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礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

カナの婚礼の給仕係

助演男優シリーズ18

ヨハネによる福音書2章1節〜11節

(2022年7月10日)

カナの婚礼の給仕係たちは、イエス・キリストが水をぶどう酒に変える奇跡で重要な役割を果たしました。

礼拝メッセージ音声

参考資料

1節の「それから」とは、ナタナエルが弟子に加えられたことです。伝統的には、ナタナエルは12使徒であるバルトロマイのことだとされています。

1節の「カナ」は、ガリラヤ湖の西20キロ、イエスさまの故郷であるナザレの北14キロほどのところにあった町で、現在のキルベト・カーナと考えられています。
4節の「女の方」(ギリシア語のギュネー)は、女性に対する尊敬を込めた呼びかけの言葉。

4節の「わたしの時」とは、人類の罪が赦されるために十字架にかかり復活することを指しています。

6節の「きよめのしきたり」とは、家に入る際に手を洗う儀式を行なうこと。衛生的な意味ではなく、外で受けた汚れを洗い清めるためです。ただし、モーセの律法で定められたものではなく、パリサイ派の律法学者たちが生み出した決まり事でした。
「パリサイ人をはじめユダヤ人はみな、昔の人たちの言い伝えを堅く守って、手をよく洗わずに食事をすることはなく、市場から戻ったときは、からだをきよめてからでないと食べることをしなかった。ほかにも、杯、水差し、銅器や寝台を洗いきよめることなど、受け継いで堅く守っていることが、たくさんあったのである」(マルコ7:3-4)。

6節の「メトレテス」は容量の単位で、1メトレテス=39リットル。ですから2〜3メトレテス入りの水がめが6つということは、全部で468〜702リットルほどです。

イントロダクション

今日はカナの婚礼の裏方として働いていたしもべたちに注目します。彼らは結婚披露宴でぶどう酒が無くなるというピンチの状況で、水がぶどう酒に変わる奇跡を目の当たりにしました。私たちもイエスさまの力を人生の中で実際に体験したいですね。そのために必要な態度を、しもべたちから学びましょう。

1.水がぶどう酒に変わる奇跡

カナの婚礼

ガリラヤのカナという町で結婚披露宴が催されていました。イエスさまと弟子たちも披露宴に招かれ、母マリアは裏方として働いていたようですから、おそらくイエスさま一家の親戚が結婚したのでしょう。

当時の結婚披露宴は1週間続きました。この間、食事やぶどう酒を整えるのは花婿の責任でした。ですから、食事やぶどう酒が途中で切れてしまえば、花婿は大変恥をかくことになります。そのあってはならない事態が起こりました。思いのほか飲んべえたちがそろっていたのか、ぶどう酒が足りなくなってしまったのです。

そのことに気づいたマリアは、イエスさまのところに行って「ぶどう酒がありません」と訴えました。
それに対するイエスさまの答えは一見冷たく聞こえますね。「女の方、あなたはわたしと何の関係がありますか。わたしの時はまだ来ていません」(4節)。何の関係があるかって、親子ですよねえ? なんと冷たい、突き放したような言い草でしょうか。

しかし、この「何の関係がありますか」というのは、「あなたの関心事と私の関心事は異なります」というニュアンスの言葉です。そして、「わたしの時はまだ来ていません」の「時」とは、人類の罪の罰を身代わりとして受けるために十字架にかかり、さらに3日目に復活する時のことです。

イエスさまは、私たちの罪を取り除き、私たちと神さまの関係を回復し、私たちが圧倒的に祝福されるようになるために来られました。それがイエスさまの関心事だったのです。人を救うという関心に比べたら、結婚式でお酒が無くなるという問題はちっぽけに見えます。

ただし、「そんなこと知らねぇよ。お母さん、そんなちっぽけな問題を、私のところに持ち込まないでくれ」とおっしゃったわけじゃありません。「お母さん。お母さんは、わたしが問題にしている根本的な問題ではなく、表面の小さな問題で悩んでいます。でも、それはお母さんにとっては、ものすごくつらいことで、心配なことなんですよね」と、ここでイエスさまはおっしゃったわけです。

そういう意味に受け取ったからこそ、すなわち、イエスがこの問題について何かをしてくれると信じたからこそ、マリヤは手伝いの人たちを呼んで、「イエスの言うことは、何でもしてやってね」と頼みました。

水がめを満たせ

披露宴で客に食事やぶどう酒を提供するために、マリア以外にも手伝いの人たちが働いていました。おそらくその家のしもべたちでしょう。イエスさまは彼らに、水がめの縁いっぱいまで水を満たすようとおっしゃいました。

この水がめは、披露宴に来た客が手を洗うために用意されたものです。当時のユダヤ人たちは、食事の前には必ず手を洗いました。衛生的な意味でそうするのではなく、きよめの儀式です。外出すると宗教的な汚れが手に付着するから、手を洗いきよめないまま食事をすると、汚れが体内に入ってしまうと考えられていたのです。

その家の入口に置かれていたきよめ用の水がめは、100リットルほど入るものでした。それが6つですから全部で600リットルの水が入ります。客はすでに宴会場に入っていますから、水は使われて少なくなっていました。半分くらい使われているとして、300リットルの水を汲んで水がめを満たせとイエスさまはおっしゃったのです。

中東の町では昔建てられた建物が崩れて風化し、その上にまた建物を建てていくため、長い歴史の中で町全体がだんだんと丘のように高くなっていきます。一方、水汲み場の位置は変わりませんから、ずっと深い場所にあって、水を汲むためには階段を使って登り降りしなければなりません。

それなのにイエスさまは水がめの縁いっぱいまで水で満たせとおっしゃいます。理解できません。もう宴会は始まっていますからきよめの儀式は必要ないのです。それなのに、暑いさなか、地下の水汲み場と家の間を何度も往復しなればならないとは。そもそも、今必要なのはぶどう酒であって、手を洗うための水ではありません。そんな指示、理不尽極まりありません

それでもしもべたちは素直に実行しました。

水が高級ワインに

水がめが満たされると、イエスさまはそれを汲んで宴会の世話役のところに持って行けとおっしゃいました。これもまたおかしな指示です。いくら酔っ払っている人が多いとしても、さすがに水とぶどう酒の違いはすぐにばれてしまうでしょう。しかし、しもべたちはこの指示にも素直に従いました。

すると、提供された水を口にした世話役は驚きました。水が質の良いぶどう酒に変わっていたからです。
ユダヤの結婚披露宴は1週間続きました。客に提供する食事やぶどう酒を用意するのは大変です。そこで、最初のうちは質が良いぶどう酒を出しておいて、客が酔っ払ってくると質が悪くて安いものに切り替えるのが普通でした。しかし、世話役が飲んだのは非常に高品質なぶどう酒だったのです。思わず世話役は新郎を呼んで、彼をほめました。

水がぶどう酒に変わるという奇跡が起こりました。そして、世話役と新郎、さらに披露宴に参加している客たちは、奇跡の結果生じたおいしいぶどう酒を味わいました。新郎に至っては、危うく恥をかくところだったのに、知らない間に面目を施すことができました。しかし、彼らは奇跡が起こったことを知りません。

奇跡が起こったことを知っていたのは、奇跡を行なわれたイエスさまを除けば、イエスさまの弟子たちと母マリア、そして水がめに水を満たしたしもべたちだけです。彼らはイエスさまのすばらしさを目の当たりにし、感激しました。

では、私たちが神さまの奇跡を体験するために必要な態度は何でしょうか。

2.聞いて行なおう

イエスの語りかけを聞こう

イエスさまは、一見冷たい言葉で母マリアの訴えを退けたかに見えました。しかし、全人類の救いという大きな目的の前ではちっぽけに見える悩みに、しっかりと対応してくださいました。

イエスさまは、私たちの人生に関心を持ってくださっています。また、私たちがこの地上で本当の幸せを味わえるよう計画を立ててくださっています。そして、どうしたら私たちが神さまの祝福を受け取って本当の幸せを体験できるか、その方法を語ってくださいます。
語りかけの方法
今の時代、イエスさまは天の父なる神さまの右に座っていらっしゃって、地上に見える形で存在していらっしゃいません。ですから、当時のユダヤの人たちのように直接イエスさまの肉声を聞くことができません。しかし、イエスさまは様々な方法で語ってくださいます。

例えば夢や幻を見せることによって、あるいは心に響く声によって、時には天使を通して。しかし、主な語りかけは聖書を通して与えられます。たとえ幻や天使を見たとしても、聖書と矛盾する内容ならばそれはイエスさまからの語りかけではありません。

私たちを本当の幸せに導くため、イエスさまは聖書を通してその方法を教えてくださいます。私たちは聖書を読み、祈りながらじっくりとその内容を味わうことによって、イエスさまからの語りかけを聞くのです。

聞いたら実践しよう

いわゆる山上の説教のまとめとして、イエスさまは家を建てる人のたとえを語られました。イエスさまの言葉を聞いてそれを実行する人は、岩の上に家を建てた賢い人、しかし聞いても行なわない人は、砂の上に家を建てた愚かな人だと(マタイ7:24-27)。
イエスさまの言われることを聞いて行なう。これがどんな状況でも揺り動かされない、奇跡に満ちた人生の秘訣です。

たとえ難しくても実行しよう

ところが、「聞いて行なう」というのは、簡単ではありません。

第一に、私たちはしばしばイエスさまに聞こうとせず、自分の判断だけで行動を起こしてしまいがちです。意識して「聞こう」としましょう。

第二に、イエスさまの命令は、従いやすい命令とは限らないからです。それは、時に私たちの常識や好みに反します。たとえば、敵を愛しなさいなどという命令は、簡単には守れませんね。

しかし、それでも神さまが語られたことに関して「はい」と従っていく。そこに祝福された人生の秘密があるようです。そのように意識して実践しようとするとき、聖霊なる神さまも内側から助けてくださいます。
渡辺和子さん
すでに召天なさいましたが、ノートルダム清心学園理事長でいらっしゃった渡辺和子さんが、あるとき次のような話をなさいました。
私が出張から疲れて帰ったとき、あるシスターが、私の『ただいま』に返事をしてくださらなかった。小さな傷です。しかしその後、私の方からそのシスターに話しかけるのには勇気がいりました。
自分が傷を負わされたのに、傷を負わせた相手に自分の方から話しかけるためには、相手を赦す必要があります。向こうが謝ってきたならまだしも、自分の方から話しかけるなんて理不尽です。

それでも、渡辺さんは自分の方から話しかけました。イエスさまがそれを望んでおられることを知っておられたからです。渡辺さんは聞いて実践したのです。

渡辺和子さんとは、直接お話しさせていただいたことがあります。本当に温かい人柄でいらっしゃいました。それは、小さなことに至るまで、イエスさまの声を聞いて実践してこられたからだろうなあと思います。
失敗しても
私たちは実践できずに失敗してしまうこともあります。それでもイエスさまは失敗を赦してくださいます。十字架を思い起こして悔い改め、再挑戦しましょう。何度失敗したとしても。

まとめ

イエスさまの語りかけを聞いて実践しましょう。

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