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礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

メルキゼデク

助演男優シリーズ2

創世記14章13節〜20節

(2022年3月6日)

メルキゼデクはアブラハムの時代のサレム(後のエルサレム)の王で、いと高き神の祭司でした。メルキゼデクに関する聖書の記述を紹介します。

礼拝メッセージ音声

参考資料

背景

アブラム(アブラハム)と一緒にカナンの地にやってきた甥のロトは、やがてアブラムから離れて住むようになり、この頃はソドムの町に住んでいました(12節)。

ソドムやゴモラなど死海の南岸付近にあった5つの都市国家は、今のイラン南西部にあったエラムの支配下にありました。しかし、13年目に反逆します。そこで、エラム王ケドルラオメルは、支配下にある3人の王たちを引き連れて、ソドムなどを討伐するために攻めてきました。そして、ソドムは攻撃され、多くの人々や財産がエラム連合軍に略奪されてしまいました。

以下は、エラム連合軍の侵攻ルート(緑矢印)と、アブラハム軍の追撃ルート(赤矢印)です。

用語

13節の「そのこと」とは、アブラム(アブラハム)の甥のロトが、エラム連合軍に拉致されてしまったことです。

13節の「ヘブル人」は、「越えてきた人々」を意味しています。アブラハム一家は、元はユーフラテス川の河口付近にあったウルの出身で、川を越えてカナンの地にやってきました。後に、ヘブル人はイスラエル人、すなわちユダヤ人を指す言葉になります。特に、外国人との対比する際に用いられることが多い名称です。

13節の「アモリ人」(別の訳ではエモリ人)は、元々カナンの地に住んでいた民族の一つ。マムレの樫の木は、ヘブロンの近くにありました。マムレは人名ですが、ヘブロンの町の別名でもあります。

13節の「盟約」は、軍事同盟のようなものと考えられます。相手を攻撃しないことはもちろん、どちらかが敵に攻められたときには援軍を出すという契約です。この盟約に基づいて、マムレと兄弟たちはアブラハムと共にロトの救出に向かいました(24節)。

17節の「シャルベの谷(王の谷)」の場所は分かっていませんが、おそらくエルサレムの近くでしょう。

18節の「シャレム」はエルサレムのこと(詩篇76:2)。

20節の「すべてのもの」は、打ち負かした敵から奪った戦利品のことです(全財産の十分の一を追撃時に持ち運んでいるとは思えませんから)。ただし、敵がソドムから持ち去ったものは、すべてソドムの王に返していますからこれには含まれません。

余談

ユダヤ教の伝統では、メルキゼデクはノアの息子の一人セムと同一人物だと言われています。その主張には聖書的な根拠はありませんし、別に増田牧師も信じてはいません。ただ、絶対にあり得ないとも言い切れません。

というのも、創世記に書かれている年齢を文字通りに解釈すれば、セムはアブラハムの時代にはまだ生きていたからです。それどころか、セムが602年の生涯を閉じるのは、アブラハムが死んだ35年も後です。ちなみに、その時アブラハムの子イサクは110歳、孫ヤコブもすでに50歳になっています。詳しくはこちらの年表をご覧ください。前回取り上げたメトシェラ(享年969)とは比較になりませんが、それでもものすごいご長寿ですね。

イントロダクション

今回取り上げるのは、メルキゼデクという人物です。彼は突然現れ、そしてその後は歴史から忽然と姿を消す不思議な人物です。

今日は、彼について聖書がどんなふうに描いているかを学びながら、私たちに与えられている祝福がどういったものかということを再確認します。そして、その祝福を受け取った私たちがどういう生き方をするようになるか、それを見ていきましょう。

まずは、聖書の中でメルキゼデクについてどのように記されているか見ていきましょう。

1.メルキゼデクに関する聖書の記述

創世記14章

アブラハムのロト救出
メルキゼデクが最初に登場するのは、創世記14章。今回の箇所です。

参考資料にも書きましたが、今回の箇所の背景は、今のイラン南西部にあったエラムを中心とする連合軍が、ソドムやゴモラなど死海の南岸付近にあった5つの都市国家に攻めてきました。そして、エラム連合軍はソドムを打ち破って略奪を働きます。

この頃アブラハム(ここではまだ改名前でアブラム)の甥のロトは、ソドムの町に住んでいました。そのため、エラム連合軍の略奪によって、多くのソドムの住民や財産と共に、ロトもその妻も未婚の娘たちも連れ去られてしまいました。

その知らせを聞いたアブラハムは、自分のしもべ318人、さらに盟約を結んでいたマムレ兄弟の軍勢と共にエラム連合軍を追いかけ、これを散々に打ち負かしました。そして、無事にロト一家と財産を取り返したのです。

意気揚々と帰ってきたアブラハムを迎えに出たのが、住民や財産を取り戻してもらったソドムの王と、今回の主人公であるメルキゼデクです。「アブラムが、ケドルラオメルと彼に味方する王たちを打ち破って戻って来たとき、ソドムの王は、シャベの谷すなわち王の谷まで、彼を迎えに出て来た。また、サレムの王メルキゼデクは、パンとぶどう酒を持って来た。彼はいと高き神の祭司であった」(17-18節)。
まことの信仰者
メルキゼデクについて、聖書は彼がサレムの王であったと書いています。サレムとは後のエルサレムのことです。メルキゼデクは都市国家サレムを治める王さまでした。

その一方で、彼はいと高き神の祭司だったと書かれています。いと高き神とは、天地万物をお造りになったまことの神さま、聖書の神さまのことです。メルキゼデクは、アブラハムと契約を結ばれたまことの神さまを信じる信仰者であり、しかも祭司としての働きをしていました。

アブラハム一族以外にも、まことの神さまを信じる信仰者がいたのですね。もっとも、参考資料にも書きましたが、ノアの息子のセムは、まだこの時代生きていました。セムとメルキゼデクが同一人物だという説は眉唾物であったとしても、アブラハム一家以外にまことの信仰者がいること自体は、おかしなことではありません。
祭司としての働き
ここでは特に、メルキゼデクが祭司だったというところに注目します。

祭司の仕事は、神さまと人間の橋渡しをすることです。「いと高き神」と呼ばれているように、神さまは私たち被造物とは比べものにならない、はるかに高い、尊いお方です。しかも、人間には不完全で罪があるので、完全にきよい神さまとの間には広くて深い溝が存在します。ですから、普通なら私たちが神さまと親しく交わることなどできません。

今の上皇陛下が天皇の時代、皇室を開かれたものにお変えになって、行幸先で国民と気さくにお話をなさるようになりました。しかし、それ以前の天皇は一般の国民にとって非常に高い存在でした。政治家などが面会に行っても、天皇は直接会って話を聞いたり話しかけたりしません。すだれの向こうに姿を隠し、間にお付きの人を挟んで、その人を通して話をしました。

祭司の仕事の中心も、あのお付きの人と似ています。本来親しく交わることができないいと高き神さまと人間の仲介、橋渡しをすることです。祭司の仕事には、2つの方向性があります。
  1. 人の代理として、人から神へのルートをつなぐこと……いけにえをささげることで罪の問題を解決し、人間が神さまに近づいて祈ったり賛美したりできるようにします。
  2. 神の代理として、神から人へのルートをつなぐこと……神さまのみこころを人に教えたり、祝福を祈ったりします。
この箇所で、メルキゼデクはこの2つの働きをしています。まず、彼はアブラハムに神さまからの祝福が注がれるよう祈りました。「アブラムに祝福あれ。いと高き神、天と地を造られた方より」(19節)。

次に神さまに向かって賛美の祈りをささげています。「いと高き神に誉れあれ。あなたの敵をあなたの手に渡された方に。」(20節)。神さまに祝福されるのはアブラハムなのですが、その感謝を込めた賛美の祈りを、メルキゼデクが代理としてささげているわけです。

これらは、メルキゼデクが祭司として行なったことです。

詩篇110:4

次にメルキゼデクが登場するのは、詩篇です。「【主】は誓われた。思い直されることはない。「あなたはメルキゼデクの例に倣いとこしえに祭司である」(詩篇110:4)。

ここで「あなた」と呼ばれているのは、やがて地上に現れると預言されていた救い主のことです。今から約2千年前に、一度救い主は登場しました。イエスさまです。そして、いつか必ずもう一度戻ってこられます。

救い主イエスさまは、「メルキゼデクの例に倣いとこしえに祭司である」と言われています。ここから3つのことが分かります。
  1. イエスさまは祭司としての働きをなさいます。
  2. その祭司の働きは永遠に続きます。
  3. そのことは、メルキゼデクに似ています。
祭司の働きは、神さまと人との架け橋になることだと申し上げました。イエスさまは今、私たちと天の神さまの架け橋、仲介者として働いてくださっています。私たちの罪が赦されて、神さまといつでも言い関係でいられるようにしてくださいます。そして、神さまの祝福がいつも私たちに注がれるようにしてくださいます。
救い主イエスさまが祭司であるということは、新約聖書でも教えられています。 「さて、私たちには、もろもろの天を通られた、神の子イエスという偉大な大祭司がおられるのですから、信仰の告白を堅く保とうではありませんか」(ヘブル4:14)。

救い主イエスさまは、神さまからの祝福が私たちに注がれたり、私たちの祈りや礼拝が神さまに届いたりするよう取り計らってくださる祭司です。その救い主イエスさまがメルキゼデクに似ているというのは、いったいどういうことでしょうか。その点について詳しく述べているのが、ヘブル人への手紙5〜7章です。

ヘブル5〜7章

ヘブル人の手紙には、メルキゼデクについてこう書かれています。「父もなく、母もなく、系図もなく、生涯の初めもなく、いのちの終わりもなく、神の子に似た者とされて、いつまでも祭司としてとどまっているのです」(ヘブル7:3)。

旧約聖書で「神の子」というと、天使のことを指します。両親もいないと言われているし、それではメルキゼデクは天使だったんでしょうか? いえいえ、そうではありません。

確かに聖書の中に、天使が人間の姿を取って地上に現れたという記事がいくつもありますが、彼らは一時的に神さまの働きをするだけです。地上にずっと留まって何かの職業に就いたということは一切ありません。メルキゼデクは王の仕事、祭司の仕事をしていましたから、天使ではありません。

メルキゼデクはただの人間です。両親もいたはずだし、系図もあったでしょう。当然、とうの昔に死んでいて、今も祭司として働いているなどということはありません。別に、ヘブル人への手紙の著者はそれを否定しているわけではないのです。

ただ、著者が注目したのは、メルキゼデクの両親についての情報や、系図が聖書に記されていないという点、そして死についても一切記されていないという点です。
ヘブル7:3が言いたいこと
ヘブル人への手紙の著者が言いたいのはこういうことです。
  1. 詩篇110:4は、救い主は永遠に祭司だと教えている。
  2. そして、その救い主はメルキゼデクのような祭司だと言われている。
  3. 聖書はメルキゼデクの出自についても、死についても何も書いていない。だから、ある意味メルキゼデクは永遠に生きていて、今も祭司職に留まり続けていると言える。
  4. そんな彼と似ていると言われている救い主イエスさまも、ほらやっぱり永遠に祭司なんだ。
現代人、特に日本人の我々にとっては、特に3番の部分でははてなマークが百個くらい浮かびそうです。屁理屈もいいところですね。

しかし、古代ユダヤ人の論理は我々の論理とは少し異なります。古代ユダヤ人は、AとBとを比較して、ほんの一部でも同じ部分があれば、AとBは同じだというふうに説明することをよくやっていました。あくまでも説明のためです。そして、当時の読者にとっては納得の説明方法だったわけです。

そのようにして、イエス・キリストの祭司職は、モーセの律法で定められた祭司職とは違うし、それどころか格が全然上だということを、ヘブル人への手紙の著者は読者に示そうとしています。
メルキゼデクは、イエス・キリストを指し示す
ヘブル人への手紙の作者がメルキゼデクを引き合いに出して強調したいことは、イエスさまの大祭司としての働きは、永遠に続くということです。

では、ここから私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

2.神とつながった者として生きていこう

神との交わりを楽しもう

先程紹介したヘブル4:14の続きを引用します。

「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか」(ヘブル4:15-16)。

天の大祭司であるイエスさまは、ご自分という完璧ないけにえをささげ、天の祭壇にご自分の血を注いでくださいました。それがあの十字架の死です。その結果、私たちの罪はすべて、完全に赦されました。
ですから、私たちはきよい神さまと交わることが可能になりました。私たちが罪深くて汚れているからといって、面会が拒絶されることは決してありません。

アブラハム・リンカーンが大統領時代、幼い彼の息子がいつも執務室を出入りして、父であるリンカーンと話をしていたという逸話があります。私たちもいつでも祈りを通して神さまの前に出て行くことができます。そして折りにかなった助けを祈り求めることができます。

ヘブル4:16には「大胆に恵みの御座に近づこう」と書かれています。自分は罪深くて不完全だからとか、そんなに立派な信仰者じゃないしとか、そんな遠慮をしないで神さまに祈りましょう。しかも大胆に。これ以上ないというくらい大きな願いをしましょう。神さまは、むしろそれを喜んでくださいます。

罪はすぐに悔い改めよう

今申し上げたとおり、イエスさまが貴い犠牲を払ってくださったことによって、私たちは神さまと交わることができるようになりました。

しかし、イエスさまを信じた後も、私たちは罪を犯してしまいますね。罪は神さまを無視して、自分勝手な生き方をすることです。私たちの側が罪を犯して、それを放置しているということは、私たちが神さまから顔を背け、差し出した手を下ろしてしまっているということです。

そうなると、神さまの側では、常に私たちに御顔を向け、私たちを温かく迎え入れて祝福を与えようと手を差し伸べてくださっているのに、その祝福が私たちに届きません。私たちの方が背を向けてしまっているからです。

自分が神さまの喜ばれないことを考えたり、実際に行なったりしてしまったと気づいたら、一刻も早く悔い改めて、神さまとの関係を回復しなければなりません。
祭司による関係回復
イスラエルにモーセの律法が与えられていた時代、ユダヤ人が罪を犯すと、祭司がいけにえをささげてその罪が赦されるよう祈ってくれました。また、年に1回、「贖罪の日」という祭りでは、大祭司が神殿の一番奥にある契約のはこのところに入り、そこにヤギの血を注ぎました。そのようにして、イスラエルの人々が1年間犯した罪が赦されるよう祈ったのです。

イエスさまは、大祭司として私たちの罪が赦されて、神さまとの関係が回復するよう取り計らってくださいます。しかも、それはイエスさまを信じたその時だけの話ではありません。その後、私たちが罪を犯すたびに、私たちが悔い改めたときにその罪をきよめてくださいます。

しかも、イエスさまはご自分をという完全な犠牲をささげてくださったので、律法の祭司のように何度も何度も犠牲をささげる必要がありません。私たちは、ただ自分の罪を神さまに告白するだけで、その罪は赦され、神さまとの関係が回復します。「もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます」(第1ヨハネ1:9)。
何度でも
さらにイエスさまは永遠に祭司ですから、途中で「もう祭司の仕事は辞めた。お前なんかもうどうなろうと知らん」とは決しておっしゃいません。何度同じ間違いを犯したとしても、それでも悔い改めて、神さまと仲直りしましょう。

しかも、1分1秒でも早く悔い改めましょう。そして、神さまからの祝福を受け取れる状態に戻りましょう。 神さまは、あの放蕩息子のたとえの父親のように、喜んで私たちを迎え入れくださいます。

私たちも祭司として行動しよう

聖書は、私たちもまた現代の祭司なのだと教えています。「あなたがた自身も生ける石として霊の家に築き上げられ、神に喜ばれる霊のいけにえをイエス・キリストを通して献げる、聖なる祭司となります」(第1ペテロ2:5)。

イエスさまが天の大祭司です。そして、私たちはその下で働く平祭司です。

祭司の務めは、神さまと人間の橋渡しをすることでしたね。ですから、私たちクリスチャン一人ひとりにも、神さまと他の人との橋渡しをする使命が与えられています。

どうやって? それはメルキゼデクがしたことに倣いましょう。
  1. 他の人のために祝福を祈りましょう。
  2. いつも神さまの偉大さをほめたたえ、それを他の人にも伝えましょう。
霊のいけにえをささげる
また、律法時代の祭司は動物のいけにえをささげましたが、イエスさまがすでに完全ないけにえをささげてくださっているので、私たちはそれを行なう必要がありません。

ペテロは先程紹介した箇所で、「神に喜ばれる霊のいけにえをささげる」と語っています。それは私たちの生き方、行動や言葉を神さまに喜ばれるものにするということです。それにより、他の人はまことの神さまを知り、神さまとの関係を回復するということに興味を持ち始めます。

また、言葉で神さまや、仲介者として犠牲を払ってくださったイエスさまについて語るということも大切です。

自分は現代の祭司としてどう行動したらいいか、いつも考えて実践しましょう。

まとめ

メルキゼデクに似た祭司であるイエスさまは、私たちと神さまとの間の架け橋となってくださいました。私たちはイエスさまによって神さまとつながったものとして、これからも生き生きと生きていきましょう。

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