのでしょう。あるいは売春婦だったのかもしれません。現行犯逮捕されたということですから、言い逃れできません。

指導者たちの問いかけ

あなたは何と言うか
(4-5) イエスに言った。「先生、この女は姦淫の現場で捕らえられました。モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするよう私たちに命じています。あなたは何と言われますか。」

この当時のイスラエルでは、姦淫の現場で捕らえられた女性は、上半身を裸にされて公衆の面前に引き出されます。そして、モーセの律法によれば、姦淫の罪を犯した人は、男性でも女性でも石打ちの刑と決まっていました(申命記22:22)。

石打ちの刑とは、拳ほどの大きさの石を、人々が罪人に向かって次々と投げつけて殺す死刑のことです。十字架と並んで非常に残酷な刑罰です。旧約時代のイスラエルでは、姦淫はそれほどの罰に値するほどの罪だったのです。

非常に厳しい規定ですね。しかし、聖書の命令は私たちの幸せのために与えられました。考えてみてください。結婚するまで性的な関係を持たず、結婚後も自分の夫や妻以外の人と浮気しない。それを人間が徹底できれば、どれほどの悲しみや争いや事件がこの世から無くなるでしょうか。

今の時代はモーセの律法は完成して廃棄されていますから(エペソ2:14-15、ガラテヤ3:24-25、ローマ10:4参照)、今この通りの刑罰を行なうことは求められていません。しかし、姦淫を避けるべきだというのは今の時代も同じです(第1コリント6:9など)。

しかし、指導者たちは正義を実現するために、あるいは人の権利や尊厳を守るためにイエスさまに質問したわけではありませんでした。福音書の記者であるヨハネは次のように解説しています。
質問の意図
(6a) 彼らはイエスを告発する理由を得ようと、イエスを試みてこう言ったのであった。

そもそも、不倫の現場を押さえられたのなら、相手の男性もそこに引き出されているはずです。女性だけが引き出されたところに、何かきな臭さを感じますね。では、パリサイ人たちは何を狙っていたのでしょうか。

イエスさまがもし「女を赦せ」と言えば、律法に違反することを言う、とんでもない教師だと非難できます。では、逆に「殺せ」と言えばどうなるでしょうか。「普段から神の愛とか赦しとかを宣べ伝えておきながら、矛盾ではないか」と非難できるでしょう。

しかし、ここにはもっと深い罠が仕掛けられています。この当時、ユダヤはローマ帝国の植民地で、死刑が絡むような重罪人の裁判は、ユダヤの議会ではなくローマ総督府が行なっていました。ユダヤ人であるイエスさまが「殺せ」とか「赦せ」とか言うのは、ローマに対する越権行為であり、反逆罪と見なされる危険がありました。つまり、ユダヤの指導者たちは、イエスさまがどちらに答えても都合の悪い問いをしたのです。

イエスの返答

罪のない者がまず石を投げよ
(6b-8) だが、イエスは身をかがめて、指で地面に何か書いておられた。しかし、彼らが問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの人に石を投げなさい。」そしてイエスは、再び身をかがめて、地面に何かを書き続けられた。

イエスさまは、指導者たちの問いかけを無視して、何かを地面に書いておられました。何を書いておられたかというのは聖書には記されていませんが、6節のギリシア語原文では「指で」という言葉が強調されています。

モーセの律法は613の命令からなっていると言われています。そのうち603個はモーセが羊皮紙に書き留めましたが、最初の10個は神さまご自身が2枚の石の板に刻みつけられました。石の板に十戒を刻んだのは神さまの指です。

イエスさまは救い主、神さまが人となってこられた方です。指で何かを書いておられたというこの言葉は、イエスさまが十戒をイスラエルに与えた方だということを示唆しています。指導者たちはそれも知らず、自分たちの方が律法に詳しいというプライドに凝り固まり、イエスさまを陥れようとしてしつこく問いかけ続けたのですね。非常に愚かな行為です。

その結果、イエスさまから「罪の無いものが最初に石を投げろ」という痛烈な返答を受けることになります。
そして2人だけが残された
(9) 彼らはそれを聞くと、年長者たちから始まり、一人、また一人と去って行き、真ん中にいた女とともに、イエスだけが残された。

イエスさまに向かって得意げに質問していた人々は、次々にその場を去って行きました。

「この女を殺すのか、赦すのか」と問い続ける指導者たちや周りの群衆たちは、間違いなく自分たちのことを、この女性よりも(そしてイエスさまよりも)正しい人間だと思っています。それを証明するために神さまの命令を持ち出して、利用しようとしたのです。

確かに人間の道徳的な世界や、法律上の罪については、比較が成り立ちます。あの人とこの人とを比べれば、こちらの人の方が立派だとか邪悪だとか。あるいはこの罪よりあの罪の方が重いとか軽いとか。

しかし、神さまの律法は、そのような人間同士の比較による、勝手な正邪の判断を無効にします。神さまが律法で要求している倫理基準は、あまりにも高くて、完全にこれを行なうことは不可能です。

日本人が「罪」と聞いて感じる感覚と、ユダヤ人の感覚とは違います。聖書が言う罪とは、神さまの要求に完全に応えられないことです。完璧な人間などいませんから、すべての人が罪人ということになります。

神さまの要求なさる、罪か罪でないかという基準に照らしたら、「私には全く罪がない。私は不完全なところが何一つ無い、完璧な人間だ」と主張し、石を投げられる人など誰もいなかったのです。

年長者から去っていったというのは、年を経れば経るほどに、自分の罪深さを思い知らされるからでしょう。
罪の赦し
(10-11) イエスは身を起こして、彼女に言われた。「女の人よ、彼らはどこにいますか。だれもあなたにさばきを下さなかったのですか。」彼女は言った。「はい、主よ。だれも。」イエスは言われた。「わたしもあなたにさばきを下さない。行きなさい。これからは、決して罪を犯してはなりません。」

その現場で、最初に石を投げることができる人がいるとしたら、それはイエスさまです。イエスさまはただの一度も神さまの命令に背いたことがない、完全に罪のないお方だからです。

そのイエスさまが彼女に罰を下さないとおっしゃいました。もちろん、姦淫は多くの人や自分自身を傷つける行為ですから、二度と罪を犯さないようにと釘は刺されましたが、イエスさまはこの女性の罪を赦されたのです。

それは口先だけの宣言ではありません。イエスさまは、その赦しの宣言が効果を持つよう、責任を取られました。すなわち、この女性の身代わりに死刑になってくださったのです。本来この女性が受けなければならない神のさばきを、イエスさまが身代わりに受けてくださったのが十字架です。
あなたのための十字架
そして、イエスさまはこの女性のためだけに死なれたのではありません。私やあなたや、世界のすべての人のために、身代わりとなってくださいました。

もちろん、罪は自分や周りの人に重大な悪影響を与えます。ですから、罪はできるだけ犯さないよう努力しなければなりません。それでも私たちは罪を犯してしまうことがあります。

それでも、どんなに周りに悪影響を与えるような罪であっても、イエスさまの十字架を信じるなら神さまに赦されます。赦しを信じない罪以外、赦されない罪はありません。どんな罪でも、です。

あなたは、過去の失敗によって、いつまでも自分を責めてこられませんでしたか? 自分の不完全なところ、足りないところを見ては、自分はダメだと落ち込んでは来られませんでしたか?

どんなに他の人やあなた自身があなたのことを責めたりバカにしたりしても、神さまはあなたを赦し、あなたを神さまの子どもにしてくださり、子どもとして愛し、大切にしてくださっています。あなたは、神さまにとって、すばらしい宝物なのです。

では、ここから私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

2.あるがままの自分を素直に認めよう

イエスさまは、今回の事件を通して、神さまが私たちの罪を赦し、私たちのあるがままを愛し大切にしてくださっていることを学びました。それでは、そのことを知った私たちは、どのような生き方をしていけばよいのでしょうか。

それは、あるがままの自分を素直に認めるということです。すると、人生が祝福への好循環を取り始めます。

自分を認めると成長する

第一に、あるがままの自分を認めれば認めるほど、人として成長していけるようになります。

イエスさまは、この女性に「もう罪を犯してはいけない」と釘を刺しておられます。イエスさまは罪を赦されましたが、姦淫のことを「そんなのみんなやっているし、別に大したことではない」とおっしゃったわけでも、見て見ぬふりをなさったわけでもありません。完璧な生き方は不可能ですが、私たちは、可能な限り罪を離れ、きよい生き方を目差していかなければなりません。

確かに、私たちは成長することができます。今よりもすばらしい生き方、自分や他の人を大切にし、引き上げるような生き方をすることができるようになります。

しかし、それが可能になるのは、これまでの自分の生き方や状態がどうだったのかということを、客観的に認めることができたときです。

たとえば、30点の実力の人が31点以上取れるようになるためには、まず30点の実力なんだということを自分を認めて(それが、どんなに惨めに思えても、恥ずかしく思えても)、30点にふさわしい学習・訓練をする必要がありますね。

イエスさまはまず赦されました。そうしてから、「あなたは罪を犯した。それは、あなたも周りの人も幸せにはしない。だから、その罪を離れて、新しい生き方をしなさい」と指導なさいました。赦し、それから指導、という順番です。

イエスさまの赦しを認めた人は、自分の本当の姿をごまかす必要がなくなります。そして、地に足がついた効果的な努力をすることができるようになります。そして、どんどん成長していけるようになります。

自分を認めると楽になる

第二に、あるがままの自分を認めると、生きるのが楽になります。そして、楽しくなります。

本当の自分、あるがままの自分を認めない生き方は、自分を見ないようにしたり、自分を立派に装ったり、他の人が自分をどう見ているかを気にしたりして、精神的にかなり消耗します。

強さも弱さも全部ひっくるめて、「これが私。このままですばらしい私」と受け入れられると、無駄なエネルギーや時間を使わずにすむので、無駄な力が抜けて楽になります。本当に、こんなに楽でいいのかと感動するくらい楽になれます。

自分を認めると幸せが形になる

あるがままの自分を認めると、今の自分に必要な、地に足がついた努力ができるようになると共に、生きるのが楽になるという話をしました。

すると、自分を装ったり守ったりするところに、無駄なエネルギーや時間をかけずにすむようになるので、本当に時間やエネルギーを注がなければならないところに、集中することができます。その結果、人格的にも、能力的にも、どんどん成長して行くことができます。

その結果、第三に、生活が具体的に変化していきます。不平不満が減って、感謝や感動をすることが増えていくでしょう。

また、人間関係も良くなっていきます。それまでの他人は、自分のダメな部分を見つける検察官だったり、自分のすばらしさを証明するための競争相手だったりしたかもしれません。しかし、今や、共に生きる大切なパートナーになります。
指導する際は
今回の箇所は、他の人の問題点を一切指摘したり責めたりしてはいけないということを教えているわけではありません。罪を犯したり問題行動をしている人を見つけた際、クリスチャンがどう行動すべきかについて、聖書は次のように教えています。

「兄弟たち。もしだれかが何かの過ちに陥っていることが分かったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい。また、自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい」(ガラテヤ6:1)。

自分自身がイエスさまのおかげで罪を一方的に赦されている喜びを知っている人、それによって自分でも自分のことを赦し、大切にできるようになった人は、他の人の問題点を指摘する際も、ガラテヤ書が教えるように柔和な態度で行なうことができるはずです。そして他の人のお役に立つことができるようになります。

この話をお読みください。
生活相談所のボランティア相談員をしていた女性がいました。大変な働きに、彼女は疲れを覚えていました。そんなある日、相談所に出入りしている一人のおじさんが声をかけてきました。「しんどそうだねぇ。自分を大切にできない人は、他の人のことも大切にできないよ」。

クリスチャンである彼女は、言い返しました。「自分を犠牲にするのが、本当の愛なんですよ!」

すると、おじさんはこう答えました。「そんなこと言ってるから、偽善者だって言われるんだよ」。そう。彼女は、陰でみんなからそう呼ばれていたのでした。ショックでした。

その精神的なショックもたたり、ついに彼女は倒れてしまいました。すっかり疲れ切っていた彼女は、これを機会に自分を大切にしようと思いました。音楽や絵の鑑賞、料理など、自分にとってうれしいことをする時間を生活の中に取り入れたのです。

やがて体調が戻り、職場に復帰しました。すると、今までのような気負いが感じられません。ねばならぬ、ねばならぬと、眉間にしわを寄せて必死で来所者の方の世話をするのではなく、自然に来所者の方々のための行動がとれるようになりました。もちろん、偽善者という陰口はまったく聞かれなくなりました。人々は、彼女が心の底から自分たちのことを大切に思ってくれていることを感じることができたからです。

神さまはあなたのことも愛しておられます。神さまは、イエスさまを十字架につけるほどに、あなたのことを大切に思っておられます。あなたも、あなた自身のことを大切にしてあげてください。

そのとき、喜びと余裕に満たされたあなたは、他の人のことも心から大切にすることができるようになります。
(当サイト「ショートエッセイ」より)

まとめ

イエスさまが、あるがままの自分を赦し、受け入れ、大切にしてくださっていることをいつも確認しましょう。そして、自分も自分自身を赦し、受け入れ、大切にしましょう。それにより、私たち自身の生き方がより豊かになっていきます。

あなた自身への適用ガイド

  • 最近、自分と他の人を比較して、落ち込んだり、比較されていやな思いをしたりしたことがありますか?
  • そのような比較の罠から、どのように解放されましたか?
  • あなたのすべての罪は赦されました。ご自分の内側をごらんになって、この「すべての」に当てはまらないものが何かありますか? 赦されていないものが何かありそうですか?
  • 「もう罪を犯すな」という言葉は、あなたにとって、何をすること、あるいは何をやめることでしょうか。
  • 本当の自分を見せられてつらかった経験が最近ありましたか? それを逃げないで見据えていったとき、どんな祝福がありましたか?
  • 今日の聖書の箇所を読んで、どんなことを決断しましたか?

連絡先

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