(2022年4月24日)
ヨナタンはイスラエル初代の王サウルの王子で、ダビデの親友です。この記事では特によナタンの信仰に注目します。
礼拝メッセージ音声
参考資料
1節の「ペリシテ人」は、パレスチナの地中海沿岸に住んでいた民族です(そもそもパレスチナという名称は、ペリシテ人の地という意味です)。文明が進んでいて、鉄の武器や農機具を作る技術を持っていました。士師記の時代になると、イスラエルをたびたび攻撃して領土を奪っていました。
3節の「エポデ」は、亜麻布で作られた祭司用の服。
今回の場面は、当時の首都であったギブアの近くで、エルサレムの北東13キロにあったミクマスです(以下の地図には載っていません)。
イントロダクション
私たちクリスチャンが地上で幸せに、生き生きと、喜びや平安や勇気に満たされて生きていく秘訣は、神さまと仲良しであることです。全知全能の神さまと仲良しであるという確信が与えられていれば、たとえさまざまな問題に巻き込まれたとしても、平安や希望を失うことがありません。
そして、聖書には
「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません」(ヘブル11:6)と書かれています。神さまに喜ばれ、神さまと仲良しになるのに必要なものは信仰です。
今日は信仰のモデルとして、ヨナタンを取り上げます。ヨナタンはダビデの親友として有名な人物です。父であるサウル王がダビデを妬んで殺意を抱くと、ヨナタンはダビデをかばい、さらにはダビデが首都から脱出するのを助けてくれました。
聖書で友情にあふれた人物は誰かと問われれば、真っ先にヨナタンの名を挙げる人が多いでしょう。しかし、今日はそんなヨナタンの、信仰者としての面に注目してみましょう。
1.ヨナタンの信仰
ペリシテ人との戦い
まず、今回ご一緒に交読した聖書箇所の背景を説明します。
参考資料にも書きましたが、この当時、イスラエルの国はペリシテ人によって圧迫されていました。当初は、士師であるシャムガルやサムソンによってペリシテ人を撃退していましたが、鉄の武器と常備軍を持つペリシテ人は、次第にイスラエルを圧倒するようになっていました。
イスラエルの人々が王を求めたのは、ペリシテ人に対抗するためでした。こうして、サウルが初代の王となります。ヨナタンは、そのサウルの長男、皇太子です。
ミクマスの戦い
ヨナタンは非常に勇猛な人でした。ペリシテ人が占領していたゲバ(エルサレムの北東13キロ)を攻撃すると、そこを守っていた部隊の隊長を打ち倒しました(13:3)。
当然ペリシテ人たちは復讐心に燃えました。そして、大軍を率いてミクマスというところに布陣しました。その軍勢は、戦車3万台、騎兵6千人、そして数え切れないほどの兵士です。
ここを抜かれてしまうと、当時の首都であったギブアが攻撃されることになります。そこで、イスラエル軍も、谷を挟んだ反対側に布陣しました。
イスラエル軍の数は、サウルが率いる本隊が2千人、王子ヨナタンが率いる別働隊が千人、合計3千人でした。しかも、サウルとヨナタン以外は剣や槍を持っていません。鍬や斧や棒などの農機具や石などを武器代わりにしていたのでしょう。
そういうわけで、イスラエル兵は恐れをなして、次々と戦場を離脱してしまいました。最終的に残ったのはたったの600人です。これでは、まともに戦ったのでは勝負になりません。そこで、すっかり士気が落ちてしまったイスラエル軍は、戦いを避けて洞穴や岩陰に身を隠していました。
ヨナタンによる奇襲作戦
いつまでも軍勢を動かそうとしない父サウルにしびれを切らしたのでしょう。ヨナタンは従者である道具持ちの若者1人だけを連れて、こっそりと陣地を抜け出しました。そのとき、ヨナタンは道具持ちにこう語っています。
「さあ、この無割礼の者どもの先陣のところへ渡って行こう。おそらく、【主】がわれわれに味方してくださるだろう。多くの人によっても、少しの人によっても、【主】がお救いになるのを妨げるものは何もない」(6節)。
約束に基づく信仰
ヨナタンがたった2人でペリシテ軍の陣地を奇襲しようと考えたのは、脳みそが筋肉でできている猪突猛進の荒武者だったからではなく、神さまの約束に基づいています。
「もし、あなたがたがわたしの掟に従って歩み、わたしの命令を守り、それらを行うなら、…(中略)…また、わたしはその地に平和を与える。あなたがたはだれにも脅かされずに寝る。また、わたしは悪い獣をその国から除く。剣があなたがたの地を行き巡ることはない。あなたがたは敵を追い、彼らはあなたがたの前に剣で倒れる。あなたがたの五人は百人を追い、百人は一万人を追う。あなたがたの敵はあなたがたの前に剣によって倒れる」(レビ26:3,6-8)。
確かに、聖書の歴史をひもといてみれば、神さまの助けを得た人が、1人で、あるいはわずかな人数で敵の大軍を打ち破った例がいくつもあります。たとえば、
- 士師であるシャムガルは、1人で600人のペリシテ人を打ち倒しました(士師3:31)。
- 士師サムソンも1人で千人のペリシテ人を打ち倒しました(士師15:15)。
- 士師ギデオンが、たった300人のイスラエル兵と共に、十数万人ものミデヤン人の軍勢を打ち破った話も有名です(士師7-8章)。
みこころを求める態度
ヨナタンは、6節で「おそらく」と語っています。「神さまは絶対に自分の願ったとおりに行動するはずだ」と決めつけてはいないということです。神さまは人間の奴隷ではありません。そして、人間が計り知れない知恵をお持ちです。ですから、私たちがベストだと思ったのとは違う行動をなさるかもしれません。
そこで、ヨナタンは神さまのみこころを求めました。そして、断崖絶壁の上に陣地を構えているペリシテ人たちの下、すなわち崖の下に姿を現したとき、彼らが「俺たちがそちらに行く」と言えば2人だけで戦うのはみこころではなく、逆に「ここまで登ってこい」と言えばみこころだと道具持ちに言いました。
聖書で明言されていませんが、ヨナタンは事前に神さまに祈って、「このようにしてみこころを示してください」とお願いしていたのでしょう。
奇襲ではない奇襲
古今東西、少人数で大軍を打ち破るのに、奇襲作戦はよく用いられてきました。織田信長が今川義元を倒した桶狭間の戦いや、源義経が崖の上から馬で駆け下りて平家軍を打ち破った一ノ谷の戦いもそうですね。
ただし、奇襲ですから、事前に敵に気づかれては何にもなりません。ところが、ヨナタンはわざわざ敵の前に自分たちの姿をさらすと言いました。もしも神さまが味方についてくださるなら、たとえ敵に姿をさらしても、必ず攻撃を成功させてくださると信じていたからです。
こうして、ヨナタンと道具持ちは密かに渓谷を渡ってペリシテ軍の陣地の下まで移動すると、敵の前に姿を現しました。
すると、彼らを見つけたペリシテ軍の兵士が「ここまで上ってこい」と言いました。ペリシテ人たちは、現れたのがたった2人でしたから、なめてかかっていました。彼らは、まさか2人が本当にペリシテ軍の陣地まで上がってくるとは夢にも思っていませんでした。ただの偵察兵だと思っていて、脅せばいなくなると考えていたのでしょう。
ところが、これによってヨナタンたちは、神さまが勝利を与えてくださることを確信しました。2人は手足を使って崖を登り、ペリシテ軍の陣地に現れました。そして、不意を突かれた敵兵に襲いかかると、20人を打ち倒しました。油断したところを襲われたペリシテ兵たちは、パニック状態です。
そして、そのパニック状態はペリシテ全軍に拡大しました。大軍に襲撃されたと誤解したペリシテ兵たちは闇雲に武器を振り回し、味方を敵と勘違いして同士討ちを始めました。その様子に気づいたイスラエル軍本隊や、敵に寝返っていたイスラエル兵たちも攻撃に参加したため、ペリシテの大軍は敗走を始めました。
ちょっと残念な話
ここで本当なら、逃げるペリシテ軍を後ろから追撃して、さらにやっつけることができたはずです。ところが、サウル王が兵士たちに断食を無理強いしていたために、体力を無くしたイスラエル兵たちは満足な追撃を行なうことができませんでした。
ヨナタンは非常に信仰的な人でした。しかし、父であるサウルは、表面的には信仰的に振る舞いながら、実際には神さまに信頼して従う心を失っていました。そのため、13章では神さまと預言者サムエルに見放されてしまいました。戦いの最中に断食を命じるという間抜けなことを行なったのも、形だけ信仰的な振る舞いをして、神さまの助けを得ようとしたからです。
それでも、当面の危機を脱することができました。この勝利は、サウルが命じた形だけの断食のおかげではなく、ヨナタンと道具持ちの信仰がもたらしたものです。
ダビデこそ次の王であるという信仰
ヨナタンは大変な信仰者です。それは、ダビデを父サウルから守るときにも発揮されました。ヨナタンがダビデを助けたのは、ただ友情からだけではなく、神さまへの信仰からでもあります。
あるとき、ダビデはヨナタンの元を訪れて、彼の父サウルが自分を殺そうとしていると語りました。最初、ヨナタンはそれが信じられませんでした。かつて、サウルがダビデを恐れて殺そうとしたことがあるのは知っていましたが、その話はすでに解決済みのはずでした。
イスラエル軍がペリシテ軍に連戦連勝なのは、ダビデの活躍のおかげです。そんな勇者ダビデを殺すのは利敵行為に他ならず、サウル自身のためにもなりません。ヨナタンはそれを指摘して、ダビデを殺すなどという愚かな真似をやめるようサウルに訴えました。そして、それをサウルも受け入れたはずです。
ヨナタンとダビデの契約
しかし、ダビデのことも信じているヨナタンは、父の心を確かめると約束しました。そして、もしも本当に父がダビデを殺そうとしているのなら、必ずダビデを逃がしてやると約束しました。その際、ヨナタンはダビデにこう語っています。
「もし、私が生きながらえておれば、【主】の恵みを私に施してください。たとい、私が死ぬようなことがあっても、あなたの恵みをとこしえに私の家から断たないでください。【主】がダビデの敵を地の面からひとり残らず断ち滅ぼすときも」(20:14-15・新改訳第三版)。
このヨナタンの言葉は何を意味しているのでしょうか。
イスラエルの周りの国々では、しばしば王朝が変わりました。すると、新しく王になった人物は、前の王の一族をことごとく殺しました。反乱の芽を摘むためです。
ヨナタンは皇太子ですから、順当に行けば次の王になるはずです。そんなヨナタンに、ダビデがヨナタンや彼の家に恵みを施すというのは、ヨナタンは次の王が自分ではなくダビデだと信じていたということを表しています。そして、たとえダビデが王になったとしても、外国のように、ヨナタンやその一族を皆殺しにするなどということをしないでくれと願っているのです。
神さまはサウルを見捨てて、新たにダビデを王として選んでいらっしゃいます。ダビデには、クーデターを起こして王位を奪う野心は毛ほどもありませんでしたが、いつか必ずダビデが王になるとヨナタンは信じていました。
ヨナタンはサウルの手からダビデを守り、ダビデは王になってもヨナタンやその家族に恵みを施す。このとき2人は、そういう契約を固く結びました。
ダビデを逃がすヨナタン
この後、さっそくサウルの心を確かめようとしたヨナタンに、サウルは怒って言いました。
「エッサイの子がこの地上に生きているかぎり、おまえも、おまえの王位も確立されないのだ」(20:31)。
つまり、ダビデを生かしておいたら、ダビデが王位を奪ってしまい、ヨナタンは次の王になれなくなるかもしれないということです。そして、新しい王であるダビデに、お前も殺されてしまうのだぞと。
しかし、ヨナタンは自分が王になることよりも、ダビデを守ることの方を選びました。それが神さまのみこころに従うことだと知っていたためです。そこで、ヨナタンはサウルをいさめました。
すると、怒りに我を忘れたサウルは、我が子ヨナタンに向かって槍を投げつけてきました。それによって、父が本気でダビデを亡き者にしようとしていると悟ったヨナタンは、翌朝約束通りダビデにそのことを伝え、逃がしてやりました。
ヨナタンの最期
その後、イスラエルとペリシテとの間に大きな戦いがありました。連戦連勝の将軍だったダビデがいなくなったため、イスラエルは戦いに負けてしまいます。そして、父サウルと2人の弟たちと共に、ヨナタンも敵に討ち取られてしまいました。
サウルは、ダビデを殺そうとするのは、次の王になるはずのヨナタンのためだという言い方をしましたが、ダビデを殺そうとした結果、自分だけでなくヨナタンや他の王子たちも死なせてしまいました。皮肉なことです。
ヨナタンは信仰深く、人にも神さまにも誠実な義人でした。しかし、信仰者だからといってまったく苦しみに遭わないわけではありません。彼は戦死してしまいました。それでもヨナタンの信仰深さは聖書に記録されて、こうして後の時代までもたたえられています。神さまもヨナタンの信仰を高く評価しておられて、必ずそれにふさわしい報いを与えてくださるはずです。
皆さんは、やがてイエスさまが再臨なさることをご存じだと思います。イエスさまがもう一度地上に帰ってこられると、地上から悪を一掃して、理想的な王国を造られます。神の国、天の御国、あるいは千年王国と呼ばれる王国です。
千年王国の大王はイエスさまで、全世界を統治なさいます。そして、世界各国には王が置かれますが、イスラエルを任されるのは復活したダビデです。これは私の勝手な想像ですが、きっとそうなったときには、ダビデの傍らにはヨナタンがいてサポートするのだろうなあと思っています。
また、彼が信仰に従ってダビデと契約を結んだおかげで、彼の息子であるメフィボシェテという人は、王となったダビデに引き取られて王宮で生活することができるようになります。このメフィボシェテについては、いずれ取り上げる予定です。
では、ヨナタンの信仰から、私たちは何を学ぶことができるでしょうか。
2.ヨナタンから学ぶ信仰
神の約束を信じる信仰
ヨナタンは、聖書に記されている神さまの約束を信じて、たった2人でペリシテの大軍に戦いを挑みました。そして、大勝利を得ました。
神さまは、私たちにも聖書を通してさまざまな約束を与えてくださっています。それを探し出して信じましょう。そして、神さまの約束に基づいて行動しましょう。
この話をお読みください。
ペサニー・ハミルトンという13歳の少女は、サーフィンが得意でした。様々な大会で優勝し、若いながらスポンサーもついてプロサーファーへの道を着々と進んでいました。ところが、2003年10月末、サーフィンをしているときに鮫に襲われ、左の腕をすべて失ってしまいます。腕を失えばボードの上でバランスを取るのが格段に難しくなります。ですからペサニーさんは、プロへの道はこれで閉ざされたと感じて深く悲しみました。
そんなとき、通っていた教会の教会学校の先生が、聖書を開いて彼女を励ましました。「わたし自身、あなたがたのために立てている計画をよく知っている──【主】のことば──。それはわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ」(エレミヤ29:11)。
神さまの計画はどこにあるのかと絶望しかけていたペサニーさんは、この聖書の言葉を通して、神さまが「腕を失ったあなただからこそできることがある」と語っておられると感じました。そして、「自分が事故に遭ったのは、本当の幸せを与えるための計画を一人ひとりに用意してくださっている神さまのことを他の人に伝え、救い主イエスさまを信じて天国に行ける手伝いができるようになるためかも知れない」と考えました。そして、実際に自分の体験を他の人たちに語り始めたのです。
それだけではありません。神さまが一人ひとりに良い計画をお持ちだということを証明するために、彼女は退院後1ヶ月たらずでサーフィンを再開し、4ヶ月後には大会に出場、そして 2年後の2005年にはアマチュア最高峰のリーグで年間チャンピオンに輝きます。そして見事プロサーファーになります。
ペサニーさんの驚くべき体験に注目したディズニーが、2011年に「ソウル・サーファー」という映画を作りました。ご覧になった方もいらっしゃるかも知れません。
神さまの計画は、私たちには計り知れません。神がいるならどうしてこんなことが起こるのかと反発したくなるような出来事に遭うことがあります。それでも、神さまはあなたを愛しておられ、あなたを本当の幸せに導き、またあなたを通してすばらしいことを行なおうと決めておられます。
ペサニーさんのように、そしてヨナタンのように、神さまの約束を見つけ出して、それを信じましょう。
自分の利益より神の計画を優先する信仰
ヨナタンは、自分が次の王になるという自分の利益よりも、神さまのご計画を優先してダビデを助けました。
イエスさまの福音を信じた私たちは、神さまの子どもとされました。ですから、自分の願いを何でも遠慮無く神さまに向かって祈ることができます。むしろ遠慮なんかする方が、神さまを悲しませるでしょう。
しかし、神さまのご計画、神さまのみこころ、神さまの命令と、私たちの願いや計画とがぶつかってしまうことがあります。神さまはこうして欲しいとおっしゃるけれど、自分としてはこちらの方をしたいというふうに。そういう場合には、神さまのみこころの方を優先させなければなりません。
これまで、月面を歩いた人はわずか12名だそうです。そのなかの最年少者は、アポロ16号のチャールズ・デュークさん、1972年当時36歳です。月から戻った後、チャールズさんはクリスチャンになりますが、彼を信仰に導いたのは奥さんのドッティさんでした。
この話をお読みください。
前回、月を歩いたアポロ16号の宇宙飛行士、チャールズ・デュークさんの話をしました。今回は、彼を信仰に導いた妻のドッティさんの話です。
二人は、結婚式の時に、「あなたを第一にします」と誓いました。しかし、実際に結婚生活が始まってみると、チャールズさんの一番は仕事だということにドッティさんは気づきます。そして、あの手この手で自分の方を振り向かせようとしますが、ことごとく失敗しました。
夫が月から帰ってくれば、きっと自分の方を向いてくれるという希望も打ち砕かれ、ドッティさんは絶望します。離婚も考えましたが、誰も自分のことなんか愛してくれないのではないかと思い、一歩を踏み出すことができません。結婚が自分を満足させてくれないのなら、一体何が自分を満足させてくれるのだろうか。ドッティさんは、パーティに出てみたり、ボランティア活動をしたり、哲学書を読みあさったりしましたが、どこにも答えがありません。
教会には小さいときから通っていましたが、イエスさまとの個人的な関係はありませんでした。しかし、ある人々の証しを聞いて、「イエスさま、もしあなたがいらっしゃるのなら、私はあなたに人生をささげます」と祈りました。すると、翌朝目を覚ますと、神さまが確かに存在しておられるという思いが心に芽生えていることに気づきました。そして、それから祈りが次々をかなえられる経験をし、ドッティさんはイエスさまが今も生きておられるということを確信しました。
そんなある日、ドッティさんは、祈りの中でイエスさまの語りかけを聞きました。「あなたの罪はすべて私が赦し、古いあなたは死にました。そして、あなたは新しく生まれ、私と共に生きているのです」。そしてイエスさまはさらにおっしゃいました。「だから、あなたも夫を赦しなさい」。
自分が悪いとも思っていない夫を赦すことに、最初ドッティさんは抵抗しましたが、ついに赦すことに同意しました。すると、聖霊さまが少しずつドッティさんの心に、夫を赦し、愛する感情を与えてくださいました。すっかり夫を赦せる気持ちになるまでに、2ヶ月かかったそうですが、神さまは確実にドッティさんを変えてくださいました。そんな妻の変化を見て、チャールズさんもイエスさまを信じたいという気持ちになったというのは、先週お話ししたとおりです。
神さまの存在が分らないという方。それでも神さまに向かって祈ってみましょう。「あなたがいらっしゃるのなら、どうか答えてください」と。必ず、神さまはあなたに分るように答えてくださいます。
私たちも、自分の思いと神さまの思いが対立したときには、神さまの思いの方を優先させましょう。ドッティさんやヨナタンのように。
苦しみの中にも神の愛を認める信仰
ヨナタンは信仰深い人であり、誰にでも誠実で戦いに長けていたため国民の人気が高い王子でした。しかし、父サウルが神さまから離れてしまい、さまざまな愚かな行動を繰り返した影響を受けて、最後は戦死してしまいました。
しかし、それは神さまがヨナタンを憎んで見捨てたということではありません。苦しみに遭うということは、神さまの愛を失ったということとイコールではありません。ダビデも、サウルから何度も命を狙われ、ヨナタンのおかげで首都を脱出してからも、長く放浪生活を続けました。それでも神さまはダビデを守り続け、必ず王にするという約束を果たされました。
私たちは、苦しみに遭ったときにも、神さまの愛は変わらないということを信じ続けなければなりません。
この話をお読みください。
コーリー・テン・ブームさんとその家族(父と姉)は、第二次世界大戦中、オランダでたくさんのユダヤ人をナチスの手からかくまっていました。しかし、やがてナチスによってブーム一家は逮捕され、強制収容所に送られ、ひどい虐待を受けました。結局、父も姉も収容所の中で亡くなります。それらの様子は、自伝「わたしの隠れ家」で紹介されています。
ある時は、服を全部はぎ取られ、裸で寒い屋外に立たせられました。女性にとって、それは惨めで耐え難い屈辱ですが、それを7度も経験しました。あまりの惨めさと寒さで、コーリーさんは、そばにいたお姉さんに「もうこんなこと、耐えられない」とつぶやきました。
するとそのとき、突然、十字架にかかったイエスさまのイメージが脳裏に浮かびました。イエスさまは、ローマ兵に着物をはぎ取られ、裸で十字架につけられていました。イエスさまが、自分と同じ苦しみを味わってくださったということを知ったとき、コーリーさんの心に、言いようもない喜びがわき上がってきました。
その後も、イエスさまはコーリーさんやお姉さんと、いつも一緒にいてくださり、彼らがイエスさまに語りかけると、不思議な声が答えるのを確かに聴くことができました。地獄のような苦しみの中で、まるで天国にいるかのような喜びを味わわせてくださったのです。
子どもの頃、コーリーさんはお父さんにこう言いました。「お父さん。私、イエスさまのために死ねるかどうか、心配なの。そんなに強くなれないんじゃないかしら」。すると、お父さんはこう答えました。「コーリー。お前が汽車で旅行することになったとしよう。お父さんはお前にいつ旅費を渡せばいいかな。3週間前かい?」「ううん。出発する時」「神さまも同じだよ。今日、イエスさまのために、試練に耐える力がなくてもいいんだ。実際に試練にあって、その力が必要になったら、ちゃんと神さまはお前にその力を下さるから、心配しなくていいんだよ」。
そして、イエスさまは、お父さんの言ったとおり、収容所の地獄のような苦しみの中で、その苦しみに耐える力を与えてくださいました。それどころか、天国の喜びまでも体験させてくださいました。まさに、「義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人のものだからです」(マタイ5:10)と書かれているとおりです。
ここぞと言うとき、イエスさまはあなたにも、ちゃんと力を与えてくださいます。
コーリーさんのこの体験は、ベストセラーになった自伝を通して、苦しみのまっただ中にある多くのクリスチャンを励ましてきました。たとえ苦しみに遭うとしても、それでも神さまは皆さんのことを愛していらっしゃいます。そして、その苦しみを通してすばらしいことをしてくださいます。それを信じましょう。
まとめ
今回は、ヨナタンの信仰に注目しました。私たちもヨナタンに倣って、
- 神さまの約束を信じましょう。
- 自分の利益よりも神さまのみこころの方を優先させましょう。
- 苦しみのまっただ中に、神さまの愛を見いだしましょう。