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礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

神殿奉献

イエス・キリストの生涯シリーズ2

ルカによる福音書2章21節〜39節

(2022年10月9日)

神殿奉献とは、イエスキリストが生まれた後にエルサレム神殿で聖別の儀式をしたことを指します。それをシメオンとアンナというお年寄りが祝福しました。

礼拝メッセージ音声

参考資料

イエスさまの両親であるヨセフとマリアがイエスさまを連れてエルサレム神殿に行ったのは、マリアの出産後の汚れのきよめのため、そしてイエスさまを聖別(神さまのために特別に取り分けて他と切り離すこと)するためです。それぞれ聖書の以下の箇所に定められています。

レビ記
12:1 【主】はモーセにこう告げられた。
12:2 「イスラエルの子らに告げよ。女が身重になり、男の子を産んだとき、その女は七日の間汚れ、月のさわりの不浄の期間と同じように汚れる。
12:3 八日目には、その子の包皮の肉に割礼を施す。
12:4 彼女は血のきよめのために、さらに三十三日間こもる。そのきよめの期間が満ちるまでは、いかなる聖なるものにも触れてはならない。また聖所に入ってはならない。
12:5 女の子を産んだ場合は、月のさわりの時と同じように二週間汚れる。彼女は、血のきよめがなされる必要があるので、さらに六十六日間こもる。
12:6 彼女のきよめの期間が満ちたら、息子の場合であっても娘の場合であっても、全焼のささげ物として一歳の子羊一匹と、罪のきよめのささげ物として家鳩のひなか山鳩を一羽、会見の天幕の入り口にいる祭司のところに持って行く。
12:7 祭司はこれを【主】の前に献げ、彼女のために宥めを行い、彼女はその出血の汚れからきよくなる。これが、男の子であれ女の子であれ、子を産む女についてのおしえである。
12:8 しかし、もし彼女に羊を買う余裕がなければ、二羽の山鳩か、二羽の家鳩のひなを取り、一羽は全焼のささげ物、もう一羽は罪のきよめのささげ物とする。祭司は彼女のために宥めを行い、彼女はきよくなる。」

出エジプト記
13:2 イスラエルの子らの間で最初に胎を開く長子はみな、人であれ家畜であれ、わたしのために聖別せよ。それは、わたしのものである。

民数記
18:15 人でも家畜でも、【主】に献げられるすべての肉なるもので、最初に胎を開くものはみな、あなたのものとなる。ただし、人の長子は、必ず贖わなければならない。また、汚れた家畜の初子も贖わなければならない。
18:16 その贖いの代金として、生後一か月たってから、一シェケル二十ゲラの聖所のシェケルで、銀五シェケルを払わなければならない。

イントロダクション

今回は、ヨセフとマリアがイエスさまと共にエルサレム神殿に詣でたときの場面を取り上げます。一般に「神殿奉献」と呼ばれています。

(画像「テマサトラベル」公式サイトより)
このとき2人のお年寄り、シメオンと女預言者アンナが現れて、それぞれ神さまをほめたたえ感謝をささげました。ここからイエスさまに与えられた救い主の使命と、それが私たちにどんな関係があるのかということを見ていきましょう。

1.エルサレム神殿にて

割礼と奉献

割礼
イエスさまが誕生して8日目になりました。モーセの律法では、生まれたのが男の子の場合、この日に割礼を施すことになっていました。今でも多くのユダヤ人がこの慣習を守っています。

割礼とは、男性器を覆っている包皮の一部を火打ち石のナイフで切り取る儀式で、生まれた子どもが神さまと契約を結んだアブラハム、イサク、ヤコブの子孫、すなわちユダヤ人であることを表しています(創世記17:10-14)。

神さまが私たちにくださる救いは、神さまがアブラハムと結んだ契約(アブラハム契約)に基づいています。

「【主】はアブラムに言われた。『あなたは、あなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとする。あなたは祝福となりなさい。わたしは、あなたを祝福する者を祝福し、あなたを呪う者をのろう。地のすべての部族は、あなたによって祝福される』」(創世記12:1-3)。

イエスさまはアブラハムの子孫であるユダヤ人として生まれ、やがて神さまの契約に基づいて全世界の人々を祝福することになります。
名付け
また名前も割礼を受ける日につけられます。イエスさまの場合には、マリアが妊娠する前に天使ガブリエルがイエスという名前にするよう命じていましたので(1:31)、その通りにしました。

イエスという名前は、ヘブル語の発音だとイエシュアです。旧約聖書の日本語訳では、この名前はヨシュアと訳されています。「主は救い」という意味があります。救い主にふさわしい名前ですね。
きよめの期間
それから生後40日になるまで、マリアは室内にこもって過ごしました。出産したのは放牧している羊などを避難させるための洞窟でしたが、ヨセフがあれこれ尽力してそのうちどこかの家に入ることができたのだと想像します。

マリアがこもっていたのは、モーセの律法の定めに従ってのことです。上の参考資料にも書きましたが、男の子が生まれた場合には、母親は出産そのものの汚れと、出産時の出血による汚れがきよめられるために7日+33日=40日間こもることになっていました。

きよいか汚れているかというのは、宗教的な取り決めの上での区別です。汚れているといっても、妊娠・出産というできごとを神さまが嫌っておられるわけでも、出産した人が不潔であるとか人格的に劣っているとかいうことではありません。

モーセの律法では、「これはきよい」「これは汚れていてきよくない」と、様々なものや行動が区別されています。その区別が私たちにも感覚的に理解できるものもあれば、理解できないものもあります。モーセの律法が汚れについて語っているのは、次の2つのことをユダヤ人に教えるためだったと思われます。
  • きよいかきよくないかを決めるのは神さまであって人間ではないということ。
  • きよめられるための方法も、人間が勝手に考え出したものは無効であり、神さまが教えてくださった方法に従わなければならないということ。
また、出産にともなって設けられた40日間(女の子の場合には80日間)は、出産したばかりの母親にとってはゆっくり休んで子どもと向き合える時間となったはずです。
きよめのための犠牲
40日間のきよめの期間が満了すると、ヨセフとマリアはイエスさまを連れてエルサレムに上りました。2つの目的のためですが、1つはマリアのきよめを完了するためです。モーセの律法では、出産した母親がきよめのための40日間を過ごした後、神さまにささげものをすることになっていました。

そのささげものとは、「全焼のささげ物として一歳の子羊一匹と、罪のきよめのささげ物として家鳩のひなか山鳩を一羽」(レビ12:6)です。ただし、貧しくて子羊を用意できない人の場合は、子羊の代わりに家鳩のひなか山鳩を1羽ささげて良いことになっていました。その場合には、家鳩の雛か山鳩を2羽ささげることになります。

今回マリアがささげたのは「山鳩一つがい、あるいは家鳩のひな二羽」(24節)でした。ですから、ヨセフ一家が貧しい暮らしをしていたことが分かります。
  • ちなみにこの事実は、東方の博士たちがイエスさまの誕生直後に来たわけではないという証拠になります。博士たちは黄金、乳香、没薬をイエスさまに贈りました。もしそれが手元にあれば、子羊を用意できていたはずです。ヨセフは非常に敬虔な人物ですから、もちろん手元に宝物があるのをごまかすような人ではありません。
イエスの奉献
ヨセフ一家がエルサレム神殿にやってきた2つ目の理由は、イエスさまを聖別するためです。

参考資料にも書きましたが、母親から最初に生まれた長男は神さまのものとされていました。これは、出エジプトのできごとが元になっています。イスラエルの人々を解放しようとしないエジプト王に対するさばきとして、神さまは10の災害をエジプトに下しました。その最後のものは、エジプト中の人や家畜の初子(母親が最初に産んだ男子/雄)が死んでしまうというものです。

そのさばきからイスラエル人の初子を守るため、神さまは家の入口の門柱と鴨居に子羊の血を塗るよう指示なさいました。その地が塗られている家にはさばきが下らなかったのです。そのことを思い起こさせるため、律法は初子が産まれたら神さまの前で聖別するよう命じています。具体的には、その子を犠牲として祭壇にささげる代わりに、銀5シェケル支払って購うのです。

シメオンの賛歌

するとそこに1人のお年寄りが現れました。シメオンという男性です。この人については、信仰の助演男優シリーズでも取り上げました(こちらの記事参照)。

この人は「イスラエルが慰められるのを待ち望んでいた」(25節)と書かれています。そして、キリスト(救い主)を見るまでは死なないという約束を聖霊なる神さまからいただいていました(26節)。

イスラエルが慰められるというのは、救い主が登場して神さまに逆らう者たちを地上から一掃してくださり、王として世界を愛と平和と正義によって治めてくださるようになることを表しています。その結果として、歴史的に様々な苦しみを味わってきたイスラエルの国、そしてユダヤ人たちに慰めがやってくるのです。

そして、いよいよ王としてやってくると預言されてきた救い主が登場しました。聖霊なる神さまによって、目の前の赤ちゃんがその救い主だと知ったシメオンは、神さまに賛美をささげました。
その賛美の中で、そして賛美の後でマリアに語った言葉の中で、シメオンは3つのことを語っています。
(1) イスラエルの慰めが近づいたこと
これは、世界の王である救い主が誕生したからです。
(2) ユダヤ人だけでなく、異邦人にも救いがもたらされること
シメオンは世界に救いをもたらす救い主のことを、「異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの栄光」(32節)と呼びました。救い主の王国に招かれて慰めを受けるのは、ユダヤ人だけではありません。救い主を信じる異邦人、すなわちユダヤ人以外の民族もまた招かれています。
(3) 救い主がひどい苦しみを味わうこと
旧約聖書の預言者たちは、やがて現れる救い主を2つのイメージで語りました。1つは地上の悪をさばき、信じる者たちを愛と正義と平和によって治める王としてのイメージ。もう1つはひどい苦しみを味わいながらも神さまに忠実に従う苦難のしもべとしてのイメージです。

シメオンは、最後に苦難のしもべとしての救い主について語りました。ヨセフとマリアを祝福すると、シメオンは母マリアに次のように預言します。

「ご覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人が倒れたり立ち上がったりするために定められ、また、人々の反対にあうしるしとして定められています。あなた自身の心さえも、剣が刺し貫くことになります。それは多くの人の心のうちの思いが、あらわになるためです」(34-35節)。

やがてイエスさまは十字架につけられ、殺されることになります。シメオンは、その場面を目撃することになる母マリアが、心を剣で刺し貫かれるほどの痛み悲しみを味わうことになると語っています。

しかし、その痛み悲しみはそのままにはなりません。イエスさまは3日目に復活します。そして、十字架にかけられるのは、全人類の罪を神さまに赦していただくためです。そのために、全人類の罪のために用意されていたさばきを身代わりに引き受けてくださったのです。

アンナの感謝

シメオンに続いて、2人目のお年寄りが登場します。この人は84歳の女性で、アンナといいます。いつも神殿にいて、断食と祈りをささげる毎日を送っていました。その日常の中で、アンナは救い主に出会います。

シメオンは「正しい、敬虔な人」(25節)と呼ばれていますが、アンナも正しく敬虔な人でした。神さまの前に正しい生き方をしよう、神さまのために自分にできることをしようと思って努力している人には、神さまは救いや成長のために必要な情報や、慰めや励ましを豊かに与えてくださるのですね。

救い主に出会って喜んだアンナは、神殿にやってくる人々に救い主誕生の知らせを伝えて回りました。

では、ここから私たちは何を学ぶことができるでしょうか。それは、神さまが私たちにくださる救いは、1回限りのものではなく永遠に続くものだということです。

2.救いの始まりと完成

義認

救いの始まりは私たちの罪が赦されて、神さまとの敵対関係が解消されることです。これを聖書の学者は「義認」と呼びます。

罪は神さまの存在、あるいはその尊厳を無視することです。神さまに対する大変な失礼ですから、当然神さまの怒りを招きます。このままだとその怒りはさばきとなって下り、人間は罰を受けて永遠に苦しみを味わうこと、すなわち滅びを招くことになるでしょう。

しかし、愛に満ちあふれた神さまは、どういうわけか人間を滅ぼすことを良しとなさいませんでした。罪を取り除いて、もう一度仲の良い関係に戻りたいと願ってくださったのです。

ところが、正義である神さまは罪を無かったことにはできません。罪は必ずさばかれなければならないのです。そこで、御子イエスさまが私たちの罪の罰を身代わりに受けることによって、罪のさばきが完了して、人間は罪を赦され、神さまに子どもとして愛され、祝福してしていただくことができるようになりました。

ただ、私たちにもしなければならないことがあります。神さまは救いに必要な条件をすべてご自分の方で用意してくださいました。たとえれば、プレゼントが私たちの目の前に差し出されている状態です。そのプレゼントを私たちが受け取らなければ、私たちのものになりませんね。救いも私たちが受け取らなければ、私たちのものになりません。
神の方法に従おう
では、具体的にどのようにして救いを受け取ればいいのでしょうか。それは恵みの福音を事実だと信じ受け入れることです。恵みの福音とは、「この私の罪を赦すためにイエス・キリストは十字架にかかられた。そのためイエスさまは死んで葬られたけれど、3日目に復活なさった」ということです(第1コリント15:1-8参照)。
福音を信じること以外に救いの条件はありません。ところが、福音を信じるだけというのはあまりにも簡単なので、人間の心には「これだけでいいはずがない。もっと何かの条件が必要なはずだ」という思いがわき上がってくることがあります。

そして、新しい条件を付け加えるのです。特別な修行が必要だとか、一定額の献金をしなければならないとか、聖書の教えを忠実に守らなければならないとか、指導者に服従しなければならないとか……。

以前カウンセリングを担当した高校生の話をします(本人の許可は取ってあります)。 この人は、恵みの福音以外に「良い子でなければならない」という条件を付け加えていました。そのため、いつも自分が神さまにそのまま愛され、守られ、祝福されているという実感が持てないで、罪責感に苦しんでいたのです。
高校3年生で不登校の女の子、Mちゃんのカウンセリングしたことがあります。登校のために電車に乗ると、「みんなが自分のことを本当によい子かどうか見張っている」と感じて、途中でいたたまれなくなって降りてしまうのです。

Mちゃんは、牧師の娘として、生まれたときからキリスト教に親しんでいましたが、Mちゃんの神さまイメージは、「私が罪を犯さないか、いつも見張っている怖い神さま」でした。それが、Mちゃんのセルフイメージと生き方に大きな影響を与えていたのです。

そこで、Mちゃんに尋ねてみました。「聖書はどう言っているかな? イエスさまは、今のMちゃんのことをダメだって言ってる?」 しばらく考えていたMちゃんは、「お前の罪は全部私が赦したから、お前はダメじゃないっておっしゃってます。今のお前を愛している、大切だとおっしゃってます」。

「じゃあ、これから先のあなたについては? 罪を犯さないように、あなた自身ががんばって成長しないといけないの?」と尋ねると、「あなたのがんばりじゃなくて、聖霊さまが成長させてくれるから、心配するなとおっしゃってます」。

「じゃあ、『お前はダメだ』という悪魔の声じゃなくて、『あなたは大切。これから先のことも心配するな』とおっしゃるイエスさまの声に聞き従っていこうね」と申し上げると、Mちゃんは神さまに悔い改めの祈りをし、これからはイエスさまの声を聞いていくことを決意しました。こうして、カウンセリングは終了しました。
(2018年12月30日の礼拝メッセージより)
恵みの福音を信じるだけで、私たちの過去の罪も、現在の罪も、未来の罪も、すべて完全に赦されました。そのことを改めて確認して、感謝しましょう。

栄化

シメオンは「イスラエルの慰め」、すなわち救い主がもたらす愛と平和の王国の実現について語りました。

私たちの人生は、死んでおしまいではありません。聖書によると、死んだ後も何段階にも渡って祝福が用意されています。しかも、それらは先に行けば行くほどグレードアップしていきます。
天のパラダイス
人間には物質的な部分である肉体と、非物質的な部分である魂があります。生きている間はこの2つは一体になっていますが、死ぬと分離します。そして、肉体は朽ち果てたり、火葬されて灰とガスになったりします。

一方の魂は、それぞれ天のパラダイスか地下のハデスに送られます。罪を赦されて神さまとの関係が回復した私たちクリスチャンの魂は、パラダイス行きがすでに確定しています。一旦福音を信じた人の救いが、後になって取り消されることは決してありません。安心ですね。

天のパラダイスは慰めの場所です。そこで私たちは地上の苦労がいやされ、ゆっくりとくつろぐことができます。そこには、旧約時代の信者たちの魂もいます。あのアブラハムやモーセ、ダビデといった有名人や、助演男優シリーズで取り上げた渋い信仰者たちにも、会おうと思えば会うことができるでしょう。楽しみですね。
携挙
時期は分かりませんが、やがて携挙が起こります。携挙とは、そのときまでに死んだクリスチャンが復活して栄光の体が与えられ、そのとき地上で生きているクリスチャンも栄光の体に変えられ、共に天のパラダイスに引き上げられることです。それまでは魂だけの状態だったのが、今度は体もある状態になります。

その後、地上は大患難時代を迎えます。反キリストの勢力がユダヤ人や携挙後に救われた異邦人たちを苦しめます。また様々な天変地異や悪霊たちによって地上の人々は大変な苦しみを味わいます。しかし、天のパラダイスに引き上げられた人たちは、そのような苦しみから一切守られます。
再臨と千年王国
7年間の大患難時代の終わりに、イエスさまが地上に再臨なさいます。そして、反キリストと彼に従う人々を地上から一掃し、さらにサタンとその配下である悪霊も捕らえて活動できなくしてしまいます。

そのとき、天のパラダイスにいたクリスチャンもイエスさまと一緒に地上に戻ってきます。まだ体が与えられていなかった旧約時代の信者たちや、大患難時代に殉教した信者たちも復活して栄光の体が与えられます。

それからイエスさまは、地上に理想的な王国を作り上げます。聖書はこれを神の国とか天の御国と読んでいます。千年間続くので、千年王国とも呼ばれます。

神の国には、復活した信者たちや、大患難時代を生き延びた信者たちが住民として招かれます。そして、それぞれにワクワクするような働きの場が与えられます。

千年王国でどんな祝福をいただけるかは、私たちが生きている間に行なった行ないに応じて決まります。罪は赦されますからマイナス査定は無く、どれだけ神さまに忠実に生きたかによってプラス査定が積み重なっていく方式ですね。ですから、どうせ赦されるんだから安心して罪を犯そうというのは、長期的に見れば損をしてしまう生き方です。
新天新地
神の国での千年間が過ぎると、捕らえられていたサタンと悪霊たちが解放されます。サタンたちは、千年王国の間に生まれた人の中で、イエスさまを信じなかった人たちを集めて、イエスさまに最後の戦いを挑んできます。しかし、イエスさまによって完全に敗北し、みんなまとめて燃える火の池、すなわちゲヘナに投げ込まれてしまいます。

その後、今の宇宙は全部消えて無くなり、聖書では「新しい天と新しい地」と呼ばれる新しい宇宙が創造されます。私たち信者はそこに住み、永遠の時を過ごします。そこは千年王国よりもさらに素晴らしい場所です。もはや死もなく苦しみもありません。
これらの未来の祝福のことを、学者たちは「栄化」と呼びます。私たちにはそういう未来が待っています。今だけに囚われて一喜一憂しないようにしましょう。

聖化

では、福音を信じて義と認められた過去と、天のパラダイスから始まる様々な祝福が用意されている未来の間、すなわち現在はどうなのでしょうか。そこにもちゃんと救いの祝福が用意されています。それは、イエスさまを信じたとき以来私たちの内に住んでくださっている聖霊なる神さまのお働きによって、私たちがだんだんときよめられ、成長し、イエスさまに似たものに変えられていくという祝福です。この祝福のことを「聖化」と呼びます。

将来訪れる千年王国での祝福は、今の私たちの行動にかかっていると申し上げました。私たちは未来の自分への投資をしているようなものです。しかもその投資は、私たちの努力だけでもたらされるのではなく、聖霊なる神さまのお助けがあります。

カウンセリングしたMちゃんは、その後学校にいけるようになりました。そればかりか、自分のように悩んでいる人たちにイエスさまの愛を伝えたいと思うようになり、神学校に進んだと聞きました。人は変わることができます。人にはできなくても、神さまにはそうする力がおありです。

私たちも今、聖霊さまの助けを改めて求めましょう。
  • 聖霊さまが私たちを内側から満たしてくださいますように。
  • 私たちが神さまのみこころをもっとよく知りたい、またみこころに従いたいという強い願いが与えられますように。
  • そして、様々な誘惑や困難を乗り越えて、実際に行動に表すことができますように。

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