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礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

親離れ

イエス・キリストの生涯シリーズ4

ルカによる福音書2章40節〜52節

(2022年10月23日)

12歳になったイエスキリスト親離れをし、天の父なる神との親子関係を強烈に意識するようになった頃のエピソードを紹介します。イエスはエルサレムで迷子になりました。

礼拝メッセージ音声

参考資料

41節の「過越の祭り」は、出エジプトのできごとを記念して毎年春に行なわれるイスラエルの例祭です。過越の翌日から7日間行なわれる「種なしパンの祭り」と合わせた8日間のことを、「過越の祭り」あるいは「種なしパンの祭り」と呼ぶ場合もあります。

なお、モーセの律法では、過越を含む3つの祭りのときに、毎年神さまが選んだ場所(1世紀当時は神殿のあったエルサレム)に詣でるよう命じています。「あなたのうちの男子はみな、年に三度、種なしパンの祭り、七週の祭り、仮庵の祭りのときに、あなたの神、【主】が選ばれる場所で御前に出なければならない」(申命記16:16)。もっとも、経済的な理由や距離の問題などで、実際に年3回の巡礼を行なうことができる人は限られていたようです。

イントロダクション

イエスさまの生涯シリーズ4回目にして、いよいよイエスさま本人がしゃべります。イエスさまはこのとき12歳。当時イエスさま一家はガリラヤ地方のナザレに住んでいましたが、そこから3日ほどの距離にある首都エルサレムで起こったエピソードを今回は取り上げます。

ここから私たちは神さまとの関係、そして地上の親との関係について考えてみたいと思います。それによって、私たちが小さいときから身につけてきた古い生きづらさから解放されるのだという希望をいただきましょう。

1.エルサレムでのできごと

エルサレム詣で

子どもの成長過程
前回、イエスさま一家がナザレに戻ったという話をしました。イエスさまが大体4歳の頃です。それから約8年の時がたち、イエスさまは12歳になっておられます。

イスラエルの子どもたちは、成長するに従って様々な儀式や教育を受けます。以下は中川建一師著「日本人に贈る聖書物語III メシアの巻」からの引用です。
  • 生後8日:割礼と命名。
  • 5歳:家庭や会堂(シナゴーグ)でヘブル語の文字を習い、モーセの律法の学びが始まる。
  • 10歳:口伝律法(バビロン捕囚から帰還した後に、律法学者たちによって新たに付け加えられた様々な戒律。福音書では「言い伝え」と呼ばれています)の学びが始まる。
  • 12歳:親から職業訓練を受け始める。
  • 13歳:成人式(バール・ミツバ)。
ですから、12歳になったイエスさまは父ヨセフから大工仕事を習い始めています。大工と言っても、家そのものを建てるのは石やレンガを扱う石工の仕事で、大工は木や金属を使って家の扉や内装、家具や農機具などを作るのが仕事でした。
過越の祭りへの参加
イエスさまが12歳の年の春、父であるヨセフは家族を連れてエルサレムに上りました。「過越の祭り」に参加するためです。モーセの律法には、毎年行なうべき祭りが7つ挙げられていますが、参考資料に書いたとおり、そのうちの3つ、過越の祭り、七週の祭り、仮庵の祭りはエルサレムで祝うことになっていました。

ナザレからエルサレムまでは3日ほどかかりますし、宿泊費やささげものなどの費用もかかります。貧しいヨセフ一家にとって毎年3回の巡礼は不可能でした。それでも41節に書かれているとおり、彼らは毎年過越の祭りのためにエルサレムに上っていました。ヨセフとマリアが敬虔な信仰者だったということが分かります。

過越の祭りは、ユダヤの暦でニサンの月の14日に行なわれました。そして翌15日から7日間行なわれるのが「種なしパンの祭り」です。この2つの祭りは連続しているので、まるで1つの祭りであるかのように扱われることがありました。このたびのヨセフ一家も、過越の祭りと種なしパンの祭りの計8日間エルサレムに滞在したと思われます。

それからヨセフたちは、ナザレに戻っていきました。

迷子の神童

エルサレムを発って1日。最初の宿泊地に着いてみると、イエスさまの姿がどこにも見当たりません。ヨセフもマリアもイエスさまが一緒に歩いていないことには気づいていましたが、親戚か知り合いと一緒にいるのだろうと思い込んでいました。驚いた2人は、急いでエルサレムに飛んで帰りました。
律法の教師たちとの議論
ヨセフとマリアはあちこち探し回った挙げ句、ついにイエスさまが神殿にいるのを発見しました。なんと、律法の教師(ラビ)たちと議論しているではありませんか。
イエスさまは、大人になって公の働きを始めると、モーセの律法については完璧に守られました。しかし、代々の律法学者たちが勝手に作り上げた口伝律法(言い伝え)については否定し、たびたび律法学者やパリサイ人たちを批判しては言い負かされます。

というのも、口伝律法はモーセの律法を研究する中で作り上げられていったはずなのに、モーセの律法の教えと矛盾したり、モーセの律法のスピリットを台無しにしたりするものが多かったからです。

たとえば、モーセの律法には安息日規定があって、土曜日(正確には金曜日の日没から土曜日の日没まで)には働いてはいけないことになっていました。そこで代々の律法学者たちは、何が禁止されている労働なのかを口伝律法で規定していきました。

それによると、安息日に病人や怪我人を治療することは労働に当たるため、してはならないとされています。しかし、モーセの律法全体は弱者に対する慈愛に満ちており、弱者を助けることを正しいことだと教えています。ですから大人になったイエスさまは、安息日でも平気で人をいやしましたし、それをとがめるパリサイ人や律法学者たちを非難なさいました。

ですから12歳の時の議論も、もしかしたら口伝律法の矛盾についてのやり取りだったのかもしれません。とにかく、教師たちが舌を巻くほど、イエスさまの知恵は優れていました。
叱るマリア
イエスさまを見つけたマリアは、思わずとがめる言葉を投げかけます。「どうしてこんなことをしたのですか。見なさい。お父さんも私も、心配してあなたを捜していたのです」(48節)。マリアのこの言葉は、親としては当然です。
イエスの返答
ところが、イエスさまは心配かけたことを謝罪するどころか、ヨセフとマリアが理解不能なことを語ります。「どうしてわたしを捜されたのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当然であることを、ご存じなかったのですか」(48節)。

イエスさまが語られた「家」という言葉は、「仕事」とも訳すことができます。もしそう訳すなら、「わたしが自分の父の仕事をするのは当然だ」という意味になります。

イエスさまは、マリアが聖霊さまのお働きによって乙女のまま妊娠して誕生しました。そして、血のつながりのないヨセフを地上の父として育っています。12歳は職業訓練が始まる年齢だと申し上げました。大工であるヨセフの子として、イエスさまも大工仕事を学んでおられました。

その一方で、天の父なる神さまの仕事を学び始めておられました。ご自分がただの人間ではなく、天の父なる神さまのひとり子、救い主であるという自覚、ヨセフとマリアは地上の親ですが、自分の本当の親は天の父なる神さまであるという認識が芽生えていたということです。

マリアとヨセフは、イエスさまが神の御子であるということは誕生前に知らされています。しかし、12年間一緒に暮らす中で、パッと見た目は普通の子どもと変わりませんから、だんだんとそのような意識は薄れていたことでしょう。それが、このたびの迷子事件によって改めて思い知らされることになりました。いやはや、救い主の地上の親になるというのは大変ですね。

その後

さて、マリアとヨセフに再会したイエスさまは、その後もエルサレムに留まり続けた……わけではなく、一緒にナザレに戻っていきました。そのことについて、聖書は次のように書いています。「それからイエスは一緒に下って行き、ナザレに帰って両親に仕えられた」(51節)。

イエスさまは、ご自分が神の御子であるという強烈な自覚をお持ちでした。しかし、だからといって地上の親をないがしろにしたわけではありません。他のユダヤ人の子どもたちと同じように、両親の指導に従い、家業である大工仕事の手伝いをしました。

こうして、イエスさまは成長していかれます。私たちと同じように子ども時代を過ごし、青春時代を過ごされました。その中で、神さまに愛され、人に愛されました。そして、約18年の時が流れ、イエスさまは30歳になられました。そして、いよいよ救い主としての公の働きが始まります。それについては次回以降見ていきましょう。

では、今回の箇所から私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

2.私たちは古い生き方の癖から解放される

子ども時代の影響

私たちは、子どもの頃からの様々な体験によって人格が作り上げられています。特に周りの人たち、親や祖父母、きょうだいや教師や友だちとの関わりが、私たちに大きな影響を与えています。その多くは良い影響ですが、中には私たちの生き方を窮屈にしてしまう影響もあります。
たとえば
たとえば小さいときに身体的な虐待や育児放棄を受けたとしたら、世界に対する基本的な信頼が十分育たない恐れがあります。その結果、なかなか他人に頼ることができずに問題や仕事を1人で抱え込んだり、何度も不適切な言動を繰り返して他人の愛情や善意を試そうとしたりするかもしれません。

子どもの頃にいじめを経験した人の中には、自己肯定感が損なわれて自分でも自分を大切にできなくなって自傷行為を繰り返してしまったり、人前に出るとものすごく緊張してしまって本来の自分の力を発揮できなくなったりするケースもあります。

Aさんは、厳しい両親や祖父母の元で育ち、何かにつけてダメ出しされて叱られてきたそうです。その結果すっかり自信を削り取られてしまい、大人になってから何かをしようとしても「どうせ自分にはできない」とあきらめてしまうことを繰り返してきました。

Bさんには、病弱なきょうだいがいて、親はその子への対応に時間やエネルギーを取られて、いわゆるいい子だったBさんにはあまり関わってくれなかったそうです。Bさんは、自分の欲求は抑え込んで我慢し、積極的に親を助けて家事を手伝いました。それは素晴らしいことなのですが、Bさんは極端な我慢癖を身につけてしまいました。大人になると、頼まれた仕事や面倒ごとを断ることができずにどんどん引き受けるようになりました。そしてついに限界を迎えて倒れ、うつ状態に陥ってしまったのでした。

Cさんの親はとても心配性でした。そして、Cさんが何かしようとすると、「危ないからやめなさい」「あなたには無理だからやめなさい」と禁止されました。その結果、進学や就職など、人生で何か決断しなければならないときには、極力人から反対されないような無難な道を選択する癖が付いてしまったようです。それで満足しているならいいのですが、いつも後から振り返って、「あの時こうしていれば良かった」と後悔してしまうのです。

Dさんの父親はアルコール依存症でした。それで苦労したDさんは、自分は絶対に父親のようにはなるまいと思っていました。ところが、大人になって仕事や人間関係のストレスが大きくなると、パチンコでストレス解消するようになります。たしなむ程度なら問題ありませんが、やがて賭ける額が大きくなり、すっかりのめり込んでしまうようになりました。まるで父親をモデルにしたかのように、ギャンブル依存症になってしまったのでした。

ほとんどの親や祖父母や教師たちは、子どもを大切に思っていて、こいつをダメ人間にしてやろうなどと思ってはいません。しかし、それでも私たちは子ども時代の人間関係の悪影響を、多かれ少なかれ受けています。

しかし、そのような古い人間関係からきた悪影響から私たちは解放されるというのが、今回の箇所からイエスさまが私たちにくださるメッセージです。

神の子としての新しい身分

イエスさまは、ヨセフとマリアに育てられました。ヨセフもマリアも素晴らしい信仰者でしたし、イエスさまを愛情深く、そして賢く育てました。が、それでも2人は罪人であって不完全です。また公の働きを始めたイエスさまがナザレに戻ってきたときの反応を見ても分かるとおり、ナザレに住む人たちはあまり信仰的とは言えない人たちでした。ですから、イエスさまにも悪影響が及んでもおかしくありませんでした。

しかし、イエスさまには自分は神の御子であるという強烈な自覚がありました。そして、52節に書かれているとおり神さまから愛情を注がれ、神さまから教育・訓練を受けました。その結果、イエスさまは周りの大人たちの悪影響から守られました。それどころか、神さまの子どもにふさわしい人格、生き方を身につけました。

人として来られたイエスさまは私たちのモデルです。イエスさまの十字架と復活を信じたとき、私たちの罪は赦されました。もはや神さまの敵ではなくなり、神さまの子どもにしていただきました。イエスさまが神の家族の長男で、私たちはその兄弟姉妹です。「神は、あらかじめ知っている人たちを、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたのです。それは、多くの兄弟たちの中で御子が長子となるためです」(ローマ8:29)。
天の父なる神さまの子どもとなった私たちは、古い人間関係による悪影響から解放されています。そして、これから先もますます解放されていきます。そのために、自分が神さまの子どもになったということを、繰り返し自分自身に宣言しましょう。
Eさんのケース
この話をお読みください。
Eさんは荒れた学生時代を過ごしました。いつもイライラしていて、あちこちで暴力沙汰を起こしていました。親に愛されていないという思いが、彼を投げやりな生き方にさせたようです。もちろん、親は彼を愛していたのでしょう。しかし、彼にはそれが分かりませんでした。

あるクリスマスイブの夜。繁華街を1人でぶらついていたEさんの耳に、賛美歌を歌う声が届きました。近くの教会の人たちがキャロリングをしていたのです。その美しいハーモニーに、かさついた心が潤うような感覚を覚えたEさんは、思わず立ち止まって歌声に耳を傾けました。

そして、「この後、教会でクリスマスのキャンドルライトサービスを行ないます」という案内に従い、Eさんは集会に参加しました。そして、そこで驚くべき話を聞きます。「神さまは、あなたを愛しておられます」と、講壇から牧師が語ったのです。

聖書のことなんて何も分からない。イエス・キリストなんて実在するとも思っていなかった。それでも、「あなたは愛されている」という言葉がEさんの心を貫きました。その日、Eさんはイエスさまを信じてクリスチャンになりました。そう、神さまの愛する子どもという新しい身分を手に入れたのでした。

神さまに愛されているという喜びは、Eさんの生き方を180度変えました。暴力行為、不法行為は影を潜め、代わりに地域のボランティア活動にいそしむようになりました。教会の人に紹介されて、定職にも就きました。そして、かつてのワル仲間たちを次々と教会に引っ張ってくるようになりました。

人は変わることができます。そして、変わり続けます。私たちは古い生き方から解放されるのです。
(当サイト「ショートエッセイ」より)

古い影響力にこだわらない生き方

さて、 イエスさまは自分が神の御子であるという自覚を持ちながら、同時に地上の親であるヨセフとマリアに仕える生き方を続けました。父ヨセフは、イエスさまが30歳になる前に亡くなったようですが、その後はイエスさまが一家の大黒柱として母マリアや兄弟姉妹たちを養いました。神の子になったから、地上の親きょうだいはどうでもいいという生き方をなさらなかったのです。

人としてのイエスさまは、私たちの生き方のモデルです。私たちもまた、神さまの子どもだという自覚を持つと共に、地上の人間関係も大切にしていかなければなりません。
他人を責めない
これまで見てきたように、私たちは意識しているしていないにかかわらず、子どもの頃の人間関係の影響を強く受けています。しかしながら、今の私たちの生きづらさを親や祖父母や教師たち、あるいは友だちのせいにして責めるのは間違いです。

他の人を責めるのは、「私は他の人の悪影響から逃れることはできない」と宣言していることと同じだからです。

自分の身の安全を確保したり、尊厳を守ったり、精神的な平安を保ったりするために、特定の人たちと距離を置くことはときに必要なことです。しかし、その人たちを怨み続け、責め続けるのはやめにしましょう。
私たちは神さまの子どもにされました。すでに新しい生き方が始まっています。聖霊なる神さまが、私たちを古い生き方の癖から解放して、ますます新しい生き方を身につけさせてくださいますように。

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