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礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

ロデ

聖書の女性シリーズ31

使徒の働き12章11節〜17節

(2022年2月13日)

ロデは新約聖書の使徒の働きに登場する女中です。彼女は重大ながらちょっと笑えるミスを犯しました。ロデの失敗のエピソードから、神の恵みについてお話しします。

礼拝メッセージ音声

参考資料

直前の話

今回の箇所の直前、当時イスラエルを支配していたヘロデ・アグリッパ1世によって、使徒ペテロが捕らえられました。翌朝には死刑になるという夜、天使が現れてペテロを町の通りまで連れ出してくれました。

用語

11節の「ヘロデ」は、ヘロデ・アグリッパ1世(在位:AD37〜44年)。どういう人物かはメッセージの中で解説します。

12節の「マルコ」は、マルコの福音書の著者です。ちなみに彼の家は、最後の晩餐や聖霊降臨の舞台となったと言われています。

15節の「ペテロの御使い」とは、ペテロ個人を守るために専属で任命されている守護天使のこと。
  • 中間時代(旧新約の間の約400年間)のイスラエルで、人が生まれると、その人をずっと担当する守護天使が神さまから任命されると信じられるようになりました。
  • 今回だけでなく、天使が信者を危険から守った例は聖書の中にいくつも記されています。
  • ただし、信者一人ひとりに専属の守護天使がいて、生涯ずっと担当し続けるという証拠は、聖書の中には見いだせません。
17節の「ヤコブ」は、イエスさまの弟の1人。母マリアはイエスさまを産んだ後、ヨセフとの間に息子たちや娘たちを産みました。

イントロダクション

今日はロデという女性が主人公です。彼女は、マルコの福音書を書いたマルコの家に仕える召使いでした。彼女はある失敗をしました。まかり間違えれば、人一人の命が失われることになったかもしれない失敗です。しかし、聖書はそれを批判的には書いていません。ここから私たちは神さまの恵み深さを学んで、大いに励まされましょう。

1.ロデの失敗

直前の出来事

ヘロデ・アグリッパ1世
今回の出来事は、紀元44年のことです。この頃イスラエルを治めていたのは、ヘロデ・アグリッパ1世という王です。この人は、イエスさまが誕生した頃にいたヘロデ大王の孫で、バプテスマのヨハネの首をはねたヘロデ・アンティパスの息子です。

ヘロデ・アグリッパ1世はローマ皇帝の第3代カリグラや第4代クラウディウスに気に入られ、祖父であるヘロデ大王が支配していた頃とほぼ同じ領地を与えられました。以下の地図で青色に塗られた地域です。

ヤコブの殉教とペテロの逮捕
過越の祭りの時期、ヘロデ・アグリッパ1世はユダヤ人の指導者たちの機嫌を取るため、使徒ヤコブを殺害しました。それが成功したのを見ると、今度は使徒ペテロも捕らえてしまいます。ヘロデはペテロを牢に入れ、4人1組の兵士4組、計16人が順番でペテロの番をするよう命じました。そして、祭りが終わったら引き出して死刑にするつもりでした。

このときのことを、聖書は次のように記しています。「こうしてペテロは牢に閉じ込められていた、教会は彼のために、熱心な祈りを神にささげていた」(5節)。

ペテロは厳重な監視の下で投獄されていました。彼が解放されて地上の命を長らえる可能性はほとんどゼロ。そして、間もなくヤコブと同じように死刑になってしまうでしょう。
祈りという武器
しかし、5節の「が」という言葉に注目してください。教会はペテロを救い出すための武力も、ヘロデを動かすだけの政治力も持っていません。ですから八方ふさがりです。「が」、教会には祈りという霊的な武器があります。

エルサレム教会のクリスチャンたちは、ペテロの救出を神さまに祈り求めました。この頃のクリスチャンたちは、町の中のあちこちの信者の家に集まって礼拝したり祈ったりしていました。あちこちの家の教会で、熱心な祈りが捧げられたのです。その熱心な祈りのチームの中には、マルコの母マリアに召使いとして仕えるロデもいました。
祈りの答え
翌朝には死刑執行が迫った夜のこと。ペテロは両手を2本の鎖でつながれていて、2人の兵士の間で寝ていました。牢の外には別の2人の兵士が警備をしています。非常に厳重な監視体勢ですね。

すると、天使が現れてペテロを起こし、鎖を解いて牢から出しました。ところが、兵士たちは誰も気づきません。天使によって眠らされていたか、あるいは不思議な力で攪乱されて、目が開いているのに目の前で起こっていることを認識できなかったのでしょう。さらに、厳重に閉じられているはずの門もひとりでに開きます。

こうして天使は、町の通りまで安全にペテロを連れて行き、忽然と姿を消しました。教会の熱心な祈りは、神さまに応えられたのです。
そこから今回の箇所が始まります。

ペテロの生還とロデの行動

ペテロの帰還
ペテロは自分が神さまによって守られたことを知り、感謝しながら自分が属する家の教会のある、マリアの家に飛んで帰りました。家に着いたペテロは、門をドンドンと叩きました。

すると、来客かと思って召使いのロデが出てきました。門の外にいる人の声をよく聞くと、なんとペテロ先生ではありませんか。その時の様子を、使徒の働きを書いたルカは次のように記しています。

「彼が門の戸をたたくと、ロデという名の召使いが応対に出て来た。そして、ペテロの声だと分かると、喜びのあまり門を開けもせずに奥に駆け込み、ペテロが門の前に立っていることを知らせた」(13-14節)。
ロデの喜び
ペテロの声を聞いたロデは喜びました。
  • 尊敬するペテロ先生が無事に帰ってきたからです。
  • 神さまが、自分たちの祈りに応えてくださったからです。
  • 神さまが不可能を可能に変えることができることを知ることができたからです。
  • その神さまの働きに、自分も祈りを通して参加できたからです。
こうしてロデは喜び、喜びのあまり我を失うほどに舞い上がってしまいます。
ペテロの閉め出し
その結果、そのままペテロ生還のニュースを仲間に伝えるために、中に入っていってしまいました。門を開けることをすっかり忘れてしまったまま、つまりペテロを外に放置したままです。

放ったらかしにされたペテロ、焦ったでしょうね。この時期の夜はまだまだ冷えます。第一、ヘロデやユダヤの指導者たちに見つかれば、またもや牢獄に逆戻りです。一刻も早く中に入りたかったでしょう。

さりとて「おーい、おーい! 私を忘れてるぞ。私も中に入れてくれ!」なんて叫べば、追っ手に見つかってしまうかもしれません。ですから、ただひたすら門を叩き続けるしかありませんでした。
ロデを擁護する神
もちろん、我を忘れてペテロを外に放置したのはあってはならない失敗です。もしもペテロに追っ手がかかっていたとしたら、ペテロを再び危険にさらすことになる行為でした。実際には朝になるまでペテロが脱走したことは兵士たちに気づかれませんでしたが、それは後になって分かったことです。

それなのに、聖書はロデの失敗について批判的な書き方をしていません。「喜びのあまり」と、彼女が神さまのしてくださったことを素直に喜んだことを伝え、ただちょっと喜びすぎた結果失敗してしまったのだとロデを擁護しています。

しかも、どことなくユーモアのある調子で報告していますね。まるでルカにこの場面を記録させた聖霊なる神さまが、天にいらっしゃるイエスさまや父なる神さまと一緒にクスクス笑いながら、ロデの様子を眺めていらっしゃったかのようです。

信じない信者たち

ロデはおっちょこちょいで失敗しましたが、他のクリスチャンたちもやらかしてくれています。ロデの報告をまるっきり信じなかったのです。「人々は彼女に『あなたは気が変になっている』と言ったが、彼女は本当だと言い張った。それで彼らは『それはペテロの御使いだ』と言った」(15節)。

イエスさまの復活した日の朝、女性たちが墓を見に来ました。すると天使が現れてイエスさまの復活を告げ知らせました。女性たちはすぐに隠れ家に戻り、そのことを男の弟子たちに報告しましたが、弟子たちは一切信じませんでしたね(ルカ24:1-11)。その話とよく似ています。

古代のイスラエルでは、裁判において女性の証言は証拠として認められませんでした。ひどい話ですが、女性の証言は信用に値しないと考えられていたのです。その上、ロデは大変興奮しながらしゃべっていますから、人々はとても本気にはできませんでした。

ですからロデの話を聞いた人々は、「あなたは気が変になっている」などと失礼極まりないことを言いました。ペテロの守護天使の話を出したのも、本気でそれを信じていたというよりも、とりあえずロデをクールダウンさせようと思って語ったことでしょう。
祈りが聞かれたのに
ただ、ここで思い出してみましょう。ロデがペテロ生還のニュースをもたらしたとき、マリアの家に集まっていたクリスチャンたちは何をしていたのでしたっけ? そう、祈っていました。何を? ペテロが神さまによって救い出されますように、ということです。

ところが実際にペテロが生還したというニュースを聞いても、彼らはまったく信じませんでした。
マリアの家の教会の人たちは、祈りが聞かれたのに信じませんでした。厳しい言い方をすれば、本当に心から奇跡を信じて祈っていたのかどうか怪しいものです。

彼らは、使徒ヤコブが捕らえられたときも祈っていたはずです。しかし、それでもヤコブは殺されてしまいました。ですから、もしかしたら今回もダメかもしれないと、心のどこかで思っていたのかもしれませんね。
ロデの信仰
一方、ロデはペテロの生還を信じました。彼女は戻ってきたペテロの姿を、実際に自分の目で見て確認したわけではありません。ただ声を聞いただけです。それでもペテロだと気づき、彼が無事生還したのだと疑いも無く受け入れました。

彼女は他の人たちと違って、自分たちの祈りが聞かれるはずがないとは思っていなかったのです。ロデは祈りが聞かれることを信じ抜くことができる素晴らしい信仰者です。

また、ロデは神さまがしてくださったことに対して素直に喜びを表現できる素直な女性です。そして、感情豊かで明るい愛すべき人柄の女性です。
神の恵み
ロデは一歩間違えれば、取り返しの付かない結果を刈り取るかもしれない失敗を犯しました。また多くの信者たちは、神さまが祈りを聞いてペテロを生還させてくださったことを信じられませんでした。

しかし、今回私たちが注目したいのは、それでも神さまは彼らの祈りを聞いてくださって、ペテロをヘロデの魔の手から救い出してくださったということです。そして、ヤコブに続いてペテロまで失ってしまう悲しみから、教会の人々を遠ざけてくださいました。神さまは何とあわれみに満ちておられることでしょうか。

それでは、今回のロデの記事を通して、私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

2.神の恵みを信じて祈ろう

これについて3つのことを申し上げます。

(1) 神は赦す

聖書の神さまは恵みの神です。そして、神の恵みは赦しという形で表されています。ロデは失敗しました。そして、マリアの家の教会の人たちの信仰は完全ではありませんでした。それでも神さまは彼らの不完全さを赦し、彼らの祈りに応えてくださいました。
祈りに必要なもの
確かに、聖書は祈りが聞かれるためには信仰が必要だと教えています。「ただし、少しも疑わずに、信じて求めなさい。疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。その人は、主から何かをいただけると思ってはなりません」(ヤコブ1:6-7)。

また罪があれば祈りが聞かれないとも教えています。「見よ。【主】の手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて聞こえないのではない。むしろ、あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ」(イザヤ59:1-2)。
赦しを前提とした祈り
それでも、私たちは完全な信仰を持つことができません。罪を犯さなくなることもありません。もし完璧な信仰を持っていて、一切罪を犯さないきよい生き方をしていなければ、神さまに祈りを聞いていただけないのだとするなら、この世の誰の祈りも聞かれないことになるでしょう。

私たちが信じている神さまは、イエスさまの十字架と復活を通して、私たちの罪、私たちの不完全さを完全に赦してくださったお方だということを、いつも覚えていましょう。
もちろん私たちは神さまを信頼し、きよい生き方を目指し続けなければなりません。それでも自分が赦されているのだということを前提として、大胆に祈りましょう。

「さて、私たちには、もろもろの天を通られた、神の子イエスという偉大な大祭司がおられるのですから、信仰の告白を堅く保とうではありませんか。私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか」(ヘブル4:14-16)。

(2) 神は最善をなす

恵みの神さまは私たちを赦しただけでなく、神の子として愛し、最善が起こるよう配慮してくださっています。

どうしてペテロの祈りは守られたのに、ヤコブの命は守られなかったのでしょうか。その理由は聖書に書かれていません。将来天国に行ったときには、あるいは教えていただけるかもしれませんが、今は誰も理由が分かりません。

それでも、私たちは知っています。神さまは最善以外のことを決してなさいません。たとえ私たちの目には最悪と思える状況が起こっても、それでも神さまの目にはそれは最善のプレゼントです。
あなたのみこころの通りになりますように
祈りが祈ったとおりにかなえられるのは祝福です。ロデが喜んだのは祈りがかなえられたからです。祈りを神さまにかなえていただいたのに、喜ばなかったり感謝しなかったりするような、恩知らずにはなりたくありませんね。

しかし、実は祈ったとおりにならないのもまた祝福なのです。祈るときには、私たちはそのことを忘れないでいましょう。

イエスさまがゲツセマネの園で祈られたように、「神さま、あなたのみこころの通りになりますように」といつも祈りたいですね。それは、「あなたのお考えになる最善が実現しますように」という意味です。
そして、祈りがかなえられなかったときには、神さまにその意味を教えてくださるよう祈りましょう。また、祈りがかなえられなかったことが自分にとって最善なのだと信じて感謝しましょう。

(3) 神は巻き込む

恵みに満ち、私たちを心から愛しておられる神さまは、いつも私たちと一緒にいたい、一緒に時間を過ごしたいと願っておられます。 そして、ご自分の働きに私たちを巻き込まれます。
岩井俊憲先生
最近、アドラー心理学を広めておられる岩井俊憲先生の動画を観ました。そして、そこで紹介されていたブログの記事も読みました。学校に行けなくなっている子どもへの接し方で大切なことは、学校に行けないことを責めないことです。代わりに、不登校だからできることに注目しましょうと岩井先生はおっしゃいます。

その一つが、学校に行っていない間に、誰かの役に立つ体験をさせてあげることです。不登校の子どもは自分が他の人の役に立っているどころか、家族の迷惑になっていると考えて自信をなくしています。

しかし、これまでよりちょっとだけ多く家事を分担してくれていたり、留守番役になっていてくれたりと、探せば親や家族の役に立ってくれています。見つからなければ、家事の手伝いをお願いしたり、ネットでの検索をお願いしたり、はやりのアニメや音楽について教えてもらったりしてもいいです。そうして感謝されたり喜ばれたりすることで、子どもはだんだん自信を取り戻していきます。

これは不登校の子どもだけの話ではありません。どんな子どもだって、そして大人だって、誰かの役に立っているという思いを抱くことが、健康に生きていくためには必要です。
ロデの貢献感
ロデが喜んだのは、祈りが聞かれてペテロが無事に帰ってきたからです。しかし、それだけではありません。ロデは、神さまの奇跡のわざに、自分のような小さい者が参加できたという喜び、祈りによって神さまと一緒に働く喜びを知りました。
その権利は、私たちにも与えられています。神さまの恵みによって、私たちが神さまにとって大切な子どもになったからです。

この話をお読みください。
アメリカの話です。その女の子は寝たきりでした。足が生まれつき不自由だったのです。

その日はママの誕生日でした。パパが大きな包みを抱えて帰ってきました。「ダディ、それなあに?」「ママへのバースディ・プレゼントさ。ママは2階にいるのかい?」

すると、その女の子は目をきらきらさせて言いました。「ダディ、そのプレゼント、私にちょうだい。私がマミィの所に持って行くから。私、自分で持って行きたいの」。

「だってお前……」。お前は歩けない。どうやって持って行くと言うのだ……。でも、もちろんそんなこと口に出せるはずがありません。

しかし、困惑する父親をよそに、娘は一生懸命主張しました。「私が自分で持って行きたいの。お願い、ダディ」。

パパは、半ば仕方なくプレゼントの包みを娘に渡しました。娘は、その包みをしっかりと両腕に抱え込むと、にっこり笑って言いました。「ダディ、じゃあ私を抱きあげて。そしてマミィの所まで運んでちょうだい」。

神さまは、なぜ救いの計画を実現なさるのに、私たち人間をお用いになろうとしたのでしょう。ご自身や天使の方が、ずっと上手にやれるでしょうに。そのことがずっと不思議でした。

でも、このお話を聞いたとき、神さまは私たちを子として扱っておられるのだと思いました。「お前がやってごらん。わたしが助けてあげるから」。
(当サイト「ショートエッセイ」より)
神さまの恵みによって子どもとされていること、そして祈りによって神さまと一緒にいられること、そして神さまと共に働けることを喜びながら祈りましょう。

あなた自身への適用ガイド

  • 最近、祈ったことがかなえられた経験をしましたか?
  • 祈ったことがかなえられなかったけれど、実はそれが最善だったと気づいたということが最近ありましたか?
  • 最近他のクリスチャンと一緒に心を合わせて祈ったのは、どういう内容でしたか?
  • 祈ってはみたけれど、信じ切れていなかったということを思い知らされた経験が、これまでにありましたか?
  • 不信仰や罪にもかかわらず、神さまが働いてくださったという経験がありましたか?
  • 神さまの働きに参加できているという喜びを体験したことがありますか?
  • 今日の聖書の箇所を読んで、どんなことを決断しましたか?

連絡先

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