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礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

カナの婚礼

イエス・キリストの生涯シリーズ8

ヨハネによる福音書2章1節〜11節

(2022年11月20日)

カナ婚礼でイエス・キリストが行なったのは、水をぶどう酒に変えるという奇跡でした。

礼拝メッセージ音声

参考資料

1節の「それから」の「それ」とは、イエスさまがナタナエル(おそらく後に使徒となるバルトロマイのこと)を弟子に加えたことです。

1節の「カナ」は、ガリラヤ湖の西20キロにあった町で、現在のキルベト・カーナ。イエスさまの故郷ナザレから見ると、北に14キロほどの場所にありました。
6節の「きよめのしきたり」は、外で受けた汚れをきよめるために、食事の前に手を洗う儀式です。この儀式はモーセの律法の命令によるものではなく、律法学者たちが新しく付け加えた細則に基づきます。「パリサイ人をはじめユダヤ人はみな、昔の人たちの言い伝えを堅く守って、手をよく洗わずに食事をすることはなく、市場から戻ったときは、からだをきよめてからでないと食べることをしなかった。ほかにも、杯、水差し、銅器や寝台を洗いきよめることなど、受け継いで堅く守っていることが、たくさんあったのである」(マルコ7:3-4)。

6節の「メトレテス」は容量の単位で、1メトレテス=39リットルです。2〜3メトレテス入りの水がめが6つなら、合計468〜702リットルほどの水が入ります。

イントロダクション

今日は、イエスさまの最初の奇跡に注目します。カナという町で行なわれた婚礼(結婚披露宴)で、イエスさまは水をぶどう酒に変えるという奇跡を行なわれました。カナの婚礼については、2022年月10日の信仰の助演男優シリーズで取り上げています。そのとき焦点を合わせたのは婚礼の裏方として働くしもべたちでしたので、今回は特にイエスさまに注目します。

当時の婚礼は1週間も続けられ、長ければ2週間にも及んだそうです。披露宴の食事やぶどう酒を用意するのは、新郎の責任でした。もしも、途中で食事やぶどう酒が切れてしまったとしたら、新郎は大変な恥をかくことになります。そのあってはならないことが起こってしまいました。

私たちの人生にも、まさかと思うようなできごとが起こることがあります。そんなとき、イエスさまはその問題から私たちを救い出してくだいます。それどころか、前に出されたのよりもっと良いぶどう酒を与えて披露宴を盛り上げてくださったように、問題を祝福の種、感動と喜びの源に変えてくださいます。

私たちがそのような感動に満ちた人生を期待するなら、イエスさまがどのようなお方なのかということを知っておく必要があります。それによって、普段からどんな生き方を心がけていればいいかを知ることができます。イエスさまはどんなお方でしょうか。

1.一見冷たく見える方

母マリア

カナで行なわれた婚礼において、マリアは料理の準備など裏方に回っていました。新郎がマリアの親戚、あるいは世話になった知人の息子だったのでしょう。

宴もたけなわになった頃、重大な問題が発生しました。どうやら披露宴に飲んべえが集まっていたようで、ぶどう酒のストックがつきかけてしまったのです。もしぶどう酒が出てこなければ披露宴は一気に白けてしまいますし、披露宴の料理を準備する最終責任者である新郎が恥をかくことになります。

困ったマリアは披露宴に参加していたイエスさまを引っ張ってきて、「ぶどう酒がありません」(3節)と言いました。別にマリアはイエスさまの奇跡を期待していたわけではありません。何しろ、イエスさまはここまで奇跡を行なったことがありませんから。しかし、「とにかくあなたが何とかしてちょうだい」という願いをマリアはイエスさまにぶつけます。
何の関係が?
しかし、イエスさまの返答は非常に素っ気ないものでした。「女の方、あなたはわたしと何の関係がありますか。わたしの時はまだ来ていません」(4節)。

「女の方」という言い回しは、女性に対する尊敬を込めた呼びかけの言葉です。初代ローマ皇帝アウグストゥスがエジプトの女王クレオパトラに対して用いています。ただ、母親に対して用いるのはまれで、ちょっと距離を感じますね。

実際、公の働きを始めて後のイエスさまは、マリアに対して母親としてというよりも一人の婦人として接しています。たとえば、あるときマリアが他の息子たちと一緒にイエスさまに会いに行ったとき、イエスさまは周りの人たちにこう言いました。「わたしの母、わたしの兄弟とはだれでしょうか」(マルコ3:33)。「だれでも神のみこころを行う人、その人がわたしの兄弟、姉妹、母なのです」(マルコ3:35)。

そして、「あなたはわたしと何の関係がありますか」という言い回しは、不当な行為をした人を非難したり(士師11:12)、相手の要求をやんわりと拒否したりする場合(第2列王3:13)に用いられます。この場合は後者で、イエスさまは「あなたが何とかしなさい」という母マリアの要求を退けたということです。

それから「わたしの時」、すなわち「イエスの時」は、ヨハネによる福音書では特別な意味を持っている言い回しです。それはイエスさまが救い主として十字架にかかる時のことを指します。

イエスさまはこの後十字架にかけられて命を失い、3日目に復活なさいます。それは、人類が負わなければならない罪の罰を身代わりに引き受け、人類に罪の赦しをもたらすためです。ですから、イエスさまは「何とかしてちょうだい」という母マリアの願いを退けました。
いたわりのまなざし
ただし、イエスさまはこの後結局この問題を何とかしてくださいました。イエスさまは「自分は母親なんだから、当然息子であるあなたは私の願いを聞く責任がある」という、家族的な要求を拒否したまでです。マリアがぶどう酒問題で困っていること、ひいてはこのままでは大切な親戚あるいは知人である新郎が恥をかくことになることに無関心だったわけではありません。

イエスさまは、表面的にはマリアの願いを退けましたが、その言葉の背後に「お母さん。本来救い主である私が最も関心を示さなければならないのは、人類の救いです。しかし、あなたはそんなにもぶどう酒のことで心を痛めていらっしゃるのですね」といういたわりに満ちたまなざしも感じることができます。
母としてではなく一人の婦人として
30数年前、イエスさまを妊娠したときのことをマリアは思い出したでしょう。確かにイエスさまはマリアによってこの世に生み出されましたが、単なる息子ではなく、聖霊なる神さまによって与えられた神の子、救い主です。

救い主としての公の働きが始まった以上、もはや単なる親子関係は期待できないのだとマリアは悟ったことでしょう。ただ、母親としての要求は聞いてもらえないとしても、神さまを信じる一人の人間としての訴えには耳を傾けてくれるとマリアは信じました。

問題解決の主導権は母親であるマリアにあるのではなく、神が人となってこられたイエスさまにあります。そして、イエスさまは人の抱える困難に無関心ではなく、主体的・積極的に助けの手を差し伸べてくださいます。

そのことを信じたからこそ、マリアは給仕をしている人たちに言いました。「あの方が言われることは、何でもしてください」(5節)。

では、ここから私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

要求ではなくお願いをしよう

私たちがイエスさまの十字架と復活を信じたとき、私たちは神さまの子どもにしていただきました。そして、祈りを神さまが聞いてくださるという特権を与えられました。ただし、私たちが祈ったとおりのことがいつも起こるという意味ではありません。

祈ってすぐに祈ったとおりのことが起こることもあります。しかし、なかなか願ったとおりにならなかったり、実現までずいぶんと待たされたりすることもあります。しばしば、願ったのとはまったく逆の、私たちにとっては起こって欲しくないことが起こることさえあります。
アスランは飼い慣らされたライオンではない
私は、C.S.ルイスが書いたファンタジー小説「ナルニア国物語」のシリーズが大好きです。舞台は、偉大なライオンのアスランが創造した、言葉を話す獣がいる国「ナルニア」です。そこに時折イギリスから少年少女がやってきて、ナルニアで勃発した問題を解決します。ライオンのアスランは、私たちの世界の救い主イエスさまの、ナルニアでのお姿です。

この物語の中で、繰り返し語られるフレーズがあります。それは「アスランは飼い慣らされたライオンではない」という言い回しです。意味するところは、救い主イエスさまは私たちの主であって、奴隷ではないということです。私たちが要求したとおりに行動する責任があるわけではありません。
最善を期待してのお願い
ただ、イエスさまは私たちのことを、命を差し出すほどに愛してくださっています。私たちが本当の幸せを手に入れることを心から願ってくださっています。ですから、私たちは困ったときには遠慮しないで、祈りを通してイエスさまに願いを聞いていただきましょう。要求ではなく、お願いです。

願ったとおりにならないこともありますが、イエスさまがそれこそベストだと判断されたからです。イエスさまは私たちにとって最善以外のことを決してなさいません。願ったとおりになることも、願いとは真逆の結果になることも、常に最善です。イエスさまの愛の結果です。そのことをいつも信頼して祈りましょう。

2.納得しがたい命令をする方

給仕の人たち

次に注目するのは、披露宴の給仕を担当していた人たちです。マリアから「イエスが言うことは何でもその通りに実行してね」と言われた給仕の人たちは、さっそくイエスさまの指示を仰ぎました。

すると、イエスさまは納得しがたい指示をなさいます。「水がめを水でいっぱいにしなさい」(7節)。これのどこが納得しがたいのでしょうか。
欲しいのはぶどう酒
今欲しいのはぶどう酒です。水ではありません。水を汲んできてどうするのでしょうか。

披露宴はかなり盛り上がっていて、多くの人がいい感じに酔っ払っています。10節で宴の世話役が語っているとおり、多くの披露宴ではそろそろ質の悪いぶどう酒に切り替えて、経費を浮かそうと考えるタイミングです。ただ、さすがに水を出されたらお客たちも気づいて、ブーイングの嵐が吹き荒れるでしょう。
きよめはもう終わった
そして、水を汲んできていっぱいにしろと指示された水がめは、きよめの儀式のために用意されたものです。

参考資料にも書きましたが、モーセの律法ではなく、律法学者たちが新たに作り出した規定に基づいています。外出すると宗教的な汚れを受けてしまうため、家に入る前に手を洗い清める必要があると律法学者たちは主張しました。特に、食事前には必ず手を洗いきよめる必要がありました。

しかし、すでに宴が始まっている今は、もうきよめのための水は必要ありません。なぜ今さら水がめをいっぱいにしなければならないのでしょうか。意味不明です。
作業が大変
その上、水汲みの作業はなかなかの重労働です。町の水汲み場は、町外れにあることが多く、しかも地下にありました。きよめの水がめをいっぱいにするため、給仕の人たちは水汲み場まで何往復もしなければなりません。

意味が分かっていれば、多少の重労働でも我慢できますが、今回は意味不明の指示に従わなければなりません。それは精神的にもしんどいことです。
それでも従った
それでも給仕の人たちは、イエスさまの命令をそのまま実行しました。しかし、聖書には彼らの苦労も、心の声も一切書かれておらず、「彼らは水がめを縁までいっぱいにした」(7節)と書かれているだけです。

ここの淡々とした表現が私は好きです。もちろん神さまは、彼らの苦労も葛藤もご存じです。彼らの犠牲的な奉仕を喜んでくださっています。しかし、給仕の人たちはあえてそのようなことをアピールしません。神のしもべとしての潔さを感じます。

そして、後でぶどう酒に変わった水を味わった婚礼の世話役は、それがどこから来たか知らなかったけれど、水を汲んだ人たちは知っていたと聖書に書かれています(9節)。世話役も新郎も披露宴の客たちも奇跡に気づきませんでしたが、給仕の人たちは奇跡を目の当たりにしました。彼らは驚き、そして感動したことでしょう。これが、イエスさまの命令に忠実に従った人たちが味わう祝福です。
では、ここから何を学ぶことができるでしょうか。

イエスの命令には忠実に従おう

現代において、私たちは聖書を通して神さまの命令を受け取ることができます。しかし、聖書の命令は納得できるもの、ぜひ従いたいと思うものばかりではありません。むしろ、「今、それを言う?」という最悪のタイミングで、従いたくないような命令が目に飛び込んできたりします。

たとえば、誰かにひどいことを言われたりされたりして、苦々しい思いに満たされているとき。そんなときに限って、次のような聖書の言葉が目にとまったり、思い出したりしてしまうものです。「しかし、これを聞いているあなたがたに、わたしは言います。あなたがたの敵を愛しなさい。あなたがたを憎む者たちに善を行いなさい。あなたがたを呪う者たちを祝福しなさい。あなたがたを侮辱する者たちのために祈りなさい」(ルカ6:27-28)。

相手が悔い改めて謝罪したというのなら、相手を赦して祝福せよというのも分かります。しかし、まだ相手が敵であるうちに赦し祝福するというのは道理に合いませんし、そんなことをしたくもありません。

それでも、イエスさまは「そうしなさい。あなたにはそうすることを選んで欲しい」とおっしゃいます。それは私たちに苦労を与えて苦しめるためではありません。給仕の人たちが奇跡を目の当たりにして感動したように、私たちにも祝福を味わってもらいたいとイエスさまが願っておられるからです。

ですから、披露宴の給仕の人たちがそうしたように、私たちもいろいろ葛藤や苦労があったとしても、聖書の命令、イエスさまの命令を実行しましょう。それが、感動に満ちた人生の秘訣です。

3.裏で活躍なさる方

新郎

最後に新郎に注目しましょう。母マリアは、問題が発生したことをイエスさまに訴えました。また、給仕の人たちはイエスさまの指示通りに行動しました。しかし、この奇跡の中で新郎は何もしていません。裏で大問題が発生していることに気づいてさえいません。

しかし、イエスさまの今回の奇跡によって、最も恩恵を受けたのは新郎でした。本来ならぶどう酒が足りなくなって恥をかくはずでした。新郎はそれを回避できました。

しかも、世話役にはほめられてさえいます。普通なら、客が酔っ払ってきたらぶどう酒に水や安いぶどう酒を混ぜたりして質を落として、経費削減に努めるはずなのに、イエスさまの奇跡によってさらに上質のぶどう酒が提供されたのです。世話役は驚き、そして新郎をほめました。自分のあずかり知らないところで高評価をもらった新郎、さぞかし内心戸惑ったでしょうね。

では、ここから私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

当たり前のことに感謝しよう

私たちには祈りが与えられています。全宇宙の支配者、全知全能の神さまと直接つながってコミュニケーションを取ることができるというのは、考えてみればとんでもない特権です。せっかく与えられているこの特権、もっともっと使わなければもったいないですね。

と同時に、イエスさまは私たちが祈り求めないものも、愛の配慮によって知らぬ間に用意してくださっています。というより、私たちが味わう祝福のほとんどは、祈り求めないのにイエスさまが用意してくださっているものです。

たとえば、今私は呼吸をしていますが、私は呼吸ができるようにと祈り求めたことがほとんどありません。気管支ぜんそくや風邪などで呼吸が苦しかったり、飲み物が気管支に入って窒息しそうになったりしたときにはそう祈ることがありますが、普段は意識もしていません。それでも、こうして神さまは私を呼吸させてくださっています。
当たり前は当たり前じゃない
同様に、手足が動くこと、毎日食事ができること、寝る場所があること、親しく話ができる人がそばにいること、仕事に行けること、こうして礼拝に出席できること……それらは当たり前ではありません。

私たちが当たり前だと思っていること、それはイエスさまの愛と緻密な配慮によって与えられている祝福です。

以前、「ありがとう」という日本語の語源は「有り難し」、すなわち「あり得ないようなことをしていただいた」という感動の言葉だと申し上げました。ですから、「ありがとう」の反対は「当たり前」です。やってもらって当然、起こって当然と思っていたら、感動も感謝も生まれません。

この話をお読みください

まとめ

祈りをささげるときには、イエスさまが最善をなさることを期待しましょう。また、イエスさまの命令には忠実に従いましょう。そして、当たり前のことがイエスさまのご配慮だと認めて感謝しましょう。それが奇跡と感動に満ちあふれた人生の秘訣です。

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