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礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

四人のツァラアト患者

助演男優シリーズ12

第2列王記7章3節〜11節

(2022年5月22日)

四人のツァラアト患者は第2列王記に登場し、サマリア軍に包囲されたサマリアの町の人々を餓死から救いました。

礼拝メッセージ音声

参考資料

3節のツァラアトは悪性の皮膚病で、モーセの律法でその取り扱いが特別に定められています(レビ13-14章)。なお、家の壁・織物・編み物・革製品にできるツァラアトもあって、こちらは一種のカビだと思われます。

4節に「食糧難」とありますが、これは元々北王国が飢饉に見舞われていた上に、アラムが攻めてきて首都サマリアを包囲したからです(6:24-25)。

5節の「アラム」は今のシリアの一部で、ベン・ハダド2世(在位:前860-843)が王として治めていました。

6節の「ヒッタイト」は、今のトルコの東部地域。

11節の「王」は、北王国のヨラム(在位:前852-841)。

前回取り上げたナアマンのエピソード(5章)は、時系列的には6:1〜8:6より後のできごとかもしれません。

イントロダクション

今日取り上げるのは、ツァラートという皮膚の病気にかかった四人の人です。彼らは良い知らせを町の人々に届けるという働きをしました。今回私たちは彼らを通して、私たちにとっての良い知らせとは何か、どうして知らせるのか、そしてどのように知らせるのかを学びましょう。

1.良い知らせ

飢饉と戦争

まず、今回の話の時代背景を解説しておきます。前回と同じく預言者エリシャの時代です。 前回はアラムの将軍ナアマンのエピソードを取り上げました。参考資料にも書きましたが、今回のできごとは前回取り上げたナアマンのエピソードより前に起こったことかもしれません。そうでなければ、結構年数がたってからでしょう(北王国の王ヨラムとアラム王ベン・ハダド2世の治世が重なるのは、10年間です)。

折しも、北王国は7年間に渡る飢饉に見舞われていました。その上、アラムの王ベン・ハダド2世が、大軍をイスラエルの北王国に送ってきました。そして、首都サマリアが包囲されてしまいます。

そのため、元々少ない食料が外から一切サマリアに入ってこなくなり、サマリアに住む人たちは食べるものが無くなってしまいました。なんと、自分の子どもを殺してその肉を食べる人まで現れたのです。

北王国の王ヨラムは、そのような現状に激しく動揺しました。そして、誰かの責任にしないではいられなくなります。自分の政治が悪いからこんなことになったとは思いたくなかったのです。そして、預言者エリシャを殺そうとしました。ところがエリシャは、間もなく大量の食料が手に入ると預言しました(1節)。

四人の決死の行動

こうした状況で、今回の主人公である四人のツァラアト患者が登場します。彼らは町の門の外にいました。モーセの律法の定めにより、ツァラアトにかかってしまった人は町の中に住むことができなかったためです。働くこともできませんから、門を出入りする人たちから施しを受けて生活をしていたのです。

ところが、先程申し上げたような事情で、町の人たちは飢えていました。ですから、四人に施しをする余裕がありません。このままでは飢え死に間違い無しです。そこで、彼らは話し合いました。

「われわれはどうして死ぬまでここに座っていなければならないのか。たとえ町に入ろうと言ったところで、町は食糧難だから、われわれはそこで死ななければならない。ここに座っていても死ぬだけだ。さあ今、アラムの陣営に入り込もう。もし彼らがわれわれを生かしておいてくれるなら、われわれは生き延びられる。もし殺すなら、そのときは死ぬまでのことだ」(3-4節)。

すなわち、アラム軍の陣営に向かい、アラム軍の人たちから食糧を施してもらおう、もしくはこっそり盗もうとしたのです。もちろん、殺されてしまう可能性も高いですが、こうして門の外に座っていてもいずれ飢え死にしてしまいます。ならば、たとえほんのわずかであっても、生き延びる可能性がある方に賭けてみようと彼らは考えました。
神の奇跡
四人がアラム軍の陣営に赴くと、そこには誰もいませんでした。神さまが奇跡を起こして、アラム兵を追い払ってくださったのです。

「これは、主がアラムの陣営に、戦車の響き、馬のいななき、大軍勢の騒ぎを聞かせたので、彼らが口々に『見よ。イスラエルの王が、ヒッタイト人の王たち、エジプトの王たちを雇って、われわれを襲って来る』と言い、夕暮れに立って逃げ、自分たちの天幕や馬やろば、陣営をそのまま置き去りにして、いのちからがら逃げ去ったからであった」(6-7節)。

北に住むヒッタイト人と南に住むエジプト人の軍隊が北王国を助けるためにやってきた。アラム軍の人々はそう考えました。もしその通りならば、アラム軍は北と南から挟み撃ちにされてしまいます。そこで、我先に逃げ出してしまいます。しかも、慌てて逃げたために食糧もテントも武器も馬もそのまま残していきました。

四人は大喜びでアラム軍が残していった食糧を食べます。そして、衣服や財宝をかすめ取って隠しました。

サマリアへの報告

たらふく食べて落ち着いた四人は、また互いに話し合いました。彼らは言いました。「われわれのしていることは正しくない。今日は良い知らせの日なのに、われわれはためらっている。もし明け方まで待っていたら、罰を受けるだろう。さあ、行こう。行って王の家に知らせよう」(9節)。

サマリアの町の人々は飢えています。しかし、ここにはたくさんの食糧が残されています。だから、ここに食糧があるという良い知らせを、サマリアの町の人々に伝えなければならないと彼らは考えました。

聖書時代、ツァラアトにかかってしまった人たちは、町の人たちから差別を受けがちでした。買い物などの必要があって町の中を歩こうものなら、石が飛んできます。また、「お前は神に呪われているから病気にかかったのだ」と、口汚く罵られます。

それでも、四人は町の人たちを救うために立ち上がり、町に戻って良い知らせを門番に伝えました。
結果
門番はすぐに王宮にその知らせを伝えました。しかし、最初ヨラム王は信じようとしませんでした。これはアラムの策略で、自分たちがのこのこ町を出たときに、攻撃してくるつもりだと。

しかし、家来の一人が言いました。誰かを敵の陣地に送って本当かどうか試させましょう。もしかしたら彼らは殺されてしまうかもしれませんが、どうせこのまま時を過ごしてもみんな飢え死にしてしまうのです。それが早いか遅いかの違いなのですから、と。

そこでヨラム王は偵察兵を数名送り出しました。そして、本当の話だということが分かりました。こうして、町の人たちはぞくぞくとアラムの陣営跡に出て行き、手に入れた食糧で生き延びることができました。
その後
その後、この四人がどうなったかについて、聖書には何も書かれていません。おそらく、決死の覚悟でアラム軍の陣営に向かい、良い知らせを自分たちの元にもたらしてくれた四人に対して、王であるヨラムが褒美を与えたということはなかったでしょう。

そもそも、四人は褒美が欲しくてサマリアの人々に良い知らせを伝えに行ったわけではありません。そうすることが正しいと考えたからです。むしろそれを実行しなかったら神さまからのさばきを招くとさえ語っています。

それでは、四人のツァラアト患者から、私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

2.良い知らせを他の人に伝えよう

良い知らせとは

四人のツァラアト患者にとって良い知らせとは、「アラム軍が一人もいなくなって、陣営に大量の食糧などが残されている」というものです。では、私たちクリスチャンにとっての良い知らせとは何でしょうか。
良い知らせのことを「福音」とも呼びます。ギリシア語で「ユアンゲリオン」です。

たとえば、町に敵の軍隊が近づいてきたとします。町の守備隊が出て行って、敵軍を迎え撃ちます。もし守備隊が負けたら、敵は町を襲い、多くの人が殺されたり、奴隷として連れ去られたりするでしょう。人々はやきもきしながら戦いの結果を待ちわびます。

すると、一人の兵士が戻ってきて、町に向かって叫びます。「我が軍は勝利した。敵の脅威は去った!」 これがユアンゲリオン、福音です。
恵みの福音
特に聖書が「福音」という場合、イエスさまによって与えられた「恵みの福音」のことを指します。恵みの福音とは、「私たちの罪を赦すためにイエス・キリストが十字架にかかり、死んで葬られたけれど、3日目に復活した」というメッセージです(第1コリント15:1-8)。

私たちは天地をお造りになった神さまに逆らい、罪を犯しました。罪は神さまを否定する大変な侮辱ですから、本来なら永遠の苦しみという罰を神さまに与えられるはずでした。ところが、イエスさまが十字架にかかることによって、神さまからの罰を身代わりに受けてくださいました。

その結果、恵みの福音を信じるだけで、私たちの罪はすべて赦されました。それどころか神さまに愛された子どもとして新しく生まれ変わりました。そして、神さまの子どもとして、永遠に祝福される存在になりました。

これが、今の時代のクリスチャンが他の人に伝えるべき良い知らせです。

なぜ伝えるか

四人のツァラアト患者は、どうして良い知らせをサマリアの町に届けたのでしょうか。彼らは久しぶりに食べる食べ物で力を取り戻しました。しかし、サマリアの町では飢え死にしそうな人たちがたくさんいます。自分たちだけが満足して、町の人々のことを見捨てるなら、神さまのさばきを招くと四人は考えました。

使徒パウロも良い知らせ、すなわち恵みの福音について次のように語りました。「私が福音を宣べ伝えても、私の誇りにはなりません。そうせずにはいられないのです。福音を宣べ伝えないなら、私はわざわいです」(第1コリント9:16)。
さばきが恐ろしいからではない
ただし、四人のツァラアト患者も使徒パウロも、神さまのさばきが怖かったからそれぞれ良い知らせを多くの人々に伝えたのではありません。そうではなくて、彼らが神さまのおかげで大きな喜びを体験しからです。

以前働いていた職場で、女性スタッフの一人が朝から妙にニコニコしていることに気づきました。別に普段から笑顔を見せない人ではないのですが、それでも普段以上にニコニコしています。

どうしたんだろうと不思議に思いましたが、特に尋ねもせずに数日がたちました。すると、その方の結婚が決まったというニュースが飛び込んできました。どうやらあのニコニコデーの前の日にプロポーズされたらしい。「ああ、なるほど」と納得したことです。

人は喜びに満たされると、その喜びは隠そうと思っても表に表れてきます。四人のツァラアト患者は、さばきが怖いからいやいや語ったのではありません。自分たちが体験した喜びの故に、黙っていることができなかったのです。

私たちが恵みの福音を他の人に伝えるのも、イエスさまが命を賭けて私たちを愛し、救ってくださったという喜びのためです。
感謝を新たに
いつもイエスさまが自分にしてくださったことを数え上げましょう。そして、感謝の思いを新たにし、そこから生まれる喜びをいつも味わいましょう。それが私たちから、神さまの望まれる行動、この場合には他の人にイエスさまの救いについて話したいという思いを引き出します。

どう伝えるか

では、どのようにして良い知らせ、恵みの福音を伝えればいいでしょうか。四人のツァラアト患者は、別に難しい哲学を語ったわけではありません。自分たちが体験したことをそのまま門番に伝えました。

「われわれがアラムの陣営に入ってみると、なんとそこにはだれの姿もなく、人の声もありませんでした。ただ、馬やろばがつながれたままで、天幕もそっくりそのままでした」(10節)。

私たちも同じです。自分がイエスさまによって何を体験させていただいたか、それをストレートに伝えれば良いのです。 これを教会の専門用語で「証し」と言います。すなわち証言です。
法廷の証言で大切なことは、聞く相手を感動させるようなドラマチックな話をすることではありません。真実を語るということです。たとえ聞いた人たちが感動して泣いたとしても、話の中に嘘があったのでは証言としては意味がありませんね。

私たちは、本当に体験したことをただ語れば良いのです。
3つの要素
証しは、イエスさまによって自分が体験したことを、そのまま正確に語ることが大切だと申し上げました。ただ、分かりやすく伝えるには、次の3つの要素をあらかじめ整理しておくといいでしょう。その3つとは、
  1. イエスさまを信じる以前の自分の状態
  2. イエスさまを信じた後の自分の状態
  3. どのようにしてイエスさまを信じるようになったか
語る順番はどうでもいいですが、まずはこの3つを簡単に言葉にしてみましょう。できれば、紙の上に書きだした方がいいです。
複数のパターン
以前の状態と今の状態、すなわちイエスさまによって自分がどんなふうに変えられたか、変えられつつあるのかという体験は、1つとは限りません。たとえば、
  • 以前はちょっとした失敗で深く落ち込みがちだったが、反省はしてもすぐに気持ちを切り替えられるようになった。
  • 以前は家族に対して攻撃的な態度を取っていたが、穏やかに話すことが多くなった。
  • 以前は一人になると孤独感にさいなまるため、いつも他の人と一緒にいないと安心できなかったが、今では一人で過ごすこともできるようになった。
  • 以前は、いけないと分かっていても暴飲暴食がやめられなかったが、今では適切な量を飲み食いできるようになった。
などなど。

いくつかのパターンを用意しておくと、相手や状況によって使い分けることができますね。
結果は神に委ねよう
預言者エゼキエルに対して、神さまは預言者の務めについて語られました。

「わたしが、悪い者に『あなたは必ず死ぬ』と言うとき、もしあなたが彼に警告を与えず、悪い者に悪の道から離れて生きるように警告しないなら、その悪い者は自分の不義のゆえに死ぬ。そして、わたしは彼の血の責任をあなたに問う。もしあなたが悪い者に警告を与えても、彼がその悪と悪の道から立ち返ることがないなら、彼は自分の不義のゆえに死ななければならない。しかし、あなたは自分のいのちを救うことになる」(エゼキエル3:18-19)。

これは良い知らせについての教えではありませんが、私たちにも通じます。クリスチャンの証しも、真実を話すこと、しかもわかりやすく伝えることは必要ですが、結果について神さまは私たちに責任を問われません。

私たちの証しを聞いた人が、それでイエスさまや聖書や教会に興味を持つかどうか、自分もイエスさまを信じたいと思うかどうかは、聖霊なる神さまにお任せしましょう。

ただし、結果については責任がないとしても、語る人がいなければ、誰もイエスさまのことを知ることができません。私たち自身も、誰かにイエスさまのことを教えていただいたから、今このようにイエスさまを信じて救われ、神さまの子どもとして祝福を味わっているのだということを忘れないでいましょう。

私たちはパウロやペテロのような大伝道者ではないかもしれません。エリシャやエゼキエルのような預言者でもないでしょう。それでもチャンスを見つけて、自分が体験したことを他の人に伝えましょう。あの四人のツァラアト患者のように。それによって、その人は永遠の救いを手に入れるチャンスを手に入れることができます。
報酬
それをしたからといって、地上でお金が儲かるとか、何かの幸せを手にするとかいうことはないでしょう。あの四人がサマリアの人々に良い知らせをもたらしても、たぶん何も報酬を得られなかったように。

しかし、地上に宝を詰めなくても、天に宝を積むことはできます。やがて私たちが死んで天に迎え入れられたとき、イエスさまが私たちに 必ず報いを与えてくださいます。

まとめ

イエスさまがしてくださったことをいつも思い起こして、感謝と喜びを味わいましょう。そして、あらかじめイエスさまが味わわせてくださった自分の体験をまとめておき、チャンスを見つけて語りましょう。

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