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礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

バプテスマのヨハネ

助演男優シリーズ15

ルカによる福音書7章18節〜27節

(2022年6月19日)

バプテスマのヨハネ洗礼者ヨハネ)はイエス・キリストに先立って活動を開始した預言者です。この記事ではヨハネの信仰が揺らいだ場面を取り上げます。

礼拝メッセージ音声

参考資料

18節の「ヨハネ」は、バプテスマのヨハネのことです。このとき、ヨハネはヘロデ王に捕らえられて投獄されていました。

18節の「これらのこと」とは、カペナウムでローマ軍の百人隊長のしもべがいやされたことや、ナインで死んだ青年がよみがえったことなどです。

20節の「おいでになるはずの方」とは、旧約聖書で将来の登場が約束されてきた救い主(メシア、キリスト)のこと。

22節の「ツァラアト」とは、モーセの律法で取り上げられている特別な皮膚病のこと。

22節の「福音」とは、良い知らせという意味。

27節は、マラキ3:1の引用です。

イントロダクション

今回取り上げるのは、バプテスマのヨハネ(洗礼者ヨハネ)です。かなりの有名人ですね。助演男優と呼ぶにはあまりにも大物過ぎるので、私も最初は取り上げるのをやめようかと考えていたほどです。今日は、そんなヨハネの信仰がちょっと揺らいだときの話を取り上げようと思います。

そこから、どんなにすばらしい信仰者であっても、信仰の戦いを経験するのだということ、またイエスさまは信仰の戦いをしている人を見捨てないどころか、助けの手を差し伸べてくださるのだということを確認しましょう。そしてそれぞれに戦いを経験している私たちも励ましをいただきましょう。

1.ヨハネのプロフィール

まずは、バプテスマのヨハネがどのような人かということを簡単に説明しておきます。

誕生と使命

ヨハネは、先週取り上げた祭司ザカリヤとその妻エリサベツの息子です。2人とももう年を取っていましたから、人間的には子どもが与えられる可能性がありませんでした。しかし、神さまの奇跡によって誕生したのです。

天使ガブリエルが父ザカリヤの前に現れて、ヨハネの誕生を予告しました。その際、ガブリエルはヨハネに与えられた神さまからの使命について次のように語りました。

「その子は主の御前に大いなる者となるからです。彼はぶどう酒や強い酒を決して飲まず、まだ母の胎にいるときから聖霊に満たされ、イスラエルの子らの多くを、彼らの神である主に立ち返らせます。彼はエリヤの霊と力で、主に先立って歩みます。父たちの心を子どもたちに向けさせ、不従順な者たちを義人の思いに立ち返らせて、主のために、整えられた民を用意します」(ルカ1:15-17)。
  • 「エリヤの霊と力で」とは、神さまが旧約時代の預言者エリヤを聖霊さまで満たし、様々な力強い働きをさせたように、ヨハネにもそうするという意味です。
悔い改めのバプテスマ
ヨハネには、イスラエルに救い主が公に登場する準備を行なう使命が与えられました。すなわち、イスラエルの人々がそれぞれ自分中心の生き方、すなわち罪を悔い改めて、救い主が来られた時にはすぐに信じて従うことができるよう準備することです。

そして、悔い改めた人々に、そのしるしとしてヨルダン川でバプテスマ、すなわち洗礼を授けていました。そこで、彼はバプテスマのヨハネとか、洗礼者ヨハネとか呼ばれるようになりました。

イエスの紹介

荒野で人々を導いていたヨハネは、間もなく救い主が現れると知っていました。そして、その救い主について次のように人々に語りました。

「私はあなたがたに、悔い改めのバプテスマを水で授けていますが、私の後に来られる方は私よりも力のある方です。私には、その方の履き物を脱がせて差し上げる資格もありません。その方は聖霊と火であなたがたにバプテスマを授けられます」(マタイ3:11)。

そして、イエスさまがヨハネの元に現れて、バプテスマを受けたいとおっしゃると、最初は断りました。自分の方こそイエスさまから洗礼を受けなければならないはずなのに、というわけです。しかし、イエスさまがどうしてもそうして欲しいと願われたので、ヨハネはイエスさまに洗礼を授けました。

そのとき聖霊なる神さまが鳩のように天からくだってこられ、イエスさまの上に留まりました。神さまはあらかじめバプテスマのヨハネに、そのようなことが起こったなら、その人こそ聖霊によってバプテスマを授ける方、すなわち救い主であると語っておられました。そこで、ヨハネはイエスさまこそ約束の救い主であると人々に語りました。
そのため、ヨハネの弟子の中にもイエスさまについて行ってしまう人たちがたくさん現れました。イエスさまの弟子で、ペテロの兄弟であるアンデレも、元々はバプテスマのヨハネの弟子でした。使徒ヨハネもそうだったと考えられています。

それでもバプテスマのヨハネは気に留めず、むしろその状況を喜んで言いました。「あの方は盛んになり、私は衰えなければなりません」(ヨハネ3:30)。自分の役割は地上で多くの弟子を集めることではなく、イエスさまを人々に紹介することだということをよく理解していたのですね。

投獄と死

そんなあるとき、ローマ帝国から委託されてガリラヤ地方を治めていたヘロデ王が、自分の兄弟の妻であるヘロディアと恋仲になりました。そして、自分の妻を理由もなく離縁し、兄弟からヘロディアを奪って結婚してしまいました。ヨハネは、これは神さまがイスラエルに与えたモーセの律法に違反する行為だと激しく非難しました。

そのため、ヘロデはヨハネを逮捕して牢獄に入れてしまいました。そして、最終的にヨハネの首を切り落として殺してしまいました。
  • このあたりの詳しい経緯については、聖書の女性シリーズで取り上げたサロメの記事をお読みください。
こうしてバプテスマのヨハネは死んで、神さまの身元に迎え入れられました。彼は神さまの使命のために生まれ、全生涯を掛けて使命を実現し、使命のために死にました。

そして、今回取り上げた箇所は、ヨハネが牢獄に捕らえられているときに起こりました。

2.ヨハネの迷い

イエスは何者かという疑問

荒野で活動していた頃のヨハネは、イエスさまこそ聖書が登場を約束してきた救い主(メシア、キリスト)であると確信していました。ところが、その確信が揺らいでいたようです。彼は2人の弟子をイエスさまの元に遣わして、次のように尋ねさせました。

「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、ほかの方を待つべきでしょうか」(19節)。すなわち「イエスさま。あなたは救い主なのですか、それとも違うのですか」という質問です。

マラキ4:5には、救い主が現れて世のあらゆる悪を滅ぼす前に、預言者エリヤが地上に戻ってくると預言されています。これまで自分はイエスさまのことを救い主だと思ってきたけれど、実はエリヤの方だったのかと考えたのかもしれませんね。
なぜ疑問を持ったのか
では、どうしてヨハネはイエスさまが救い主かどうか疑問を抱くようになったのでしょうか。旧約聖書には、救い主が来られたらどのようなことをなさるかについて様々な預言があります。

たとえば、「【神】である主の霊がわたしの上にある。貧しい人に良い知らせを伝えるため、心の傷ついた者を癒やすため、【主】はわたしに油を注ぎ、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、囚人には釈放を告げ、【主】の恵みの年、われらの神の復讐の日を告げ、すべての嘆き悲しむ者を慰めるために」(イザヤ61:1-2)。

特に後半に注目してください。囚われ人には解放、囚人には釈放……。旧約聖書の教えによれば、救い主が現れたらイスラエルの敵を滅ぼし、すべての悪をさばいて正義を実現なさるはずです。そして、無実の罪で捕らえられていた信仰者は、解放されるはずです。

ところが今ヨハネは牢獄の中にいます。犯罪を犯して当然の報いを受けているわけではなく、神さまのみこころに従ったためです。ヘロデのような罪深い者たちが栄華を極め、神さまに忠実な者たちがこうして苦しめられています。また、祖国イスラエルは、異教の民であるローマ人によって支配されています。

ヨハネがイエスさまに洗礼を授けてから、もう1年半ほどの時間が経過しています。ところが、待てど暮らせど救い主によるさばきが行なわれません。そして、無実の罪で囚われている自分は牢獄から解放されません。
ということは、まだ救い主は登場していないということだろうか……。ヨハネの心の中にそういう疑問が湧き上がってきたのです。
初臨と再臨
福音書の時代には、まだ新約聖書は成立していません。ですから、新約聖書が書かれてからはっきりしてきた真理については、たとえ熱心な信仰者であっても知ることができません。

今の時代の私たちは、救い主イエスさまは地上に2回来られるということを知っています。いわゆる初臨と再臨です。初臨は紀元1世紀にすでに起こりました。そして、イエスさまは十字架にかかり、復活することによって私たちの罪を赦してくださいました。

そして、いつそれが起こるかということは分かりませんが、イエスさまは必ずもう一度地上に戻ってこられます。この再臨が起こったときに、地上の悪がことごとく滅ぼされ、救い主が統治する理想的な王国、千年王国(神の国、天の御国)が実現します。

福音書の時代の人々は、救い主の初臨と再臨の区別がまだはっきりしていませんでした。ですから、ヨハネが「どうして預言通り地上の悪をさばいてくださらないのだろうか」と疑問を持ってもしかたがありません。

イエスの答え

すると、イエスさまはヨハネの弟子にこう言いました。「あなたがたは行って、自分たちが見たり聞いたりしたことをヨハネに伝えなさい。目の見えない者たちが見、足の不自由な者たちが歩き、ツァラアトに冒された者たちがきよめられ、耳の聞こえない者たちが聞き、死人たちが生き返り、貧しい者たちに福音が伝えられています。だれでも、わたしにつまずかない者は幸いです」(22-23節)。

まず、「貧しい者たちに福音が伝えられています」というのは、イザヤ61:1の「貧しい人に良い知らせを伝える」という預言と関係しています。

さらに、別のイザヤの預言も関係しています。「そのとき、目の見えない者の目は開かれ、耳の聞こえない者の耳は開けられる。そのとき、足の萎えた者は鹿のように飛び跳ね、口のきけない者の舌は喜び歌う」(イザヤ35:6)。
預言のある部分が実現したのだから
イエスさまはどうして22-23節のようなことを使いに語り、ヨハネに伝えさせようとしたのでしょうか。イエスさまは、ご自分が救い主に関する預言の一部をすでに文字通りに実現していることに注目させました。ということは、まだ実現していない預言もいずれ実現すると期待できるはずです。

まだ実現していない預言はあるけれど、確かに自分は救い主だよと、イエスさまはヨハネを励ましています。

イエスによる賞賛

このように、ヨハネはイエスさまこそ約束の救い主であるという信仰が揺らいでしまいました。

しかし、イエスさまはそんなヨハネを責めていらっしゃいません。それどころか、群衆に向かって「ヨハネは預言者よりもさらに優れた存在だ」と絶賛なさっています(26節)。

3.信仰の戦いに神からの助けがある

信仰の揺らぎを私たちも経験する

すばらしい信仰の持ち主であったバプテスマのヨハネでも、イエスさまこそ救い主だという確信が揺らいでしまうことがありました。まして私たちも、時に信仰が揺らいでしまうことがあるでしょう。
その信仰の揺らぎとは、それは救い主イエスさま、そして父なる神さまや聖霊さまのことを、一体どのようなお方だと信じているかについてです。たとえば、
  • 問題が次々と起こったり、問題がなかなか解消されなかったりすると、神さまがこの自分を愛してくださっているというのは本当だろうかと疑問に思います。
  • 正直者が馬鹿を見て、不正な生き方をしている人たちが栄えている現状が続くと、神さまが正義だというのは本当だろうかと疑問に思います。
  • 祈りがなかなかかなわないことが続くと、神が人の祈りに耳を傾けてくださるというのは本当だろうかと疑問に思います。
私がかつて東京の伝道所で働いていた頃。自分の伝道所ではなかなか人が救われないのに、同年代の牧師たちの教会がどんどん成長しているのに、ちょっとした嫉妬心を覚えたものです。

そして、やっぱり神さまは元々能力があったりリーダーシップがあったりする人を用いて、自分のように元々内向的で平凡な人間は用いてくださらないんだと、時々すねたような気分に陥ることがありました。

おそらく皆さんも、イエスさま、父なる神さま、聖霊さまに関して聖書が教えているイメージに対して、確信が揺らいでしまうことがあるはずです。

信仰の揺らぎをイエスは責めない

しかし、今回のバプテスマのヨハネのエピソードは、私たちに大きな慰めを与えてくれます。イエスさまは、信仰の確信が揺らいでいたヨハネを責めませんでした。それどころか高く評価なさいました。

同様に、イエスさまは私たちのこともせめて切り捨てたりなさいません。その理由の第一は、私たちの罪は、イエスさまの十字架と復活を信じたときにすべて赦されているからです。

その理由の第二は、神さまは私たちを子どもとして扱ってくださっているからです。子どもの可能性を信じている親は、歩き始めたばかりの子どもがすぐに尻餅をついてしまっても、その子はもう歩けないのだなどと思って見放したりしませんね。

たとえ私たちの確信が揺らぐことがあっても、イエスさま、父なる神さま、聖霊さまは、私たちが神さまについての正しいイメージを取り戻し、再び愛、喜び、平安、希望、勇気に満たされながら生活することを信じてくださっています。

まずはそれを信じましょう。そして、感謝しましょう。

信仰の揺らぎを聖書が押さえる

そしてイエスさまは、ヨハネが確信を取り戻せるようにかかわってくださったように、私たちにもかかわってくださいます。

イエスさまがヨハネを励ました方法は、聖書の言葉に目を留めさせることでした。神さまは聖書の言葉を通して、私たちに確信を与え、信仰の揺らぎを押さえてくださいます。

私がクリスチャンになって1年ほどたった頃、他の宗教を信じている人たちと議論したことがきっかけで、私の信仰が揺らいだことがあります。本当に聖書の神さまだけが唯一なんだろうかという疑問が湧き上がってきたのです。

数日間祈りながら神さまにその疑問を訴えました。すると、ある日突然、イザヤ書の言葉が目に飛び込んでくるという体験をしました。「地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神だ。ほかにはいない」(イザヤ45:22)。そして、理屈抜きに、私の中の疑問が消え去りました。
聖書に親しもう
神さまは、人の言葉や状況、場合によっては幻や天使などを通して、私たちに語りかけ、確信を与えてくださいます。しかし、最終的には聖書の言葉によって私たちに働きかけてくださいます。

ですから、確信に満ちあふれているときも、そうでないときも、いつも聖書に親しみ、聖書の言葉を心に蓄えておきましょう。神さまは、聖書の言葉を通して私たちを励まし、強め、引き上げてくださいます。

まとめ

私たちもヨハネのように確信を失って揺れ動くことがあります。しかし、イエスさまはそんな私たちを見捨てたりなさいません。それどころか、聖書の言葉を通して私たちに励ましを与えてくださいます。

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