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礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

マルコ

助演男優シリーズ25

使徒の働き15章35節〜41節

(2022年8月28日)

マルコは臆病ゆえに伝道旅行をリタイアする失敗をしましたが、その後成長して優れた伝道者となり、第二福音書(マルコによる福音書)を書きました。

礼拝メッセージ音声

参考資料

パウロの第2回伝道旅行(紀元49〜52年)出発前のエピソードです。

イントロダクション

今回の主人公であるマルコは、第2福音書、いわゆるマルコによる福音書を書いたと言われています。しかし、彼は最初から素晴らしい信仰者だったわけではありません。クリスチャンになって間もなくのマルコは、やや責任感にやや欠けるという問題点がありました。しかし、後には使徒パウロやペテロに高く評価される人物に成長しています。今日はマルコの変化を通して、私たちにも成長の可能性があることを再確認しましょう。

1.マルコの変化

臆病だったマルコ

最初の言及
マルコの名前が最初に出てくるのは、逮捕されたペテロが神さまによって救出された後のエピソードです。翌朝には処刑されるという夜、天使が現れてペテロを囚われていた砦から外に出してくれました。最初は夢かと思っていたペテロでしたが、これが現実だと気づきます。

「それが分かったので、ペテロは、マルコと呼ばれているヨハネの母マリアの家に行った。そこには多くの人々が集まって、祈っていた」(使徒12:12)。

ここからマルコの本名がヨハネだということが分かります。マルコはギリシア語名で、ヨハネはヘブル語名です。コロサイ4:10では、「バルナバのいとこであるマルコ」と呼ばれています。パウロの同労者であるバルナバとは親戚だったのです。バルナバはレビ族ですから(4:36)、おそらくマルコもレビ族に属していたことでしょう。

母親の名はマリア。父親の名は出てこず、「マリアの家」と呼ばれているので、おそらく父親はこのときには亡くなっていたのでしょう。マリアの家はかなり大きかったようで、クリスチャンたちが集まって祈ったり学んだりしていました。いわゆる「家の教会」の拠点の一つです。

伝承では、イエスさまと弟子たちの最後の晩餐の会場が、マリアとマルコの家だったと言われています。とすると、マルコはイエスさまと十字架にかかる前から面識があり、イエスさまを救い主だと信じていたことでしょう。
アンティオキアへの異動
マルコ本人が聖書に登場するのは、エルサレムからアンティオキアに移ったときです。紀元47年、世界的な飢饉が起こりました。それによってエルサレム教会のクリスチャンたちが困窮していることを知ったアンティオキア教会は、エルサレムに支援物資を送りました。それを届けたのがバルナバとパウロです。2人は無事任務を果たし、帰路につきました。

「エルサレムのための奉仕を果たしたバルナバとサウロは、マルコと呼ばれるヨハネを連れて、戻って来た」(使徒12:25)。
第1回伝道旅行
アンティオキアに戻ってきたバルナバとパウロは、アンティオキア教会から派遣される形で、キプロス島や小アジア(今のトルコ)での伝道旅行に出かけました。
この伝道旅行に、バルナバとパウロはヨハネ、すなわちマルコを連れて行きました。「サラミスに着くとユダヤ人の諸会堂で神のことばを宣べ伝えた。彼らはヨハネも助手として連れていた」(使徒13:5)。

ところがマルコはとんでもないことをやらかします。「パウロの一行は、パポスから船出してパンフィリアのペルゲに渡ったが、ヨハネは一行から離れて、エルサレムに帰ってしまった」(使徒13:13)。

どうしてマルコが途中で脱落したのか理由は書かれていないため、様々な説があります。
  • いとこであるバルナバよりもパウロの方がリーダーシップを取るようになったことに不満を憶えた。
  • ペルゲがマラリアの流行っている地域だったので恐れをなした。
  • キプロス伝道は総督が救われるほど祝福されたのに、ペルゲではそうでなかった、あるいは反対する者たちがいたので恐れた。
  • ホームシックに陥った。
などです。

なお、マルコの福音書でイエスさまが逮捕された場面に登場する「ある青年」が、マルコ自身だと考える人たちがたくさんいます。「ある青年が、からだに亜麻布を一枚まとっただけでイエスについて行ったところ、人々が彼を捕らえようとした。すると、彼は亜麻布を脱ぎ捨てて、裸で逃げた」(マルコ14:51-52)。

もしこの説が本当だとすると、マルコは臆病な性質だったと思われます。ならば、病気や迫害を恐れて逃げ出したというのはありそうな話です。しかし、どんな理由にしても、聖霊なる神さまに命ぜられた大切な伝道旅行を途中で投げ出すのは、無責任だと非難されてもしかたありません。

この頃のマルコはクリスチャンでしたが、まだまだ人格的に問題がありました。

期待されたマルコ

紀元49年、すなわちパウロとバルナバが第1回伝道旅行から戻ってきた翌年、パウロはバルナバにある提案をしました。第1回伝道旅行で誕生した諸教会を再び訪問して様子を見てこようというのです。バルナバもその提案を了承しました。しかし、またもやマルコを巡って問題が生じました。今回皆さんと一緒に交読した箇所です。

「バルナバは、マルコと呼ばれるヨハネを一緒に連れて行くつもりであった。しかしパウロは、パンフィリアで一行から離れて働きに同行しなかった者は、連れて行かないほうがよいと考えた。こうして激しい議論になり、その結果、互いに別行動をとることになった。バルナバはマルコを連れて、船でキプロスに渡って行き、パウロはシラスを選び、兄弟たちから主の恵みにゆだねられて出発した」(使徒15:37-40)。
パウロの性質
パウロはイエスさまを信じる前から、神さまの命令に従うことに非常に熱心でした。それ故に、自分にも他人にも厳しい面がありました。伝道旅行は物見遊山の旅ではありません。人の永遠のいのちを左右する非常に重要な任務です。それを途中で投げ出してしまったマルコを、今回連れて行くことに反対したのは、パウロにとっては当然だったのです。
バルナバの性質
一方、バルナバは「慰めの子」という意味のあだ名で、本名はヨセフといいました。そのあだ名の通りいつくしみ深い性質でした。そして、人の可能性を深く信じられる人です。かつて教会を迫害していたパウロがダマスコで救われ、3年後にエルサレムに戻ってきたとき、エルサレム教会の人々はパウロを警戒して近寄ろうとしませんでした。ところがバルナバはパウロとエルサレム教会の架け橋となり、パウロが教会の人々に受け入れられるよう尽力しました。

マルコは失敗しましたが、バルナバはマルコの成長を信じ期待しました。だから今回も一緒に連れて行こうとしたのです。結局パウロとバルナバの意見が一致することはなく、パウロはシラスを助手に選んで小アジアへ、バルナバはマルコを伴ってキプロス島に渡りました。

成長したマルコ

自分のために、パウロとバルナバが袂を分かってしまったことを知って、マルコはどんな気持ちだったでしょうか。しかし、慰めの子バルナバに可能性を信じてもらい、共にキプロス伝道を行なって実地訓練を受けたことによって、マルコは確実に変わっていきます。
パウロによる再評価
バルナバと一緒にキプロス伝道に出発してから12年後、紀元61年頃のことです。このときパウロはユダヤの大祭司たちに訴えられ、ローマ皇帝に上訴するためにローマの都にいました。彼は自費で家を借り、皇帝による判決を受けて釈放されるまで2年間そこで軟禁されていました。

パウロ自身は家の外に出ることはできませんが、他の人の出入りは割合と自由でした。そこで、何人ものクリスチャンたちがパウロの身の回りの世話をしたり、伝道活動を助けたりしました。そのサポーターの中に、なんとあのマルコがいたのです。

「私の同労者たち、マルコ、アリスタルコ、デマス、ルカがよろしくと言っています」(ピレモン24)。

「私とともに囚人となっているアリスタルコと、バルナバのいとこであるマルコが、あなたがたによろしくと言っています。このマルコについては、もし彼があなたがたのところに行ったら迎え入れるように、という指示をあなたがたはすでに受けています」(コロサイ4:10)。

12年前はまったく評価していなかったマルコとのことを、パウロは「私の同労者」と呼んでいます。そして、彼がやがてコロサイ教会を訪問することを予告しました。もちろん観光のためではなく、コロサイや周辺の町の教会を指導するためです。臆病で無責任だったあのマルコが、一人前の指導者に変えられていたのです。
その後、パウロは釈放されますが、再び捕らえられてローマに送られました。このたびは自分は殺されるだろうとパウロは覚悟していました。パウロが殉教したのが紀元64年と言われていますので、その直前の時期です。そして、パウロは愛する弟子の一人であるテモテに手紙を書きます。その中で、マルコについて触れられています。

「ルカだけが私とともにいます。マルコを伴って、一緒に来てください。彼は私の務めのために役に立つからです」(第2テモテ4:11)。

ここでもパウロはマルコを高く評価しています。マルコは本当に変えられたのです。

諦めの悪いバルナバに励まされながら成長したマルコは、命がけで伝道したり教えたりするパウロと再び共に働くことで、ますます成長していったことでしょう。
ペテロの影響
無責任だったマルコが素晴らしい指導者に変えられたのは、バルナバとパウロの影響と共にペテロの影響も考えられます。教会の伝承によると、マルコはペテロの通訳を務め、ペテロから聞いた話を元に福音書を書いたと言われています。

事実、ペテロも手紙の中でマルコについて触れています。「あなたがたとともに選ばれたバビロンの教会と、私の子マルコが、あなたがたによろしくと言っています」(第1ペテロ5:13)。

それでは、私たちはマルコから何を学ぶことができるでしょうか。

2.私たちには成長の可能性がある

自分の可能性を自分でも信じよう

バルナバはマルコの成長の可能性を信じ続けてくれました。しかし、もしもマルコ自身が自分のことを信じられなかったとしたら、彼はバルナバの信頼に応えようとはしなかったでしょう。

仕事でも人間関係でも性格的なことでも、「どうせ自分には無理だ」と思うことがないでしょうか。そう思う理由は、かつて犯してしまった失敗かもしれません。何度やってもうまくいかなかったという挫折体験かもしれません。あるいは他の人から「お前にはどうせ無理だ」と言われたからかも知れません。

しかし、私たちは、自分がどんなにちっぽけな存在であっても、かつてどんな失敗をしたとしても、それでもイエスさまの前で変化・成長する可能性があるということを信じましょう。

この話をお読みください

あなたがこれまでの人生の失敗や、人からのダメ出しによって、自信を失っている分野がありますか? それでもあなたには成長の可能性があります。私にも可能性があります。イエスさまは私たちの成長を信じ、期待してくださっています。ですから私たちも自分の可能性を信じ、今までできないと思っていたことに挑戦しましょう。

厳しい言葉も受け止めよう

マルコのそばには、可能性を信じてくれたバルナバだけでなく、ビシッと問題点を指摘してくれたパウロもいました。そのおかげで、マルコは「自分は今のままではダメだ」と思ったことでしょう。そして、優しいバルナバと行動を共にしても甘えきってしまうことなく、イエスさまが願っておられる姿を目指して努力を続けました。だからこそ、後にパウロやペテロに認められるような働き人となったのです。

その一方で、いつでも自分の味方でいてくれるバルナバの存在があったからこそ、パウロの厳しい指摘を逃げずに受け止められたとも言えます。

自分に足りないところはどこか、どこがさらなる成長のポイントなのか。その指摘をしっかり受け止めるには、自分に自信がなければできません。

では、私たちの自信はどこから来るのでしょうか。他の人との比較ではありません。自分より劣っている人と比較して自信を得ていると、自分より優れた人の前では落ち込んだり嫉妬に狂ったりしてしまうでしょう。私たちの自信の種は、自分が神さまに愛されているということです。確かに罪を犯し、失敗してしまうことがあります。それでもどんな罪も失敗もイエスさまの十字架と復活を信じたことによって赦されています。

自分の行動や態度の間違いを認めたからといって、自分の価値が下がるわけではありません。自分の足りないところを認めることは、成長のためにはどうしても必要なことです。自分の過ちを認めることは負けではありません。むしろ勝利です。

ですから、誰かに間違いを指摘されたり、痛いメイアって自分で失敗に気づいたりしたときにはごまかさないで認め、必要に応じて謝罪し、望ましい生き方を始めましょう。その積み重ねによって、私たちは成長します。

成長できる環境に身を置こう

マルコの幸いは、バルナバ、パウロ、ペテロといった素晴らしい信仰の先輩と共にいたことです。

私たちは触れたものの影響を受けます。ですから、自分自身をどのような環境に置くか、私たちは注意深く考えて選ばなければなりません。どんな人と交流を持つか、どんなメディアに触れるか、どんな言葉を聞いたり読んだりし続けるか……。自分だけでは決められないものもありますが、できる範囲で環境を整えましょう。
高校生の証し
この話をお読みください。
以前、別の教会で聞いた証しです。高校生のAくんは、インターネットの掲示板を読んだり、自分で書き込んだりするのが趣味でした。特に有名人の問題点を指摘してこき下ろす掲示板がお気に入りだったとか。誰かを批判すると、どういうわけかむしゃくしゃした気持ちが解消して、また明日もがんばろうという意欲が湧いてきます。

しかし、教会の礼拝式の証しで、あるクリスチャンが語った「自分の魂が喜ぶ」というフレーズが耳に残りました。そしてAくんは思いました。「ネット掲示板で人の悪口を読んだり書いたりすると、僕の気持ちは喜ぶけれど、僕の魂は喜んでいるだろうか」。さらに思いました。「僕の内に住んでおられる聖霊なる神さまは喜んでいるだろうか。そして、僕がイエスさまに似た者に変えられるのに、ネット掲示板を読み書きするのは役立っているだろうか……」。

出した答えはノー。Aくんは批判に満ちあふれたあの掲示板を読むのをきっぱりとやめてしまいました。すると、魂が喜ぶ感覚を味わうことができたのだそうです。
(当サイト「ショートエッセイ」より)
神のメッセージに触れ続けること
環境を整える上で特に大切なことは、神さまからの愛のメッセージ、そして「こういう生き方に変えて欲しい」という期待のメッセージに触れ続けるということです。私たちクリスチャンが定期的に礼拝式などに参加したり、聖書を読んだり祈ったり賛美を歌ったりするのは、私たちを成長できる環境に置くためでもあります。

今よりもう少しだけ、神さまの愛のメッセージや期待のメッセージに触れるため、工夫できそうなことは何ですか? 見つかったらぜひ実践してみてください。

まとめ

マルコは成長しました。私たちも成長できます。

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