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礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

最初の弟子たち

イエス・キリストの生涯シリーズ7

ヨハネによる福音書1章35節〜51節

(2022年11月13日)

イエスキリスト最初の弟子たちを紹介します。アンデレ、ヨハネ、ペテロ、ヤコブ、ピリポ、ナタナエルの6人です。

礼拝メッセージ音声

参考資料

35節の「ヨハネ」は、バプテスマのヨハネのこと。前の日、ユダヤの指導者たちが使いを派遣して、「あなたは自分を何者だと思っているのか」と尋ねさせました。ヨハネは、自分はキリスト(救い主、メシア)ではなく、イザヤ40:2に書かれている「主の道をまっすぐにせよ、と荒野で叫ぶ者の声」だと答えました。

35節の「二人の弟子」のうち、一人は使徒アンデレですが、もう一人は使徒ヨハネだろうと考える人が多くいます。彼らはガリラヤのカペナウムに住む漁師です(マルコ1:16-29)。

36節の「神の子羊」は、神殿で神さまに捧げられる犠牲の動物。特に、過越の祭りでささげられる子羊を指します。出エジプト前にエジプトに下った10番目のさばきで、エジプト中の人や家畜の初子(母親から最初に生まれた男子・雄)が死んでしまいました。そのさばきからイスラエル人を守るため、子羊を殺してその血を家の門柱と鴨居に塗るよう神さまはお命じになりました。そのできごとを記念して行なわれるのが過越の祭りです。

39節の「第十の時」は、他の福音書と同じユダヤ式の時の数え方なら午後4時頃ですが、おそらくローマ式の午前10時と思われます。

42節の「ケファ」は、当時のイスラエルで話されていたアラム語で「岩」という意味。ギリシア語の「ペテロ」(ペトロス)も同じ意味です。

44節の「ベツサイダ」は、ヨルダン川がガリラヤ湖に流れ込む河口付近にあった町。

45節の「ナタナエル」は、ガリラヤのカナ出身(21:2)。十二使徒の一人であるバルトロマイ(トロマイの息子という意味)と同一人物だと考えられています。

イントロダクション

イエスさまが40日の断食を終え、悪魔の誘惑を退けた直後の話です。それまでイエスさまは1人で行動しておられましたが、ここで最初の弟子たちを取られました。

彼らはイエスさまと出会い、感動を覚えました。他の人に語らないではいられないほどの感動です。そして、それからイエスさまと行動を共にする中で、多くの奇跡を目撃し、ワクワクするような体験をしました。

イエスさまは、私たちとも出会ってくださいました。そして、ワクワクするような人生を与えてくださいます。そのことを今回の記事から確認しましょう。

1.弟子になったプロセス

アンデレともう一人

今回の箇所には、イエスさまの最初の弟子になった人たちが5人登場します。最初の2人は、元々はバプテスマのヨハネの弟子でした。一人はアンデレで、ガリラヤのカペナウムに住む漁師でした(マルコ1:16,29)。このときは、ヨルダン川が死海に注ぎ込む河口付近で洗礼を授けていたバプテスマのヨハネの元に来ていたのです。

もう一人の名前は記されていません。多くの人は、アンデレと同じくカペナウムの漁師であり、後に使徒となってこの第4福音書を書いたと言われるヨハネだと考えています。
見よ、神の子羊
バプテスマのヨハネがアンデレともう一人の弟子と共にいたとき、イエスさまが歩いておられるのが見えました。ヨハネは言いました。「見よ、神の子羊」(36節)。

この「神の子羊」という言葉は、前の日にやはりイエスさまを見かけたときにもヨハネが使っています。「見よ、世の罪を取り除く神の子羊」(29節)。そして、34節ではイエスさまが神の子、すなわち救い主だと語っています。

当時のイスラエルでは、ローマ帝国の支配下にあったということもあり、神の国の王としての救い主の到来が待ち望まれていました。もちろん、旧約聖書は世界を統治して平和と繁栄をもたらす王としての救い主が来ることを預言しています。

その一方で、救い主は人間の罪を取り除くために、身代わりの犠牲として命をささげることも預言されています。神の子羊という言葉は、犠牲としての救い主の使命を強調したものです。
弟子入り
ヨハネの言葉を聞き、ヨハネ先生が「あのイエスというお方こそ救い主だ」と宣言なさったのだと理解したアンデレともう一人の弟子は、すぐにイエスさまの後を追いました。その後のことについては、次のように書かれています。

「イエスは振り向いて、彼らがついて来るのを見て言われた。『あなたがたは何を求めているのですか』。彼らは言った。『ラビ(訳すと、先生)、どこにお泊まりですか』。イエスは彼らに言われた。『来なさい。そうすれば分かります』」(38-39b)。

中川健一先生の「日本人に贈る聖書ものがたりIII」によれば、この一連のやり取りは、当時のユダヤ人がラビ(聖書の教師)に弟子入りする際の作法と同じだとか。たとえそうだとしても、アンデレたちはイエスさまとほんの少しの時間立ち話をしたかったのではなく、じっくり腰を据えて話を聞きたいと願いました。そして、晴れてそれが許されます。

それから2人は、その日イエスさまと過ごし、やはりこの方は救い主に違いないという確信を持ちました。彼らは深い感動を覚えたことでしょう。歴代の信仰者が待ち続けた救い主が、いよいよ登場し、そればかりか自分たちの目の前にいて親しく話をしてくださっているのですから。

ペテロ

夕方近くなり、アンデレはイエスさまが滞在しておられた場所を出て行きました。同じくバプテスマのヨハネの元に来ていた、自分の兄弟シモンを見つけてイエスさまの元に引っ張ってくるためです。シモンを見つけたアンデレは言いました。「私たちはメシア(訳すと、キリスト)に会った」(41節)。

それを聞いたシモンは、アンデレに連れられてイエスさまのところにやってきます。シモンを見たイエスさまは、彼にあだ名をつけました。アラム語でケファ、ギリシア語でペテロ、すなわち岩というあだ名です。

元々のペテロの性格は、行動的ではあるけれど感情的でおっちょこちょいな面があり、臆病でもあります。岩が持つどっしりとしたイメージとはずいぶん異なりますね。しかし、イエスさまはペテロがやがて聖霊さまに満たされたとき、信仰が岩のように強められ、教会の要となってくれることを見抜いたのでしょう。

今回の箇所には書かれていませんが、もしももう一人の弟子がヨハネだとすれば、彼も自分の兄弟であるヤコブを連れてきたことでしょう。

このとき、ペテロとアンデレ(そしてヤコブとヨハネ)は、フルタイムの弟子になったわけではなく、その後も漁師の仕事を続けながら、折に触れてイエスさまの教えを受けていました。イエスさまから改めて声をかけられ、フルタイムでイエスさまと行動を共にするのはこのときから約1年後です。
それでも、アンデレやペテロの弟子としての歩みがこのときに始まりました。

ピリポ

それからイエスさまはガリラヤ地方に戻って行かれました。来週取り上げることになると思いますが、カナという町で親戚あるいは親しい知人の結婚披露宴があって、それに出席することになっていたからです。

すると、途中でピリポという人に出会いました。ペテロやアンデレはカペナウムの漁師ですが、元々はピリポと同じベツサイダ出身でした。ですから、もしかしたらピリポは2人の知り合いで、2人がピリポのことをイエスさまに教えたのかもしれません。

イエスさまはピリポに声をおかけになりました。「わたしに従って来なさい」(43節)。弟子になりたい人の方から先生について行って、声をかけてもらうのを待つのが当時の弟子入り作法だとしても、イエスさまはそのような習慣に囚われることなく、イエスさまの方から声をおかけになりました。

救いは人間の方から神さまに願って実現したことではありません。神さまの方から人間を罪の故に罰したくないと思ってくださり、赦したいと願ってくださり、赦されるための条件もすべて整えてくださり、救いというプレゼントを受け取るように声をかけてくださいました。

こうしてピリポもイエスさまと時を過ごすようになりました。そして、この方こそ救い主だという確信を得ます。

ナタナエル

紹介の連鎖は続きます。ピリポは友だちのナタナエルを見つけると、彼に言いました。「私たちは、モーセが律法の中に書き、預言者たちも書いている方に会いました。ナザレの人で、ヨセフの子イエスです」(45節)。これは、イエスさまが救い主だという宣言です。
反論
ところが、ペテロと違ってナタナエルはすぐにピリポについて行こうとしません。彼は言いました。「ナザレから何か良いものが出るだろうか」(46節)。

後にユダヤの議会(サンヘドリン)でニコデモがイエスさまを擁護するような発言をした際、大祭司たちは彼に次のように語りました。「あなたもガリラヤの出なのか。よく調べなさい。ガリラヤから預言者は起こらないことが分かるだろう」(ヨハネ7:52)。ガリラヤから預言者が出ないという考えは、当時の常識だったのかもしれませんね。

特にイエスさまが長いこと住んでおられたナザレの人々は、父ヨセフと母マリアは別としてあまり信仰的とは言えません。ナタナエルは非常に敬虔な人だったようで、ナザレの人々のことを密かに軽蔑していたのかもしれません。

そして、それ以上に重要なことは、救い主はガリラヤ地方ではなくユダヤ地方のベツレヘムで誕生するという預言があることです(ミカ5:2)。イエスという人がナザレ出身なら、救い主であるはずがないとナタナエルは考えたのです。

皆さんはご存じですが、イエスさまは預言通りベツレヘムで誕生なさいました。そして、2歳の時にエジプトに逃れ、さらに約2年後に元々両親が住んでいたナザレに移り住みました。それを知らないナタナエルの反応はもっともです。むしろ、ナタナエルがよく聖書を学んでいたことが分かります。
会えば分かる
抵抗を示すナタナエルに対して、ピリポは議論で応じようとしませんでした。ピリポは言いました。「来て、見なさい」(46節)。会えば分かるというのです。
会って、分かった
実際、ナタナエルはイエスさまに会ってみて、この方が救い主だと分かりました。

まずイエスさまはナタナエルをほめました。「見なさい。まさにイスラエル人です。この人には偽りがありません」(47節)。偽りがないというのは罪がないという意味ではありません。ナタナエルが真実の心で神さまを求め、いつも祈り、熱心に聖書を学び、神さまの教えを実践しようと努力していたことを表しています。

「まさにイスラエル人だ」という部分を、以前の新改訳第三版では「これこそ、ほんとうのイスラエル人だ」と訳していました。ナタナエルのような生き方は、本来神さまがすべてのイスラエル人(ユダヤ人)に期待していた生き方です。イスラエル人は敬虔な生き方を目指し、神さまと親密な交わりを深めることによって、神さまをまだ知らない異邦人(非ユダヤ人)に神さまを信じるすばらしさを教える役割を負っています。

ナタナエルはイエスさまと初対面です。それなのに自分のことをそのように評価なさるのを聞いて驚きました。するとイエスさまはおっしゃいました。「ピリポがあなたを呼ぶ前に、あなたがいちじくの木の下にいるのを見ました」(48節)。

いちじくの木の下にいたというのは、おそらく祈っていたのでしょう。その現場を見ていないのに、イエスさまは見事に言い当てました。これはただ者ではない。預言者、いやピリポが言うとおりこの方は救い主に違いないとナタナエルは考えました。そして、「先生、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です」(49節)と信仰告白をしました。
大いなる約束
そんなナタナエルに、イエスさまは彼がどこにいたのかを言い当てたことよりも、もっと大きなことが起こるとおっしゃいました。「まことに、まことに、あなたがたに言います。天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたは見ることになります」(51節)。

これは、イエスさまが天にいらっしゃる父なる神さまとつながっておられ、救い主として様々な奇跡を引き起こすことを表しています。

実際、イエスさまは次の章のカナの婚礼で水をぶどう酒に変えたのを皮切りに、病気をいやしたり、悪霊を追い出したり、死人を生き返らせたり、嵐を鎮めたり、空腹な五千人のおなかを満たしたりするなど、様々な驚くべき奇跡を行なわれます。

ナタナエルは十二使徒の一人に選ばれるバルトロマイと同じ人物だと考えられています。とすれば、その後もずっとイエスさまと行動を共にし、これらの奇跡を目撃したことになります。

イエスさまはナタナエルとピリポ、そしてペテロとアンデレ(そしておそらくヤコブとヨハネ)を最初の弟子としてお迎えになりました。彼らはこれからイエスさまと行動を共にして、ワクワクするようなイエスさまの言動の目撃者となります。

では、ここから私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

2.私たちもワクワクするような人生を与えられる

そのために……

イエスさまと交わろう

私たちがワクワク人生を歩むようになるためには、まずイエスさまと出会い、その後交わりを深めていく必要があります。
交わりを開始する
今の時代、イエスさまに出会うためにイスラエルまで出かけていく必要はありません。聖書には次のように約束されています。「見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする」(黙示録3:20)。
「戸を開ける」とは、具体的にどうすることでしょうか。それは恵みの福音を信じることです。恵みの福音とは、「この私の罪を赦すためにイエス・キリストが十字架にかかり、死んで葬られたけれども、3日目に復活なさった」ということです。これを事実だと信じるだけで、私たちの罪は赦され、神さまと親子として親密な関係をスタートさせることができます。すなわち救いを体験するのです。
交わりを深める
アンデレともう一人の弟子は、ほんのちょっとだけイエスさまと言葉を交わすことを求めたのではなく、じっくり腰を据えて話をしたいと願いました。後には、フルタイムでイエスさまと寝食を共にするようになります。

アンデレたちはイエスさまと24時間一緒にいるために、仕事を辞めて家も出なければなりませんでしたが、今の私たちは仕事を辞めたり出家したりする必要がありません。それは、目には見えませんがイエスさまはいつも私たちと共にいてくださっているからです。

イエスさまを信じた私たちの内側には、聖霊さまが住んでくださっています。イエスさまは今天の父なる神さまの右に座って、私たちのために取りなしをしてくださっていますが、神さまは父・子・聖霊の三位一体ですから、聖霊さまが内におられるということは、イエスさまも聖霊さまを通して私たちと共にいてくださるということです。

そのことをいつも意識していましょう。そして、折に触れていろいろなことを語りかけ、イエスさまが自分に何を語っておられるか心を静めて聞き取りましょう。それによってイエスさまとの関係が深められ、ますますイエスさまの愛の語りかけがクリアに感じ取れるようになったり、頻繁に奇跡や摂理のわざを目撃したりできるようになります。
  • 摂理とは 、宇宙の支配者である神さまが、歴史や万物をご自分の目的実現のためにうまく働かせてくださること。有限な私たちには起こる出来事が偶然の積み重ねのように見えたり、不幸の連続のように見えたりしても、最終的に神さまのすばらしさを明らかにするような結果につながります。

他の信仰者に触れよう

理屈をこねるナタナエルに、ピリポは「来て、見なさい」と言って、イエスさまの元に引っ張っていきました。その言葉に従ってイエスさまに会いに行ったナタナエルは、感動の人生を手に入れることができました。

ただ、今の時代、イエスさまは特定の場所におられるわけではありません。上述のように、私たちクリスチャンの内にいてくださいます。人はクリスチャンと出会い、その生き様に触れることによって、イエスさまと出会います。

私たちの多くがクリスチャンになったきっかけは、すでにクリスチャンになっていた人に触れることだったでしょう?
クリスチャンになってからも
クリスチャンになってからも、イエスさまとの交わりを深め続けていくことが大切だと申し上げました。ということは、私たちは他のクリスチャンたちといつも触れ合い、その生き方を見たり、彼らの体験談を聞いたりする必要があるということです。

私は大学生の時に教会の集会に参加するようになり、救われました。そこは非常に活動的な教会で、様々な集会、たとえば賛美の集会とか祈りの集会とかパーティとか行なわれていて、何度もいろいろな体験をさせてもらいました。

また、当時の牧師(中川健一先生)がテレビ伝道を行なっていたため、番組の収録を手伝ったり、伝道旅行で全国各地に連れて行っていただいたりしました。そして、多くの人の救いの証しを聞いたり、各地の教会の特徴的な活動を見たりしました。

それによって、イエスさまが確かに生きておられて、人の人生を造り変えてくださるのだということを確信することができました。

カルトの教会は、自分たちの教会員が他の教会の集会に出かけたり、超教派の集会に出かけたりすることを嫌がります。しかし、私たち中通りコミュニティ・チャーチは違います。私たちの教会は小さく、集会も今のところ礼拝式しか行なっていません。ですから、機会があればぜひ他の教会や超教派の集会に足を運んでみてください。

それにより、イエスさまが多種多彩なお働きをしておられること、また人がイエスさまに触れるとどのように変化生長することができるのかということを見てください。そして、皆さんが体験したことを、私たちの教会にも土産話として持ち帰ってください。

また、たとえ他の集会に出席しなくても、日々の生活の中でイエスさまが体験させてくださったことを、お互いに紹介し合いましょう。

バプテスマのヨハネから始まったイエスさまとの出会いと感動が、次の人、また次の人と連鎖していったように、私たちも感動の連鎖を体験しましょう。

恵みを意識しよう

イエスさまはピリポには、ご自分の方から声をおかけになりました。ナタナエルはピリポが連れてきましたが、ナタナエルがイエスさまに話しかける前に、イエスさまの方から彼に話しかけました。

救いは神さまからの一方的なプレゼント、恵みです。私たちが立派だから、ごほうびとして救われ、感動的な人生が与えられるわけではありません。そのことをいつも忘れないでいましょう。
ナタナエルは、イエスさまがほめるほどに立派な信仰者でした。しかし、完璧な神さまの要求水準から見れば、ナタナエルもまた不完全な罪人です。ナタナエルが救われたのは、やはり神さまの恵みによります。

もしも、信仰が私たちの努力次第、出来高制なのだとすれば、しんどいものになってしまうでしょう。いつも神さまの顔色をうかがいながら、さばきを恐れて萎縮して生活することになります。

救いは恵みです。神さまの子どもとしての祝福は恵みです。そのことをいつも心に留めて、感謝をし続けましょう。

まとめ

弟子たちがイエスさまと出会い、感動の人生を手に入れたように、私たちにも感動の人生が用意されています。

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