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礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

洗礼

イエス・キリストの生涯シリーズ5

マタイによる福音書3章13節〜17節

(2022年10月30日)

イエスキリストがバプテスマのヨハネによって洗礼を受けたシーンについて解説します。なぜ罪のないイエスが罪の悔い改めを意味する受洗をしたのでしょうか。

礼拝メッセージ音声

参考資料

バプテスマのヨハネが人々に洗礼を授けていたのは、ヨハネ1:28によると「ヨルダンの川向こうのベタニア」でした。しかしながら、現在のところヨルダン川東岸にベタニアと呼ばれていた場所は見つかっていません。

ただ、今のところアル=マグタスがイエス・キリスト受洗の場所だと考えられています(下の地図参照)。というのも、少なくとも紀元5世紀末(東ローマ帝国時代)にはその場所がイエスさま受洗の場所として巡礼地と認められていたことが、巡礼者たちの残した言葉や発掘された礼拝や洗礼のための施設から分かったからです。

なお、アル=マグタスの教会群は、近くにあるエリアの丘(エリアが生きたまま天に挙げられたとされる場所)と含めてユネスコの世界遺産に認定されています。

イントロダクション

今回、いよいよイエスさまが公の働きをスタートさせます。その第一歩として、イエスさまはバプテスマのヨハネから洗礼をお受けになりました。今日はここから、私たちが一体何者なのかということを再確認します。

私たちは自分のセルフイメージによって、生き方を強く左右されます。神さまが教える私たちの姿を意識しましょう。

1.受洗とその後に起こったこと

バプテスマのヨハネによる洗礼

イエスさまはナザレで大工として家族を養いました。そして、約30歳になったとき、突然家と故郷を離れてヨルダン川の向こう岸に向かわれました。そこではバプテスマのヨハネが人々に洗礼を授けていました。
バプテスマのヨハネ
バプテスマのヨハネはイエスさまの親戚で、イエスさまより数カ月早く誕生しました。成長したヨハネは荒野で生活するようになります。そして、人々にあるメッセージを語りました。「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」(マタイ3:2)。

天の御国(あるいは神の国)とは、地上に来られた救い主が王として世界を統治なさる理想的な王国のことです。その天の御国が近づいたということは、間もなく救い主が現れるということです。

救い主は天の御国を実現し、信じる者たちに平和と喜びをもたらしてくださいます。しかし、救い主は裁き主でもあります。悔い改めない者には神さまのさばきが下され、しかもそのさばきは目の前に差し迫っているとヨハネは警告しました(マタイ3:10)。だから、神さまに対する罪を悔い改めて、悔い改めにふさわしい生活をし、救い主をお迎えする準備をしなさいと。
ヨハネのバプテスマ(洗礼)
バプテスマとは洗礼のことです。ヨハネは人々に悔い改めを時、悔い改めた人にそのしるしとしてヨルダン川で洗礼を授けました。

バプテスマという言葉には、液体に浸すという意味があります。今では教会によって、頭に水を垂らす滴礼や、水を頭に注ぎかける灌水礼も用いられることがありますが、もともと水中に体を沈める浸礼でした。

なお、洗礼はヨハネやキリスト教会の専売特許ではなく、パリサイ派やエッセネ派といったユダヤ教徒たちも自分たちのグループへの入会の儀式として用いましたし、異邦人がユダヤ教徒に改宗する場合にも洗礼を受けました。また、祭司たちもきよめの儀式として水を浴びました。

バプテスマという言葉が意味しているイメージは、染色液に布が浸されて染色液と布が一体化して染まるというものです。洗礼には一体化するという意味があります。すなわち、洗礼を授けてくれる人の教えと一体化する、そのグループと一体化するということです。

私たちクリスチャンも、入信の儀式として「父なる神・子なる神・聖霊なる神の名による洗礼」を受けます。これは三位一体の神さまと自分が一つであること、そしてキリストの体である教会と自分が一つであること、神さまの言葉である聖書の教えと自分が一つであることを示しています。

ヨハネのバプテスマを受けた人たちというのは、ヨハネが教えるメッセージ、すなわち「救い主であり裁き主であるお方が間もなく現れるから、罪を悔い改めて、正しい生き方をせねばならない」という教えと一つになったということ、すなわちその教えを信じ、実際に悔い改めて正しい生き方をしようと決意したということです。
なぜイエスが洗礼を?
では、ヨハネのバプテスマが罪の悔い改めのしるしなのだとすれば、どうして救い主であるイエスさまが洗礼をお受けになったのでしょうか。救い主には罪がないので、悔い改める必要がありません。実際、ヨハネも驚いて一旦はイエスさまに洗礼を授けることを断っていますね。「私こそ、あなたからバプテスマを受ける必要があるのに、あなたが私のところにおいでになったのですか」(14節)。

しかし、イエスさまはヨハネにおっしゃいました。「今はそうさせてほしい。このようにして正しいことをすべて実現することが、わたしたちにはふさわしいのです」(15節)。すなわち、イエスさまには悔い改めの必要がないというヨハネの主張を認めつつも、それでも自分が受洗するのは神さまのみこころにかなう正しいことなのだとおっしゃっています。

それでは、一体どうしてイエスさまは悔い改めを意味するヨハネの洗礼をお受けになったのでしょうか。一体化という洗礼の意味をヒントに、考えられる理由を2つ挙げておきます。
(1) ヨハネの教えを全面的に支持なさった
すなわち、救い主が間もなく現れること、故に理想的な天の御国も間もなく実現すること、そしてさばきを免れて天の御国に入るためには罪の悔い改めが必要だということです。
(2) ご自分を罪人と一体化なさった
私たち人類は、みんな生まれながらにして罪人であり、神さまの敵でした。神さまに逆らう性質を持っていて、しょっちゅう神さまのみこころにかなわない思いを抱いたり、実際に行動に表したりしてきました。

ではそんな人類に、救い主であるイエスさまはどのようにして救いをもたらして、神さまとの関係を回復させてくださったのでしょうか。それは私たち罪人の身代わりとなって、十字架にかかって神さまの呪い、さばきを全部引き受けてくださったことによってです。それ故にもはや神さまのさばきが私たちに下ることがないようにしてくださいました。

イエスさまは罪人ではありませんが、罪人である私たちを救うために、私たちと一つになってくださったのです。それがヨハネのバプテスマを受けた理由です。

聖霊の満たし

ヨハネによって洗礼をお受けになったイエスさまは、水から上がりました。マタイやマルコの福音書には書かれていませんが、ルカの福音書にはその後イエスさまが祈っていたということが記されています。

すると、不思議な現象が起こりました。「イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると見よ、天が開け、神の御霊が鳩のようにご自分の上に降って来られるのをご覧になった」(16節)。
イエスさまのため
イエスさまは聖霊なる神さまの力によって乙女マリアから誕生なさいました。ですから、この時初めて聖霊さまに満たされたわけではありません。しかし、これから公の働きを始めようとしておられたイエスさまに、改めて知恵や力を授けるために聖霊さまが来られました。

イエスさまは神ですが、地上で生きておられた間は、私たちと同じような人間として行動なさいました。「キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました」(ピリピ2:6-7a)。

そして、様々な知恵や奇跡の力を、聖霊さまから受け取られました。「しかし、わたしが神の御霊によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです」(マタイ12:28)。
人々のため
そして、この現象が起こったのは、イエスさまがただの立派な人間などではなく、聖書が登場を約束してきた人となられた神、救い主だということをヨハネや他の人たちにはっきりと示すためです。

「そして、ヨハネはこのように証しした。『御霊が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを私は見ました。私自身もこの方を知りませんでした。しかし、水でバプテスマを授けるようにと私を遣わした方が、私に言われました。「御霊が、ある人の上に降って、その上にとどまるのをあなたが見たら、その人こそ、聖霊によってバプテスマを授ける者である」。私はそれを見ました。それで、この方が神の子であると証しをしているのです』」(ヨハネ1:32-34)。

天の父なる神の声

御霊が下ってこられると、次に天から声がしました。「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ」(17節)。

これは天の父なる神さまが、イエスさまが神の子、すなわち救い主だということをイエスさま本人に、そしてヨハネや他の人々に示された宣言です。

イエスさまはヨハネのバプテスマを受けることによって、罪人と一つになられました。しかし、だからといって神の子、救い主としての身分が取り消されたわけではありません。イエスさまは永遠に神の御子、救い主です。

この後、イエスさまは悪魔の誘惑を受けてこれを退けた後、あちこちを旅しながらご自分が救い主だということを、言葉と奇跡によって人々に伝えて行かれます。それについてはこのシリーズの中で追っていくことにしましょう。

では、ここから何を私たちは学ぶことができるでしょうか。

2.自分が何者なのかいつも自覚していよう

赦された罪人であること

イエスさまは罪人と一つになってくださいました。そして、私たちの身代わりとして罪のさばきを引き受け、私たちに罪の罰が及ばないようにしてくださいました。
そして、自分の罪を赦すためにイエスさまが十字架にかかり、死んで葬られ、3日目に復活なさったという恵みの福音を信じるだけで、私たちの罪は本当に赦されます。しかも、その赦される罪とは、信じる前の罪だけでなく、これから死ぬまでの間に犯すであろうあらゆる罪も含みます。私たちは過去も現在も未来も完全に赦されているのです。

私たちは、自分は完全に赦された罪人だという自覚を持ち、いつもそれを意識し続ける必要があります。そうすることで、いくつかの祝福が与えられます。
(1) 新しい生き方ができるようになる
私たちが赦された罪人だということをいつも意識するのは、いたずらに自分を卑下して落ち込むためではありません。むしろ、昔の過ちによって罪責感にさいなまれ続けなくなるためです。

過去の失敗を反省して、新しい生き方に生かすことは大切です。しかし、いつまでも罪責感に囚われ続けると、これからどのように生きるかという生産的な生き方ができなくなってしまいます。
(2) 感謝と喜びで満たされる
第2に、自分が赦され、あるがままの姿で神さまに愛され、受け入れられているのだと知ることは、私たちの心に大きな感謝と喜びをもたらします。その喜びは、もっともっとイエスさまの喜ばれる生き方がしたいという原動力になります。

私たちは神さまのさばきを恐れて、正しい行ないをするのではありません。イエスさまの命がけの愛に対する感謝と喜びによって、内側から突き動かされて正しい行ないを目指すのです。
(3) 謙遜になっていく
第3に、自分が赦された罪人であり、自分の正しさや知恵や力によって救いを勝ち取ったわけではないという自覚は、私たちを謙遜にします。謙遜さが身につけば付くほど、私たちは神さまに対して素直に従うだけでなく、他の人に対しても寛容で愛情深く接することができるようになっていきます。

この話をお読みください。
Aさんは、同じ教会のBさんを見るとイライラしていました。聖書を真面目に勉強しているとは思えないし、実際に生活も聖書の教えからかけ離れているし、性格がきついし、よく約束を破るし、夫や子どもたちに対して暴言吐きまくりだし……。そんなわけで、教会でBさんを見かけるといやな気持ちになっていました。

ある夜、夢を見ました。神さまにBさんのイヤなところ、ダメなところ、ひどいところを訴える夢です。そうしているうちに別のイメージがわいてきました。十字架にBさんが釘付けになり、Aさんが太い釘をBさんの手首にガンガン打ち込んでいるイメージです。すると、だんだんBさんの姿が変わってイエスさまの姿になりました。Aさんは鬼の形相で、イエスさまを釘付けにしていました。そして、さらに十字架の上の人の姿が変わり、今度はAさんの姿になりました。

そこでハッと目が覚めました。自分も赦された罪人に過ぎないのに、まるで神さまででもあるかのようにBさんを心の中で断罪していた自分だったということに気づかされ、これは大変な傲慢だったと思わされました。と同時に、そんな傲慢な自分にもかかわらず、イエスさまは私のために十字架にかかってくださったし、こうして私の成長をじっくりと見守り、見捨てないでいてくださっているということが、うれしくてたまらなくなりました。

そこで、Aさんは暗闇の中でひざまずき、悔い改めと感謝の祈りを捧げます。そして、さらに祈りました。「あなたが不完全な私を愛と恵みの目でご覧になっているように、私もBさんを大切に思うことができるようお助けください」。

それ以来、AさんはBさんにイライラすることがほとんど無くなり、むしろBさんと積極的に話をするようになりました。たまにはイラッとすることはありますが、そのときはいつもあの夜の夢と祈りを思い出し、悔い改めて再出発します。こうして二人は仲良くなっていきました。そればかりでなく、Bさんの生き方もだんだんと変わっていきました。

「私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです」(第1ヨハネ4:19)。
(当サイト「ショートエッセイ」より)
ですから、自分がイエスさまのおかげで完全に罪を赦されているのだということを、いつも意識していましょう。

聖霊の宮であること

子なる神であるイエスさまも、地上では全面的に聖霊さまに頼られました。まして私たち人間も、神さまのしもべとして生きていくためには、聖霊さまの助けが必要です。

そして、幸いなことに聖霊さまは私たちの内にも住んでおられ、私たちを助けたいと願っておられます。
  • 聖霊さまは、神さまのみこころを私たちに教えてくださいます。
  • 聖霊さまは、私たちの内側をきよめ、罪の行動を離れて正しい生き方ができるよう日々造り変え、イエスさまに似たものに成長させてくださいます。
  • 聖霊さまは、御霊の賜物と呼ばれる奉仕の能力を、クリスチャン一人ひとりに与えてくださいます。時には奇跡を行なう力さえ与えてくださいます。
私たちの体は聖霊さまが住まう神殿、聖霊の宮です(第1コリント6:19)。聖霊さまはクリスチャンであるあなたといつも一緒にいてくださいます。ですから、祈りましょう。
  • 私に神さまのみこころを教えてください。
  • 私をイエスさまのような生き方ができるように造り変えてください。
  • 私に神さまと人とに仕えるための力を与えてください。

神に愛されている子であること

そして、私たちは神さまの子どもとされ、神さまの家族に加えられたということをいつも覚えていましょう。イエスさまは神さまのひとり子であり、洗礼後に天の父なる神さまからそのように宣言されましたね。同様に、イエスさまを信じて罪を赦された私たちのことも、神さまは我が子と呼んでくださっています。私たちは神さまの養子になったのです。
身分にふさわしい生き方
あるとき、「自分は神の子、クリスチャンです」と書かれたシャツを着て1日過ごすことになったら、前の日とその日とどんなふうに言動が変わりますか? そんな文章を読んだことがあって、心に残りました。皆さんはどうでしょうか。

自分は全宇宙の支配者である神さまの子ども、神の国の王子であり王女であるという自覚を持つなら、私たちは自分の生き方がその身分にふさわしいものでありたいと願わないでしょうか。そして、一挙手一投足に心を配らないでしょうか。
王侯貴族の養子になったストリートチルドレン
とはいえ、罪人が神さまの子どもになったというのは、たとえるならマンホールで暮らしていたストリートチルドレンが、いきなり王侯貴族の養子になったようなものです。テーブルマナーなどの礼儀作法は知らないし、字もほとんど読めない上に言葉遣いも汚いし、社交ダンスも踊れないし、馬にも乗れないし……。

しかし、新しいお父さんやお母さんやお兄さんやお姉さんやその家に仕える執事や召使いたちが、根気よく教え導いてくれるうちに、養子として受け入れられた元ストリートチルドレンも、だんだんと王侯貴族の子どもっぽい言動ができるようになります。

私たちもそれと同じです。私たちはイエスさまのおかげで神さまの子どもになりました。この私が神さまの子どもだなんて言ったら、神さまの家名にドロを塗るだけだと思ってしまいますが、それでも神さまは私たちを子どもとして愛し、忍耐強く成長を見守ってくださいます。

少しはマシになってきたかなぁと思ったら、ついつい慣れ親しんだ古い生き方が出てしまうこともあるでしょう。しかし、それでもできるだけ神の子にふさわしい生き方をしたいと私たちは願います。

聖霊さまもその願いが実現できるよう助けてくださいます。ですから、自分は神さまの愛する子どもであって、神さまの家族の代表として今ここにいるのだという意識を、いつも持ち続けていましょう。

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