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礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

ダマスコのアナニア

助演男優シリーズ24

使徒の働き9章10節〜20節

(2022年8月21日)

ダマスコアナニアは、復活のイエス・キリストによって目が見えなくなった迫害者サウロ(後の使徒パウロ)をいやした人です。

礼拝メッセージ音声

参考資料

10節の「ダマスコ」は、シリアの中心都市。この時代はローマ帝国の管理下にありました。

11節の「サウロ」は、後の使徒パウロ。サウロはヘブル語名シャウール(すなわちサウル)をギリシア語に音訳した名前。パウロはギリシア語名で、小さい者という意味があります。
この頃のサウロはキリスト教会迫害の中心人物で、あちこちでクリスチャンたちを捕縛、投獄し、死に追いやっていました。サウロがダマスコにいたのも、元々は逃げたクリスチャンたちを捕らえるためです。ところが、途中でイエスさまの声を聞き、光に打たれて目が見えなくなっていました。

11節の「タルソ」は、小アジア南部キリキア州の首都。ギリシアのアテネや北アフリカのアレキサンドリアに次ぐローマ帝国第3の学術都市で、多くの哲学者を輩出しました。また亜麻やヤギの毛の産地で、布や天幕作りが盛んでした。サウロも天幕作りの技術を持っていました(使徒18:3)。なお、サウロはタルソ人と呼ばれていますが、人種としてはユダヤ人です。

18節のできごとが、「目から鱗が落ちる」ということわざの語源になりました。

イントロダクション

新約聖書には、アナニアという名前の人物が3人登場します。
  1. 1人は使徒5章に出てくるクリスチャンで、同じくエルサレム教会のメンバーだったサッピラの夫。この人は献金した際に全財産ささげたと嘘をつき、神さまのさばきを受けて死にました。詳しくは聖書の女性シリーズ「サッピラ」の回をご覧ください。
  2. それから、使徒23-24章に登場する大祭司。この人は他の指導者たちと一緒に、使徒パウロをローマ総督に告訴しました。
  3. 残る1人が今回取り上げるダマスコのアナニアです。
ダマスコのアナニアは、他の2人と違って信仰の助演賞にふさわしい人物です。彼は迫害者サウロが大伝道者パウロに生まれ変わるきっかけを作りました。

私たちも神さまの素晴らしいみわざの実現に参加することができます。そして、地上ではなく天に宝を積むことができます。たとえ中心人物として働くことがなくても、アナニアのようになくてならないサポートの働きができるのです。そのためにはどんなことに心がければよいのでしょうか。

1.アナニアの働き

サウロの転機

参考資料にも書きましたが、サウロ(すなわち後の使徒パウロ)は元々キリスト教会の迫害者でした。クリスチャンたちを見つけ出して捕らえ、投獄し、死刑にする急先鋒だったのです。そうすることが正義であり、神さまに従うことだと固く信じて疑いませんでした。

サウロの迫害によって、エルサレムから多くのクリスチャンたちがあちこちに逃げ出していきました。そこで、サウロはイスラエル北方のダマスコにも目をつけ、クリスチャンたちを見つけ出すためにその地に向かいました。
光と天からの声
ところが、途中で突然まばゆい光に包まれ、目が見えなくなってしまいます。そのときの様子が使徒の働きには次のように書かれています。

「彼は地に倒れて、自分に語りかける声を聞いた。『サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか』。彼が『主よ、あなたはどなたですか』と言うと、答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」(使徒9:4-5)。
サウロはイエスさまに命ぜられるまま、一緒に旅をしていた人たちに連れられてダマスコの町に入りました。そこで3日間飲まず食わずで過ごしました。
混乱
サウロは他の多くのユダヤ人たちと同様、イエスさまのことを救い主だとは認めていませんでした。そして、イエスさまは十字架にかけられて死んだと思っていました。ところが、死んだはずのイエスさまの声を聞いてしまったのです。

その声を素直に解釈するならば、イエスさまこそイスラエルがずっと待ち望んできた救い主です。そして、クリスチャンたちは正しい主張をしていたことになります。それどころか、自分は神さまに従っていると思いながら、実際には神さまに敵対する行動をしていたことになります。

パウロは大混乱に陥ったことでしょう。そして、起こった出来事を何とか整理しようとしたはずです。こういう場合、目が見えなくなったというのは神さまの祝福ですね。よけいな情報をシャットアウトして考えることに集中できます。サウロは断食して祈りながら過ごしました。

イエスの命令

さて、ダマスコの町にはアナニアというユダヤ人が住んでいました。この人について後にサウロ改めパウロはこう紹介しています。「律法に従う敬虔な人で、そこに住んでいるすべてのユダヤ人たちに評判の良い、アナニアという人」(22:12)。

アナニアはクリスチャンになっていましたが、元々は熱心なユダヤ教徒で、ダマスコのユダヤ人たちから尊敬された人です。以前も申し上げましたが、当時のクリスチャンたちは自分たちがユダヤ教を捨てて別の宗教に改宗したとは思っていません。ユダヤ教徒が待ち望んできた救い主が、ナザレのイエスさまだということを知って信じただけだと思っています。アナニアもそうでした。
イエスの命令
目の見えなくなったサウロがダマスコに入って3日目のことです。ダマスコの町に住んでいたクリスチャン、アナニアがイエスさまに幻を見せられました。そして、とんでもない命令を受けます。

「立って、『まっすぐ』と呼ばれる通りに行き、ユダの家にいるサウロという名のタルソ人を訪ねなさい。彼はそこで祈っています。彼は幻の中で、アナニアという名の人が入って来て、自分の上に手を置き、再び見えるようにしてくれるのを見たのです」(11-12節)。
最初の反応
この時点でアナニアはイエスさまがサウロになさったことを知りません。そこでアナニアは、自分が抱いている思いをイエスさまにぶつけました。

「主よ。私は多くの人たちから、この人がエルサレムで、あなたの聖徒たちにどんなにひどいことをしたかを聞きました。彼はここでも、あなたの名を呼ぶ者たちをみな捕縛する権限を、祭司長たちから与えられています」(13-14節)。

これを読むと、アナニア自身はエルサレムから逃げ出してきたわけではなかったようです。祭りに参加するためか仕事でエルサレムを訪問した際に信じたのか、迫害でダマスコに逃れてきたクリスチャンに伝道されて信じたのかしたのでしょう。とにかく彼はサウロが迫害の急先鋒だということを知っていましたから、恐れを感じました。当然のことです。
イエスの励まし
するとイエスさまはお答えになりました。「行きなさい。あの人はわたしの名を、異邦人、王たち、イスラエルの子らの前に運ぶ、わたしの選びの器です。彼がわたしの名のためにどんなに苦しまなければならないかを、わたしは彼に示します」(15-16節)。

イエスさまは3つのことをアナニアに語られました。まず「行け」ということ。アナニアは恐れを感じていましたが、それでもサウロの元に行き、彼に手を置いて目が見えるように祈れと重ねてアナニアにお命じになりました。

次にアナニアの恐れを取り除く言葉を語られました。迫害者だったサウロが、イエスさまのことを言い広める伝道者になるということ。それから3つ目に、迫害者サウロが今度は迫害を受ける側になるということです。これらは、イエスさまに敵対していたサウロが、悔い改めてクリスチャンになる、もしくはすでになっていることを意味しています。

アナニアの応答

にわかには信じがたい話ですが、これは他ならぬ主イエスさまのお言葉です。そこに嘘があろうはずがありません。アナニアは信じました。そしてさっそく行動に移します。

アナニアはサウロがいた家を訪問し、サウロの頭に手を置いて言いました。「兄弟サウロ。あなたが来る途中であなたに現れた主イエスが、私を遣わされました。あなたが再び見えるようになり、聖霊に満たされるためです」(17節)。

するとサウロの目から鱗のようなものが落ちて、目が見えるようになりました。
サウロはすぐにアナニアから洗礼を受け、ダマスコの教会でしばらく他のクリスチャンたちと交わりを深めた後、ユダヤ人の会堂(シナゴーグ)でイエスさまこそ救い主だと宣べ伝え始めます。迫害者サウロが、イエスさまがおっしゃったとおり伝道者になったのです。

では、私たちはアナニアから何を学ぶことができるでしょうか。

2.私たちも神の大いなる働きに参加できる

そのためには次のような態度が必要です。

イエスの語りかけを聞く

アナニアは幻の中でイエスさまの語りかけを聞きました。その結果、サウロの目をいやし、サウロが大伝道者に生まれ変わるきっかけを作りました。

私たちもがイエスさまの命令に従うには、まず命令を聞く必要があります。イエスさまは現代の私たちにも、様々な方法で語ってくださいます。例えば、
  • 幻や天使を通して。
  • こうしなければならないという思いが心の中に浮かんで、それが離れないことを通して。
  • 他の人の言葉を通して。時にクリスチャンではない人の言葉も含む。
  • 状況が次々と一定方向に進むことによって。
ただ、たとえ幻を見たり天使が現れて何かを語ったりしたとしても、その内容が聖書に反することなら、それは絶対に神さまからの語りかけではありません。

また、たとえ心に何も響かなくても、聖書が命じていることは神さまのみこころです。例えば、他の人にイエスさまのことを伝えること、貧しくて困っている人を助けること、他の人の成長に役立つ言葉を選んで使うことなど。特に神さまからの指示がなければ、聖書が教えていることを自分が置かれている状況に当てはめて、具体的な行動を考えていけばいいのです。
クリアに聞くには?
では、どうしたらより明確にイエスさまの語りかけを受け取ることができるようになるでしょうか。それは、聞こうとすることです。

人間の言葉も、聞こうと意識しなければ心に入ってきません。神さまは信じる人にも信じない人にも、いつも語りかけておられます。が、それを聞き取ることができるかどうかは、私たちが聞こうとしているかどうかにかかっています。

アナニアは、後にパウロに「律法に従う敬虔な人」と評されたように、神さまの命令に触れ続け、学び続けました。アナニアの心には、「神さまの声を聞きたい」という思いが満ちあふれていたのです。

サウロはイエスさまに敵対していましたが、それでも彼の心の中にも神さまに従いたいという思い、神さまの語りかけを聞こうという意欲がありました。

私たちもアナニアのように、いつ語られてもいいように心の耳を澄ませ、準備していましょう。そして「イエスさま、いつでもお語りください。私はあなたの語りかけを聞きたいのです」といつも祈りましょう。

自分に与えられた働きを忠実に行なう

アナニアがパウロに「律法に従う敬虔な人」と評されたのは、アナニアがただ単にイエスさまの命令を聞くだけでなく、それに忠実に従おうと努力した人だったということを表しています。従うつもりがない人なら、そもそも神さまの命令を聞こうとしませんね。

ものすごく時間や労力が必要な命令であれ、ちょっとした命令であれ、大切なことは聞いたことを素直に、忠実に実行することです。
エドワード・キンドール
皆さんはエドワード・キンドールという人の名前をご存じでしょうか。この人は19世紀のクリスチャンですが、牧師でもプロの伝道者でもありません。ボストンの教会で教会学校の先生をしていた人です。1885年のこと、キンドール先生は自分のクラスの若者が欠席続きなので家庭訪問をしました。

その日、キンドール先生と話をしたその若者は、イエス・キリストを信じました。この若者こそ、後に19世紀を代表する大伝道者で、スラム街に教会を作って貧しい人たちに伝道したり支援活動を行なったりしたドワイト・ムーディです。

ムーディの肖像 Copyright by Barron Fredricks
ムーディは神学校で学んだ経験がありません。それどころかまともな学校教育を受けたことがなかったそうです。そこでムーディの説教には、時々文法上の間違いがありました。それでも、誰にでも分かりやすい話によって多くの人たちがイエスさまを信じていきました。

ムーディを救いに導いたキンドールも、キリスト教神学の専門教育を受けていたわけではありません。しかし、キンドールが神さまから与えられた働きを忠実に行なわなければ、ムーディは救われなかったかもしれませんし、ムーディによって救いに導かれた多くの人たちもまたイエスさまと出会わなかったことでしょう。

私たちも、そのときそのときイエスさまからやるように促されたことを、忠実に行ないましょう。それ自体が派手で目立つ働きでなくても、神さまはそれを用いて素晴らしいことにつなげてくださいます。

残念ながら、失敗して罪を犯してしまうこともあります。そのときには素直に悔い改めて、すぐに正しい行ない、神さまの命令に従う生き方に戻りましょう。

恐れをイエスに委ねる

アナニアが最初にイエスさまの命令を聞いたとき、彼は恐れを感じました。しかし、だからといって彼が不信仰だったということではありません。

モーセも、エジプト王の所に行ってイスラエルを奴隷状態から解放するよう求めなさいと神さまに言われたとき、恐れを感じました。士師ギデオンも、あなたがイスラエルを率いて外敵と戦えと命ぜられたときに恐れました。後に彼らは大きな働きをしますが、最初は自分の小ささと神さまの命令の大きさを比較して恐れたのです。

大切なことは、神さまの命令に対して恐れや抵抗を感じたときには、それをイエスさまに正直に申し上げて、イエスさまからの励ましや慰めを受け取ることです。アナニアはそうしましたし、モーセやギデオンもそうしました。

一番良くないのは、本当は恐れや疑問を感じているのに、大丈夫なふりをすることです。自分の力だけで神さまに従おうとしても、いつかどこかで破綻してしまいます。
断る勇気
この話をお読みください。
Aさんは、人から誘われたり頼まれたりすると、なかなか断ることができなかったそうです。そのため後でくたくたになったり嫌な思いをしたりして、よく後悔したのだとか。

あるとき祈っていたら、自分のこの性格が恐れから来ていることが分かりました。誘いや依頼を断ると、嫌われてしまうのではないかという恐れです。またどこかに、「クリスチャンなんだから、自分を無にして他の人に仕えねばならない」という義務感もあったようです。

そしてその日、聖書の言葉が心にとまりました。「愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。恐れには罰が伴い、恐れる者は、愛において全きものとなっていないのです」(第1ヨハネ4:18)。

「そうか。たとえ良いことをしたとしても、恐れを動機として行なったのなら、それは愛とは言えないのか」。Aさんはそう受け取りました。

次の日。友だちからLINEが入りました。「土曜日、映画見に行かない? 午後は買い物に付き合ってよ」。ところが土曜日の夜に妹が泊まりに来て、翌日は一緒に礼拝に行く予定になっていたので、土曜日の昼間に部屋の掃除や整理整頓をしたいと考えていました。ですから、本当なら断りたいところです。しかし、いつもの癖で「いいよ」と返信したくなってしまいました。

ハッと気づいたAさんは祈りました。「神さま。たとえ友だちが喜ぶ行動をしたとしても、恐れからしたことであればそれは愛ではないと、昨日あなたから教わりました。しかし、私の心は今、嫌われたらどうしようという恐れでいっぱいです。どうか私から嫌われることへの恐れを取り除いてください。断る勇気を私に与えてください」。

祈ったAさんは、特に自分が勇気凜々になった感じを受けませんでした。しかし、必ず祈りは聞かれていると信じたAさんは、内心プルプル震えながらもLINEで友だちに事情を説明して、誘いを断りました。

すると、友だちからは「そう。残念だけど、それじゃ仕方ないね。また今度。じゃ、お掃除がんばってね!」と優しい返事が来ました。

正しいことを行なおうとするとき、恐れが生じてブレーキをかけてくることがありますね。そんなときは正直に神さまに告白して、勇気を与えてくださるようお願いしてみましょう。そして、正しいことを実行しましょう。
(当サイト「ショートエッセイ」より)
Aさんがイエスさまから実践するよう促されたのは、別に世界をひっくり返すような壮大な働きではありません。しかし、それでも恐れがやってくることがあります。そんなときは、Aさんのように、そしてアナニアのように、イエスさまにその思いを訴えて勇気を受け取りましょう。

まとめ

アナニアのように、イエスさまの命令を聞こうと意識しましょう。聞いたことを忠実に実行しましょう。恐れについてはイエスさまに訴えてお任せしましょう。そのとき、私たちも神さまの素晴らしい働きの一部を担当することができ、天に宝を積むことができます。

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