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礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

ニコデモとの対話

イエス・キリストの生涯シリーズ10

ヨハネによる福音書3章1節〜16節

(2022年12月3日)

ニコデモはイスラエルの宗教的指導者でしたが、イエス・キリストを信じてクリスチャンとなりました。ここではニコデモとイエスの出会いを紹介します。

礼拝メッセージ音声

参考資料

紀元27年の春、エルサレムで起こった出来事。

1節の「パリサイ人」は、ユダヤの厳格な宗教的グループであるパリサイ派に属する人たちのこと。モーセの律法以外に大量の戒律を作り上げ、自分たちが守るだけでなく民衆にも守るよう指導していました。

8節の「風」は、ギリシャ語(新約聖書はギリシャ語で書かれています)では「プニューマ」。他に「霊」「息」と訳されることもあります。

14節の「モーセが荒野で蛇を上げた」とは、民数記21:4-9に書かれているできごとです。出エジプト後、荒野での生活に耐えられなくなったイスラエルの民は、「なぜ自分たちをエジプトから連れ出したのか」とモーセを責め立てました。神さまがさばきとして毒蛇を送り込まれたので、多くの民が死にます。モーセがとりなしの祈りをすると、神さまは蛇に噛まれても死なない方法を教えてくださいました。それは、青銅で作った毒蛇の像を旗竿の先につけて高く掲げ、毒蛇に噛まれた人がそれを見上げることでした。

14節の「人の子」は、人間のこと。イエスさまはよくご自分のことをそう呼ばれました。ダニエル書7:13で、メシヤ(救い主)が「人の子のような方」と説明されているのと関係があります。

16-21節は、地の文なのかイエスさまの言葉なのかはっきりしません。

イントロダクション

時は紀元27年の春、イエスさまが公の働きを始めて約半年が過ぎました。前回触れましたが、イエスさまは過越の祭りに参加するために弟子たちを連れてエルサレムに上りました。過越の祭りに続いて、種なしパンの祭りが7日間続きますから、イエスさまは種なしパンの祭りの間もエルサレムに留まられたようです。すると、ある夜ニコデモという人がイエスさまを尋ねてきました。

夜というと、何だか人生の闇を連想します。実際に、ニコデモは問題を抱えていました。それは私たちが抱える問題でもあります。イエスさまはニコデモの、そして私たちが抱える問題をどのように解決してくださるのでしょうか。

1.ニコデモの抱える問題

神の国を見る

相談の場で、最初から自分の問題の核心を話す人はあまり多くありません。ニコデモも、当たり障りのないあいさつから始めます。「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられなければ、あなたがなさっているこのようなしるしは、だれも行うことができません」(2節)。

ニコデモはイエスさまのことを先生、すなわちラビと呼びました。ラビとは、モーセの律法や後になって付け加えられた様々な戒律を人々に教える宗教的指導者です。

後でイエスさまがニコデモのことを「イスラエルの教師」(10節)と呼んでいますが、これには定冠詞が付いていますから、単なるラビではなくイェシーバーと呼ばれるユダヤ教の神学校の校長だったと思われます。しかも、サンヘドリンと呼ばれるユダヤ議会の議員でした。それにもかかわらず、ニコデモはイエスさまを優れた教師と認めて教えを請いに来ました。

そして、様々なしるし、すなわち奇跡を行なっているのを知り、イエスさまが神さまと共におられる方だとニコデモは認めていました。それどころか、聖書が登場を約束してきた救い主かもしれないとニコデモは考えて、それを確かめるために訪問したのでしょう。

すると、イエスさまは、そのあいさつの言葉の中に、ニコデモの抱える問題を見抜かれました。そしていきなり核心に迫る教えをなさいます。「まことに、まことに、あなたに言います。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません」(3節)。

イエスさまは「神の国を見る」という言葉を使っています。旧約聖書の預言によると、 救い主は地上から神の敵を一掃して、神の民であるユダヤ人や、神さまを信じる異邦人に平和と繁栄をもたらしてくださいます。救い主が地上に建設する理想的な王国が神の国です。マタイのクフ韻書では「天の御国」と呼ばれています。

神の国を見るというのは、そこの市民として受け入れられるということ、すなわち救われるということと同じ意味です。

市民に与えられる福祉

私たちは、日本国の国民、あるいは市町村の住民であるというだけで、国や地方公共団体からさまざまなサービスを受けています。

同じように、もしも私たちが神の国の一員であるならば、天地万物の支配者である神さまから、さまざまな祝福をいただくことができます。

国自体が貧しかったり、政治家・官僚たちが自分たちの利益ばかり考えたりするような国ならば、国民はろくなサービスを受けられません。しかし、神の国は愛と力に満ち、また正しく誠実な神さまの支配なさる国です。その市民になることができるならば、この世でも死んだ後でも、何があっても大丈夫です。

聖書の学者として、ニコデモはそれを熟知しており、自分も神の国の一員になることを強く願っていたのです。

確信がない

パリサイ派の教師たちは、ユダヤ人として生まれたならば、すでにその人は神の国の市民権を手にしていると教えていました。ニコデモもパリサイ人ですからそのことを信じています。しかし、信仰告白としてそう信じていると言うことと、それを実感できることは必ずしも同じではありません。

ニコデモは修行を積んだ宗教家であり、日々善行に努める義人であり、聖書に精通した学者であり、社会的に成功した金持ちであり、国会議員でもありました。そのことが今回の箇所や当時のラビたちが残した文書の中に書かれています。しかし、そのような華々しい実績にもかかわらず、ニコデモの心の中には「自分は神の国の一員だ。神さまは自分と共にいらっしゃる」という実感がありません。

ユダヤ人であっても、その他の民族であっても、人はみな罪人であり、神さまに逆らう性質を持っています。それを素直に認めたら、自分はユダヤ人だから無条件に神の国に入れると実感できなくて当然です。
他の指導者たちの方法
他の多くのパリサイ人たちは、自分の良心をマヒさせることで、自分たちには罪はないと思い込み、自分たちは神の国の一員なのだと思いこもうとしていました。

しかし、誰かを憎んだだけで、それは殺人と同じなのだとイエスさまはおっしゃいました(マタイ5:21-22)。神さまの基準はそれほどに高く、「これくらいやっているんだから十分だろう」という言い分は成り立ちません。

あるいは、パリサイ人は、一般民衆と比較して「ああいう連中と比べれば、自分たちは何と敬虔なのだろう」と思ったり、人前でわざと善行をしたり祈ったりして、「あの人は信仰深い人だ」とほめられ、それを自信の種にしたりしたのです。
そのような自信の付け方は、自分よりも優れた人、人気のある人、成績や業績が高い人の前に出ると、とたんにへなへなにしぼんでしまいます。パリサイ人の多くは、民衆に人気のあったイエスさまをねたみました。ねたみ、嫉妬も、他の人と比較する人生の産物です。

私たちも他の人と自分を比較することで、天狗になったり、逆に落ち込んだりしませんか?

しかし、ニコデモは誠実な人でしたから、そのような方法で自分の不完全さをごまかすことができませんでした。ユダヤ人として生まれながらに神の国の市民のはずなのに、まじめに努力すればするほど、ますます自分が神の国から遠坂って行くような気がしていたのです。
イエスへの期待
ところが、あのナザレのイエスという人は、30歳そこそこの田舎者で、正式に聖書を勉強したとは思えないのに、神さまが共にいるとしか考えられないような力強い生き方をしています。ニコデモは何とかその秘密を探ろうと、他の指導者たちにバレないよう、夜になってこっそり教えを請いにやってきました。

2.イエスの答え

新しく生まれる

イエスさまは、ニコデモの心の中にあった課題を解決しようと考えてくださいました。そして、「新しく生まれる」ことが神の国の市民権になる条件だとおっしゃいました。

「新しく生まれる」という表現は、ニコデモにとって知らない言葉ではありません。パリサイ人は、異邦人がユダヤ教徒に改宗することを「新しく生まれる」と表現しました。ニコデモはユダヤ人ですから、これは関係ありません。それから、王になることも「新しく生まれる」と表現しましたが、当時のイスラエルはローマの属国ですから、今のところニコデモが王になる可能性はありません。

また、ユダヤ人が肉体的に誕生して以降、何度か「新しく生まれる」と表現される経験をします。
  1. 13歳になって成人したとき
  2. 結婚したとき
  3. ラビになったとき
  4. イェシーバー(ユダヤ教の神学校)の校長になったとき
10節でイエスさまはニコデモのことを「イスラエルの教師」と呼んでいますが、定冠詞が付いていますからただのラビではなく、神学校の校長だったと思われます。そして、ラビになるには結婚していることが条件でした。もちろん未成年はラビになれません。ですから、ニコデモはこれら4つの「新しく生まれる」体験をすべて経験済みでした。

そこでニコデモは、「人は、老いていながら、どうやって生まれることができますか。もう一度、母の胎に入って生まれることなどできるでしょうか」(4節)と尋ねます。 自分はもう新しく生まれる体験をしているのですが、もう一度母のおなかから人生をやり直すなんてできませんが、と。

御霊によって生まれる

ニコデモの疑問はもっともです。そこでイエスさまはさらに教えを語られます。「まことに、まことに、あなたに言います。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません」(5節)。

「水によって生まれる」という表現はユダヤの慣用句で、肉体的に誕生することを指します。普通に赤ちゃんが生まれることです。先程申し上げたとおり、パリサイ人たちは「ユダヤ人として生まれただけで、すでに神の国に入ることが確定している」と教えていました。イエスさまはそれを真っ向から否定なさいました。たとえユダヤ人であっても、新しく生まれる必要があるのです。

そして、イエスさまがおっしゃった「新しく生まれる」という体験は、当時のユダヤ人たちが考えているような内容ではありません。聖霊なる神さまによってもたらされる超自然的な体験のことです。

ところが、初めて聞かされる教えに、ニコデモは戸惑い、信じられないと言いました。「どうして、そのようなことがあり得るでしょうか」(9節)。

信仰によって救われる

そんなニコデモに対してイエスさまは、「神さまの約束なのだから、素直に信じなさい」と諭されます。

イエスさまは、ニコデモがよく知っている聖書のエピソードを使ってそのことを教えました。「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければなりません。それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです」(14-15節)。これは民数記21:4-9に書かれているできごとです。
毒蛇のさばき
モーセに率いられたイスラエルの民は、エジプトを脱出した後、荒野を旅しました。その生活は快適とはほど遠く、民は不平を鳴らします。そして、「どうして自分たちをエジプトからこんなところに連れ出したのか」と言って、モーセを責め立てました。すると神さまはイスラエルにさばきを下されます。「燃える蛇」、これは噛まれると燃えるような痛みが起きる毒蛇がイスラエルの宿営に現れて、それに噛まれたイスラエル人がたくさん死んだのです。

これに驚いたイスラエルの民はモーセのところに行ってわびを入れ、神さまにとりなしの祈りをしてくれるよう願います。モーセは神さまに祈りました。すると神さまは、青銅で毒蛇をかたどった像を造り、その蛇の像を旗竿の先につけて高く掲げるようモーセに指示なさいました。たとえ蛇に噛まれても、その青銅の蛇を見上げ得れば命が助かると。

青銅の蛇を見上げたら、そこから解毒剤が降ってきて毒を中和してくれるというわけではありません。また、青銅の蛇の像自体に、毒からいやしてくれる魔術的な力があるわけでもありません。「これを見上げればいやされる」と神さまが約束なさり、それを信じて見上げたときにいやされるのです。神さまの約束を信じる信仰によって、当時のイスラエルの民は助かりました。
神の約束を信じる信仰
旗竿の先に付けられた青銅の蛇と同じように、人の子、すなわち救い主も木の先につけられて掲げられます。これは救い主が十字架にかけられることを指しています。3年後の同じ過越の祭りの時期、イエスさまは十字架にかけられます。

青銅の蛇を見上げればいやされると信じた人が本当にいやされたように、救い主の死は自分に永遠のいのちが与えられるためだったと信じた人には、本当に永遠のいのちがもたらされます。
永遠のいのち
ところで、永遠のいのちとは永遠に存在し続けることではありません。人の魂は、天国であっても地獄であっても永遠に存在し続けます。問題はどういう状態で永遠という時を過ごすかということです。永遠のいのちとは、量の問題ではなく質の問題です。

別の箇所で、イエスさまは永遠のいのちについて解説なさっています。「永遠のいのちとは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることです」(ヨハネ17:3)。

この場合の「知る」とは、人格的な交わりを持つということです。罪の故に神さまと敵対関係にあったはずの私たちが、神さまと仲良く暮らすことができる状態になることが、永遠のいのちを手に入れるということです。

聖書が教える救いとは、病気がいやされることでも、お金が儲かることでも、社会的に成功することでもありません。神さまとの仲直りです。全知全能の神さまが私たちと仲良しなのだとすれば、それはどんなに心強いことでしょうか。
ニコデモへの勧め
そして、イエスさまはニコデモに救いに関する神さまの約束を宣言なさいます。

16節以降は、福音書を書いたヨハネの言葉なのか、それとも引き続きイエスさまが語っておられる言葉なのか、実ははっきりしません。私はイエスさまが語られた言葉だと解釈したいと思います。そういう解釈で16節を読むと、イエスさまがニコデモに向かって、救いに関する神さまの約束を説明している言葉だと受け取ることができます。

「ニコデモよ、知りなさい。『神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである』。これが神さまの救いに関する約束だ。あなたも民数記のイスラエルの民のように、神さまの約束を信じなさい。そうすれば聖霊なる神さまが、超自然的にあなたを新しく生まれさせてくださり、神の国の市民権を与えてくださるのだ」と。

ニコデモは、このときすぐにイエスさまを救い主と信じたわけではありません。しばらく葛藤の時期が続いたようです。しかし、イエスさまが十字架にかけらかれて亡くなったときには、没薬を持って遺体の埋葬の手伝いをしました。堂々と自分がイエスさまを救い主と信じていることを表明するようになっていたのです。

伝承によると、ニコデモは井戸掘りの仕事で財をなしていましたが、クリスチャンだということが分かって迫害を受けて仕事を失い、晩年は貧しい暮らしを強いられたようです。しかし、神の国の市民となったニコデモの晩年は、実り豊かなものとなりました。どうしてもニコデモが欲しかった救いの確信を、イエスさまはニコデモに与えてくださったのです。イエスさまによってやがて私たちが神の国に入れられたとき、そこにニコデモがいます。

では、ここから私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

3.救いの確信を得るために

どうすれば私たちに救いの確信が与えられ、自分が神の国の一員であって、何があってもなくても大丈夫だという希望に満たされることができるでしょうか。イエスさまがニコデモに示した3つのポイントをなぞることです。

(1) 自力救済は無理だと認めること

ニコデモはイエスさまに、「あなたはイスラエルの教師なのに、そのことが分からないのですか」と叱られています。イエスさま、毒舌ですね。しかし、イエスさまはニコデモとの対話をやめたりなさいませんでした。ニコデモが理解できるように、いろいろな側面から教え続けました。

それは、ニコデモが他の多くのパリサイ人と違って、自分の罪深さをごまかさず、真摯に見つめようとしていたからです。彼はいかに自分がユダヤ人だとしても、このままでは神の国の一員とは言えないのではないかと感じていました。どんなにがんばって厳しい戒律を守っても、それで罪が帳消しになるわけではありません。むしろ、真面目に生きようとすればするほど、そうしきれない自分の弱さが意識されます。ニコデモは、自分の弱さ、罪深さを認めました。

私たちが救いの確信を得、人生大丈夫だという希望をいただくためには、まず自分ではそのような生き方が無理だという事実を認める必要があります。

(2) 恵みの福音を信じること

次に、私たちは神さまが用意してくださった救われるための条件を受け入れなければなりません。こうしたら救われるんじゃないか、救われるはずだというふうに、私たちが勝手に考え出した方法ではダメです。

神さまが用意なさった救いの条件は、恵みの福音を信じることです。恵みの福音とは、「キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおりに、三日目によみがえられたこと」(第1コリント15:3-4)です。

私たちがこの恵みの福音を信じること以外に、救われる方法はありません。逆に信じているなら、私たちが救いを実感していようともいまいとも、救われて永遠のいのちを手にしています。
救いの確信
では、本当に私たちが福音を信じているかどうか、どうやって判断すればいいのでしょうか。ある人たちは、自分に信仰の確信があるかどうか悩んでおられるかもしれません。

この話をお読みください

福音を信じること以外に、勝手に条件を付け加えていませんか? たとえば何か立派な行ないができるようになったらとか、望ましくない癖を克服したらとか、聖書を全部読んだらとか、何かの悩みが解消されたらとか……。

福音を信じること。それだけが私たちを救いに導きます。そして、神さまが共にいるという希望、だから何があってもなくても大丈夫という安心感を生み出します。

(3) あとは聖霊に委ねること

私たちが永遠のいのちを手に入れるには、新しく生まれる必要があります。これを神学用語で「新生」と言います。新生は私たちの努力によってもたらされるものではありません。聖霊さまのお働きです。

「風は思いのままに吹きます。その音を聞いても、それがどこから来てどこへ行くのか分かりません。御霊によって生まれた者もみな、それと同じです」(8節)。風は目に見えません。しかし、頬が涼しくなったり、木の枝が揺れたり、音が聞こえたりすることによって、確かに風が吹いていることが分かります。

それと同じように、聖霊さまがどのように働いて人を新生させるか、その様子を目で見ることはできないし、その仕組みも私たちには理解できません。それでも、結果を体験することはできます。

生まれたばかりの赤ちゃんは、すぐにしゃべったり、走り回ったり、仕事をしたりしません。長い時間かけて成長し、できることを増やしていきますね。それと同じように、福音を信じてクリスチャンになっても、すぐに聖人君子に変わるわけではなく、長い時間かけて私たちは神の子どもにふさわしい人格に造り変えられます。

救いを始めてくださるのは聖霊さまですが、それを完成させてくださるのも聖霊さまです。

だから、こんな自分が本当に救われているのだろうか。本当に神の子どもになったのだろうかと心配するのはやめましょう。恵みの福音、すなわちイエス・キリストの十字架と復活を信じたなら、必ず永遠のいのちが与えられて救われ、神の国に入る権利が与えられます。そして、私たちは日々内側から造り変えられ、イエスさまに似たものに成長していきます。福音を信じたら聖霊さまがそのようにしてくださると信じましょう。

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