(2022年1月30日)
マグダラのマリアはイエス・キリストによって七つの悪霊を追い出してもらった女性です。その後イエスさまと行動を共にし、十字架や復活の現場にも居合わせました。
礼拝メッセージ音声
参考資料
「マグダラ」はマリアの出身地と思われます。聖書には他に記述がありませんが、ガリラヤ湖の西岸にあるテベリアの北方5キロにあった町で、現在のミグダルです。
カトリック教会の教皇グレゴリウス1世(在位590-604年)は、ルカ7章に登場する罪深い女(パリサイ人シモンの家で、涙でイエスさまの足を濡らして髪の毛で拭い、香油を塗って口づけした女性)と同一視しました。
そのためマグダラのマリア=元娼婦というイメージが広く流布しましたが、他の教派ではそれを支持していません。またカトリックでも、教皇パウロ6世(在位1963-1978年)の時代にこの同一視の見直しが行なわれたようです。
イントロダクション
今日はイエスさまの女性の弟子である、マグダラのマリアを取り上げます。イエスさまには男の弟子だけでなく、多くの女性の弟子も従っていました。マグダラのマリアはその中でも、特にイエスさまとの親しい交わりを持っていた人です。今回は彼女とイエスさまの関係を見ることによって、イエスさまが私たちとどんな関係を持とうとしてくださっているか再確認しましょう。
まずはマグダラのマリアとイエスさまの関係について、聖書から抜き出します。
1.七つの悪霊を追い出してもらった
七つの悪霊
マグダラというのは町の名前で、ガリラヤの西岸にありました。おそらくマリアはそこの出身だったのでしょう。
そして、最初にマグダラのマリアが登場するのは、イエスさまが十二弟子を伴ってガリラヤの各地を回って、ご自分が救い主だということを宣べ伝え、奇跡によってそれを証明なさった時です。
「その後、イエスは町や村を巡って神の国を説き、福音を宣べ伝えられた。十二人もお供をした。また、悪霊や病気を治してもらった女たち、すなわち、七つの悪霊を追い出してもらったマグダラの女と呼ばれるマリア、ヘロデの執事クーザの妻ヨハンナ、スザンナ、そのほか多くの女たちも一緒であった。彼女たちは、自分の財産をもって彼らに仕えていた」(ルカ8:1-3)。
マグダラのマリアについては、七つの悪霊を追い出してもらったと書かれています。悪霊はかつて天使の頭だったサタンが、神さまに逆らって堕落したとき、彼に従って堕落した天使のなれの果てです。悪霊たちはサタンに従い、神さまが愛する人間を罪に誘惑したり、取り憑いてひどい目に遭わせたりして滅ぼそうとしています。
そして七つというのは、この場合は完全に・徹底的にというような意味で捉えて間違いありません。マリアは悪霊の誘惑を受けたという生やさしいものではなく、取り憑かれてひどい目に遭っていたということです。
悪霊に取りつかれた人の例
ゲラサの男性
イエスさまがガリラヤ湖の東の地域、ゲラサ地方に行かれたとき、悪霊に取りつかれた男性と出会いました。彼はレギオンというたくさんの悪霊たちに取り憑かれていました。彼について聖書は次のように描写しています。
「彼は長い間、服を身に着けず、家に住まないで墓場に住んでいた」(ルカ8:27)。
「この人は墓場に住みついていて、もはやだれも、鎖を使ってでも、彼を縛っておくことができなかった。彼はたびたび足かせと鎖でつながれたが、鎖を引きちぎり、足かせも砕いてしまい、だれにも彼を押さえることはできなかった。それで、夜も昼も墓場や山で叫び続け、石で自分のからだを傷つけていたのである」(マルコ5:3-5)。
ヘルモン山の麓の少年
イエスさまがヘルモン山に登り、姿が変わるという出来事がありましたね。山から下りてこられると、悪霊に取り憑かれた子どもがいました。この子どもについて、父親は次のようにイエスさまに説明しました。
「その霊が息子に取りつくと、ところかまわず倒します。息子は泡を吹き、歯ぎしりして、からだをこわばらせます」(マルコ9:18)。
「霊は息子を殺そうとして、何度も火の中や水の中に投げ込みました」(マルコ9:22)。
マグダラのマリアも、あのゲラサの男性やヘルモン山の麓の少年のような状態だったのでしょう。
他の箇所を読むと、イエスさまは権威にあふれた態度で悪霊に立ち向かい、この人から出て行けと毅然とお命じになっています。すると悪霊はなすすべもなく追い出されました。マリアの場合もきっとそうだったはずです。
マリアは非人間的で苦しい生き方を続けていました。そんな苦しい人生を、イエスさまは一変させてくださいました。どんなにか喜び、またイエスさまに感謝したことでしょうか。
私たちも変えられる
私たちは悪霊に取り憑かれてはいなかったかもしれません。しかし、みんな本来神さまが人間に与えようと計画しておられた祝福を100%味わってはいません。それは人間の罪のせいです。
特に病気でもない。経済的にものすごく貧しくて、今日の衣食住を心配しないといけないわけでもない。勉強したくてもできないという環境に置かれているわけではない。日常的に暴力にさらされているわけではない。まして頭の上からいつ爆弾が落ちてくるか分からないという危険な環境にいるわけでもない。それでも生きることに痛みを覚える人がたくさんいます。
増田の経験
かくいう私もそうでした。本来恵まれた環境にいるはずなのに、いつも心の奥底には「自分は生きていていいのだろうか」という不安を抱えていました。自分は自分自身の人生を生きていないという、そこはかとない空しさを抱えていました。いつも人目を気にして緊張しながら生きていました。
しかし、世の中にはもっとつらい環境で苦しんでいる人がいるのですから、そんな訳の分からない悩みで不平を言うのは贅沢です。そもそも私自身が自分の不満や悩みに気づいていませんでした。そんなわけで誰に言うこともせず、ただ訳も分からず心がいつもくたくたに疲れていたのです。
そんな私がイエスさまと出会ったとき、イエスさまは私に新しい人生を与えてくださいました。あらゆる罪が赦された人生。神さまの子どもとして祝福されている人生。イエスさまのしもべとして生きるという新しい目的が与えられた人生。悩みや苦しみの種がなくなったわけではありませんが、もっとも土台のところがしっかりしたという、不思議な平安を味わうようになりました。
あなたも
マグダラのマリアはイエスさまによって人生が変えられました。私も変えられました。そして、イエスさまを信じた多くの人々も変えられました。あなたもイエスさまを信じるとき、人生が根本から変えられます。
2.財産をささげて付き従った
自分の財産をもって
先程読んだルカ8:3には
「彼女たちは、自分の財産をもって彼らに仕えていた」と書かれています。
ここでマグダラのマリアと共に名前が挙がっているヨハンナという女性は、ヘロデの執事クーザの妻だったと書かれています。ヘロデとはガリラヤの国主ヘロデ・アンティパスのことで、彼女の夫はその執事を務めていたというわけですから、ヨハンナはある程度のお金持ちの奥さまだったと想像できます。
マグダラのマリアの家がヨハンナと同様のお金持ちだったのかは分かりませんし、結婚していたのかどうかも、またどれくらいの年齢なのかも分かりません。しかし、とにかくマグダラのマリアは自分の持ち物をささげ、家を離れてイエスさまに付き従いました。そして食事の世話など、イエスさまや男の弟子たちを生活面でサポートしていたのです。
その後もマグダラのマリアは、他の女性たちと共にイエスさま一行の後についてあちこちを旅して回りました。
なぜできたのか
どうしてマグダラのマリアにそんなことができたのでしょうか。それはイエスさまによっていやされた喜びの故です。他の女性たちもその点は同じです。しかし、特にマリアは悪霊に徹底的に支配され、地獄のような苦しみを味わっていたところから救い出していただいたのです。その喜びと感謝はいかばかりだったでしょうか。
私たちの原動力
私たちがイエスさまの命令を守ったり、イエスさまが喜ばれない生き方を離れたり、イエスさまの計画を知ってその実現のために行動したりするのは、そうしないと罰を受けるからでも、祝福を失うからでもありません。まずイエスさまの方から私たちを愛し、祝福してくださり、永遠に祝福し続けると約束してくださったからです。
イエスさまが私たちのためにしてくださった最大のことは、私たちの罪が赦されるために、身代わりとして十字架にかかり、死んで葬られ、そして復活してくださったことです。
息子の絵
この話を読みましょう。
英国の資産家であるフィジラルド氏は、後継者であるたった一人の息子を亡くしてしまいました。もちろんフィジラルド氏の悲しみは大変なものでした。
そして、やがてフィジラルド氏本人もこの世を去りました。彼は有名な画家の絵をたくさん所蔵しており、自分が死んだらそれをすべて売却するよう遺言していました。フィジラルド氏の死後に行なわれたオークションでは、たくさんの人々が名画を求めて集まってきました。
オークションに先立って、弁護士が氏の遺言書を朗読しました。それは「死んだ一人息子を描いた絵を、最初にオークションにかけるように」というものでした。ただその絵は誰が描いたものか分からず、作品としてもあまり質の良いものではなかったのです。そこで、誰も買い手が付きません。
いえ、1人だけいました。おずおずと手を挙げたのはフィジラルド家の召使いの一人でした。この年老いた召使いは、フィジラルド氏の息子のことをとてもかわいがった人です。そこで、大好きだった坊ちゃんの思い出にと、なけなしのお金をはたいてこの絵を手に入れようとしたのでした。他に名乗り出る人がいなかったので、すぐに絵は召使いのものと決まりました。
すると、弁護士が遺言書の続きを読み上げました。「息子の肖像画を買った人に、残りすべての絵を無償で贈与する」。
このように、イエス・キリストを手に入れた人、すなわちイエスさまを信じて受け入れた人は、神さまの祝福のすべてを譲り受けるのです。
もっとも素晴らしいプレゼント
あの人のように仕事がうまくいかない。計画通りに物事が進まない。経済的に裕福にならない。人間関係が問題だらけだ。そんなふうに無いものに目を留めればいくらでも不満が出てきます。しかし、もっとも素晴らしいプレゼントが私たちに与えられています。
それがどんなに素晴らしい祝福か、私たちはいつも振り返り、感謝の心を育てましょう。そして、喜びを原動力としてイエスさまにお仕えしましょう。マグダラのマリアがそうしたように。
3.復活のイエスと出会った
十字架の現場にいた
次にマグダラのマリアが登場するのは、イエスさまの十字架の場面です。
男の弟子たちは、イエスさまが逮捕されたときにみんな逃げ出してしまいました(ヨハネだけはイエスさまの母マリアと共に十字架の近くに行き、イエスさまから直接語りかけられました)。
そして、マグダラのマリアは他の女性たちと共に、離れたところからイエスさまが十字架にかけられて苦しみ、やがて亡くなるのを見続けていました。
「女たちも遠くから見ていたが、その中には、マグダラのマリアと、小ヤコブとヨセの母マリアと、サロメがいた」(マルコ15:40)
イエスさまの遺体は、アリマタヤのヨセフという弟子が引き取り、ニコデモと一緒に処置を施して埋葬しました。マグダラのマリアは、その様子もしっかりと見ていました。
「マグダラのマリアとヨセの母マリアは、イエスがどこに納められるか、よく見ていた」(マルコ15:47)。
香油を塗り直したいという思い
前回もお話ししたとおり、普通なら遺体を水できれいに洗い清め、香油を塗り、防腐効果のある没薬を塗り、それから亜麻布でぐるぐる巻きにして墓に納めます。しかし、間もなく日が暮れて安息日が始まるために、アリマタヤのヨセフたちは急いでイエスさまを埋葬しなければなりませんでした。そのため、十分香油を塗らずに埋葬してしまったようです。
それを見ていたマグダラのマリアと他の女性たちは深く悲しみました。そして、安息日が明けたら改めて香油や没薬を塗り、埋葬の準備をしっかりとやり直して差し上げたいと思いました。そこで、土曜日の日没が過ぎて安息日が終わると、彼女たちはすぐに香料を買い求めました(マルコ16:1)。
復活のイエスに会った
ここから先は、4つの福音書がさまざまな書き方をしていて、出来事がどういう順番で起こったのか混乱しがちです。特に最初に墓に行った女性は1人なのか、3人なのか、それ以上なのかによって、その後の時系列が変わってきます。ここではまずマグダラのマリアが1人で墓に向かい、後から他の女性たちが墓に向かったという解釈を採用します。
空の墓
当初女性たちは、みんなで一緒にイエスさまの墓に行こうと計画していました。しかし、マグダラのマリアは、日曜日の朝まだ明るくなる前に起き出し、先に1人で墓に向かいました(1節)。きっと、いても立ってもいられなかったのでしょうね。
墓地に着くと、何トンもある墓石が動かされ、中にあるはずのイエスさまの遺体がないことに気づきました。マリアはイエスさまの遺体を誰かが盗んだと考えました。
そこで、弟子たちの隠れ家にとって返して、ペテロとヨハネに報告します。すると、ペテロとヨハネは墓に飛んで行き、マリアも2人の後を追いました。ペテロとヨハネは、確かに墓が空っぽだということを確認し、隠れ家に戻っていきました。
天使との出会い
入れ違いで墓に戻ってきたマグダラのマリアは、しくしく泣いていました。自分を地獄のような人生から救い出し、人間としての尊厳を取り戻してくださった愛するイエスさま。その大切なお方が殺されただけでも悲しいのに、その上遺体まで盗まれるなんて。彼女の心は悲しみに押しつぶされそうでした。
そして、ふと墓の中を見ると、そこに2人の人影が見えました。
「すると、白い衣を着た二人の御使いが、イエスのからだが置かれていた場所に、一人は頭のところに、一人は足のところに座っているのが見えた。彼らはマリアに言った。『女の方、なぜ泣いているのですか』。彼女は言った。『だれかが私の主を取って行きました。どこに主を置いたのか、私には分かりません』」(12-13節)。
実はペテロたちやマリアが墓に到着する直前、他の女性たちが香油を持って墓に到着し、2人の天使に会っています。彼らは恐れ驚きひれ伏しましたが(ルカ24:5)、マリアは涙でよく見えなかったからでしょう。ただの人間だと思い込んで普通に会話をしています。
そしてこの会話を読むと、この時点でのマグダラのマリアは、イエスさまが復活したという事実を信じていなかったし、期待すらしていなかったことが分かりますね。
彼女だけではありません。弟子たちはみんな、イエスさまが復活することを信じていませんでした。
復活したイエスとの出会い
それからふと気配を感じて振り返ると、3人目の人が見えました。それは復活したイエスさまでした。
しかし、復活の体は栄光の姿に変えられているので、パッと見ただけでは誰か分からず、よく見ないと昔の面影を見つけられないのでしょう。おまけにマリアの目は涙で曇っていましたから、よけいによく見えません。
そんなわけでマグダラのマリアは、この人のことを墓地の管理人だと誤解しました。しかし、それは復活したイエスさまでした。
「イエスは彼女に言われた。『なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか』。彼女は、彼が園の管理人だと思って言った。『あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。私が引き取ります』」(15節)。
イエスであるとの認識
すると相手はどう反応したでしょうか。
「イエスは彼女に言われた。『マリア』」(16節)。
イエスさまがかつておっしゃったことがあります。
「わたしの羊たちはわたしの声を聞き分けます」(ヨハネ10:27)。マリアはその声でイエスさまだと認識しました。
「彼女は振り向いて、ヘブル語で『ラボニ』、すなわち『先生』とイエスに言った」(16節)。「ラボニ」をより正確に訳すと「私の先生」です。
すがりつこうするマリア
喜びのあまり、マリアはイエスさまにすがりつこうとしました。すると、イエスさまはそれをお止めになりました。
「イエスは彼女に言われた。『わたしにすがりついていてはいけません』」(17節)。
この後しばらくして、イエスさまはマグダラのマリア以外の女性の弟子たちに出会います。その際、女性たちはイエスさまの足を抱いて礼拝しています(マタイ28:9)。8日後にトマスと出会ったときには、手や脇腹の傷に障るようおっしゃっています(ヨハネ20:27)。マグダラのマリアだけ触らせないなんて、差別じゃん!
イエスさまはどうしてすがりついてはいけないのか、その理由も語っておられます。
「わたしはまだ父のもとに上っていないのです」(17節)。
この時イエスさまは、一時的に天に昇って、まことの大祭司としてご自分の血を天の祭壇に注ぎかけようとしておられました(ヘブル9:11-12参照)。イスラエルの大祭司が儀式のために身を清めると、儀式が終わるまで誰も触ることが許されていませんでした。
そこでイエスさまは、「まだ父のもとに上がっていないから」、すなわちまだ父なる神さまがいらっしゃる天国の祭壇で血を注ぐ儀式を終えていないから、触っちゃダメだよとおっしゃったわけです。一方、他の女性たちと出会われたときには、天での儀式が終わったので触ることを禁止なさいませんでした。
弟子たちに復活を語る
この後、マグダラのマリアは弟子たちの隠れ家に戻ります。そして、イエスさまが復活して私に出会ってくださったと語ります(18節)。その後、ペテロや他の女性たち、さらにはエマオに向かっていた2人の弟子たちも戻ってきて、次々とイエスさまと出会ったことを報告しました。
マグダラのマリアは、弟子たちの中で最初に復活のイエスさまに出会った人です(マルコ16:9)。そして、復活のメッセージを最初に他に人に伝えたメッセンジャーでもあります。
私たちも生きておられるイエスを伝えよう
私たちもマグダラのマリアのように、イエスさまと出会って人生が造り変えられたことの証人です。しかも、イエスさまは死んだ神ではなく、復活して今も生きておられます。
私がイエスさまを信じてクリスチャンになったのは、1984年の5月6日、今から38年前のことです。そして新しい人生が与えられました。しかし、イエスさまと私の関係はそこで終わったわけではありません。少しずつ少しずつではありますが、イエスさまは私の人生にかかわり続けてくださり、私の人生を変え続けてくださっています。
あなたもそうです。昔はイエスさまの祝福をダイナミックに体験していたけれど、今はすっかりご無沙汰で……。いいえ、そんなことはありません。復活なさったイエスさまは、今も生きておられます。そしてあなたの人生に関心を持ち、かかわってくださいます。
中川健一先生の見解
ハーベストタイムの中川健一先生が、復活に関するメッセージを語られたとき、マグダラのマリアの話をなさいました。天で血を注ぐ儀式が控えていて忙しいはずなのに、なぜイエスさまはマグダラのマリアに会うことを優先なさったのだろうかという話です。その答えは聖書には書かれていません。
中川先生は、あくまでも自分の考えだけれどと断っておっしゃいました。「きっと、泣いているマリアを放っておくことができなかったんでしょうね」と。
イエスさまはあなたもご覧になっています。そして、あなたの人生に関わっておられます。それを意識し、他の人に語ることで、今も生きておられるイエスさまのことを他の人に伝えていきましょう。
あなた自身への適用ガイド
- あなたとイエスさまの最初の出会いは、どういう状況でしたか?
- イエスさまを信じる前と今とを比較してみましょう。何がどんなふうに変わりましたか?
- これまでの人生を振り返ってみましょう。イエスさまがあなたにしてくださった良いことの中で、特に今印象深く思い出せるのは何ですか?
- 喜びがイエスさまに仕える原動力であるということを、最近実感した出来事がありますか?
- イエスさまが今も生きて働いておられるということを、最近実感したのはどんな出来事ですか?
- 今日の聖書の箇所を読んで、どんなことを決断しましたか?