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礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

サマリア伝道

イエス・キリストの生涯シリーズ11

ヨハネによる福音書4章31節〜38節

(2022年12月11日)

サマリア地方でイエス・キリストが行なった伝道について紹介します。いわゆる「サマリアの女」との出会いの後起こったことです。

礼拝メッセージ音声

参考資料

31節の「その間」とは、サマリアのスカルの井戸のほとりで、イエスさまがサマリア人の女性を対話をなさったことです。 このエピソードについては、2021年11月14日のメッセージで取り上げました。
35節で刈り入れ時期について語られています。イスラエルでは、大麦と小麦の種はいずれも10〜11月に畑にまきました。そして、大麦の収穫が始まるのが3〜4月頃、小麦は5〜6月頃です。ちなみに、大麦の初穂を神さまにささげるのが初穂の祭りで、イエスさまが復活なさった日と同じ、小麦の初穂をささげるのが七週の祭り(ペンテコステ)で、聖霊さまが弟子たちに降ってこられた日と同じです。
ですから、今回のエピソードが文字通り大麦の収穫4カ月前に起こったとすると、イエスさまがサマリアを通られたのは、紀元27年の11月〜12月ということになります。

イントロダクション

「人は、何を見つめて生きるかによって人生が決まる」と言った人がいます。
1971年10月1日、アメリカ南部の広大な敷地に、巨大テーマパーク、「ウォルト・ディズニー・ワールド」が完成しました。しかし、その完成を見ることなく、5年前にウォルト・ディズニーは亡くなっていました。

オープン・セレモニーの日、ディズニーの友だちがしみじみとつぶやきました。「ウォルトの奴、ここが完成したところを、どんなにか見たかったことだろうなあ」。すると、別の友だちが言いました。「何を言う。ウォルトは見たんだよ。だから、これがここにあるんじゃないか」。
本サイト「ショートエッセイ」より
今回の箇所でイエスさまは「目を上げて畑を見なさい」とおっしゃいました。しかし、今このメッセージをお聞きにほとんどの人の目の前には、畑は広がっていないでしょう。この言葉は一体何を意味しているのでしょうか。

まずは今回の箇所を1節ずつ詳しく見ていきましょう。

1.サマリアの女との対話の後

弟子たちの勧め

その間
「その間、弟子たちはイエスに『先生、食事をしてください』と勧めていた」(31節)。

「その間」というのは、参考資料にも書きましたが、いわゆる「サマリアの女」とイエスさまが井戸のほとりで対話なさり、彼女が町に戻って人々をイエスさまの元に呼んでくる間のことです。

紀元27年の春、過越の祭りに参加したイエスさまと弟子たちは、ニコデモとの対話の後、ユダヤ地方で活動を継続しなさいます。そして、信じた人たちにバプテスマ(洗礼)を授けておられました(3:22)。おそらく、ヨルダン川のそばででしょう。

その後、イエスさまはガリラヤに向かわれます。当時、ユダヤ人とサマリア人とは大変仲が悪かったので、通常はヨルダン川沿いの道(西岸または東岸)を北上してユダヤとガリラヤを行き来しました、しかし、イエスさまはわざわざサマリアを通って行かれました。

そして、スカルという町の近くにある井戸で1人の女性を見つけて話をします。
イエスさまと話をした女性はすっかり生き方が変えられ、また町の人々にイエスこそ約束の救い主かもしれないと話をします。町の人々はそろってイエスさまのいる井戸のところにやって来て、イエスさまを救い主と信じました(4:1-42)。

今回の箇所に記されているのは、町の人たちが到着する直前、弟子たちにイエスさまが語られた教えです。

イエスさまがサマリアの女と話をしていたとき、弟子たちは食べ物を探しに町に行っていました。彼らが戻ってきたとき、イエスさまはまだ女性と話をしていましたが、口を挟みませんでした。

女性が去ると、弟子たちはイエスさまに食事をするよう勧めます。
知らない食べ物
「ところが、イエスは彼らに言われた。『わたしには、あなたがたが知らない食べ物があります」(32節)。

イエスさまだけでなく、ユダヤの教師は、相手が知っている話から始めて知らない真理に導くことを得意としていました。サマリアの女性と話したときには、彼女が水を汲みに来ていたため、「水を飲ませてください」と水の話から始めていらっしゃいます。

今回の弟子たちは、イエスさまのために食料を探しに出ていました。彼らはイエスさまに食事をしていただきたいと願っていました。そこで、イエスさまは食べ物の話をなさいます。それは、「あなた方の知らない食べ物」というワードでした。

食べ物のたとえの意味

弟子たちの誤解
「そこで、弟子たちは互いに言った。『だれかが食べる物を持って来たのだろうか』」(33節)。

残念ながら、弟子たちはイエスさまのおっしゃることを理解できませんでした。しかし、私たちが食料を探しに出て戻ってきた弟子たちだったらどうでしょう。おそらく彼らと同じ反応をしたのではないでしょうか。

イエスさまは、私たちがどんな位置にいたとしても、そこから私たちを一歩高みへと成長させてくださいます。
わたしの食べ物
「イエスは彼らに言われた。『わたしの食べ物とは、わたしを遣わされた方のみこころを行い、そのわざを成し遂げることです』」(34節)。

イエスさまは、食事なんかいらないとおっしゃっているわけではありません。イエスさまは神の御子でいらっしゃいますが、地上では人間として生活なさいました。おなかもすくし、喉も渇くし、疲れもします。

イエスさまがおっしゃっているのは、神さまのみこころを実行することによって、食事で得られるものとは違うエネルギーが内側から湧き上がってくるということです。

6節にはスカルの井戸のところに来られたイエスさまについて、次のように書かれています。「イエスは旅の疲れから、その井戸の傍らに、ただ座っておられた」。このときも、イエスさまは相変わらず肉体的には疲れていたし、おなかがすいていたし、喉も渇いていました(サマリア人の女性は、結局水を汲まずに町に戻ってしまいましたから)。

イエスさまは、救い主としての使命を果たすためにこの地上に来られました。イエスさまの使命は、人がイエスさまのことを救い主だと信じ、救われるようにすることです。イエスさまと話をしたサマリア人の女性は、イエスさまが救い主だと気づき、信じました。そして、生き方が180度変わりました。

その様子を見たとき、イエスさまの心の内側から喜びや活力が湧き上がってきました。ご自分が天の父なる神さまのみこころ通りの生き方をしていることを知ったからです。これが弟子たちにおっしゃった「あなたがたが知らない食べ物」です。

そして、イエスさまは弟子たちにもこの「知らない食べ物」を味わって欲しいと思われました。そして、35節以降の言葉を語られました。

弟子たちへのチャレンジ

刈り入れの時
「あなたがたは、『まだ四か月あって、それから刈り入れだ』と言ってはいませんか。しかし、あなたがたに言います。目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっています」(35節)。

大麦の種まきは、イスラエルでは太陽暦だと10月頃、そして収穫が始まるのが3月から4月頃、イースターの時期です。もしイエスさまたちがサマリアに来たのが11月か12月だとすると、収穫はまだ4カ月先ということになります。

しかし、これは農業の話です。イエスさまは農業の話をしておられるわけではありません。おそらく、イエスさまと話をした女性に連れられて、スカルの町の人々が続々と井戸のところに近づいていたのでしょう。弟子たちが目を上げてみると、遠くに彼らの姿が見えたはずです。

イエスさまは、人々がイエスさまのことを救い主だと信じて救われることを収穫にたとえていらっしゃいます。農業の収穫はまだ4カ月も先ですが、人の救いはすでに始まっています。35節の言葉はそのことを表しています。
永遠のいのちに至る実
「すでに、刈る者は報酬を受け、永遠のいのちに至る実を集めています。それは蒔く者と刈る者がともに喜ぶためです」(36節)。

ここでは、イエスさまは収穫が救いに導くことを表しているのだということをはっきりと教えています。「すでに」とイエスさまはおっしゃいました。すでに救い主は地上に現れました。イエスさまが約束の救い主だと信じるなら、人は救われます。

さて、実際の畑では、種をまく農夫と刈り取りをする農夫は同じかもしれません。しかし、人の救いの場合には必ずしも同じではありません。しかし、たとえ違ったとしても、人が救われることは種をまくだけだった人も喜ばせます。

これまで他の教会でメッセージをしたり、セミナーの仕事をさせていただいたりした際、個人伝道をする機会を何度か与えられてきました。牧師でありながら人見知りで口下手な私は、決して初対面の人に伝道するのが得意なタイプではありません。それでも、私の言葉を聞いてその場でイエスさまを信じる方がいらっしゃいます。

しかし、そういう方々はその時初めてイエスさまのことを聞いたわけではありません。それまで教会に何年も通ってメッセージを聞いてきたり、友だちのクリスチャンから聖書の話を聞かされてきたりした方がほとんどです。私は刈り入れをしただけで、祈りながら土地を耕し、種を蒔き、水をやり、雑草を取り除いてきたのは他の方々です。きっとその方々も、救いを祈ってきた人がイエスさまを信じたと聞いたときには大喜びなさったでしょう。

私が種をまく役割だったこともあります。何度もイエスさまのことを伝えたのにまったく興味を示さなかったのに、何年かの地にその人がクリスチャンになったという報告を聞いたときには、大変な喜びに満たされました。まさに、蒔く者と刈る者がともに喜ぶのです。

イエスさまは「あなた方が知らない食べ物」の話をなさいましたね。実際に食べ物を口にしておられませんが、天の父なる神さまのみこころに従ってサマリアの女性と話をし、彼女の人生が造り変えられたことがイエスさまにとって大きな喜びになりました。同様に、種を蒔く人も実を刈り取る人も、共に神さまのみこころに従ってイエスさまのことを伝えています。故に、大きな喜びに満たされます。
一人が種を蒔き、ほかの者が刈り入れる
「ですから、『一人が種を蒔き、ほかの者が刈り入れる』ということばはまことです」(37節)。

この「一人が種を蒔き、ほかの者が刈り入れる」ということわざは、旧約聖書のアモス書と関連があります。

「見よ。その日が来る。――主の御告げ。――その日には、耕す者が刈る者に近寄り、ぶどうを踏む者が種蒔く者に近寄る。山々は甘いぶどう酒をしたたらせ、すべての丘もこれを流す」(アモス9:13)。

これは終末時代に実現する神の国(千年王国)に関する預言で、前の年の収穫が完了しないうちに、次の年の種まきをしなければならないほど、大変な豊作になるという約束です。イエスさまは、数え切れないほどの人たちがイエスさまを信じて救われることを、この言葉によって弟子たちに教えました。

また、「一人が種をまき…」と関連している箇所がもう一つあります。それはヨブ記の言葉です。「もし、私の歩みが道からそれ、私の心が自分の目に従って歩み、私の手に汚れがついていたなら、私が種を蒔いて、ほかの人が食べるがよい。私の作物は根こそぎにされるがよい」(ヨブ31:7-8)。

ヨブ記の言葉の元々の意味は、罪を犯した結果、神の呪いを身に招いていくら労苦してもちっとも報われない人生を送るようになるという意味です。ヨブは自分の正しさに自信があったので、このような発言をしました。

ただ、 私にはとてもこのような祈りをする勇気はありません。神さまが私をその厳しい基準で裁かれるとしたら、決して無罪放免などということはあり得ません。私はきっと呪われ、滅ぼされてしまうでしょう。私は不完全であり、罪深い人間なのです。

しかし、イエスさまは、ご自分はまったく罪を犯していないのに、私たちの身代わりに十字架にかかり、神の裁きを受けてくださいました。これにより、私たちは一方的に赦され、神の子とされ、そして神さまの祝福を受けるにふさわしい者と見なされたのです。
救いの時代
「わたしはあなたがたを、自分たちが労苦したのでないものを刈り入れるために遣わしました。ほかの者たちが労苦し、あなたがたがその労苦の実にあずかっているのです」(38節)。

何千年も前から、神さまを信じる人たちが信じない人たちに対して救いの道を語ってきました。また多くの預言者たちが、将来現れる救い主について預言してきました。しかし、彼らは実際に救い主の到来を見ることなく天に召されました。

ところが、今やイエスさまが救い主として地上に現れ、権威に満ちた教えを語り、また救い主だということを証明する様々な奇跡を行なっておられます。弟子たちは他の人を救いに導くために苦労するでしょうが、それは何千年にも渡って積み重ねられてきた信仰者たちの働きの上に立っての働きです。イエスさまは弟子たちに、あなたたちは非常に恵まれた時代に生きているのだということを知らせておられます。

では、ここから私たちは何を学ぶことができるでしょうか。喜びと充実感に満ちた人生を送るために、私たちはふさわしいものを見続けなければならないということです。では、何を観なければならないのでしょうか。

2.私たちは何を見るのか

大収穫を見る

今は大収穫の時代です。世界全体で見ると、クリスチャンになる人の数は着実に増えています。「CHRISTIAN TODAY」(2022年2月6日配信)によると、
キリスト教信者の1年当たりの増加率は1.17%で、無神論者(0.18%)と不可知論者(0.59%)を合わせた無宗教者(0.52%)の増加率よりも2倍以上高かった。
とのことです。特にアフリカでは増加率が2.77%に及びます。

家族や友だちの救いのために祈り、勇気を出してイエスさまのことを伝えたり、信仰書をプレゼントしたり、教会の集会に誘っているのにちっとも興味を示してくれない……。そんなことが続くとあきらめてしまいそうになります。

しかし、今は大収穫の時代です。何千年にも渡ってまかれてきた福音の種が実を結ぶことが約束されている時代です。あきらめずに祈り続け、伝え続け、誘い続けましょう。

また、大収穫は人の救いに留まりません。イエスさまは神さまのみこころに従って生きるときに、喜びや充実感が与えられることを教えてくださいました。神さまのみこころは伝道することだけではありません。

自分の欲望に従って生きても喜びは与えられますが、それはすぐに消えてしまいますし、満たされているはずなのに現状に満足できずに「もっと欲しい」と際限なく飢え渇くようになります。

神さまのみこころに従ったときに与えられる喜びは、私たちに大きな満足を与えてくれます。そのことをいつも思い描いていましょう。そして、神さまのみこころを実行しましょう。

時を見る

実際の畑では、麦の収穫まであと4カ月待たなければなりませんでした。しかし、人生の畑においては、今が収穫の時なのです。今日、あなたは人生に神さまの祝福を刈り取ることができます。

ただ、あなたが人生の収穫を「実感」できるのは、まだ先のことかもしれません。麦や米は、刈り取ってすぐに口に入るわけではありませんね。脱穀したり、いろいろ加工したりして初めて食品として味わうことができます。

しかし、収穫しなければ、実感も味わいも何もありません。ここで言う収穫とは、すなわち「神さまのみこころに従って生きようと決断すること」です。私たちが神さまのみこころに従って生きようと決断し、実践していくとき、今このままの状況、ここからもう祝福が始まっています。それをあなたは信じますか? もし信じるなら、本当に人生が豊かな実を結び始めます。

あなたの人生だけではありません。他の人を見るときも、今すでに祝福が始まっていると信じましょう。

では、どのようにして、その信仰を表すことができるでしょうか。それは、感謝してみることです。今置かれている状況や、今の自分が持っているものを、「私の人生が大したことにならないしるし」としてではなく、「私の人生がますます祝福されていくというしるし」として捉え、先取り感謝するのです。

使命を見る

34節をもう一度読みましょう。イエスさまは、人々を救いに導くという使命のために、父なる神さまによってこの地上に遣わされました。そして、その使命に従って、わざわざユダヤ人のことが大嫌いなサマリア人が住む地域を訪れ、同国人からも後ろ指を指されるような女性を選んで話をなさいました。そして、この後も多くのサマリア人たちに救いの話をしようとしておられます。

今回の箇所は、元々は弟子たちに向けて語られたものです。イエス・キリストの弟子たちは、イエスさまの働きを引き継ぎ、世界中の人々に、神が人を救ってくださるというグッドニュースを伝え、人々を救いへと導く使命を負っていました。

今、近づいてくるサマリアの人々は、ユダヤ人と長いこと敵対していました。しかし、イエスさまは、弟子たちも一緒に、敵であるサマリア人たちに神の愛を語り、仕えることを期待なさったのです。

私たちに与えられている神さまの使命の中には、時に私たちの感情、欲求、常識からするととても受け入れがたいものがあります。それでも、これは神さまが私にくださった使命、神さまが私に特に願っておられることだと受け取って実践しましょう。そのとき、私たちの人生に大きな喜びがもたらされます。

この話をお読みください

今週も、イエスさまが教えてくださったような食べ物、神さまのみこころに従う生き方を通して与えられる喜びを体験させていただきましょう。

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