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礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

2レプタをささげたやもめ

聖書の女性シリーズ27

マルコ福音書12章38節〜44節

(2022年1月16日)

少額の2レプタをささげたやもめについて、イエス・キリストは「神殿で募金箱に献金している人の中で彼女が最も多くをささげた」と言いました。それはなぜでしょうか?

礼拝メッセージ音声

参考資料

イエスさまが十字架にかかるためにエルサレムに入城なさった2日後、受難週の火曜日の出来事です。

レプタ銅貨は、当時のギリシア・ローマ世界で最少額の硬貨です。そして、2レプタ=1コドラントは、ローマの銭湯の入浴料1回分でした。これは1/64デナリに当たり、1デナリ6,000円から7,000円で計算すると2レプタは100円程度です。

イントロダクション

今回登場するのは、神殿の献金箱にお金を投げ込み、イエスさまに最も多くをささげたと評価されたやもめです。今回の話は単に私たちの献金の心構えに留まらず、この人生をどんな心構えで生きていくかということを教えてくれています。私たちもイエスさまに喜んでいただける生き方がしたいですね。

1.やもめの献金

背景

いよいよイエスさまが十字架にかかる時が近づいていました。イエスさまは紀元30年の春、過越の祭りの日に十字架にかかったと考えられていますが、この年の過越の祭りは金曜日でした。今ではこの週を受難週として、イエスさまの十字架の死を思い巡らせるシーズンとしています。今年の受難週は4月10日(日)〜16日(土)です。

受難週の最初の日、すなわち日曜日にエルサレムに入られたイエスさまは、昼間は神殿で人々を教え、夜は町の東にあるオリーブ山で野宿をするという生活をしておられました。今回の出来事は、受難週の火曜日に起こりました。

イエスさまは神殿で人々を教えておられました。いつものようにユダヤの指導者たちが難癖をつけてきましたが、イエスさまは彼らを言い負かしました。そして群衆や弟子たちに教えられたのが今回の箇所です。細かく経緯を見ていきましょう。

律法学者についての警告

(38a-b) イエスはその教えの中でこう言われた。「律法学者たちに気をつけなさい。

律法学者というのは、モーセの律法を研究する学者のことです。ただこの時代になると、聖書には書かれていないような細かいさまざまな命令を作り出して、それをモーセの律法そのものよりも重視し、人々に守るよう命じていました。

律法学者たちが勝手に作り上げた命令のことを、福音書は「言い伝え」と呼んでいます。イエスさまはモーセの律法は完璧に守られましたが、言い伝えについてはまるっきり無視し、それどころかわざと破るようなことさえ行なっていました。言い伝えがモーセの律法の精神を台無しにしていたからです。

たとえば、安息日には働かず休むようにと教えるモーセの律法から、律法学者たちは次のような言い伝えを作り上げました。すなわち、病気や怪我で苦しんでいる人がいても、安息日に治療してはいけないという命令です。モーセの律法は苦しんでいる人、困っている人に対するあわれみを大切にし、そういった人たちを助けるよう教えていますから、言い伝えはモーセの律法に反します。そこで、イエスさまは安息日でも平気で人をいやされました。

そういうわけで、律法学者や彼らの教えを信じるパリサイ人たちは、イエスさまのことをとんでもない罪人として憎んでいました。一方、イエスさまも律法学者やパリサイ人を警戒するようにと人々に語られました。
律法学者たちの見栄
(38c-40) 彼らが願うのは、長い衣を着て歩き回ること、広場であいさつされること、会堂で上席に、宴会で上座に座ることです。また、やもめたちの家を食い尽くし、見栄を張って長く祈ります。こういう人たちは、より厳しい罰を受けます」。

律法学者たちは、自分たちは神さまに対して忠実であると自負していました。そして、逆にイエスさまは不忠実であり、民衆を間違った教えによって惑わしていると非難していました。

イエスさまはそんな律法学者たちの動機を見抜いておられました。彼らは神さまに忠実だと言いながら、本当は人から注目されてほめられたいだけだというのです。そのため派手な長い衣を身にまとい、用もないのに人が多い広場に出かけていき、上席や上座に座ろうとし、人々に見せつけるために長い祈りを捧げます。

イエスさまはそのようなことをする律法学者を非難なさいました。そしてこれまでもイエスさまは、他の人に自分を良く見せてほめられるために良いことをする人たちのことを、偽善者と呼んで激しく非難なさいました。
律法学者たちの強欲
また、彼らが「やもめたちの家を食い尽くしている」とイエスさまは言いました。

当時の律法学者やラビ(パリサイ派の律法の教師)は、給料をもらわずに人々を教えていました。そのため、律法の教師としての仕事の他に、自分の生活のための仕事を持っていました。たとえばかつてラビだったと思われる使徒パウロは、テント職人の腕を持っていましたし、ヨハネ3章に登場するニコデモは、井戸掘りの仕事で財をなしたと言われています。

ところが、律法学者の一部は生活のために自分自身で働くのではなく、人々の家に出かけていき、出張講義や祈りの謝礼を要求しました。夫を失って生活がままならない未亡人の家にも押しかけ、お金を要求したのです。

それをイエスさまは激しく非難なさいました。また彼らには神さまから厳しい罰が下るとさえおっしゃいました。そしてイスラエルの人々に、あなた方はそのような行為を真似てはならないと諭されました。

貧しいやもめの献金

それからイエスさまが律法学者たちの生き方と対比させたのが、律法学者たちが食い物にしていると言われた未亡人の一人でした。その場面を見ていきましょう。
献金の投入
(41) それから、イエスは献金箱の向かい側に座り、群衆がお金を献金箱へ投げ入れる様子を見ておられた。多くの金持ちがたくさん投げ入れていた。

ここで「献金箱」と言われているものは、どういう目的で設置されたものなのでしょうか。これは祭司の給料や神殿の運営費に充てるための、いわゆる神殿税とは異なります。貧しい人々をサポートするためのお金、いわば義援金を集めるための献金箱でした。

当時の記録によると、エルサレム神殿の「婦人の庭」と呼ばれる場所、ユダヤ人なら男性でも女性でも入れる場所に献金箱が13個設置されていました。そしてそばには祭司がいて、献金をする人は献金する額を祭司に申告しなければなりません。すると、祭司は献金額を大声で叫んで人々に知らせました。

その献金箱は入口がラッパの形をしていて、金属でできているためお金を投げ込むとかなり大きな音がしたそうです。一部の人たちは、わざと少額の貨幣に両替して、長々と音が鳴るようにしました。自分がたくさん献金しているということを人々にアピールするためです。先程イエスさまが非難なさった自分の見栄のための行動、自分を他の人によく見せるための偽善的な行動ですね。
レプタ2枚の献金
(42) そこに一人の貧しいやもめが来て、レプタ銅貨二枚を投げ入れた。それは一コドラントに当たる。

やもめは夫を失った未亡人のことです。「貧しい」と言われていますから、夫ばかりか代わりに働き手となってくれる息子もいないということです。

先ほども言いましたが、モーセの律法は社会に弱い立場の人たちをみんなで支えるよう命じています。そして、義援金のための献金箱が神殿に置かれていることから分かるとおり、古代の国家の中でもイスラエルは社会的弱者に対する福祉が実際に進んでいました。それでも今とは比べようもないほど貧弱なサポートですから、夫も息子もいない未亡人は、爪に火をともすような貧しい暮らしを強いられていました。

そんなやもめの1人が、義援金をささげる献金箱に2レプタを放り込みました。参考資料にも書きましたが、2レプタというのは今の日本円に換算すれば100円程度です。レプタ銅貨は当時のギリシア・ローマ世界では最少額の貨幣ですから、2円ささげたと言ってもいいかもしれません。いずれにしても、当時の人たちの感覚からすれば非常に少額の献金です。

本来なら、彼女はその献金箱にささげられた義援金の中からサポートを受ける側の人間です。実際、これまでも何度もサポートを受けてきたことでしょう。それでもこの女性は献金をしました。支えられる立場のはずのやもめでしたが、このときは支える側に回りました。どういうわけか分かりませんが、このときの女性はレプタ銅貨を2枚持っていたからです。
イエスの評価
(43) イエスは弟子たちを呼んで言われた。「まことに、あなたがたに言います。この貧しいやもめは、献金箱に投げ入れている人々の中で、だれよりも多くを投げ入れました。

イエスさまは弟子たちだけに語られました。弟子とは、イエスさまを救い主と信じ、イエスさまに従って神さまのご計画を実現しようとする人たちのことです。

3日後にイエスさまは十字架にかけられ、死んで葬られ、3日目に復活なさいます。それから40日たって天にお帰りになります。地上に残される弟子たちを訓練するために、ここでは語っておられます。

私たちもまた、現代に生きるイエスさまの弟子です。これは私たちに対するイエスさまからの教えでもあります。

このやもめが献金したとき、先ほども言ったとおり献金額が高らかに叫ばれました。きっと叫んだ祭司は苦々しい顔をしていたでしょうし、それを聞いた人たちも「なんだそれっぽっちのお金」とバカにした笑いを浮かべたことでしょう。

しかしイエスさまは弟子たちに、そして私たちに、最少額硬貨2枚しかささげなかったあのやもめが、大金を投げ込んでいる他の人たちよりも多くささげたとおっしゃいました。イエスさまが評価なさったのが、義援金の額ではなかったことは明らかです。では、イエスさまは何を評価なさったのでしょうか。
評価の理由
(44) 「皆はあり余る中から投げ入れたのに、この人は乏しい中から、持っているすべてを、生きる手立てのすべてを投げ入れたのですから」。

これがイエスさまの評価のポイントでした。

東日本大震災や九州豪雨の被害者のために、全国各地から義援金の他に支援物資が送られました。その中には古着や一部使用済みの食糧などがあったようですが、それでも着の身着のまま逃げ出し、食糧も不足している人たちにはありがたい支援品です。しかし、ごく一部とても着られないようなボロボロの服や、消費期限を過ぎり腐りかけたりしている食糧など、どう見てもいらないゴミを処分するために送ってきたとしか思えないものが混ざっていたとのことです。

この女性がささげたのは、ささげても惜しくない余り物ではなく、自分の生活費のすべてでした。これをささげてしまったら、明日自分が食べるものが無くなってしまうかもしれません。それでも、今日困っている人を助けるために、この女性は手持ちの2レプタをささげました。そして、それをイエスさまは「誰よりもたくさんささげた」と評価なさいました。

それでは、ここから現代の弟子である私たちは、一体何を学ぶことができるでしょうか。

2.私たち自身をささげよう

愛の動機でささげよう

未亡人が2レプタをささげた献金箱は、貧しい人たちを支えるための義援金を集めるためのものだと申し上げました。この未亡人も、これまで何度もそうした義援金によって生活が支えられてきたはずです。

ですからこの女性の心には、自分のためにお金をささげてくれた多くの人々への感謝、そしてそのような弱者救済の教えをイスラエルに与えてくださった神さまへの感謝が満ちあふれていました。

自分が神さまや多くの人たちによって支えられているという感謝は、他の貧しい人たち、困っている人たち、苦しんでいる人たちに対する愛を生み出しました。自分がもし余裕があるときには、他の困っている人を支えたいと思うようになったのです。

そして、そのチャンスがやってきました。彼女の手には2レプタがありました。それはわずかなお金ですが、誰かを助けることができます。たとえ小さな愛でも、それが集まれば大きな助けに変わります。
社会鍋
キリスト教会にはさまざまな教派教団があって、我らが中通りコミュニティ・チャーチを含めてそれぞれに個性的です。その1つである救世軍は、軍隊のような階級を持っている教会です。私の知り合いに救世軍の軍曹さんがいます。救世軍の下士官は、教会の信徒リーダーの立場の方々です。この方に次のような話を聞きました。

救世軍ではクリスマスシーズンに「社会鍋」という、社会的困窮者のための募金活動をしています。中には大金持ちで多額のお金を振り込んでくださる方もいますが、そういう高額募金者の募金総額よりも、街頭で少額ささげてくださる方々の募金総額の方が額が多いのだそうです。
愛のささげもの
この未亡人は、自分は2レプタしか持っていないから誰も助けられないとは思いませんでした。困っている人、苦しんでいる人に対するあふれる愛によって、自分にできる精一杯をしたいという思いで、この女性は2レプタをささげました。

聖書には次のように書かれています。「たとえ私が持っている物のすべてを分け与えても、(中略)愛がなければ、何の役にも立ちません」(第1コリント13:3)。

たとえ貧しい人たちを支えるための献金をしたとしても、それがどれほど多額の献金であったとしても、人にほめられたいという動機で行なうなら、少なくともイエスさまは評価なさいません。他にも、みんなしているから自分もやらないと居心地が悪いとか、献金しないと神さまの祝福を失うとかいう理由でささげるなら、これまた評価されません。

今回の話は、単に献金や募金に限った話ではありません。私たちのあらゆる行動が、他の人に対する愛が動機かどうかをいつもチェックしましょう。 聖書に「一切のことを、愛をもって行いなさい」(第1コリント16:14)と書かれている通りです。

そして、他の人への愛を増し加えるために、この未亡人がそうしたように、私たち自身がどれほど神さまや他の人に愛されているのかということを再確認しましょう。

この話のお読みください。
学校の先生がクラスの生徒に、リボンを1本1本渡して言いました。「そのリボンを自分に良い影響を与えてくれた大切な人にプレゼントしてください。そうすることで世界を少しだけ良い方向に変えることができます。そしてプレゼントする際、今私が言った通りのことをその人に伝えてください」。

つまり、リボンが次々と人の手に渡り続け、そのたびに少しだけ世界が良い方向に変わるというのです。そのうちの1本のリボンが、次のような旅を経験しました。

生徒の一人が、自分の先輩にリボンを渡しました。この人は進路に関して良いアドバイスをしてくれたからです。感激したその先輩は職場の上司にリボンを渡しました。この上司は生徒の先輩を熱心に指導してくれているからです。

リボンを受け取って感激した上司は、家に帰ると息子の部屋に向かいました。この息子は反抗期で、2人の関係はあまり良くありません。それでもこの上司は息子にリボンを手渡して言いました。

「このリボンを、自分に良い影響を与えてくれた大切な人にプレゼントするよう言われて手渡されたんだ。それを私はお前に受け取ってもらいたい。お父さんはお前にいつも口うるさいことを言うけれど、お父さんの人生を一番豊かにしてくれているのは、お母さんを除けばお前なんだよ。お父さんとお母さんの元に生まれてきてくれてありがとう。愛しているよ」。

すると息子はポロポロと涙を流して言いました。「実はさっき遺書を書き終えたところだったんだ。今夜遅くに死のうと思って。だってお父さんが僕のことを愛してくれているって分からなくて、ずっとつらかったから。でも、もう遺書は必要ないね」。そして、2人は泣きながら抱き合いました。こうして世界がほんのちょっとだけ、良い方向に変わりました。

聖書には「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された」(ヨハネ3:16)と書かれています。「世」とはあなたのことです。神さまの愛を受け取ったあなたは、その愛のリボンを次の人に手渡してください。
(当サイト「ショートエッセイ」より)

神の守りを信じてささげよう

この未亡人が持っていた2レプタは、彼女の生きる手立てのすべてだったとイエスさまはおっしゃいました。それをささげてしまったら、明日食べるパンが手に入るかどうか分かりません。しかし、彼女はそれを躊躇なくささげました。

それは、神さまに対する信頼があったからに他なりません。これまで神さまは自分の生活を支え守ってくださった。だから、明日からも必ず支え守ってくださるに違いない。そういう信頼です。
献金の意味
私たちの教会では、礼拝式の中でみんなで献金をささげます。その目的の1つは、教会に与えられている神さまの使命、すなわち礼拝・交わり・教育・社会のいやし・伝道といった働きを行なうためです。

教会の一員である私たち一人ひとりは、知恵を出し合い、体を使って実践し合い、背後で祈り合ったりすることで、教会の使命に参加しています。そして、活動資金を賄うために献金をささげることも、教会の使命に参加する手段の1つです。

と同時に、献金は神さまへの感謝と信頼の表れでもあります。神さまが自分の生活をこれまで支えてくださったという感謝と、これからも支え続けてくださるはずだという信頼です。
全財産をささげろって?
といっても、このやもめのように全財産をささげる必要はありません。そういう思いでささげることが大切なのです。そもそも神さまは私たちの献金がなければやっていけないほど困窮していらっしゃいません。ですから、神さまは献金の額にこだわらないし、割合にもこだわりません。大切なのはどういう心で私たちがささげるか、です。

そして、礼拝式の献金の時間だけでなく、毎日、いや一瞬一瞬、神さまが信頼に値するお方だということを意識しながら生活しましょう。順風満帆なときだけでなく、問題だらけの時でもです。

詩篇の記者が、自分自身に向かって次のように語りかけています。「わがたましいよなぜおまえはうなだれているのか。私のうちで思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。御顔の救いを」(詩篇42:5)。

私たちもまた、神さまに支えられ守られているのだということを、いつも自分自身に向かって語り続けましょう。

自分の全生涯をささげよう

このやもめは、今回はたまたまお金を持っていたのでそれを使って人々への愛を表し、さらに神さまへの感謝と信頼を示しました。

ただ、今回のようにお金を持っていないことも多かったはずです。それでも、この女性はきっとその時できる方法で他の人を支えたり、励ましたり、慰めたりしたはずです。

このやもめは、「自分はお金を持っていないから助けられない」とは考えませんでした。今自分が持っているもの、たとえそれがお金や物などの物理的なものでなくても、とにかく自分にできることをしようと考え、そして実践していました。

聖書は次のように語っています。「喜んでする思いがあるなら、持っていないものに応じてではなく、持っているものに応じて受け入れられるのです」(第2コリント8:12)。
ピリピ教会の事例
そして、それを実践していたのがピリピ教会のクリスチャンたちだとパウロは語りました。ギリシア北部にあったピリピの教会の人々は、激しい迫害を経験しており、しかも経済的にも決して恵まれていませんでした。

しかし、彼らはエルサレムの教会のユダヤ人クリスチャンたちの状況を聞きました。エルサレムのクリスチャンたちは、迫害により仕事をすることさえできず、困窮を極めていたのです。それを聞いたピリピ教会の人々は、貧しい中からお金を出し合い、パウロを通じてエルサレム教会に届けようとしました。

それについてパウロが、経済的には豊かな人たちの多いコリント教会に対して次のように語っています。

「さて、兄弟たち。私たちは、マケドニアの諸教会に与えられた神の恵みを、あなたがたに知らせようと思います。彼らの満ちあふれる喜びと極度の貧しさは、苦しみによる激しい試練の中にあってもあふれ出て、惜しみなく施す富となりました。私は証しします。彼らは自ら進んで、力に応じて、また力以上に献げ、聖徒たちを支える奉仕の恵みにあずかりたいと、大変な熱意をもって私たちに懇願しました。そして、私たちの期待以上に、神のみこころにしたがって、まず自分自身を主に献げ、私たちにも委ねてくれました」(第1コリント8:1-5)。
自分自身を主にささげる
最後の部分で、ピリピ教会の人たちは「自分自身を主にささげた」と語られています。彼らがささげたのはお金という形を取っていましたが、彼ら自身の生涯でした。それは2レプタささげたやもめも同じです。彼女もまた、自分自身の人生を神さまにささげていました。

自分の所有物なら、それを自分の自由に使えます。しかし、神さまに人生をささげているということは、自分の体も、持ち物も、時間も、そして命までも神さまのものだということです。神さまはそれらのものを私たちに預けてくださっています。それを使って神さまが喜ばれること、すなわち神さまに対する愛、人々に対する愛を具体的に実践するためです。

0時から24時までの24時間、日曜日から土曜日までの7日間、1月1日から12月31日までの365日、そして今から天に召されるまでの一生涯の間、神さまに人生をささげ、神さまが喜ばれる愛を実践しましょう。

あなた自身への適用ガイド

  • 今週あなたの愛を必要としている人に対して、あなたにはどんな行動ができるでしょうか?
  • 最近、あなたが神さまの愛を実感した経験を挙げてください。
  • 最近、あなたが神さまの守りや支えを実感した経験を挙げてください。
  • 「持っていないものではなく持っているもの」とは、今のあなたにとって何だと思いますか?
  • 愛を実践するために神さまから預けられているものとは、今のあなたにとって何だと思いますか?
  • 今日の聖書の箇所を読んで、どんなことを決断しましたか?

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