(2022年5月15日)
ナアマンは旧約聖書に登場するアラム(シリア)の将軍で、預言者エリシャによってツァラアトという特別な皮膚病をいやされました。
礼拝メッセージ音声
参考資料
1節の「アラム」は今のシリアの一部で、首都はダマスカス。当時の王はベン・ハダド2世(在位:前860-843)。
1節のツァラアトは悪性の皮膚病の一種で、モーセの律法には2章に渡って取り扱いについて定められています(レビ13-14章)。以前はハンセン氏病(らい病)と混同されていましたが、今は別の病気だと判明しています。
5節の「タラント」と「シェケル」は重さの単位で、1タラント=約30kg、1シェケル=約10g。
6節の「イスラエルの王」は、北王国のヨラム(在位:前852-841)。アハブとイゼベルの次男で、アハブの跡を継いだ兄アハズヤが子を残さないまま死んだので、王になりました。
今回のできごとは、時系列的には6:1〜8:6より後のできごとかもしれません。
イントロダクション
今日は、ナアマンという人物を取り上げます。これまでのメッセージの記録を振り返ってみると、ナアマンについて触れたことは何度もありますが、意外なことに主役として取り上げたことはありませんでした。
ナアマンはユダヤ人ではなくアラム人、すなわち異邦人(外国人)です。そんなナアマンが預言者エリシャによって、ツァラアトという難しい皮膚病をいやしてもらいました。そして、それによってユダヤ人が信じる神さま、聖書の神さまを信じるようになりました。
今日は彼から、祝福の源である神さまとの関係を深めるために必要な態度を教わりましょう。
1.ナアマンのいやし
問題
ナアマンはアラムの国の司令長官でした。
イスラエルの北王国と、アラムはしばしば戦いを交えていました。時の王ベン・ハダド2世は、北王国の王ヨラムの父アハブの時代に、何度か侵略を企てたことがあります。神さまの守りによって、いずれもアラム軍は大敗北を経験して侵略は失敗しますが、北王国でもアハブ王が戦死してしまいました。詳しくは
アハブ王について語ったメッセージをお読みください。
今回の箇所で、
「アラムはかつて略奪に出たとき、イスラエルの地から一人の若い娘を捕らえて来ていた。彼女はナアマンの妻に仕えていた」(2節)と書かれています。これは、アハブ時代にアラムが攻めてきたときの話だと考えられます。
ナアマンは軍人としての実力があり、国の中で高い地位を与えられ、さらに王に深く信頼されていました。まさに順風満帆の人生に思えます。しかし、彼は大きな問題を抱えていました。ツァラアトという重い皮膚病にかかっていたのです。
ユダヤ人少女の勧め
先程申し上げたとおり、ナアマンの家には戦いの際にさらってきた少女が奴隷として仕えていました。彼女はナアマンがツァラアトにかかっていることを知ると、ナアマンの妻に向かってこう言いました。
「もし、ご主人様がサマリアにいる預言者のところに行かれたら、きっと、その方がご主人様のツァラアトを治してくださるでしょう」(3節)。
よく考えれば、これは驚くべきことではないでしょうか。自分たちの国を侵略して、自分を奴隷にした軍人のことを、この少女は心から心配し、何とかして差し上げたいと願ってこのような話をしています。きっとナアマンが奴隷たちにも優しく接する良い主人であり、少女が彼のことを敬愛していたからでしょう。ナアマンが人格的にもすばらしい人物だったということが分かるエピソードです。
王の手紙
アラム王ベン・ハダド2世も、ナアマンが北王国に赴いてツァラアトをいやしてもらうという話を聞いて、快く許可を与えました。そして、北王国の王ヨラムに対する紹介状を出してやりました。
「この手紙があなたに届きましたら、家臣のナアマンをあなたのところに送りましたので、彼のツァラアトを治してくださいますように」(6節)。
こんなことが可能なのは、アラムと北王国の間の争いが収まっていた証拠です。先に申し上げたとおり、アハブ王の時代にはアラムと北王国は争っていました。が、アハブが死んだ後、両国は目立った争いを控えていたようです。何しろアラムは何度も大打撃を受けましたし、北王国にも積極的にアラムに戦いを仕掛ける力はありません。
こうして、ナアマンは北王国の首都サマリヤに赴きました。
イスラエル訪問
アラム王ベン・ハダド2世からの手紙を読んだ北王国のヨラム王は、非常に恐れを感じました。
手紙には「ナアマンのツァラアトを治してください」と書かれています。もちろんこれは、ヨラムの口利きで、偉大な預言者をナアマンに紹介し、その預言者が病気をいやしてくれるよう万事取り計らってくれという意味です。
自分の家に仕えるユダヤ人の少女の言葉を聞いていたナアマンも、ヨラム王にいやしてもらおうなどとは毛ほども思っていません。
しかし、ヨラムは父アハブほどではありませんが不信仰な王でした。彼は自分がナアマンの病気をいやすよう求められていると勘違いしてしまいました。そして、これはまたもや北王国に攻め込むための言いがかりをつけるつもりだと考えたのです。その結果恐れを感じ、自分の衣を引き裂きました。これは、ユダヤ人が怒りや絶望や悲しみなどマイナスの感情を抱いたときによく行う行動です。
エリシャからの伝言
すると、それを聞きつけた預言者エリシャが、王宮に使いを遣わして言いました。
「あなたはどうして衣を引き裂いたりなさるのですか。その男を私のところによこしてください。そうすれば、彼はイスラエルに預言者がいることを知るでしょう」(8節)。
これは、ヨラムに対する皮肉でもあると思います。ナアマンだけでなく、ヨラムもまたイスラエルに預言者がいることを知ることになるでしょう。
いやし
さて、こうしてナアマンは預言者エリシャの元にやってきました。すると、エリシャはナアマンがあらかじめ予想していたのとは違う対応をしました。
- ナアマンは、エリシャが自ら迎えに出てくると思っていました。しかし、実際には使いを遣わしただけでした。
- ナアマンは、エリシャが自分の信じる神の名を呼びながら、ツァラアトの患部の上に手をかざして揺り動かし、そうやっていやしてくれるものと思っていました。しかし、エリシャは「ヨルダン川で7回その身を洗いなさい」と言っただけでした。
帰ろうとするナアマンと止めるしもべ
エリシャの行ないは、一国の重臣に対してあまりにも失礼な態度に思えます。しかも、川で体を洗うだけで治るなら、わざわざ外国まで来た甲斐がありません。ナアマンは非常に怒って帰国しようとしました。
しかし、しもべたちがそれを止めました。彼らは言いました。
「わが父よ。難しいことを、あの預言者があなたに命じたのでしたら、あなたはきっとそれをなさったのではありませんか。あの人は『身を洗ってきよくなりなさい』と言っただけではありませんか」(13節)。
難しいこと、たとえば40日間断食しろとか、3カ月間たった一人で荒野で祈りをささげ続けろとか言われたら、きっとやっていたはず。それなのに簡単だからという理由でやらないのはおかしくありませんか、ということです。そして、難しくないのだから、やってみてはいかがですかと勧めています。
イスラエルの少女といい、このしもべたちといい、ナアマンはしもべたちに恵まれていますね。
そして、ナアマンもまたその言葉を素直に受け入れました。元々ナアマンは、間違いに気づいたらすぐに修正する謙遜な人でした。そういう主人だからこそ、しもべたちも有益なアドバイスをしてくれたのです。間違いを指摘すると怒り狂うような主人なら、しもべたちは恐ろしくて何も言えなかったはずです。
ツァラアトのいやし
ナアマンは、エリシャが語ったとおりに実行しました。この場合のエリシャの言葉は、神さまからの言葉です。そして、7回ヨルダン川に体を浸して洗うと、ツァラアトでボロボロだった皮膚は、子どもの肌のようにつやや張りを取り戻しました。
新しい人生
喜んだナアマンは、エリシャに贈り物を渡そうとします。5節によれば、それは銀が300kg、金が60kg、晴れ着が10着でした。大変高額の贈り物ですね。しかし、エリシャはそれを断りました。
そこで、ナアマンは2つのことをエリシャに願いました。エリシャに向かって語っていますが、実際には神さまに向かっての願いです。
第1の願いは、イスラエルの土をラバ2頭に乗せられるだけ持ち帰らせて欲しいということです。ナアマンはそれでイスラエルの神さま、聖書の神さまにいけにえをささげる祭壇を作ると言いました。これまでのナアマンは異教の神々を礼拝していましたが、これからは聖書の神さまのみを礼拝するというのです。
ただ、別にアラムの土で祭壇を作っても問題ないはずです。神さまがご覧になるのはその人の信仰だからです。それでも、自分はアラムの神々ではなくイスラエルの人々から学んだ神を礼拝しているのだということを忘れないために、イスラエルの土を求めたのでしょうね。
第2の願いは、王と共に異教の神殿に行く際の行動についてです。彼は言いました。
「どうか、【主】が次のことについてしもべをお赦しくださいますように。私の主君がリンモンの神殿に入って、そこでひれ伏すために私の手を頼みにします。それで私もリンモンの神殿でひれ伏します。私がリンモンの神殿でひれ伏すとき、どうか、【主】がこのことについてしもべをお赦しくださいますように」(18節)。
形としては異教の神の前でひれ伏しているように見えます。しかし、自分の心はいつも聖書の神さまにあって、異教の神への礼拝のためにそのような格好をするのではありません。だから、王への忠誠のためのそのような行動を赦して欲しいと、ナアマンは願っているのです。
しかし、形だけでも異教の神の前でひれ伏すというような真似はすべきではないのではないでしょうか? 預言者ダニエルの3人の友だちは、王が建てた金の像を拝むよう命ぜられても拒否して、燃えさかる炉の中に投げ込まれてしまいましたね。
ところが、エリシャは言いました。これは神さまからの言葉でもあります。
「安心して行きなさい」(19節)。外国に祭壇を築くことについても、王の礼拝に付き添うことについても、神さまはナアマンをとがめませんでした。
こうしてナアマンは帰国の途につきました。先程は激しい怒りを感じながら帰ろうとしましたが、このたびは体のいやしと魂の救いを得て、大きな喜びに満たされていました。
それでは、ここから私たちは何を学ぶことができるでしょうか。
2.神の祝福を体験するには
神の方法を採用すること
ナアマンは、どのようにしていやされるかということについて、彼なりのイメージを持っていました。しかし、エリシャがそのイメージ通りに行動してくれなかったため、当初は頭にきて去って行こうとしました。
ナアマンの素晴らしいところは、しもべたちに彼の態度の過ちを指摘されたとき、すぐに方向転換をしたことです。
神さまには神さまの方法があります。私たちのイメージを神さまに押しつけるのではなく、神さまの方法を採用する必要があります。
たとえば、私たちが救われるための方法は、恵みの福音を信じるだけです。すなわち、「この私の罪を赦すためにイエスさまは十字架にかかり、死んで葬られたけれども、3日目に復活なさった」ということを真実だと信じ受け入れることです(第1コリント15:1-8参照)。
しかし、人によってはそれでは物足りなく感じてしまいます。一定額の献金をするとか、一定期間礼拝に通うとか、厳しい修行をするとか、そうしたら救われるという方が分かりやすいのです。
しかし、祝福をくださるのは神さまですから、神さまが決めておられる方法に従う必要があります。そして、神さまの方法は聖書を通して学ぶことができます。
この話をお読みください。
ビクトール・フランクル(1905-1997)は、ロゴセラピーという精神療法を開発した精神科医です。ロゴセラピーの理念の一つは、「私たちはどんな状況に置かれたとしても、それに対する自分の反応を決定する自由があり、それは自分以外の何者によっても奪い去られることはない」というものです。
彼は、それを自分の体験として証明してみせました。フランクルはユダヤ人です。そして、ナチスによって、妻子も両親も殺されてしまいます。フランクル自身も収容所に送られ、持ち物を全部取り上げられ、素っ裸にされ、そして結婚指輪でさえも取り上げられました。
そのとき彼は、心の中でこうつぶやきました。「あなたたちは私から妻を奪い、子どもたちを奪うことができるかもしれない。私から服を取り上げ、体の自由を奪うこともできるだろう。しかし、私の身の上に降りかかってくることに対して、私がどう反応するかを決める自由は、誰も私から取り除くことはできないのだ」。
フランクルは、非人間的な扱いを受ける収容所の中で、なお人間としての誇り、神の民としての誇りを失わず、また生きる希望を保ち続けました。そうすることを選んだのです。そして、彼よりもはるかに体力のある人たちが次々と死んでいく中で、彼は生き延びました。彼と同じように、希望を持ち続けることを選んだ人たちも、また生き延びることができました。その中には、いかにもひ弱で、この過酷な環境では真っ先に死んでしまうだろうと思われた人もいました。
フランクルはこう語っています。
「私たちが『生きる意味があるか』と問うのは、はじめから誤っているのです。つまり、私たちは、生きる意味を問うてはならないのです。人生こそが問いを出し私たちに問いを提起しているからです。私たちは間われている存在なのです。私たちは、人生がたえずそのときそのときに出す問い、『人生の問い』に答えなければならない、答を出さなければならない存在なのです。生きること自体、問われていることにほかなりません。私たちが生きていくことは答えることにほかなりません。そしてそれは、生きていることに責任を担うことです。こう考えるとまた、おそれるものはもうなにもありません。どのような未来もこわくはありません」
(「それでも人生にイエスという」より)。
どんな状況の中にあっても、私たちは幸せか不幸せかを自分で決めることができる、ということですね。
聖書の神さまは、国が滅び、外国に奴隷として連れ去られた人々に向かって、預言者エレミヤを通してこう語られました。「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。――主の御告げ。――それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ」(エレミヤ29:11)。
エレミヤの預言をフランクル風に言い換えれば、こうなります。「神さまはあなたを幸せにするとおっしゃいました。あなたが神さまに、『あなたは私を幸せにする気があるのか、ないのか?』と問うのは間違いです。神さまの方があなたに問うておられるのです。『あなたは私を信頼するのか、信頼しないのか?』と」。
私たちは、どんな状況でも幸せになることができます。それは、私たちの決断一つです。
すなわち、神さまの約束を信じるということですね。皆さんは、祝福を受けるための方法を、勝手に神さまに押しつけてこられませんでしたか? 聖書が教えている方法を採用しましょう。
一方的な恵みを受けること
いやしを体験したナアマンは、エリシャに対して多くの贈り物をしようとしました。しかし、エリシャは頑として受け取ってくれませんでした。神さまの祝福は、何かと引き換えてに与えられるものではなく、一方的な恵み、すなわちプレゼントとして与えられるものだからです。
もっとも、神さまがしてくださったことへの喜びから、あとで感謝の献金をするなどということはクリスチャンも行うことがあります。しかし、それはあくまでも感謝を表すための行動であって、祝福に対する代価ではありません。エリシャが贈り物を受け取ろうとしなかったのは、祝福は報酬でも取引でもなく、恵みなのだということをナアマンに教えたかったからでしょう。
私たちクリスチャンが良い行ないをするのは、そうすれば祝福されるからではありません。まず神さまが私たちを愛し、祝福してくださったことへの喜びが原動力です。
この話をお読みください。
大正元年から浅草合羽橋商店街で営業している、料理道具専門店「飯田屋」は、使い勝手のよい道具がそろっているということで多くの顧客の心をつかみ、さまざまなメディアでも取り上げられています。昨日、6代目社長の飯田結太さんが取材されたテレビ番組を観ました(テレビ朝日系列「週刊ニュースリーダー」)。
今でこそ超人気店ですが、飯田さんが社長になってすぐの頃は、いろいろな問題がありました。まず、リーマンショックの影響で遠のいた客足を戻そうとして、周辺で最も安い商品を提供するようにしました。すると、質が下がったことでかえって常連客まで失ってしまいました。そこで、本当に使い勝手のよい商品を並べるようにして、顧客の信頼を取り戻し始めたのですが、今度は従業員がほとんど一斉に辞めてしまいました。
その原因は、飯田さんが数字至上主義で、従業員にもっと売上を上げるようかなり強い圧力を加えていたからだそうです。つまり、道具にこだわるようになった代わりに、今度は従業員まで道具にしてしまっていたからです。
ここで飯田さんはさらに方向転換します。営業の数値目標を撤廃し、「売るな」をモットーにしたのです。売上のノルマがあると、どうしてもそのお客さまに必要のない道具を売り込みたくなります。それではお客さまのためにならないし、従業員も働いて楽しくありません。
その後どうなったかと言えば、わずかに残ってくれた従業員たちが喜んで働くようになり、また顧客の信頼も得て、「売るな」をモットーとする前の4倍の売上が出るようになったのです。
カルトは「それを実行しないと神にさばかれる」と信徒を脅して、献金させたり、奉仕させたり、伝道させたりします。しかし、イエスさまは私たちを無条件で愛し、赦し、祝福された神さまの子どもにしてくださいました。その感動と喜びが、私たちクリスチャンの原動力です。恐怖や不安や罪責感や羞恥心ではありません。
イエスさまを通して示されている神さまの恵みに、いつも感動していたいですね。
さらなる高みを目指すこと
ナアマンは神さまに2つのことを願いました。一つはイスラエルの土で祭壇を築くこと。もう一つは、王と一緒に異教の神殿に入ったときに、王と共に偶像の前でひれ伏す形になることを赦して欲しいということです。もちろん、偶像を礼拝するつもりはさらさら無く、自分はまことの神さまのみを礼拝するとナアマンは言いました。
それに対して神さまはナアマンに、もっと高度な信仰生活を要求することもできました。たとえば、
- アラムに祭壇を築くのではなく、モーセの律法に従って毎年過越の祭り・七週の祭り・仮庵の祭りのときにエルサレムにある神殿に行って、そこでささげものをしなさいとか、
- アラムの王に「もう自分はあなたと一緒に異教の神殿でひれ伏すことをしません」と宣言しなさいとか。
しかし、神さまはエリシャを通して、「安心して行きなさい」と言って、許可を与えています。それは今後のナアマンの成長を期待していらっしゃるからです。
到達したところを基準に
私が人生の土台石の一つにしているみことばがあります。パウロはピリピ教会の人たちにこう語りました。
「兄弟たち。私は、自分がすでに捕らえたなどと考えてはいません。ただ一つのこと、すなわち、うしろのものを忘れ、前のものに向かって身を伸ばし、キリスト・イエスにあって神が上に召してくださるという、その賞をいただくために、目標を目指して走っているのです」(ピリピ3:13-14)。
よりきよい信仰生活、より熱心な信仰生活、より聖書の教えに基づいた信仰生活を目指してがんばっていこうということです。しかし、その直後にこうも語っています。
「ただし、私たちは到達したところを基準にして進むべきです」(ピリピ3:16)。
今の自分が30点ならば、70点や80点の他の人を見て落ち込むのではなく、30点取れたという現状を受け入れて喜び、31点になるために今必要な努力をしなさいという意味です。
神さまはナアマンの現在の状態を批判せずに受け入れてくださいました。将来はともかく、あの時点でのナアマンのことを神さまは喜んで受け入れ、将来を期待してアラムに送り返してくださいました。
赤ちゃんが初めて立ち上がったとき、親や祖父母はこれでもかというくらいに大喜びし、その子をほめたたえますね。しかし、同時にこれからこの子がよちよち歩きを始め、やがてスタスタ歩き、さらに元気に走り回れるようになることを期待しています。
私たちに対する神さまの態度も同じです。信仰の世界は上を見ればきりがありません。さりとて、「お前はそんな程度の存在だから、別に期待していない」ともおっしゃいません。「今のあなたはすばらしい。だからもっとすばらしくなれる」と私たちを励ましてくださっています。
ですから、私たちも私たち自身に対して、そして他の人たちに対して、同じような態度を取りましょう。
今のあなたの信仰生活は何点ですか? それが何点であれ、神さまの守りと導きの中でそこまで到達できたことを感謝しましょう。そして、プラス1点になるために必要な行動や態度は何だと思いますか? 祈りながらそれを実践しましょう。
まとめ
ナアマンのように、自分のイメージではなく神さまの方法を優先させましょう。また、祝福は恵みだということを学びましょう。そして、現状を受け入れた上でさらなる高みを目指していきましょう。